2013/06/15
本城城/福岡県北九州市八幡西区
続いて本城城へ行って来ました。
▲本城霊園中央にある蛭子神社
本城城跡は、現在は本城霊園となっています。
地図で探すのは簡単でしたが・・・
クルマで行くのも簡単でしたwここまでクルマで来ることができます。

▲蛭子神社の鳥居と説明板
お城としての遺構は無く、周囲より高い蛭子神社の地形だけが残っています。
神社までの参道は短く、なんだか有難みが・・・
でも、参道の入口には有難い説明板が^^

▲説明板
もはやこの板だけが、城跡だという目印です。
◆歴史◆
本城城は1185年、源範頼により築かれました。
ただ、説明文を読む限りでは陣城という感じですね。
以後、軍事的拠点や誰かの居城になったのかはわかりません。
源範頼は源頼朝の異母弟で、義経の異母兄に当たる人物です。
範頼は平家討伐のため九州に渡り、
下関・彦島に拠る平家の背後を遮断しました。
周防から豊後に渡った範頼は、
芦屋で平家方の原田種直と戦っています。
この時に本陣を置いたのが本城城といわれています。
原田種直は大蔵氏の流れをくみ、
大宰府近くに本拠を構えていました。
平家からの信任が厚く、
大宰少弐に任命され九州での平家方の中心勢力となりました。
源氏が九州に攻めて来た際は、
安徳天皇を私邸に匿ったりしていましたが・・・
壇ノ浦で平家が滅亡すると捕らえられ、
関東に護送され幽閉の身となりました。
源氏が勝利したのですが、両者は対照的な運命を辿ります。
まず、源範頼ですが、彼はどんな事でも頼朝に報告するなど、
とても律儀な武将でした。
源平合戦で大活躍した義経は自分勝手な行動が多く、
事有るごとに範頼と比べられました。
そのためか、義経は謀反の兆しがあると疑われ、
兄・頼朝により討たれました。
従順な範頼に粛清などあり得ないと思われましたが・・・
1193年5月28日、曾我兄弟による仇討ちがありました。
この時、頼朝が討たれたという誤報が北条政子のもとに届きました。
政子はとても嘆き悲しみましたが・・・
「後にはそれがしが控えておりまする」
範頼の何気ないひと言が、その後の運命を決めました。
この発言を聞いた頼朝は、範頼に対する疑心を抱きました。
範頼は起請文まで差し出して異心のないことを訴えましたが・・・
起請文の署名が源姓であることに頼朝がヘソを曲げ、
範頼は修善寺に幽閉されました。
頼朝って、一度疑いを持つともう手がつけられませんね^^;
幽閉された範頼は、その10日後に暗殺されてしまいました。
一方、関東で幽閉されていた原田種直は、
数年後には許されて開放されました。
源氏方として家名を保った弟・原田種成のもとへ行き、
後に筑前国怡土庄を与えられました。
種直の子孫は足利尊氏が九州に逃れた際に味方し、以後大いに栄えました。
所在地:福岡県北九州市八幡西区本城(本城霊園)
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