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目井城/宮崎県日南市

前回、絶壁を前に登城を断念した目井城跡に行って来ました。

そんな執念に燃えたのは、伊東48城の1つだからです。

訪問日は2018年2月10日です。


城の東に伸びる細尾根の先に、狼ヶ鼻と呼ばれる展望台があります。

そちらについては前回のブログを参照下さい。




【写1】目井城




リベンジは、前回山を下りて来た所にある観音堂から攻めました。




【写2】目井城




そこから見上げた景色です。

下りる時は道らしきものは見えませんでしたが・・・

下から見上げると、心なしか右上の方に草の薄いラインが見えます。




【写3】目井城




城跡を見上げると、ゴツイ岩盤が聳えています。

前回はこの左側から見て
「うはwダメだこりゃw」
でした。

今回はこの右側から回り込む作戦です。




【写4】目井城




回り込んでみると、岩盤の裏側にもう1本の谷筋がありました。

見ようによっては、超巨大二重堀切ですw

この底を辿って登り詰める算段です。




【写5】目井城




しかし、低い所には重力の掟により色々落ちているもので…

谷底は倒木が沢山積んでいて、とても歩ける状態ではありませんでした。




【写6】目井城




ということで、左脇に上がってみたところ…ビックリマーク

何と、谷筋に沿って曲輪っぽい削平地がありました。

しかも、谷側に土塁まであります。

谷は城内への道であり、ここで入口の警備をしていたようです。




【写7】目井城




思わぬ収穫を得て、一気に士気が高まりました爆  笑

そこから見上げると、倒木は多いものの、比高はあと10メートル程。

しかも、傾斜はそれ程でも無いので、頑張れば登れそうな感じです。

という事で、倒木の枝や雑草などを掻き分けて、一気に直登しました。




【写8】目井城




目論見通り、上の平坦地に出ました(∩´∀`)∩

写真だけ見ればただの雑木林ですけど、私には感動の1枚ですwww




【写9】目井城




主郭はかなり広く、30メートル四方はありそうでした。

東側は7、8メートル程の高さがあり、登ってみると薄い土の壁でした。

どうやら、北東側を断崖にするための土塁のようです。

私も前回、その下で途方に暮れましたけどw




【写10】目井城




念願叶って目井城の主郭を制覇しましたが、欲はどんどん深まります。

お城のあった山は東西にピークがあり、主郭は東の低い方にあります。

西の方が40メートル高く、その間は人一人がやっと通れる細道だとか。

伊東軍の兵11人で島津軍を撃退した秘密を知りたくなりました。

ということで、西の頂上へ向かいました。




【写11】目井城




登城口から主郭までは、道らしい道は殆どありませんでした。

しかし、東西の頂上を結ぶ稜線上には、かなりハッキリと道があります。

昭和30年代くらいの航空写真では、山上は大部分が畑でした。

今でもたまに、私のような人が通っているのかもしれません。




【写12】目井城




西へ西へと細い稜線を辿っていましたが、突然その先が無くなりました。

ここに5メートル程の段差があります。

東西のピークは西の方が高いのですが、段差は東の方が高くなっています。

低い東のピークが主郭とされるのは、こういう構造によるのかもしれません。




【写13】目井城




段差は南側に回り込む道があります。

東側だけが高いので、堀切ではありません。

こういうのって、お城用語で何て呼ぶんでしょうかね?w




【写14】目井城




段差はこの先にもう1つありました。

ここも超細い稜線が突然途切れ、10メートル程の段差となっています。




【写15】目井城




段差の南側を回り込む道があり、一旦下ります。

道はそのまま西へ向かっていましたが・・・

段差の縁が、岩を割ったような感じになっていました。

これは堀切?

城キチにはそんな風にしか見えません。

そう見えちゃったら、本能の赴くがままに体が勝手に登ります。



【写16】目井城




登った所にコレが落ちていました。

夜釣りで使う電気ウキです。

なぜこんな険しい山の中に?

薬莢よりは心臓に優しいですけどwww




【写17】目井城




さて、城キチの本能に従って岩堀切に登りましたが、これが吉と出ました。

堀切からちょっと低い道が、西へと伸びていたのです。

素直に道に従って進んでいたら、上にあるこの道には出ませんでした。




【写18】目井城




さらに西へ進むと、細かった道がかなり広くなりました。

というか、三角形の削平地に出ました。

ここは西のピークの東端にある平坦地です。

曲輪のように見えますが、土塁や堀は見当たりません。

どうなんでしょうか?




