2018/02/03
櫛間城/宮崎県串間市
櫛間城のあった所は、住宅街と工場になっています。伊東48城・・・ではありません

訪問日は2018年1月1日です。

ということで、そんな住宅街です。
奥には工場も見えています。
道は幅が広く真っすぐなので、かなり計画的にやっちゃってますね


この道の突き当りです。
カーブに沿って笹の壁になっています。
これって、もしかして、土塁

もし土塁なら、その裏には大きな堀がありそうな規模です。

ということで、笹の壁の切れ目を探しました。
なんだか、向こう側がかなり低くなってそうです!

足元が草で見えず、いつズボっと逝ってもおかしくない状況。
恐る恐る奥に進んでみました。

だいぶ奥まで進めた、と思いますが、これが限界でした



またしても、草木しか写っていませんw
◆歴史◆
野辺氏の城でした。
築城年代は不明ですが、鎌倉時代には既に野辺氏が本拠としていました。
野辺氏は櫛間院の地頭で、武蔵国から下向したそうです。
室町時代に入ると北条氏方勢力として、室町幕府に反抗していました。
そのため、島津貞久に討伐が命じられていました。
しかし、南朝方として肝付兼重に味方し、勢力を保ち続けていました。
1339年には畠山直顕により攻め落とされ、降伏したようです。
その後も野辺氏が7代にわたって城主を務めています。
島津氏の城になりました。
1440年、大覚寺義昭事件により野辺氏が没落しました。
義昭は、足利義教とともに将軍の座を賭けてクジを引いた将軍家の一族です。
クジ引きでハズレを引いた事をきっかけに還俗し、各地を転々としました。
義昭は不穏な動きを見せ、倒幕の疑いがあるとして討伐対象となりました。
それでも滞在先の領主達は義昭を庇い、四国から九州へと移って行きました。
都城に滞在中も、北郷氏は義昭を討ち取る事はありませんでした。
しかし櫛間に滞在中、島津忠国のもとに何度も討伐の催促が来ました。
そのため、島津忠国は渋々刺客を送り、永徳寺に居た義昭を包囲。
逃れられない事を悟った義昭は自害し、首が将軍へと送られました。
この時、櫛間の領主だった野辺氏も責任を問われ、没落しています。
1458年、島津久逸が櫛間の領主となります。
島津忠国が隠居に追い込まれた年、伊作家の島津久逸が城主となりました。
同じ年に新納忠続が飫肥の領主となり、両者は激しく争いました。
島津久逸は新納忠続の弟・新納是久とともに、新納忠続と対抗しますが・・・
新納忠続は宗家の島津忠昌に、島津久逸を伊作へ戻すよう訴えました。
すると、島津久逸は伊東祐国や大友氏と組んで、新納忠続を攻めました。
島津久逸は一時、島津忠昌の居城・清水城を包囲しましたが・・・
豊州家の島津忠廉が宗家方となり撃退されると、その後は劣勢となりました。
島津久逸は1485年に降伏し、本貫地である伊作に戻りました。
その後は飫肥と櫛間の領主となった、島津豊州家の城となります。
1587年、秋月氏の城となりました。
豊臣秀吉が全国から集めた大軍で押し寄せ、島津氏が討伐されました。
この時に、島津氏に味方した筑後の秋月氏が大減封され、日向に移されました。
秋月種実は「10石でもいいから秋月に残りたい」と嘆願したそうですが・・・
この願いは許されず、失意のため子の秋月種長に家督を譲り隠居しました。
秋月氏は財部(後の高鍋)と、飛び地で櫛間を与えられていました。
櫛間城は秋月種実の隠居城となり、当主の秋月種長は高鍋城に入りました。
秋月種実の没後、秋月種長が一時居城としましたが・・・
後に高鍋城を改修して移り、1614年の一国一城令により廃城となりました。
所在地:宮崎県串間市西方
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