2018/02/17
富田城/宮崎県新富町
富田城(とんだ)も、まだ誰も登城記を書いていない伊東四十八城です。上ノ城、上富田城とも呼ばれているようです。
訪問日は2018年2月12日です。

富田城は、東西に長い山の上にありました。
国土地理院の地図で等高線を見て、東端から登れると予想しました。
真東から見たら、こんもりした小さな山に見えます。

さぁ登るゾ!と近づいてみましたが・・・
手前には人の背丈程の溝があり、斜面は細い竹がビッシリ密生しています。
とてもではありませんが、ここから登るのは不可能です。
・・・ということで、悪戦苦闘しました。
結果的には直登して主郭に辿り着き、そこから下りてくる道を見つけました。
なので、今回も下りて来た道を逆巻きで紹介します


城内への道は、南斜面にありました。
真東からは小さな山に見えましたが、南から見るとかなり長い山です。
杉の木がかなりヤバイ色になっていますが、花粉症の私でもまだ平気でした。

ここが登城口です。
西側に大きな空き地がある民家の脇に、山中に入る道があります。
この写真では、奥の家のすぐ左脇に大きな黒い影が見えます。

ここから城内へと続く道が付けられています。

道は定期的に人が歩いているようで、かなりハッキリしています。

途中、細長い腰曲輪があり、散策することが出来ます。
草を刈ってある所の奥にも平坦面が続いているので、帯曲輪かもしれません。

高い方へと進むと、空が明るく見えて来ます。
ここが主郭への入口です。
ただ、虎口という程の造りではないので、搦手口だったのかもしれません。

登り切った所は、かなり広い平坦面が広がっていました。
これだけ草が刈られている所から、何かの畑だと思われます。
ただ、畑の割に木が密生していて、ここ自体は畑ではないのかもしれません。
木の種類は注意して見ていなかったのですが、幹の表面からクヌギのようです。

平坦面は東西に長く、90メートル程あります。
GPSロガーを着けていたので、曲輪の形をトレースできましたヾ(*´∀`*)ノ
その西の端っこに、こんな感じのモノがありました。
手作り城址碑といった所でしょうか。
「ここかなぁ?」となる事を予想してたので、かなり嬉しい発見でした

伊東四十八城の1つということで、これが全てではないと思っています。
私の予想では、ここから東端にかけて段々の曲輪が続くと思います。
主郭の東端はヤブで進めなかったので、今回の散策はココまでとしました。
・・・ということで、私はやりませんが、続編を期待して追加情報ですw
上に紹介した道は、逆巻きで紹介すると書きました。
ここも登城路がわからなかったので、その経緯も紹介します。
おそらくですが、東側の曲輪も見ることが出来るかもしれません。
◆まずは直登編です◆

周りは細い農道しか無かったので、車は城跡の北側の路肩に停めました。
竹藪を覗くと入れなさそうだったので、とりあえず前方へ歩きました。

道と山の間には、こんな感じで幅2メートル程の水路が巡っています。
もしかしたらですが、往時から残る堀跡でしょうか?
これがあることで、山中へ入る場所が限定されました。

農道はやがて未舗装となり、ここで行き止まりとなります。
それでもここまで近づいたのは、竹藪の中に異変を感じたからでした。

突き当りから竹藪に突入すると、目の前を土盛りが横切っています。
この土盛りが、城跡のある山の方へ伸びていたのです。
もしかしたら、ここを辿れば城内に入れるかもしれないと思いました。

しかし、細尾根状の土盛りは、山の手前でブッツリ切られていました。
これって、もしかして堀切でしょうか?
周りは竹が密生しており、農家の方が土を崩す必要性が感じられません。

切られた細尾根状の何かをいったん下り、山側に上がりました。
すると、高さ10メートル程の土の壁の脇に、帯状の平坦地がありました。
もしかして、帯曲輪でしょうか?
・・・城跡が近いとあって、いつもの発作が始まっていました


しかし、帯曲輪状の平坦地も、すぐにヤブで進入不可状態となります。
ここで上を見上げて「登れそう♡」なんて思っちゃいました。
人間って元々は四つ脚の動物だったんだ!なんて感じながら、土の壁を直登。
そして登り切った所が、手作りモニュメントのすぐ脇でした。
◆続いて、東の曲輪に登れるかも編です◆

主郭から南の山道を下り、山の東側を回って車の所まで戻りました。
城の山と北側の農道の間には、先ほども書いた通り溝が続いています。
しかし、山に入れるよう、溝が覆われている所が2、3箇所ありました。
下の地図で、北側の黒い線が南側へ寄った所がソコです。

最初のそんな所から、試しに山の方に入ってみました。
すると、上の平坦地までの高さは10メートルあるか無いか。
そんな土の壁に、斜めに上がったっぽい跡がありました。
竹の密度も歩ける程度なので、ここから上に上がれそうな感じがしました。

次の溝を渡れる所から山の方に入った所です。
ここも上までの高さはそれ程でもありません。
多少竹が乱雑に倒れていますが、何とか入って行けそうな感じです。
2か所もこんな所を見ておきながら、なぜ登らなかったのか。
それは「なぽが見てない所を見た!」という感動を味わって欲しいから!!
・・・というのはウソで、ただ面倒臭かったからですw
多分ですが、ここを登れば段々になった曲輪を見ることが出来ると思います。
◆歴史◆
永禄年間(1558~70年の間)、湯地五郎九郎が城主でした。
築城年代は不明です。
『日向記』には湯地五郎九郎と書かれています。
この城は佐土原城の海側を守る位置にあり、大事な城でした。
なので、伊東義祐にとても信頼されていた人物だったと思われます。
湯地氏でググってもサッパリでしたが、湯地定時ただ1人がヒットしました。
湯地定時は伊東義祐退去後も三納城に立て籠もり、抵抗し続けていました。
大友軍が援軍に来る筈でしたが、耳川の戦で敗れたため孤立。
城を枕に討死した人物です。
この湯地定時と湯地五郎九郎の関係はわかりませんでした

1577年、島津家の城になりました。
伊東義祐が豊後へ落ち延び、日向は島津家が制圧しました。
富田城は島津家臣・新納武久が城主となりました。
新納武久は新納氏の10代目当主で、新納忠勝の嫡孫です。
新納氏は1538年に、周辺の連合軍に敗れ没落していました。
この時、新納忠勝の子・忠茂は、伊東氏を頼って佐土原に落ち延びました。
新納忠茂はその後、密かに島津義久に仕えて日当山の地頭を務めています。
1561年没なので、それ以前に島津家に戻ったという事になります。
新納忠茂の没後は新納武久が継ぎ、薩摩平泉を経て富田城に入りました。
その後がまた???です

所在地:宮崎県児湯郡新富町上富田 GPSログダウンロードページ
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コメント
無題
動物は本来四つ脚・・そこに琴線が触れました。高知の瓜生野城というお城に行ったとき、登り口が分からず、直登して上がった先に城跡を示す碑を見て感動した覚えが・・。たしかに四つ脚の動物でした^^
2022/08/22 22:12 by ひろ URL 編集
無題
辿り着けないかも?と思った城跡に到達出来た時、とても充実した気分になります。それが困難であればある程。四足歩行まで強いられると特に^^
2022/08/23 04:49 by なぽ URL 編集