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富田城/宮崎県新富町

富田城(とんだ)も、まだ誰も登城記を書いていない伊東四十八城です。
上ノ城、上富田城とも呼ばれているようです。
訪問日は2018年2月12日です。

【写1】富田城

富田城は、東西に長い山の上にありました。
国土地理院の地図で等高線を見て、東端から登れると予想しました。
真東から見たら、こんもりした小さな山に見えます。

【写2】富田城

さぁ登るゾ!と近づいてみましたが・・・
手前には人の背丈程の溝があり、斜面は細い竹がビッシリ密生しています。
とてもではありませんが、ここから登るのは不可能です。
・・・ということで、悪戦苦闘しました。
結果的には直登して主郭に辿り着き、そこから下りてくる道を見つけました。
なので、今回下りて来た道を逆巻きで紹介しますあせる

【写3】富田城

城内への道は、南斜面にありました。
真東からは小さな山に見えましたが、南から見るとかなり長い山です。
杉の木がかなりヤバイ色になっていますが、花粉症の私でもまだ平気でした。

【写4】富田城

ここが登城口です。
西側に大きな空き地がある民家の脇に、山中に入る道があります。
この写真では、奥の家のすぐ左脇に大きな黒い影が見えます。

【写5】富田城

ここから城内へと続く道が付けられています。

【写6】富田城

道は定期的に人が歩いているようで、かなりハッキリしています。

【写7】富田城

途中、細長い腰曲輪があり、散策することが出来ます。
草を刈ってある所の奥にも平坦面が続いているので、帯曲輪かもしれません。

【写8】富田城

高い方へと進むと、空が明るく見えて来ます。
ここが主郭への入口です。
ただ、虎口という程の造りではないので、搦手口だったのかもしれません。

【写9】富田城

登り切った所は、かなり広い平坦面が広がっていました。
これだけ草が刈られている所から、何かの畑だと思われます。
ただ、畑の割に木が密生していて、ここ自体は畑ではないのかもしれません。
木の種類は注意して見ていなかったのですが、幹の表面からクヌギのようです。

【写10】富田城

平坦面は東西に長く、90メートル程あります。
GPSロガーを着けていたので、曲輪の形をトレースできましたヾ(*´∀`*)ノ
その西の端っこに、こんな感じのモノがありました。
手作り城址碑といった所でしょうか。
「ここかなぁ?」となる事を予想してたので、かなり嬉しい発見でした合格

伊東四十八城の1つということで、これが全てではないと思っています。
私の予想では、ここから東端にかけて段々の曲輪が続くと思います。
主郭の東端はヤブで進めなかったので、今回の散策はココまでとしました。

・・・ということで、私はやりませんが、続編を期待して追加情報ですw
上に紹介した道は、逆巻きで紹介すると書きました。
ここも登城路がわからなかったので、その経緯も紹介します。
おそらくですが、東側の曲輪も見ることが出来るかもしれません。

◆まずは直登編です◆

【写11】富田城

周りは細い農道しか無かったので、車は城跡の北側の路肩に停めました。
竹藪を覗くと入れなさそうだったので、とりあえず前方へ歩きました。

【写12】富田城

道と山の間には、こんな感じで幅2メートル程の水路が巡っています。
もしかしたらですが、往時から残る堀跡でしょうか?
これがあることで、山中へ入る場所が限定されました。

【写13】富田城

農道はやがて未舗装となり、ここで行き止まりとなります。
それでもここまで近づいたのは、竹藪の中に異変を感じたからでした。

【写14】富田城

突き当りから竹藪に突入すると、目の前を土盛りが横切っています。
この土盛りが、城跡のある山の方へ伸びていたのです。
もしかしたら、ここを辿れば城内に入れるかもしれないと思いました。

【写15】富田城

しかし、細尾根状の土盛りは、山の手前でブッツリ切られていました。
これって、もしかして堀切でしょうか?
周りは竹が密生しており、農家の方が土を崩す必要性が感じられません。

