2018/02/28
高岡城/宮崎市
高岡城は伊東四十八城の1つで、現在は天ヶ城公園となっています。訪問日は2018年2月12日です。

城跡へは車で登って行けます。
かな~り広い無料駐車場があり、その脇にこれまた広大な広場があります。
このガッサリやられちゃった平坦地も、実は城跡だったりします。
芝生の広場は、おそらくニの丸だったと思われます。

ここでひと際目立つのが、この模擬城門と模擬天守です。
落ち着いて見ると「ん~」となりますが、パッと見はとても絵になります。
城キチなので、こういう風景は嫌いではありません


この模擬天守周辺が本丸だったようです。
訪ねた時は模擬天守のある高台だけが本丸だと思いましたが・・・
その周りも本丸だったようです。
今ではどこからどこまでが何の丸だったのかが???です。

それでも楽しみだったのが、昔の遺構もちょっとだけ残っているからです。
模擬天守の前を通り過ぎると、木々の多い公園があります。
この辺り一帯が、かつての三の丸でした。

天ヶ城の説明板
遠目にも

天ヶ城の説明板です。
これを見つけて、小さくガッツポーズです


その手前の巨大滑り台のある谷が、二の丸と三の丸の間の堀跡です。
まぁ、これを全て掘ったとは思いませんけどw

三の丸には高台が2つあり、その間を遊歩道が通っています。
ここも堀跡かと思いましたが、図によると大手門の跡でした


三の丸の西側の高台です。
その手前にあるのが三の丸の標柱です。
この小っちゃな高台が1つの曲輪と言えば曲輪なのでしょうが…
大手門を門たらしめるための土盛りのような気がします。
私見ですが、巨大滑り台よりこっち側全部が三の丸だと思います。

もう1つの高台への入口です。
凝った虎口はありませんが、それでも裏から回り込むようになっています。

こっちの高台の内側です。
ここに天ヶ城の城市標柱があります。
かなり広いうえに、東側がとてもよく見渡せます。

さて、気は進まないけど模擬天守入ったろか!と思いましたが・・・
さっきまで開いていた門が、パッタリ閉まっています。

近づいてみると、閉館時間を過ぎていました。
ま、いいですけどw
◆歴史◆
内山衆・野村氏の城でした。
築城年代や築城者などはわからず

高岡城は内山城と呼ばれていて、その城主が野村氏でした。
伊東家臣団に内山衆という集団がおり、名前からその筆頭と思います。
わかった範囲では、末吉の戦で戦死した野村京綱も城主でした。
この「末吉の戦」がいつだったのかの???ですが・・・
島津家との戦とすれば、1480~1520年代頃でしょうか。
1577年、野村刑部少輔が島津軍に寝返りました。
伊東義益の側室・福園は、野村家の出身でした。
大名家と婚姻関係があるのは、世間一般的には重臣ですよね?
しかし、大友宗麟の姪・阿喜多が正室になった時に実家に帰されました。
しかもそれだけに留まらず、阿喜多の嫉妬により福園が殺されてしまいました。
これにより、野村氏は主家とは疎遠となりました。
1577年、野尻城主・福永祐友が、島津軍に攻められ主君に援軍を求めました。
しかし、伊東義祐は近くまで出陣したものの、島津軍とは戦わずに撤退。
福永祐友は伊東義祐に見切りをつけ、島津軍に寝返りました。
この時、内山城の野村刑部少輔、紙屋城の米良主税助も一緒に寝返りました。
この一連の寝返りが引き金となり、伊東家中は総崩れとなりました。
1587年、島津義弘の持ち城になったようです。
野村刑部少輔のその後はわからず。
その弟・野村文綱がわずかに歴史に登場します。
島津軍が大友宗麟を攻めた際、野村文綱は鶴崎城を攻めていました。
鶴崎城の妙林尼は、16度もの猛攻に堪えた後、和睦に応じて開城しました。
その後、豊臣軍が侵攻したため島津軍は撤退しましたが・・・
この時にお別れの宴として野村文綱らに酒を呑ませ、酔った所を襲いました。
野村文綱は胸を矢で射貫かれて重傷を負い、高城で落命しています。
1600年、島津義弘により天ヶ城が築かれました。
島津義弘は関ケ原から、日向国八代まで命からがら落ち延びました。
しかし、伊東祐兵の家老・稲津重政が、あちこちで島津方の城を攻めました。
稲津重政の戦ぶりは、黒田如水が家臣に手本にしろと言った程だそうです。
島津義弘はこの時、去川関より東側の守りが薄い事を痛感。
この苦い経験に基づき、内山城に大改修を加えて「天ヶ城」と改名しました。
比志島国貞を城主とし、多数の家臣を移住させて高岡郷を創設しました。
1615年、一国一城令により廃城となりました。
城は廃城になったものの外城として存続し、地頭と高岡郷は存続しました。
所在地:宮崎市高岡町内山(天ヶ城公園)
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