fc2ブログ

本城城/福岡県北九州市八幡西区

続いて本城城へ行って来ました。

本城城/蛭子神社
▲本城霊園中央にある蛭子神社

本城城跡は、現在は本城霊園となっています。
地図で探すのは簡単でしたが・・・
クルマで行くのも簡単でしたwここまでクルマで来ることができます。

本城城/蛭子神社鳥居と説明板
▲蛭子神社の鳥居と説明板

お城としての遺構は無く、周囲より高い蛭子神社の地形だけが残っています。
神社までの参道は短く、なんだか有難みが・・・
でも、参道の入口には有難い説明板が^^

本城城/説明板
▲説明板

もはやこの板だけが、城跡だという目印です。


◆歴史◆

本城城は1185年、源範頼により築かれました。
ただ、説明文を読む限りでは陣城という感じですね。
以後、軍事的拠点や誰かの居城になったのかはわかりません。

源範頼は源頼朝の異母弟で、義経の異母兄に当たる人物です。
範頼は平家討伐のため九州に渡り、
下関・彦島に拠る平家の背後を遮断しました。
周防から豊後に渡った範頼は、
芦屋で平家方の原田種直と戦っています。
この時に本陣を置いたのが本城城といわれています。

原田種直は大蔵氏の流れをくみ、
大宰府近くに本拠を構えていました。
平家からの信任が厚く、
大宰少弐に任命され九州での平家方の中心勢力となりました。
源氏が九州に攻めて来た際は、
安徳天皇を私邸に匿ったりしていましたが・・・
壇ノ浦で平家が滅亡すると捕らえられ、
関東に護送され幽閉の身となりました。

源氏が勝利したのですが、両者は対照的な運命を辿ります。

まず、源範頼ですが、彼はどんな事でも頼朝に報告するなど、
とても律儀な武将でした。
源平合戦で大活躍した義経は自分勝手な行動が多く、
事有るごとに範頼と比べられました。
そのためか、義経は謀反の兆しがあると疑われ、
兄・頼朝により討たれました。

従順な範頼に粛清などあり得ないと思われましたが・・・

1193年5月28日、曾我兄弟による仇討ちがありました。
この時、頼朝が討たれたという誤報が北条政子のもとに届きました。
政子はとても嘆き悲しみましたが・・・

「後にはそれがしが控えておりまする」

範頼の何気ないひと言が、その後の運命を決めました。
この発言を聞いた頼朝は、範頼に対する疑心を抱きました。
範頼は起請文まで差し出して異心のないことを訴えましたが・・・

起請文の署名が源姓であることに頼朝がヘソを曲げ、
範頼は修善寺に幽閉されました。
頼朝って、一度疑いを持つともう手がつけられませんね^^;
幽閉された範頼は、その10日後に暗殺されてしまいました。

一方、関東で幽閉されていた原田種直は、
数年後には許されて開放されました。
源氏方として家名を保った弟・原田種成のもとへ行き、
後に筑前国怡土庄を与えられました。
種直の子孫は足利尊氏が九州に逃れた際に味方し、以後大いに栄えました。


所在地:福岡県北九州市八幡西区本城(本城霊園)

福岡県の城跡/なぽのホームページを表示

コメント

非公開コメント

プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

北海道・東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方・沖縄

プライバシーポリシー
本サイトについて
お問い合わせフォーム



検索フォーム

QRコード

QR