2018/02/18
塩見城/宮崎県日向市
塩見城も伊東四十八城の1つで、水月寺のある山にありました。訪問日は2018年2月11日です。

城跡の東側にある水月寺です。
東西に長い山の中腹なので、往時はここも城の一部だったと思われます。
お寺の縁起が彫られた石碑によると、元々ここには天嚴寺があったそうです。
この天嚴寺は、塩見城主・右松祐春により開基されました。
明治時代に天嚴寺が廃寺となり、水月寺が移転してきたのだそうです。

説明版
城跡まで車で登れるのですが・・・
そうとは知らなかった私は、下から歩いて登りました。
城跡に上がる道の手前に、塩見城の説明板があります。

城跡への道です。
路面はきれいで、傾斜やカーブもきつくないので城跡まで車で登れます。

道を登り詰めるとココに辿り着きます。
事前に見たサイト様では草ボーボーでしたが、綺麗に刈られていました。

城山公園の石碑の脇に、城址標柱が立て掛けられていました。
木製の標柱は、足元が腐って倒れてしまうことが多いですね…

奥から見た公園内の様子です。
綺麗に整備されているので、どこからどこまでが曲輪なのかが?です


慰霊碑の文面
公園入口から見て、正面の奥にある石碑群です。
左の石碑は慰霊碑で、耳川の戦での出来事が綴られています。

石碑群の前から左を見ると、虎口がありました。
この先に何があるのか気になり見に行くと…

裏に曲輪がありました。

石碑群から右を見ると、細長い平坦面が続いています。
かなり細長いな~なんて進んで見ると…

さらに奥まで続いていました。
主郭と平面続きなのですが、馬場か物見台でしょうか。
先端部から先は急斜面ですが、こちらから見えるのは山ばかり。
この先に詰め城でもあったのでしょうか?
ナゾですw
◆歴史◆
南北朝時代に土持氏により築かれたと考えられています。
土持氏は平安時代から日向に土着した一族です。
元々は宇佐八幡宮の社人とされ、その荘園領主としてやってきました。
その後、日向各地に進出し、有力者・日下部氏と縁戚関係を結びました。
そしてその権益を譲られ、日向では絶対的な勢力を有するまでになりました。
南北朝時代になると、土持氏は足利尊氏に味方し北朝方として活動しました。
畠山直顕が下向し日向守護となると、その配下として支えました。
1457年、伊東氏の城となりました。
伊東祐堯が財部土持氏を滅ぼしました。
この時に誰が城主になったのか?です。
その後、天正の頃は綾義恒・恒長父子や右松祐春が城主を務めました。
綾氏は足利尊氏の家臣・細川義門を祖とします。
右松氏は、日向伊東氏初代・伊東祐持の子を祖とします。
1577年、島津家の城となりました。
伊東義祐が豊後へ落ち延び、右松祐春は人質を出して島津軍に降伏しました。
しかし、その後は豊後の大友宗麟に島津家の内情を伝えるなどしました。
そして翌年、大友軍が日向に侵攻すると、その案内役を務めています。
しかし、耳川での島津軍との決戦で右松祐春は討死。
新たに島津一族である吉利忠澄が城主となりました。
1587年、秋月氏の城となりました。
島津家が豊臣秀吉により討伐され、日向の大部分が没収されました。
財部(高鍋)一帯は、島津家とともに抵抗した秋月氏が減封され与えられました。
その後、1615年の一国一城令により廃城となりました。
所在地:宮崎県日向市塩見(城山公園)
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