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日知屋城/宮崎県日向市

日知屋城は伊東四十八城の1つで、別名・船岡城とも呼ばれていました。
海に突き出した岬に築かれていて、現在は伊勢ヶ浜海浜公園となっています。
訪問日は2018年2月11日です。

【写1】日知屋城
日知屋城跡の案内図

日知屋城跡は伊勢ヶ浜海浜公園となっており、ロハの駐車場があります。
私が訪ねた時はほぼ満車で、奥のキツイ場所に辛うじて停められましたあせる
その駐車場の一番奥にこの案内図があります。

【写2】日知屋城

案内図のすぐ脇には、雰囲気を盛り上げてくれる模擬門があります。
お城の入口がこれだとすぐに突破されちゃいますが・・・
場の雰囲気を作ろうとした配慮には頭が下がりますラブラブ

【写3】日知屋城

で、案内図を見て歩き始めたのは、門とは反対側です。
案内図から見て右側に、雰囲気たっぷりの上り坂があります。

【写4】日知屋城

ふらふらっとこっちに歩き始めたのは、こいつがチラっと見えたからです恋の矢

【写5】日知屋城

坂を登り切ると、こんな南国情緒満点な風景がありましたウインク

【写6】日知屋城

その脇には、思わずガン見する文字が…!!
確かに「堀切」と書かれています。

【写7】日知屋城
❶堀切

どこだ?どこだ?とキョロキョロしましたが・・・
目の前にありましたw
かなり埋められてしまっているようです。

【写8】日知屋城
❻西の曲輪

堀切のすぐ先に鳥居がある平坦地が西曲輪です。
鳥居の向こう側に四阿があり、海を眺めることが出来ます。

【写9】日知屋城

更に奥へ進むと再び鳥居が現れ、その脇に「鵜戸神社」の石碑があります。
西曲輪内には神社らしきものは無かったので、この先にあるようです。

【写10】日知屋城

別に神社に興味があった訳ではありませんが、断崖沿いの細道を進みました。
すると、岩の裂け目の中に真っ赤な鳥居が見え、小さな祠がありました。

【写11】日知屋城

岩の裂け目の先には小さなビーチが。
城キチ的に見ると、ここに脱出用の舟を隠していたのかも。
目を開きながらも、色んな妄想が駆け巡るのでしたw

【写12】日知屋城

細道から戻って石段を上がると、細長い曲輪があります。

【写13】日知屋城
❽虎口

この曲輪を奥に進むと、左脇に説明板的モニュメントが。
何や?と思って見ると「虎口」と書かれていました。
イラストは汚れていて殆ど見えませんでしたけどw

【写14】日知屋城

虎口からさらに奥に進むと、冠木門がありました。
すぐ外側には、反対側の通路がありました。

【写15】日知屋城

まだ見ていない所が多々あるので、元の所に戻ってさらに上へ。

【写16】日知屋城

さっきの曲輪とは直角方向に長い曲輪が現れました。

【写17】日知屋城
❷古代メンヒルストーンサークル

奥に進むと、再び説明板的モニュメントが。
?と思って見ると「ストーンサークル」って書かれていました。
・・・てっきり海外の物かと思ってましたけどw

【写18】日知屋城

その先から下る道があり四阿が。
周りは木々が茂っていて、展望は利きませんw

【写19】日知屋城

さらに道を下ると、また説明板的モニュメント登場。
ここには「土塁」と書かれていました。

【写20】日知屋城
❸土塁

どこどこ?と見渡した風景です。
どうやら陸地側の斜面が土塁のようですが・・・
土塁?というのが率直な感想でした。

【写21】日知屋城
❹東の曲輪

さらに進むと、石垣いっぱいの空間に出ました。
ここが東の曲輪です。
奥にそんな事が書かれた説明板的モニュメントが鎮座していますラブラブ

【写22】日知屋城
あらためて、❸土塁

さっきの土塁モニュメントの裏側です。
こっち側から見ると、バッチリ土塁らしく見えますラブラブ

【写23】日知屋城

東の曲輪から、隠し通路的にどこかに伸びる通路がありました。
何気なくふらふらっと進んでみると、またしても海が。
オープンスペースなので、公に使っていた船着き場かもしれません。

【写24】日知屋城

海っぺりから戻り、東の曲輪から先に進みました。
左側の高まりは、さっきストーンサークルがあった所です。
何となくですが、細長い曲輪が階段状に連なっているように見えます。

【写25】日知屋城

更に進むと、入口が石垣で固められた曲輪に出ました。

【写26】日知屋城
❼主郭

真ん中にモニュメントがあるこの曲輪が、日知屋城の主郭です。
一番高い所にストーンサークルがあり、主郭どこ?なんて思ってました。
高い壁のような土塁に守られた、広い曲輪です。

【写27】日知屋城

更に奥にというか入口方向への道です。
そこかしこに、腰巻石垣が連なります。
城内では、土盛りの足元はずっと腰巻石垣がありましたラブラブ

【写28】日知屋城

ついに模擬門の所まで戻って来ました。
門の裏側は、ビッシリ石垣でした爆  笑


◆歴史◆

1457年、伊東祐堯の城になりました。

伊東氏が日向に下向してしばらくは、土持氏とは協力関係にありました。
しかし、伊東祐堯が日向守護の座を狙うと、土持氏が強烈に反発しました。
1457年、伊東祐堯が小浪川の戦に勝ち、財部土持氏を滅ぼしました。
日知屋城はこの時手に入れた説と、築城したとする説とがあります。

1486年、城主の伊東祐邑が暗殺されました。

伊東祐堯は島津久逸と新納忠続の争い介入し、飫肥へ出陣しました。
しかし、伊東祐堯は1485年に病死し、翌年には伊東祐国が戦死しました。
伊東家の家督は、伊東祐国の嫡男・尹祐が継ぎましたが・・・
文武に優れた伊東祐邑が家督を狙っている疑惑で、伊東家中が震撼しました。
そのため、伊東尹祐を支える一派が、刺客を送り伊東祐邑を暗殺しました。

1578年、島津家の城となりました。

1577年に家臣の寝返りが止まらず、伊東義祐が豊後へ落ち延びました。
これにより日知屋城主・福永氏本は島津家に従いました。
福永氏本がどのような武将であったのか、ググっても???でしたが・・・
大友軍が日向に侵攻すると、門川城・塩見城とともに日知屋城も従いました。
この三つの城は「日向三城」として、ひとくくりに呼ばれています。
たぶんの推測ですが、大友軍にこう呼ばれたのでしょうか。
日向三城の城主は大友軍に従い、耳川の戦でいずれの城主も討死しました。
戦後、日知屋城は島津家臣・井尻伊賀守が城主となりました。

1587年、高橋元種の城となりました。

豊臣秀吉の九州征伐後、筑後の秋月氏が減封のうえ日向に移されました。
これを機に秋月種実は絶望して隠居し、2人の子が財部と縣に入りました。
縣の高橋元種は秋月種実の次男で、この年に高橋鑑種の養子となりました。

その後、関ケ原の戦では兄とともに西軍→東軍に寝返って存続しましたが・・・
1613年、富田信高と坂崎直盛の対立に巻き込まれて改易処分となりました。
高橋元種は陸奥国棚倉の立花宗茂に預かりの身となり、翌年亡くなりました。
縣藩は幕府預かりとなり、1615年、一国一城令により廃城となりました。


所在地:宮崎県日向市日知屋(伊勢ヶ浜海浜公園)GPSログダウンロードページ

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プロフィール

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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