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松尾城/宮崎県延岡市

松尾城は別名・縣城、吾田城とも呼ばれ、縣土持氏が本拠とした城でした。
訪問日は2018年2月11日です。

【写0】松尾城

松尾城へは、東にある本東寺の前の道から車で行けます。
途中から未舗装になりますが、路面は荒れていないので大丈夫です。
道幅は狭いのですが、対向車はたぶん来ないでしょうw
なんとなくそれっぽいここが、主郭の虎口です。
階段が真っすぐで土塁が不自然なのは、公園化の影響だと思います。
私はその脇に停めましたが、そのまま進むと突き当りに駐車場があります。

【写03】松尾城

不自然な虎口を上がると、遊具がある平坦地が現れます。
これは主郭の南に伸びる腰曲輪です。
こんな所で遊ぶガキンチョお子様がいらっしゃるとは思えませんがw

【写04】松尾城

上の写真の一番奥から振り返った時に見える光景です。
入口に近い所が、一段高くなっているのが見えます。
この高い所が主郭です。

【写05】松尾城

主郭にはモニュメントがいっぱいありますラブラブ
右端の石碑が並んで立っている所は、土塁の跡のようです。

【写06】松尾城

その中の1つがコレです。
「土持氏紀念碑」と彫られています。
"紀念"は普段見かけないのですが、意味は"記念"と同じだそうです。

【写07】松尾城

石碑の後ろ側にも、南側と同じように細長い曲輪があります。

【写08】松尾城

主郭の虎口から入口を見たところです。
向こう側にも階段があり、その間を道が通っています。
こうやってみると、道は堀切だった感じがします。

【写09】松尾城

主郭の反対側の階段を上った所です。
奥に見えるのは祠で、こちらの方が主郭よりも広いです。

【写10】松尾城

祠の後ろが高くなっており、土塁が残っていました。
土塁の裏が気になりましたが、密生していたので登りませんでした。
この曲輪は一部分だけ草が刈られており、それだけの広さと誤解しそうです。
笹が茂っている部分が多く、実際はかなり広い曲輪です。

【写11】松尾城

主郭脇の堀切を通り、奥を見てきました。
主郭に沿って通された道は幅が広く、帯曲輪だったのかもしれません。

【写12】松尾城

その突き当りは更に広くなり、アスファルトで舗装されています。
道はここで終わっており、どうやらここが駐車場のようです。
ただ、誰にもそう認識されていないようで、路面に苔が生えていますあせる

【写13】松尾城

今度は本東寺方向に道を歩きました。
主郭の向かい側にある曲輪に沿って進むと、堀切が現れました。
写真の右側が、さっき見てきた主郭の向かい側の曲輪です。

【写14】松尾城

さらに本東寺方向に進んで振り返った所です。
上の写真の堀切は左端に写っています。
パッと見ここが突き当りのように見え、正面が土の壁に見えます。
こういう雰囲気、とてもいいですねラブラブラブラブラブラブ

【写15】松尾城

堀切から本東寺側を見ると、曲輪に上がる道があります。
写真では見えないのですが、足元に針金がフェンス状に張られています。
車で通ると見えず、そのまま「あぁ…ガーン」となりそうです。
歩きで良かったw
この曲輪はどうやら畑になっているようです。
立入禁止とは書かれていませんが、中に入るのは自粛しました。

この曲輪の過ぎると本東寺に出るので、そのまま車に戻り次へ飛びました。
しかし、後から調べ直すと、ここは松尾城のほんの一部分とわかりました。
こういうのって、本当は来る前にちゃんと調べるものなんですけどねあせる
・・・と、またまたいつものセリフが出てきますw

松尾城は3つの区域があり、私が見てきたのは主要部の「一の城」でした。
あとの2つは、道を挟んで北側が「二の城」、本東寺一帯が「三の城」です。
ちょっと悔しいので、地図に線だけ入れておきました。


◆歴史◆

1447年、土持宣綱により築かれました。

築城年は1444年から1447年までいくつか説があるようですが・・・
城址標柱脇には「1444年から3カ年かけて築城した」と書かれていました。
当時は伊東祐堯が1444年に当主となったばかりでした。
伊東祐立の没後から、伊東家中ではゴタゴタがありました。
私は、土持氏がその争いに巻き込まれたものだと思っていました。
当時の状況としては、そんな想像がピッタリ当てはまるような時期でした。

ただ、元の居城・西階城は、度々災害に見舞われていたという史料があります。
川の分岐で沼沢地に囲まれた天然の要害は、居住には向かなかったようです。
土持氏は西階城をわずか16、7年で去り、本拠を松尾城へ移しました。

1456年、伊東氏と武力衝突するようになりました。

先代の伊東祐立は土持氏から正室を迎え、両家の関係は良好でした。
薩摩から島津軍が攻めてくると、協力し合って撃退した事もありました。
しかし、1444年に伊東祐立が没すると、伊東家中で家督争いが始まりました。
そして、最終的には伊東祐立の子とも孫ともされる伊東祐堯が勝ち残りました。

伊東祐堯は反抗的な勢力を駆逐し、日向全土に勢力を拡大しました。
この反抗的な勢力の殆どは、鎌倉時代に分かれた伊東一族だったりします。
勢いに乗った伊東祐立は、ついには日向守護職を望むようになりました。
しかし、かつて日向全土に一族は配置していた土持氏が猛反発。
土持宣綱は、財部の土持影綱とともに、伊東祐堯と戦いました。
しかし、1457年に財部土持軍が伊東軍に敗れ、その軍門に降りました。
縣の土持宣綱は豊後の佐伯氏や島津氏と誼を通じ、伊東氏と争いました。

1578年4月、大友宗麟に攻め落とされました。

1577年、伊東義祐が島津軍に敗れ、豊後へ落ち延びました。
この時、土持親成は島津義久に臣従することとなりました。
これに対し、島津家は石塚・三ヶ名の百町余を与えるなど厚遇しました。
しかし一方で、土持親成は大友宗麟にも従うと申し出ていました。
大友宗麟はこの時、日向侵攻の際は、土持軍が先陣を務めるよう命じています。
・・・いわゆる二股ですねw
この二股はあっさりバレてしまい、大友宗麟は土持親成を攻めました。
土持親成は松尾城に籠城して大友軍に捕まり、豊後で切腹させられました。
養子の土持高信は逃れ、長門国で浪人となりました。

1578年11月、土持高信が復帰しました。

土持氏を滅ぼした大友宗麟は、3万の大軍で日向に侵攻しました。
大友軍は門川周辺の伊東旧臣も加え、一気に耳川以北を占領しました。
島津義久は6月から反撃を開始し、長倉佑政の籠る石ノ城を攻めました。
一時は撃退されたものの、9月には石ノ城を開城させました。

10月20日に大友軍が動き、高城を包囲しました。
すると島津本隊も出陣し、耳川を挟んで対峙しました。
島津軍は釣り野伏で大友軍を破り、大友軍は撤退しました。
その2日後、土持高信は島津義久に仕官し、松尾城を与えられました。
縣地頭となった土持高信は、1584年に土持久綱と改名しました。

1587年、高橋元種の城になりました。

島津軍に圧倒され続けた大友宗麟の要請により、豊臣秀吉が動きました。
豊臣秀吉は日本全国の兵を従えて九州に侵攻。
各地で島津軍を破り、島津義久は剃髪して降伏しました。
この中で松尾城も包囲され、土持久綱は薩摩へ逃れています。
戦後、松尾城は秋月種実の子・高橋元種が城主となりました。

1603年、高橋元種は縣城を築き移りました。

関ヶ原の戦では、兄・秋月種長とともに西軍→東軍に寝返り存続しました。
その後、1601年から新たな城を築き始め、1603年にそちらへ移りました。
これが現在は延岡城と呼ばれている縣城です。
高橋元種は城下町を整備し、現在の延岡の原型となりました。


所在地:宮崎県延岡市松山町 GPSログダウンロードページ

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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