2018/02/17
西城/宮崎県日向市
西城は東の山上にあった山陰城の支城でした。訪問日は2018年2月11日です。

公園の入口です。
何となくですが、道が堀底っぽく見えます。

城跡の公園なのでしょうが・・・
一緒に書かれている文字が不穏ですw
尚、読みは案内では「Saijo」ですが、某大聖典では「にし」です。
私は長い者の方に巻かれておきますw

公園の駐車場です。
かなり広いです。
ここも曲輪だったのか、公園化のため切り開かれたのか…

駐車場の先は、公園らしく芝生が植えられています。
やっぱり、ここは切り開かれていますよね?

この公園を歩いていると、大きな石が植え込みに囲まれていました。
城跡の公園なので「もしや城址碑

「逃散三百年記念碑」と彫られていましたw
逃散って、確か、圧政に堪えかねた農民が逃げる事、でしたよね?
どうやらこれが、入口に書かれていた「百姓一揆の碑」のようです。

そこから更に奥を見ると絶景が


切り開かれた公園と高台との間を、いい感じの堀が隔てています。

橋を渡って左側の光景です。
奥行きの長い細っそい曲輪のようです。
これがオリジナルなら馬場ですね!

橋を渡って右側は、高台への階段があります。
雰囲気的には、この上が主郭でしょうか。

そんなに広くないですけどw
でも、城内各所をキッチリ見渡すことが出来ます。
◆歴史◆
山陰城の支城として築かれました
山陰城は天文年間(1532~55年の間)に米良喜内により築かれました。
米良喜内は伊東家臣で、西城は米良宮内正が城主を務めました。
地理的には米良氏の本拠である九州山地と海岸部の間にあります。
西城は山陰城の支城で、東西の交通を抑える役目があったようです。
その後はわかりませんが、江戸時代には延岡藩の城となっています。
城主は山陰城とともに伊東家→島津家→秋月家でしょうか。
西城は山陰城とともに1615年に廃城になったと思われます。
城内にあった逃散の碑について
石碑のある逃散は、1690年に起きた出来事です。
3年続きの凶作にも関わらず、年貢の取り立ては苛烈を極めました。
そのため、300戸1422名の農民が薩摩へ逃れようとしました。
しかし、都農町の股猪野で高鍋藩に捕まり、逃散は失敗に終わりました。
高鍋藩が農民を支援したそうですが、それでも餓死者が出ました。
逃散に対する評定が江戸行われ、農民側は年貢減免を勝ち取りました。
その代償として代表者2名が磔、12名が打首、7名が島流しとなりました。
年貢を取り立てた郡代・代官も60国お構いの追放処分となっています。
「60国お構い」が?でしたが、おそらく60国の出禁じゃないかと思います。
彼らが治めていた山陰村・坪谷村・下村は幕府直轄の天領となりました。
所在地:宮崎県日向市東郷町山陰丙 GPSログダウンロードページ
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