2013/06/15
竹尾城/福岡県北九州市八幡西区
続いて竹尾(たけのお)城です。竹尾城は割子川の谷間を挟んで、市瀬城のすぐ南にあります。
地図で見た時はこの2城で谷を封鎖するのかと思っていましたが・・・

▲竹尾城への登城口
竹尾城へは、ヘアピンカーブの先端から入ります。
入口には竹が1本倒してありますが、車両で無ければ入ってもよさげです。

▲城跡へは「真っ直ぐ」進みます
未舗装の道は30m程で左へ大きくカーブします。
その先はかなり派手に山が削られており、何かを造っているようです。
城跡へはカーブを曲がらず、そのまま直進して雑木林に入ります。

▲標柱
雑木林に入ると、すぐに写真の標柱があります。
ここで右へ曲がります。

▲道端に落ちてる石
ひたすら薄暗い林の中の小道を進んでいると・・・
道端に大きな石がコロコロと転がっていました。
大きさと形から、石垣に使われていたものではないかと感じました。

▲城跡っぽい地形!
更に進むと段差を登る階段が。
その手前は若干窪んでおり、どうやら空堀と土塁の跡のようです。
ここで一気にテンション上がりました


▲土塁
その階段を登ってみると、この段差はずっと続いているようです。
登った所からその先を撮ってみましたが・・・
竹やぶに埋もれてその先は見えませんね


▲見晴らしの良い広場
更に進むと一気に視界が開ける場所に出ました。
ここが主郭でしょうか?麓の町並みがとてもよく見渡せました。

▲更に道は続く
しかし、道は更に続いています。
しかも、道の右手は段差になって、道と並行に細い平場が続いています。
これはもしかして帯郭の跡でしょうか?

▲郭らしき広場
道なりに進むと再び雑木林に入りましたが、とても広い平場になっていました。
幅は20mほどあり、台地上の郭のようです。

▲段差の所に石垣が!
その平場のちょうど真ん中辺りで、高低差2m程の段差があります。
やっぱり郭なんだな~と思って振り返ると・・・

ほんの少しではありますが、石垣がありましたヽ(´ー`)ノ

▲台地先端部にある鉄塔
更に遺構を求めて道を進みましたが、台地先端部には大きな鉄塔があるだけでした。
この鉄塔を建てるために破壊された遺構があったかもしれません。
今となっては何もわかりませんが・・・
◆歴史◆
築城年は1481年頃で、麻生家延により築かれました。
そのきっかけは随分と時代を遡ります。
1436年、麻生氏当主・家春とその嫡男・家慶が、
少弐氏との戦でそろって討死しました。
当然その後の家督を誰が継ぐのかモメる訳ですが・・・
幕府の裁定により、家春の弟・弘家が麻生氏の家督を継ぎました。
しかし、この裁定に麻生家中は不満を募らせる者が多かったようです。
時代は下り、1467年に京で応仁の乱が始まりました。
大内氏は西軍の中心であったため、大軍を率いて京へ軍を派遣しました。
すると・・・
チャンスとばかりに北九州で少弐氏や大友氏が反大内の兵を挙げました。
麻生氏も例外ではなく、麻生家延は積年の想いを晴らすべく挙兵しました。
家延は家春の次男であり、周囲も当然家延が家督を継ぐと思っていたのでしょう。
家延は大内氏を後楯としていた弘家・弘国父子を圧倒し、
優勢に戦いを進めていました。
しかし、1477年、応仁の乱が終わりました。
大内政弘は、留守の間に荒らされた北部九州平定のため攻め込んで来ました。
さすがに大内氏の主力に攻め込まれるとたまらず、
家延は和睦。花尾城を明け渡し、遠賀川西の岡城へ移ることとなりました。
花尾城を退去した家延は、竹尾城を築いて一時居城としていたようです。
しかし、間もなく岡城を築いて移りました。岡城に移った家延は、
吉木麻生氏と呼ばれるようになりました。
吉木麻生氏は、3代目の時に宗像氏により滅ぼされました。
竹尾城はその後、花尾城の麻生氏の持ち城となったようです。
1587年、豊臣秀吉の九州征伐の際、麻生鎮里は島津方につき没落。
竹尾城はこの時に廃城となりました。
所在地:福岡県北九州市八幡西区上上津役
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