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南郷城/宮崎県日南市

南郷城は、南九州では珍しい石垣のある城跡です。
訪問日は2018年1月1日です。

【写1】南郷城

本丸の入口です。
コンクリート城塁は、元の地形をそのまま固めたような感じです。
その角に、足元が朽ち果てた城址標柱が立て掛けられていました。

【写2】南郷城

本丸の虎口です。
両脇をしっかりと石垣で固めています。
ただ、改変のせいか、あまり厳重な感じがしません。
もしかしたらですが、元々は枡形虎口だったのでしょうか?

【写3】南郷城

虎口から入った所です。
ココは本丸まで車で登ることが出来ます。
本丸内部は今でも畑があり、あまり城跡らしさは感じられません。

【写4】南郷城

虎口の手前から右側を見た所です。
本丸は周囲を帯曲輪で囲まれています。
この帯曲輪沿いにぐるっと反時計回りで進んでみました。

【写5】南郷城

すると、城塁の草の陰に、ちらほらと石垣が見えました。
ここは本丸の南西の角で、隅石が見えていますラブラブ

【写6】南郷城

西側とは打って変わって、南側は石垣が沢山見られます。
ただ、ずっと綺麗に続いている訳ではなく、所々に固まっている感じです。
崩れて石が散らばっている所もありますが・・・
整っている所は整っています合格

【写7】南郷城

南郷城から見た東側の眺めです。
南郷川が日向灘に流れ込む河口が、目と鼻の先に見えます。
こんなにいい場所なのに、築城が関ケ原の後というのが?です。
1547年に島津忠親が築いた城って、ここじゃないの?なんて思います。
(この城は、築城から7か月後に伊東軍に攻め落とされています)


◆歴史◆

1601年、伊東祐慶により築かれました。

関ヶ原の戦では、伊東祐兵は石田三成の誘いに応じて西軍に属しました。
しかし、病床に伏せていた伊東祐兵は、密かに東軍への寝返りを画策。
嫡男の伊東祐慶を密かに日向へ帰し、黒田如水に諮りました。
その結果、東軍へ寝返る証として、西軍の高橋元種の宮崎城を攻めました。
しかし、高橋元種は大垣城籠城中に既に東軍に寝返っていました。
そのため、関ケ原の戦が終わった後、宮崎城は高橋元種に返還されました。

高橋元種は秋月種実の子で、九州征伐では島津家と共に豊臣軍と戦いました。
そのため、伊東軍が宮崎城を攻めた時、島津義久は援軍を送っています。
この援軍を、伊東家の家老・稲津重政がことごとく撃退しました。
そんなこんながあり、伊東家は島津家と険悪な関係となりました。
・・・元々が100年以上争っていましたからねw

伊東祐兵は、関ケ原の戦のひと月後に大阪城内で病死。
あとを継いだ伊東祐慶は、島津軍対策として新たに南郷城を築きました。
また、宮崎城攻めの責任を稲津重政ひとりに負わせました。
稲津重政は清武城に籠城し抵抗しましたが、伊東軍により討ち取られました。

1615年、一国一城令により廃城となりました。

1945年、城跡に砲台が設置されました。


所在地:宮崎県日南市中村甲

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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