【写19】目井城




西のピークは、周囲を2メートル前後の段に幾重にも囲まれています。

道は無いのですが、直登という程でもなく簡単に登れます。




【写20】目井城




登り詰めた西のピークです。

かなり広い平坦地で、直径50メートル位の円形です。

山のテッペンの平坦地なので、たぶん曲輪だと思いますが・・・

昔の航空写真では、ここは大きな畑でした。

東だけ城にして、西は何もしないというのも考えにくいのですが。




【写21】目井城




道があったらと思いましたが、ありませんでした。

日没も迫っていたので、元来た東へ戻るという選択肢はナシ。

途中で真っ暗になったら危ないですからw

なので、登城ルートの候補No2だった山の南西に向かって下りました。

2メートル前後の段々を1つ1つ下りましたが・・・

途中でコンクリート擁壁の上に出ました。

流石にここは下りられないあせる

擁壁の上を西側へ進み、傾斜の緩い所からまた下りました。




【写22】目井城




そして、竹藪を通り抜けて、道の終点付近に出ました。

ヤブに囲まれない風景って、いいもんですw

ここから山を北西から回り込み、車を置いている港まで歩きました。




【写23】目井城




港を守るためのお城だったという事で、お約束の遠景です。

真ん中の一番高い所の裏側が主郭、だと思いますウインク





◆歴史◆



天文年間(1532~55年の間)に島津忠広により築かれました。



島津忠広は島津豊州家の当主です。

飫肥には1538年に入り、1549年に隠居しています。

なので、目井城の築城時期はその間の可能性が大です。

城主は家老一族と思われる日高源左衛門でした。



伊東義祐と争奪戦を繰り返しました。



伊東義祐はたびたび飫肥を攻め、島津忠広は防戦一方でした。

そんな中、1547年に城主の日高源左衛門が伊東氏に寝返りました。

その後は、島津軍と伊東軍の間で、目井城を巡る争奪戦が繰り返されました。



1563年、伊東軍の兵士が逃げ込みました。



伊東軍の兵士が島津軍に見つかり、目井城に逃げ込みました。

・・・という事は、この時までに廃城になっていたという事ですねw

目井城「跡」に逃げ込んだ伊東兵は、迫る島津軍をちょいちょい撃退。

その中の1人が海を泳いで近くの城まで行き、援軍を呼んで生還したそうです。

彼らは「目井の十一本槍」として讃えられました。





所在地:宮崎県日南市南郷町中村乙 GPSログダウンロードページ


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コメント

地元民です。有難う!

小学生の頃(S40年代)は、夏には、城浦に毎日泳ぎに行っていましたし、展望台から梅の木(今回、登り始めたお堂があるところ)迄、細い岩場の馬の背を冒険のつもりで歩いたこともありました。尚、三本槍の祠は、ずっと西の尾根(原金物店の上の山)にあったそうですが・・・。兎に角懐かしく読ませて頂きました。

Re:地元民です。有難う!

>グリー55さん
展望台からお堂までの超細道は、やっぱり地元のお子様には魅力的な冒険ポイントなんですネ!三本槍の祠がある西の尾根は、地図で西に出っ張った細い部分でしょうか?そちらも登城路あるかも候補には入れていましたが、日没が近く探索を断念しました。探索記などお聞かせ頂けると、今後訪ねる方の参考になるかもしれません^^

今晩は! 早速のお返事、びっくりしました。有難うございます。

祠の位置はその通りだと思います。(目井津保育所と白蓮寺の交点付近)亡くなった父や叔父の話では、祠の付近から草スキーをやっていたそうで、急斜面の下が原金物店(旧岡元製材所跡)付近だったと聞いています。尚、地元では「目井城」と聞いた事はなく、「きじょう」(生か亀)でした。

早速のお返事、驚きました。有難う御座います。

祠の細部位置はわかりませんが、その通り(目井津保育所と白蓮寺の交点付近)だと思います。亡くなった父や叔父の話では、薩摩の兵が一本道からしか上がってこれず、伊東側は急斜面の尾根から槍で突き続けたそうで、その急斜面を小さい頃に草スキーして遊んでいたそうです。その下が岡本製材所、今は原金物店辺りになります。地元では「目井城」ではなく、「きじょう」(生か亀)と言っていました。

南郷城は・・・

南郷城はなぽさんの言う通り、以前からあったと言う説もあるようです。油津、目井津、外之浦を同時に俯瞰できる緊要地形であり、特に最重要の外浦港の船泊は、南郷城の南東側、直ぐ真下の中村神社から日南農林高校付近だったそうですから(八艘泊)。又石垣は、一部移されているようです。

Re:早速のお返事、驚きました。有難う御座います。

>グリー55さん
地元の方の貴重なお話、ありがとうございます。草スキーが出来る場所があったというのは、いくら調べても出てこなかった話です。また、祠が西にあった事などから、本来の登城路は山の北西だったんだと確信しました。また、地元での呼び名も初めて見ました。とても参考になりました。ありがとうございます!
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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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