2013/06/15
市瀬城/福岡県北九州市八幡西区
都市高速・黒崎IC近くにあった市瀬城(いちのせじょう)を紹介します。訪問日は2013年6月8日です。

▲空堀
市瀬城は都市高速・黒崎ICの南東にありました。
割子川が流れる谷間入口の北側の丘です。
地図で見て「たぶんココから登るんだろな」という所から山に入ると・・・!
すぐに写真の空堀がありました。

▲主郭にある小さな祠
城域は凄まじい竹林で道はありませんが、
何となく城の構造がわかる感じです。
倒れた竹を掻き分け踏み越えて、
ただただ高い方を目指すと主郭に辿り着きました。
せいぜい10m四方の小さな主郭ですが、
小さな祠がそこに物語があることを感じさせます。

▲主郭から見た帯郭
祠の辺りから3、4mの段差があり、その下には細長い平場が。
どうやら主郭の周りを帯郭が囲んでいるようです。

▲主郭西側の虎口
どこもかしこも竹しか見えない城跡ですが・・・
主郭でキョロキョロしていると、
登って来たのとは反対側に少し窪みがありました。
どうやら虎口のようです。
凄まじい竹林ですが、だからこそ遺構が良い状態で残っているように感じました。
そんな感慨にふけってみましたが、、、
帰りは方向を見失って迷子になりましたw
◆歴史◆
築城年は不明ですが、室町時代はじめ頃には築かれていたようです。
当時は建武の新政が崩壊し、幕府と朝廷が各地で争っていました。
そのため、後醍醐天皇は各地に皇子を派遣し、
南朝勢力の拡大を図っていました。
九州には制西将軍宮として懐良親王が派遣されました。
懐良親王は肥後・隈府城を拠点とし、一時は大宰府を掌握する程でした。
香月則道には当時跡継ぎがおらず、
懐良親王の付人・勅使河原小三郎の子を養子に迎えました。
これが香月五三郎則村です。
香月則村は市瀬城を居城としました。
しかしその後、香月則道に実子が誕生しました。
彼の名は香月則次で、香月氏代々の居城である畑城に拠りました。
そして、大方の予想通り家督争いが起こりました。
戦いは香月則村が勝利し、香月則次は大内氏を頼って山口へ逃れました。
香月則村はその後、近在の大勢力・麻生氏から室を迎え、
子孫は市瀬麻生氏を名乗ったそうです。
・・・市瀬麻生氏の事は何もわかりませんでした

一方、山口に逃れた香月則次は、以後大内氏の家臣となりました。
そして、5代子孫の香月興則の時代に大内氏によって畑城に復帰したそうです。
年代は付近の寺社の記録から1470年代かと思われます。
・・・ということは、
麻生氏の家督争いである花尾城の戦いが直接影響してそうです。
花尾城の戦いは、1478年に麻生氏の家督争いが生じ、
大内氏が介入した戦いです。
その花尾城は、市瀬城から直線距離で2km程なのです。
この戦いの後、敗れた麻生家延が市瀬城のすぐ南に竹尾城を築き、
一時居城としました。
そのため、この頃までに市瀬城は廃城になっていたものと思われます。
所在地:福岡県北九州市八幡西区市瀬3丁目
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