2018/02/25
宮崎城/宮崎市
宮崎城は伊東四十八城の1つで、伊東家当主の居城だったこともあります。訪問日は2018年2月12日です。

新しい説明板とその図
宮崎城にはいくつか登城口がありますが、私は満願寺口から攻めました。
訪ねてみると、諸兄のサイトには載っていない新しい説明板がありました。
綺麗な図も載っており、登城の際にとても参考になります。

古い説明板と隣の図
登城口にある模擬冠木門です。
その脇にある説明板と図は、従来からあるものです。
満願寺口の登城路はここから入りますが、右には別の登城路もあります。

広く草が刈られた登城路を5分登ると、こんな風景が現れます。
いきなりですが、目の前の城塁は主郭のものです。
私は北から順に散策したかったので、ここで右に曲がりました。

右に曲がると、こんな段差が現れます。
パッと見わかりづらいのですが、主郭と目曳城の間に空堀があります。
かなり幅が広いので、その両側に城塁が迫っているように見えます。

目曳城は野頸城とも呼ばれ、宮崎城では一番広い曲輪です。
ただ、野生に支配されており、通された道の脇は山林となっています。

目曳城を抜けると、土橋状の道になります。
この向こう側が服部城です。

途中この案内の所で、満願寺口の右側からの登城路が合流します。

服部城は周りよりも高くなっており、その入口に標柱が立っています。
足元もしっかりしており、堂々とした標柱です

木の標柱は足元が腐って倒れたものばかり見て来ました。
こうして元気な姿の子を見ると、とても嬉しくなります。

服部城は三角形の曲輪で、一番高い所に石碑が3基あります。
左側が宮崎城350年記念、右側が宮崎城400年記念と彫られていました。
真ん中のボスっぽい石碑は、達筆&風格があり過ぎて読めませんでした


石碑の所が一段高くなっていたので、もしや土塁?と思いました。
山城で土塁といえば、その裏に堀切があるのが常です。
なので覗き込んでみると、やっぱりありました


綺麗なV字形をした、見事な堀切です。
服部城側との高低差は5メートル程あり、下りるのに苦労しました。

その先には、小さな曲輪がありました。

その小さな曲輪から、堀切越しに服部城をみた所です。
あちらの方が断然高く、登るのも大変です


事前のリサーチでは、服部城のもう1つの角に堀切がある筈でした。
なので、そのもう1つの角から下を覗き込んでみました。
少数派の人が下りたっぽい形跡はあるものの、それ以上何も見えず。

でも、私もたぶん少数派なので下りると、こんな感じになっていました


堀切の先を登った所にも、もう1つ小さいのがありました。
図ではわかりませんでしたが、ここは二重堀切となっていました。

二重堀切の先は射場城で、かなり細長い曲輪です。
竹藪なので何とか進めましたが、奥へ進む程に竹の密度が増しました。
進める所までは進みましたが、まだまだ先まで続いているようでした。

北側はとりあえず見終わったので、今度は南側へ。
服部城→目曳城と戻り、今度は主郭を攻めます。
主郭へは城塁のジグザグ道を登ります。

登った所は、綺麗に草が刈られ真ん中に白い標柱が立っています。
ここが主郭です。
そこそこ広いですが、思った程ではないなぁ~なんて思いました。

そう思い端から木々の間を見ると、平坦面は続いていました。
つまり、草木が刈られているのは、ほんの一部分だけだという事でした。
北西側には細道があって、その先に鉄塔があります。
主郭の平坦面はそこまで続いていました。

さて、主郭が実は広いんだとわかった所で、更に南へ進みました。
主郭の南側には、急な下り坂があります。

下り坂を下りて右側を見た所です。
高くなっている手前側は、主郭の城塁です。

下り坂を下りて左側を見た所です。
この形は堀ですよね?
ということは右側も堀の続きという事になります。
木々が茂ってよく見えませんでしたが、歩いてみると、確かに堀の形でした。