【写16】富田城

切られた細尾根状の何かをいったん下り、山側に上がりました。
すると、高さ10メートル程の土の壁の脇に、帯状の平坦地がありました。
もしかして、帯曲輪でしょうか?
・・・城跡が近いとあって、いつもの発作が始まっていましたあせる

【写17】富田城

しかし、帯曲輪状の平坦地も、すぐにヤブで進入不可状態となります。
ここで上を見上げて「登れそう♡」なんて思っちゃいました。
人間って元々は四つ脚の動物だったんだ!なんて感じながら、土の壁を直登。
そして登り切った所が、手作りモニュメントのすぐ脇でした。


◆続いて、東の曲輪に登れるかも編です◆

【写18】富田城

主郭から南の山道を下り、山の東側を回って車の所まで戻りました。
城の山と北側の農道の間には、先ほども書いた通り溝が続いています。
しかし、山に入れるよう、溝が覆われている所が2、3箇所ありました。
下の地図で、北側の黒い線が南側へ寄った所がソコです。

【写19】富田城

最初のそんな所から、試しに山の方に入ってみました。
すると、上の平坦地までの高さは10メートルあるか無いか。
そんな土の壁に、斜めに上がったっぽい跡がありました。
竹の密度も歩ける程度なので、ここから上に上がれそうな感じがしました。

【写20】富田城

次の溝を渡れる所から山の方に入った所です。
ここも上までの高さはそれ程でもありません。
多少竹が乱雑に倒れていますが、何とか入って行けそうな感じです。

2か所もこんな所を見ておきながら、なぜ登らなかったのか。
それは「なぽが見てない所を見た!」という感動を味わって欲しいから!!
・・・というのはウソで、ただ面倒臭かったからですw
多分ですが、ここを登れば段々になった曲輪を見ることが出来ると思います。


◆歴史◆

永禄年間(1558~70年の間)、湯地五郎九郎が城主でした。

築城年代は不明です。
『日向記』には湯地五郎九郎と書かれています。
この城は佐土原城の海側を守る位置にあり、大事な城でした。
なので、伊東義祐にとても信頼されていた人物だったと思われます。

湯地氏でググってもサッパリでしたが、湯地定時ただ1人がヒットしました。
湯地定時は伊東義祐退去後も三納城に立て籠もり、抵抗し続けていました。
大友軍が援軍に来る筈でしたが、耳川の戦で敗れたため孤立。
城を枕に討死した人物です。
この湯地定時と湯地五郎九郎の関係はわかりませんでしたあせる

1577年、島津家の城になりました。

伊東義祐が豊後へ落ち延び、日向は島津家が制圧しました。
富田城は島津家臣・新納武久が城主となりました。

新納武久は新納氏の10代目当主で、新納忠勝の嫡孫です。
新納氏は1538年に、周辺の連合軍に敗れ没落していました。
この時、新納忠勝の子・忠茂は、伊東氏を頼って佐土原に落ち延びました。
新納忠茂はその後、密かに島津義久に仕えて日当山の地頭を務めています。
1561年没なので、それ以前に島津家に戻ったという事になります。
新納忠茂の没後は新納武久が継ぎ、薩摩平泉を経て富田城に入りました。

その後がまた???ですあせる


所在地:宮崎県児湯郡新富町上富田 GPSログダウンロードページ

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コメント

無題

>>人間って元々は四つ脚の動物だったんだ!
動物は本来四つ脚・・そこに琴線が触れました。高知の瓜生野城というお城に行ったとき、登り口が分からず、直登して上がった先に城跡を示す碑を見て感動した覚えが・・。たしかに四つ脚の動物でした^^

無題

>ひろさん
辿り着けないかも?と思った城跡に到達出来た時、とても充実した気分になります。それが困難であればある程。四足歩行まで強いられると特に^^
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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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