2018/02/25
穆佐城/宮崎市
穆佐城(むかさ)は伊東四十八城の1つで、日向の中心だった時期があります。訪問日は2018年2月10日です。

駐車場と登城口は、南東の小学校跡のすぐ脇です。
確かこの辺が登城口だったよな~なんて、ウロウロして見つけました。

Uターンだけさせてもらうつもりで空き地に入ると・・・
その脇に説明板と標柱がありました。
ラッキー


登城口の説明板
説明板と標柱の先に、穆佐護国神社に上がる石段があります。

石段を上がった所にある護国神社です。
脇から上がる道があり、ここは入口を守る曲輪っぽい感じです。
城内へのちゃんとした登城路は、この神社の左脇の道です。

ただ私はなぜか、護国神社の石段から派生する脇道に惹かれました。
だって、こんな光景が見えたんですもの

高さ3メートル程の土塁が、道を隠すように付けられていました。

この道を上がった所にあるのが、穆佐稲荷神社です。
周りを囲んでいるのは土塁ではなく、ここだけ掘り下げられた感じです。
道としては行き止まりなんですが・・・
右奥がちょっと登りやすそうな感じ。
散策路が整備されてる城跡ですが、いつもの悪い癖で登っちゃいました


上がった所は広い曲輪でした。
ちゃんと削平された、綺麗な平坦地です。
土塁とか虎口とか凝ったものは無い所ですけど


この曲輪の反対側は、こんな感じのデッカイ堀がありました


かな~り立派な堀ですが、城内を3つに隔てるメインの堀ではありません。
この規模でも、曲輪群を隔てる堀の1つでしかありません。

この堀を外側に進むと、城の外周の細道に出ました。
この細道を左へ進んで行くと、木に何か貼ってあるのが見えました。

自分が今どこにいるのかを教えてくれる案内図です

これがあると、城内の散策がとてもやりやすいです

木の幹に貼ってあるので、ブログでパクるのは難しいですが…
平らなやつも数枚あったので、ちゃんとパクリましたw

外周から反時計回りに回り込むと、巨大な堀に出ました。
さっきの堀も凄かったのですが、その数倍はあります。
ここがA地区(東の曲輪群)とB地区(主郭周辺)を隔てる空堀です。

この大きな空堀から、脇に上がる道があったので進んでみました。
この道は、主郭側の土塁です。
本当はもっと高くて、簡単には進めない構造だったんでしょうけど・・・
今はこんな感じです。

堀の隣の曲輪はかなり広いのですが、伐採された木が積まれていました。

その曲輪の奥から、堀の脇を通ってさらに奥へ進めました。

かなり広い場所ですが、真ん中で更に一段高くなっています。
このブルーシートが掛けられた場所が、穆佐城の主郭です。

奥の方に見えたので近づきましたが、高さ3メートル程の土塁です。

この土塁の向こう側に、B地区とC地区を隔てる巨大堀切があります。
…土塁の上からでは、ちょっと草深くてよく見えませんでした


肝心の主郭ですが、発掘調査中のため立入禁止でした


それより何より、さっきの巨大堀切を見たい

ヤジロベーもビックリの回復力で、更に奥へと進みました。
主郭から堀切へは、奥の細~い道をいったん下ります。
傘さしながらだと、ちょっと歩きづらいですw

空き家の脇に窪んだ道があり、この案内が

えぇ、そっちへ行きますとも


ということで、城内最大の巨大堀切です




この堀切をずっと先へ進むと、その先に道が見えました。
ここが北の登城口です。
近くに駐車場が無いのが難点です


行きつく所まで行ったので、A地区とB地区を隔てる堀まで戻りました。
この堀の北側の城塁を隔てる小さな堀に、階段が付けられています。
「小さな堀」なんて書いてますが、大堀切と比較するとそうなります。
他の城跡で見たら、涙を流して「来て良かった」なんていうサイズです。

この堀は、実は最初に見た堀でした。
A地区の曲輪群を隔てており、それぞれの曲輪に上がることが出来ます。

再びAとBを隔てる大堀切に戻り、登城口方向へ戻ります。
すると、護国神社の裏の曲輪に出ました。
その奥に、何やら白いオブジェクトが!
ということで、吸い寄せられるように見に行きました。

