fc2ブログ

西城/宮崎県日向市

西城は東の山上にあった山陰城の支城でした。
訪問日は2018年2月11日です。

【写1】西城

公園の入口です。
何となくですが、道が堀底っぽく見えます。

【写2】西城

城跡の公園なのでしょうが・・・
一緒に書かれている文字が不穏ですw
尚、読みは案内では「Saijo」ですが、某大聖典では「にし」です。
私は長い者の方に巻かれておきますw

【写3】西城

公園の駐車場です。
かなり広いです。
ここも曲輪だったのか、公園化のため切り開かれたのか…

【写4】西城

駐車場の先は、公園らしく芝生が植えられています。
やっぱり、ここは切り開かれていますよね?

【写5】西城

この公園を歩いていると、大きな石が植え込みに囲まれていました。
城跡の公園なので「もしや城址碑ラブラブ?」なんて思いましたが・・・
「逃散三百年記念碑」と彫られていましたw
逃散って、確か、圧政に堪えかねた農民が逃げる事、でしたよね?
どうやらこれが、入口に書かれていた「百姓一揆の碑」のようです。

【写6】西城

そこから更に奥を見ると絶景がラブ

【写7】西城

切り開かれた公園と高台との間を、いい感じの堀が隔てています。

【写8】西城

橋を渡って左側の光景です。
奥行きの長い細っそい曲輪のようです。
これがオリジナルなら馬場ですね!

【写9】西城

橋を渡って右側は、高台への階段があります。
雰囲気的には、この上が主郭でしょうか。

【写10】西城

そんなに広くないですけどw
でも、城内各所をキッチリ見渡すことが出来ます。


◆歴史◆

山陰城の支城として築かれました

山陰城は天文年間(1532~55年の間)に米良喜内により築かれました。
米良喜内は伊東家臣で、西城は米良宮内正が城主を務めました。
地理的には米良氏の本拠である九州山地と海岸部の間にあります。
西城は山陰城の支城で、東西の交通を抑える役目があったようです。

その後はわかりませんが、江戸時代には延岡藩の城となっています。
城主は山陰城とともに伊東家→島津家→秋月家でしょうか。
西城は山陰城とともに1615年に廃城になったと思われます。

城内にあった逃散の碑について

石碑のある逃散は、1690年に起きた出来事です。
3年続きの凶作にも関わらず、年貢の取り立ては苛烈を極めました。
そのため、300戸1422名の農民が薩摩へ逃れようとしました。

しかし、都農町の股猪野で高鍋藩に捕まり、逃散は失敗に終わりました。
高鍋藩が農民を支援したそうですが、それでも餓死者が出ました。

逃散に対する評定が江戸行われ、農民側は年貢減免を勝ち取りました。
その代償として代表者2名が磔、12名が打首、7名が島流しとなりました。
年貢を取り立てた郡代・代官も60国お構いの追放処分となっています。
「60国お構い」が?でしたが、おそらく60国の出禁じゃないかと思います。
彼らが治めていた山陰村・坪谷村・下村は幕府直轄の天領となりました。


所在地:宮崎県日向市東郷町山陰丙 GPSログダウンロードページ

宮崎県の城跡/なぽのホームページを表示

コメント

非公開コメント

プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

北海道・東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方・沖縄

プライバシーポリシー
本サイトについて
お問い合わせフォーム



検索フォーム

QRコード

QR