2018/02/20
日知屋城/宮崎県日向市
日知屋城は伊東四十八城の1つで、別名・船岡城とも呼ばれていました。海に突き出した岬に築かれていて、現在は伊勢ヶ浜海浜公園となっています。
訪問日は2018年2月11日です。

日知屋城跡の案内図
日知屋城跡は伊勢ヶ浜海浜公園となっており、ロハの駐車場があります。
私が訪ねた時はほぼ満車で、奥のキツイ場所に辛うじて停められました

その駐車場の一番奥にこの案内図があります。

案内図のすぐ脇には、雰囲気を盛り上げてくれる模擬門があります。
お城の入口がこれだとすぐに突破されちゃいますが・・・
場の雰囲気を作ろうとした配慮には頭が下がります


で、案内図を見て歩き始めたのは、門とは反対側です。
案内図から見て右側に、雰囲気たっぷりの上り坂があります。

ふらふらっとこっちに歩き始めたのは、こいつがチラっと見えたからです


坂を登り切ると、こんな南国情緒満点な風景がありました


その脇には、思わずガン見する文字が…

確かに「堀切」と書かれています。

❶堀切
どこだ?どこだ?とキョロキョロしましたが・・・
目の前にありましたw
かなり埋められてしまっているようです。

❻西の曲輪
堀切のすぐ先に鳥居がある平坦地が西曲輪です。
鳥居の向こう側に四阿があり、海を眺めることが出来ます。

更に奥へ進むと再び鳥居が現れ、その脇に「鵜戸神社」の石碑があります。
西曲輪内には神社らしきものは無かったので、この先にあるようです。

別に神社に興味があった訳ではありませんが、断崖沿いの細道を進みました。
すると、岩の裂け目の中に真っ赤な鳥居が見え、小さな祠がありました。

岩の裂け目の先には小さなビーチが。
城キチ的に見ると、ここに脱出用の舟を隠していたのかも。
目を開きながらも、色んな妄想が駆け巡るのでしたw

細道から戻って石段を上がると、細長い曲輪があります。

❽虎口
この曲輪を奥に進むと、左脇に説明板的モニュメントが。
何や?と思って見ると「虎口」と書かれていました。
イラストは汚れていて殆ど見えませんでしたけどw

虎口からさらに奥に進むと、冠木門がありました。
すぐ外側には、反対側の通路がありました。

まだ見ていない所が多々あるので、元の所に戻ってさらに上へ。

さっきの曲輪とは直角方向に長い曲輪が現れました。

❷古代メンヒルストーンサークル
奥に進むと、再び説明板的モニュメントが。
?と思って見ると「ストーンサークル」って書かれていました。
・・・てっきり海外の物かと思ってましたけどw

その先から下る道があり四阿が。
周りは木々が茂っていて、展望は利きませんw

さらに道を下ると、また説明板的モニュメント登場。
ここには「土塁」と書かれていました。

❸土塁
どこどこ?と見渡した風景です。
どうやら陸地側の斜面が土塁のようですが・・・
土塁?というのが率直な感想でした。

❹東の曲輪
さらに進むと、石垣いっぱいの空間に出ました。
ここが東の曲輪です。
奥にそんな事が書かれた説明板的モニュメントが鎮座しています


あらためて、❸土塁
さっきの土塁モニュメントの裏側です。
こっち側から見ると、バッチリ土塁らしく見えます


東の曲輪から、隠し通路的にどこかに伸びる通路がありました。
何気なくふらふらっと進んでみると、またしても海が。
オープンスペースなので、公に使っていた船着き場かもしれません。

海っぺりから戻り、東の曲輪から先に進みました。
左側の高まりは、さっきストーンサークルがあった所です。
何となくですが、細長い曲輪が階段状に連なっているように見えます。

更に進むと、入口が石垣で固められた曲輪に出ました。

❼主郭
真ん中にモニュメントがあるこの曲輪が、日知屋城の主郭です。
一番高い所にストーンサークルがあり、主郭どこ?なんて思ってました。
高い壁のような土塁に守られた、広い曲輪です。

更に奥にというか入口方向への道です。
そこかしこに、腰巻石垣が連なります。
城内では、土盛りの足元はずっと腰巻石垣がありました


ついに模擬門の所まで戻って来ました。
門の裏側は、ビッシリ石垣でした

◆歴史◆
1457年、伊東祐堯の城になりました。
伊東氏が日向に下向してしばらくは、土持氏とは協力関係にありました。
しかし、伊東祐堯が日向守護の座を狙うと、土持氏が強烈に反発しました。
1457年、伊東祐堯が小浪川の戦に勝ち、財部土持氏を滅ぼしました。
日知屋城はこの時手に入れた説と、築城したとする説とがあります。
1486年、城主の伊東祐邑が暗殺されました。
伊東祐堯は島津久逸と新納忠続の争い介入し、飫肥へ出陣しました。
しかし、伊東祐堯は1485年に病死し、翌年には伊東祐国が戦死しました。
伊東家の家督は、伊東祐国の嫡男・尹祐が継ぎましたが・・・
文武に優れた伊東祐邑が家督を狙っている疑惑で、伊東家中が震撼しました。
そのため、伊東尹祐を支える一派が、刺客を送り伊東祐邑を暗殺しました。
1578年、島津家の城となりました。
1577年に家臣の寝返りが止まらず、伊東義祐が豊後へ落ち延びました。
これにより日知屋城主・福永氏本は島津家に従いました。
福永氏本がどのような武将であったのか、ググっても???でしたが・・・
大友軍が日向に侵攻すると、門川城・塩見城とともに日知屋城も従いました。
この三つの城は「日向三城」として、ひとくくりに呼ばれています。
たぶんの推測ですが、大友軍にこう呼ばれたのでしょうか。
日向三城の城主は大友軍に従い、耳川の戦でいずれの城主も討死しました。
戦後、日知屋城は島津家臣・井尻伊賀守が城主となりました。
1587年、高橋元種の城となりました。
豊臣秀吉の九州征伐後、筑後の秋月氏が減封のうえ日向に移されました。
これを機に秋月種実は絶望して隠居し、2人の子が財部と縣に入りました。
縣の高橋元種は秋月種実の次男で、この年に高橋鑑種の養子となりました。
その後、関ケ原の戦では兄とともに西軍→東軍に寝返って存続しましたが・・・
1613年、富田信高と坂崎直盛の対立に巻き込まれて改易処分となりました。
高橋元種は陸奥国棚倉の立花宗茂に預かりの身となり、翌年亡くなりました。
縣藩は幕府預かりとなり、1615年、一国一城令により廃城となりました。
所在地:宮崎県日向市日知屋(伊勢ヶ浜海浜公園)GPSログダウンロードページ
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