堀から少し先へ進むと、左側に草の刈られた広場が見えました。
ここが百貫城と呼ばれる曲輪です。
草が刈られているのは、送電線の鉄塔を管理するためなのでしょう。
周囲は木々が茂り、土塁があるのかどうか?でした。

堀から先の道は、両脇の土が高く盛られた虎口となっています。

この虎口のすぐ先に、見事な堀切が見えました。
堀切の左側が彦右衛門城です。

堀切を見ると、やっぱりテンション上がります

◆歴史◆
1335年頃、図師氏により築かれました。
築城者は南朝方の図師六郎入道隋円・慈円父子と伝わります。
図師氏でググって出てくるのは、宮崎城のコピペばかり。
「たぶん」の推測だと、大隅の図師氏かもしれません。
その領地は鹿児島県鹿屋市輝北町一帯で、鎌倉時代から土着していました。
南朝方というもあり、肝付兼重に従っていたかもしれないと思います。
肝付兼重はこの頃、日向のこの辺りで活動していましたし。
ひよッ子城キチの推測なので、真に受けないで下さいね

土持氏の城になりました。
足利尊氏が日向の南朝勢力駆逐のため、畠山直顕を下向させました。
畠山直顕は土持宣栄らの協力を得て、国富庄や穆佐庄を押さえました。
土持宣栄の活躍は凄まじく、宮崎城周辺の南朝勢力を追い払いました。
1337年には畠山直顕より大墓(大塚)別符地頭に補任されました。
どこら辺か調べたら、宮崎城から見て大淀川の対岸一帯でした。
1446年、伊東祐堯の城になりました。
ずっと土持氏の城かと思いましたが、この時の城主は曽井氏でした。
曽井氏は伊東氏の庶流ですが、曽井氏は島津家に味方していました。
当時の島津家当主は島津忠国で、島津薩州家と激しく争っていた時期です。
伊東祐堯は門川土持氏を滅ぼすなど、日向中部で勢力を拡大しました。
1536年、伊東義祐が一時期居城としました。
この頃の伊東家中は、重臣達が誰に家督を継がせるかで混乱続きでした。
その中で最終的に家督を継いだのが、伊東義祐でした。
当時、佐土原城は焼失していたため、宮崎城を仮住まいとしました。
伊東義祐は改修し終わった1543年頃に、佐土原城へ移りました。
1577年、島津家の城となりました。
伊東義祐が島津軍に圧迫に堪えられなくなり、豊後へ落ち延びました。
宮崎城には上井覚兼が城主として入りました。
上井覚兼は宮崎地頭に任命され、実質的に日向支配を任されていました。
1587年、高橋元種の城となりました。
島津家が豊臣秀吉により討伐され、日向の多くの領地が没収されました。
高橋元種は、島津家とともに豊臣軍に抵抗した秋月種実の子です。
戦後、秋月氏は領地を10分の1に減らされ、日向に移されました。
高橋元種は延岡に入り、宮崎城はその家臣・権藤種盛が城代となりました。
1600年、伊東軍に攻められ落城しました。
関ヶ原の戦では、高橋元種は兄・秋月種長とともに西軍に属しました。
そして遠く美濃国・大垣城を守っていました。
一方、伊東祐兵も西軍に属したものの、情勢を見て東軍へ寝返りました。
この際、西軍の城を落として手柄にしようと考え、宮崎城を攻めました。
家老の稲津重政率いる伊東軍は、わずか1日で宮崎城を攻め落としました。
しかし、高橋元種は兄とともに、大垣城内で東軍に寝返っていました。
そのため領地は安堵され、宮崎城も高橋元種に返還されました。
稲津重政は伊東祐兵の没後、その責任を負わされる形で討伐されました。
1615年、一国一城令により廃城となりました。
所在地:宮崎市池内町 GPSログダウンロードページ
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コメント
よく頂上までいけましたね
2018/11/18 19:42 by ななし URL 編集
Re:よく頂上までいけましたね
私にはその類の感覚が全くありません。感じられる人には、城跡ってどこ怖い所なんでしょうね。
2018/11/18 20:18 by なぽ URL 編集