島津忠国誕生杉の説明板
そこにあったのは、島津忠国誕生杉の説明板でした。
結構ブログに登場したアノ人の生誕地だったのです。
ちょっと、感動しちゃいました


最初に来た護国神社です。
今回も回り回って、帰りにちゃんとした道見付けました。
こんなんだから、山で直登ばかりになっちゃうんですね


穆佐城は大きくA~Cの曲輪群に分かれています。
私が見て回ってのはAとBだけで、Cは全く見れていません。
あんまり面白そうでも無かったのですが、入れる所を探してみました。
結局のところは見つかりませんでしたが…
城跡の北側から反時計回りに回ると、西端が切り通しになっています。
このカーブの所にもう1枚、穆佐城の説明板があります。
今頃になってジーっと城内にあった案内図を見ましたが…
ここがC地区とD地区を隔てる堀切でした

当日気付け、私のバカw

城外にある説明板
ここのが一番きれいで、図も文章も充実しています。
ちょっと執念深くウロウロした御褒美でした

結局、C地区には入れませんでしたけど

◆歴史◆
南北朝時代から史料に登場します。
築城時期は不明ですが、史料の初見は1335年12月24日です。
この時に、南朝方の木脇伊東祐広がこの城を奪っています。
しかしその5日後、今度は北朝方の土持宣栄が伊東祐広を追い払いました。
この争奪戦が初見なので、築城からそう月日は経っていなさそうです。
畠山直顕が居城としました。
1336年、足利尊氏が南朝勢力討伐のため、畠山直顕を日向に下向させました。
畠山直顕は穆佐城を拠点として、伊東祐広や肝付兼重らを討伐。
大隅にまで勢力を拡大したため、島津貞久と衝突するようになりました。
1345年には日向守護に補任され、島津軍を圧倒。
島津貞久は畠山直顕を倒すため、南朝勢力と手を結びました。
1357年には南朝勢力のカリスマ・菊池武光に攻められ大敗。
島津軍の攻勢も続き1358年、畠山直顕は豊後へ落ち延びました。
1403年、島津久豊が城主となりました。
島津元久が1395年から日向に侵攻し、弟の島津久豊を城主としました。
島津久豊は勢力を拡大しつつあった伊東祐安の牽制が役目でしたが・・・
その伊東祐安の娘を娶ったため、兄・島津元久と対立しました。
伊東軍による侵略を防ぐには、なかなかいい策だと思うのですがw
1412年、伊東祐安が穆佐城を奪いました。
島津元久が没すると、伊集院頼久が自らの子を島津家当主にしようとしました。
しかし、島津久豊が突如葬儀会場に現れ、位牌を持ち去る事件が発生。
島津久豊は島津家の家督相続を宣言したため、家督争いが始まりました。
そのため、島津久豊は薩摩方面へ出陣し、穆佐城は隙だらけになりました。
1424年、島津久豊が奪還しました。
伊集院氏や島津総州家との争いを終えた島津久豊が、穆佐城を奪還しました。
島津久豊が翌年没すると子の島津忠国が継ぎ、伊東祐安との戦を継続。
1427年に和睦し、島津忠国は薩摩での渋谷一族との戦いに専念しました。
1445年、伊東祐堯が再び奪いました。
家督を継いだ伊東祐堯は、早速各地の反対勢力撃破に動きました。
1445年には島津家に味方した伊東一族・曽井氏を滅ぼしました。
この動きの中で、穆佐城も奪還したものと思われます。
伊東祐堯は門川土持氏を滅ぼすなど、勢力を急拡大させました。
伊東祐堯の死後も、伊東家は島津家との戦を続けました。
1577年、再び島津氏の城となりました。
1568年に飫肥を陥落させ、伊東義祐は最大版図を築き上げました。
しかし、家臣の大量離反が始まり、1572年には木崎原の戦で島津軍に大敗。
その流れは止まらず、1577年には島津軍が佐土原付近にまで迫りました。
勝ち目が無いと悟った伊東義祐は、豊後へ落ち延び日向伊東家は滅びました。
その後は島津家臣・樺山規久、1599年からは川田国鏡が城主となりました。
1615年、一国一城令により廃城となりました。
所在地:宮崎市高岡町小山田 GPSログダウンロードページ
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