2018/02/21
柴波洲崎城/宮崎市
柴波洲崎城も伊東四十八城で、海沿いの山上にありました。訪問日は2018年2月10日です。

説明版
柴波洲崎城は城山公園にあり、主郭のすぐ下まで車で登れます。

拡大表示
駐車場脇に案内図付きの説明板が設置されています。
1枚で両方載せちゃうなんて、とても欲張りです

この図を見ながら、右側から反時計回りに散策しました。

いきなりですが、主郭です。
仏舎利塔が目印です。

主郭はそのまま細長く伸びていて

その先に展望台があります。
往時から1つの曲輪だったのか?ですが。

次の展望台は、仏舎利塔の脇から下りる道が付いています。

その途中、この形を見ると凝視しちゃいました。
ここ、絶対堀切ありましたよね?w

その先にある展望台です。

仏舎利塔のある主郭と、その両脇にある2つの展望台。
これで終わりっぽいけど、ちょっと物足りない…?
駐車場にある説明板を、珍しくその場でじっくり読みました。
すると、結構大事なコトが書かれていましたw

そういえば、駐車場に戻る途中で脇道がありました。
1つはこんな感じで通れなかったのですが・・・

もう1つは通れそうな感じです。
フェンスも外したとか外れたのではなく、はじめからこうだった感じ。
ただ、ちょっと草深くて素人さんお断り!っぽさを醸し出しています


1つ目の堀切は、脇道を下り切った所のようです。
ただ、ここは木々や草が生い茂り、堀切らしい写真が撮れませんでした。
これは、堀切の底から向こう側に上がる所です。

堀切の向こう側に上がると、奥へ続く道がありました。
人通りがあるように思えない場所ですが、ピンクの目印が転々とありました。
地籍調査で境界杭を打ったばかりのようです。
でなければ、草を刈らなさそうな所ですからw

ちょっと進むと、一段高くなった場所に出ました。
左上にちょこっと写っていますが・・・

石垣ハッケソヾ(*´∀`*)ノ

この高台の奥まで進み、見つけちゃいました。
かな~り大きめの堀切様です


深さは3メートル程ですが、ハッキリとザックリしています。
ちょっと心に引っ掛かるものを感じて、戻って来て良かったです

◆歴史◆
応永年間(1394~1427年の間)に長井氏により築かれました。
長井姓というと、大江氏の一族を思い浮かべます。
鎌倉時代に全国各地に領地を与えられ、一族が各地へ赴きました。
・・・その一族だという確証は全く無く、ただの想像に過ぎません

それでも気になりググっていると、名字の由来のサイトに当たりました。
そこでは「日向国臼杵郡長井荘をルーツとする」長井さんもありました。
日向国臼杵郡長井荘は現在の延岡市内です。
延岡といえば、土持さん!
飫肥も昔は土持氏が支配していたので、その一族の可能性もありますネ!
1444年、伊東氏の城になりました。
この時は長井式部少輔が城主でした。
築城年代から計算すると、2代目か3代目でしょうか?
ある日、伊東家に仕える長井美作守が訪ね、城を譲れと脅しました。
長井式部少輔は口では拒否するものの、城を明け渡したそうです。
柴波洲崎城は、伊東家臣の川崎五郎左衛門が城主となりました。
1480年、島津氏との争奪戦が始まりました。
木脇右馬頭と日高周防介が島津軍に内応し、柴波洲崎城を奪いました。
この「島津氏」が?ですが、当時近くの飫肥に居たのは新納忠続です。
新納忠続は島津久逸と争い、島津宗家を味方にしていました。
一方の島津久逸は、伊東祐堯を味方にしました。
伊東家の城が攻められた事で、島津家との争いに火が点きました。
伊東軍が以後、飫肥城を100年に渡り攻め続けるきっかけとなりました。
1577年、島津家の城になりました。
伊東義祐が島津軍に圧迫され、豊後へ落ち延びました。
その後は宮崎地頭・上井覚兼の父・上井薫兼が城主となりました。
九州征伐後、再び伊東家の城となりました。
豊臣秀吉により島津家が討伐され、多くの領地が没収されました。
日向も大部分が没収され、伊東祐兵が大名家として復活を遂げました。
はじめは清武城と曽井城が返還され、翌年には飫肥城も返還されました。
柴波洲崎城も伊東家の城となりましたが、一国一城令で廃城となりました。
所在地:宮崎市折生迫(城山公園) GPSログダウンロードページ
宮崎県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント