2018/02/26
佐土原城/宮崎市
佐土原城は伊東四十八城の1つで、伊東義祐の居城でした。訪問日は2018年2月12日です。
※続日本100名城スタンプについて追記しました(2019年1月2日)

国道沿いにある大きな駐車場から見た鶴松館です。
鶴松館は江戸時代に藩主が暮らした館で、1993年に復元されました。

その周りに沢山あった青い幟です。
続日本百名城に選出された記念のようです。
スタンプラリーが4月6日に始まるので、もうあるかと思いましたが…
まだでした

いいんです、また来ますからw

門の中にある復元された御殿です。
今では御殿の貴重さがわかるので、この形の建物を見ると

しかし、10年前の夏は「なんだ、このお寺?」なんて思ってました。
…ひよっ子とはいえ、バチ当たりです




内部を見る予定ではありませんでしたが…
ちょっとだけサラッと見て来ました。
玄関に飾られたこの額が、ちょっと誇らしげに見えました^^

さて、今回のお目当ては山城部分です。
前回は全く見ていませんでした。
鶴松館の前に、ひっそり案内が置かれています。
この矢印に従って、御殿の裏へ回り込みました。

すると、今度はもうちょっとわかりやすい案内がありました


その先には、堀のような、虎口のような道がありました。

堀のような虎口のような道を抜けると、またしても切通状の道が続きます。
この足元にある説明板的なモニュメントには「登城路」と書かれていました。
…まぁそうですけどw

佐土原城の特徴は、この切通状の「登城路」がかなり長い事です。
地図上で測ると、だいたい250メートル程ありました。
その切通状の登城路を抜けると、何やら案内がありました。
手前の案内は「←松尾丸へ徒歩10分」と書かれています。
…松尾丸は佐土原城の原点なので、後でじっくり見て来ました。
まずはこの先にある主郭を目指します。
すでに前に見えていますが、案内の向こう側にあるのが虎口です。
入口がこんなに厳重なお城はかなり珍しいと思います。

虎口のすぐ先に、かなり開けた曲輪ありました。
私はここが主郭かと思いましたが…

この曲輪の奥に、さらに案内があります。

この案内の先には、掘り下げた感じの山道が100メートル程続きます。

この掘り下げた感じの道が直角に曲がっています。
ここが主郭の枡形虎口です。

その先に、真ん中に白い標柱の立っている広い曲輪があります。
ここが主郭です。

主郭は、瓢箪のように真ん中でくびれた2つの空間から成り立っています。
奥の方にも白い標柱が見えます。
何だろう?と近づいてみると…

天守台跡でした

破壊されていたようですが、足元だけ残っていたようです。
1辺5メートル程なので、あったとしたら丸亀城サイズの天守でしょうか?

主郭を見た後は手前に戻り、今度は「南之城」を見て来ました。
入口は、目の前に城塁が迫る虎口となっています。
この光景、宮崎城の主郭の入口とよく似ています。
南之城を構築している時の仮住まいが宮崎城でしたからね。
そりゃぁ、似ている部分もあるのかと思います。

