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星原城/宮崎県美郷町

星原城(ほしばる)は伊東四十八城の1つで、神門城(みかど)とも呼ばれます。
訪問日は2018年2月11日です。

【写1】星原城

伊東四十八城ではありますが、この城についての情報はかなり少ないです。
現在は、美郷町役場南郷支所の庁舎が建っています。

【写2】星原城

庁舎を裏から見た所です。
全面アスファルトに覆われており、堀や土塁などの遺構は全くありません。
高台の先端であるという地形だけが「城跡だったんだろな」という感じです。

【写3】星原城

城の中心部は庁舎のある場所らしいのですが・・・
庁舎の裏には、更なる高台があります。
この上の方がより城跡らしいのではと思い、見て来ました。

【写4】星原城

庁舎の裏にある高台は、運動公園として整備されています。

【写5】星原城

こちらも綺麗に均されており、全面芝生となっています。

誰も訪城記を書かないのは、遺構が無いのが理由かもしれませんが・・・
情報が全く無いのが大きな理由かもしれません。
某大聖典に載っている写真には、まだ役場がありません。
私もココが城跡だと確認するのに、かなり手間取りました。


◆歴史◆

奈須祐貞の城でした。

築城年代や築城者は不明です。
城主の奈須祐貞は伊東家臣で、小崎右近将監と同一人物とされます。
神門三方領主として、田爪城と借屋城の城主でもありました。
奈須氏はこの辺りでは有力な氏族で、水志谷城も奈須氏が城主でした。
那須与市の弟・宗久の子孫と伝わります。

1577年、伊東義祐が立ち寄りました。

島津軍への家臣の寝返りが相次ぎ、伊東義祐は豊後へ落ち延びました。
財部城の落合兼朝も島津軍に寝返り、伊東義祐の通過を拒否しました。
そのため、伊東義祐一行は山中を通って豊後を目指しました。
伊東義祐が星原城に立ち寄った際、城主の奈須祐貞が厚くもてなしました。
感動した伊東義祐は、先祖代々の家系図と旗を奈須祐貞に預けています。

1578年、大友軍が駐留しました。

大友宗麟が島津義久に決戦を挑み、日向へ侵攻しました。
この時、大友家臣の柴田紹安と伊東旧臣・山田匡徳が星原城に駐留しました。

奈須祐貞の足取りがちょっと???です。
降伏した翌年に大友軍に協力したので、島津家中に居たとは考えづらいです。
奈須氏は椎葉村が本拠だったので、しばらくそちらに居たのかもしれません。

1587年に豊臣秀吉が島津氏を討伐すると、伊東祐兵が日向に復帰しました。
この時に奈須祐貞は、伊東義祐から預かっていた家系図と旗を返しています。

1992年、南郷村役場の庁舎が建てられました。

現在城跡にある建物が、この時に建てられたと思われます。
1980年初版の某大聖典では、星原城の写真に建物が写っていないからです。
その後、南郷村は2006年に合併し、建物は美郷町南郷支所となっています。


所在地:宮崎県東臼杵郡美郷町南郷神門(美郷町役場南郷支所)

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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