上がった曲輪内部は、まぁ広いです


最後は松尾城です。
南之城手前の虎口脇から細道へ入ります。
徒歩10分と書かれている通り、まぁ結構距離ありましたw

なので、途中にこんな感じの所もあります。

土橋状の細い所を通り抜けると…

フィニッシュ!
ここが佐土原城の前身である、田島城の主郭です。
南北朝時代はじめに築かれただけあって、ここだけだとかなりシンプルです。
◆歴史◆
14世紀半ば、田島休助により田島城が築かれました。
13世紀半ばに伊東祐時の4男・祐明が日向に下向しました。
伊東祐明は田島庄に入ると、田島姓を名乗るようになりました。
1335年、伊東本家の伊東祐持が都於郡に下向して来ました。
伊東祐持は、先に土着していた伊東一族を従えようとしました。
しかし、田島氏はこれに反発し、軍事拠点として田島城を築きました。
田島城は、現在の松尾城の位置だったと考えられています。
1427年、佐土原氏の城になりました。
田島休助には後継者がいなかったため、娘婿を迎えることとなりました。
その養子となったのが後の伊東家当主・伊東祐堯の弟・伊東祐賀でした。
しかし、その婚儀の直前に田島休助が急死。
すると、田島一族を小さな城に押し込めてしまいました。
田島城を乗っ取った伊藤祐賀は、佐土原姓を名乗るようになりました。
1480年、伊東宗家の本拠地となりました。
伊東家当主・伊東祐堯の嫡男・祐国が、佐土原氏の養子となりました。
伊東祐国はその後も伊東姓を名乗り続け、1485年に家督を継ぎました。
しかしその翌年、新納忠続の飫肥城を攻めた際に討死してしまいます。
1536年、佐土原城が焼失しました。
1523年に伊東尹祐が没した後、伊東家では当主がめまぐるしく代わりました。
はじめは伊東尹祐の嫡男・祐充が継ぎましたが、1533年に病死。
すると、伊東尹祐の弟・祐武が台頭しましたが、反対派の家臣と争い討死。
この時の戦乱で、都於郡城が焼失したと思われます。
伊東祐武を討った有力家臣・荒武三省も、間もなく戦死しました。
すると、次の男子・伊東祐清を飛ばしてその弟・祐吉が家督を継ぎましたが…
わずか3年で没し、残った伊藤祐清が家督を継ぎました。
この伊東祐清が、後に伊東氏の最盛期を築き上げた伊東義祐です。
家督を継いだ伊東祐清は佐土原城に入りましたが、その年の年末に焼失。
1543年、佐土原城の改修が完了しました。
佐土原城を改修する間、伊東祐清は宮崎城を居城としました。
その間の1537年、足利義晴から一字拝領し、伊東義祐と改名しました。
それまでの佐土原城の構造は、築城当時の田島城のままでしたが・・・
この改修で南之城を主郭として、山全体を使った本格的な山城になりました。
1577年、島津家の城になりました。
伊東義祐は1554年に都於郡城に本拠を移し、佐土原城には城代を置きました。
しかし、1560年に家督を伊東義益に譲ると、佐土原城を隠居城としました。
伊東義祐はその後も実権を握り続け、島津家の飫肥城を攻め続けました。
そして1568年、100年以上争奪戦を続けた飫肥城をついに手に入れました。
この時が伊東氏の最大版図となります。
しかし、伊東家中では既に崩壊が始まっていました。
伊東義祐の従兄弟で側近の伊東帰雲斎が、当主同然の振る舞いをしていました。
ただ威張っているだけなら、嫌われるだけで済んだのでしょうが…
領地を理由も無く没収するなどしたため、多くの家臣から恨みを買いました。
1572年には圧倒的な兵力差で島津義弘を攻めたものの、木崎原の戦で大敗。
以後、寝返る伊東家臣が後を絶たず、島津軍が佐土原城近くまで迫りました。
そのため、伊東義祐は観念し、豊後へと落ち延びました。
伊東義祐が去った佐土原城は、島津義弘の弟・家久が城主となりました。
1587年、島津家久が謎の死を遂げました。
豊臣秀吉が島津家を討伐し、島津義久は降伏しました。
島津家久は4兄弟の中で最初に豊臣軍に降伏したそうですが…
豊臣軍の陣に赴いた直後に急死したため、暗殺説が流れました。
豊臣秀吉は暗殺説を否定し、子の島津豊久に領地を安堵しました。
島津豊久は伯父の島津義弘に育てられ、信じられない程の武功を挙げました。
朝鮮出兵では、600の兵で3万の敵軍を追い払ったという武勇伝があります。
その島津豊久は関ケ原の戦での撤退戦で戦死。
佐土原城は徳川家康の家臣・庄田三太夫が一時預かることとなりました。
1603年、島津家に返還されました。
徳川家康の命令により、島津以久が佐土原3万石の城主となりました。
島津以久は、島津貴久の弟・忠将の子で、種子島の領主でした。
以後、明治時代に至るまで、佐土原島津家の居城となりました。
続日本100名城スタンプ設置場所
![]() | 鶴松館(佐土原歴史資料館) 開館時間 9時~16時半 休館日 月曜日~金曜日(祝日は開館) 入館料 無料 |
城の駅佐土原いろは館 開館時間 9時~18時 休館日 1月1日~3日 入場料 無料 |
所在地:宮崎市佐土原町上田島 GPSログダウンロードページ
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