2018/02/01
松尾城/宮崎県都城市
松尾城は山之口あじさい公園となっており、天守風の展望台があります。訪問日は2018年1月1日です。

県道47号から見た遠景です。
もうすぐ着くな~なんて思っていたら、こんなシルエットが見えました。
普段土の城ばかり巡っていると、やっぱりこの形に興奮してしまいます♪
何枚か撮りましたが、これが一番気に入っています。

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パッと見でお城らしい地形ですが・・・
模擬天守こそありますが、あくまで紫陽花がメインの公園となっています。
そのため、城の縄張り図は無く、公園の案内図から妄想を膨らませます。
・・・とは言え、図が平面的なので、ちょっと無理ですw
中心のちょっと左上に「展望台」と書かれているのが模擬天守です。

とりあえず一番奥にある第二駐車場に停めましたが・・・
その脇から上がる道は立入禁止になっていました。

駐車場から模擬天守を見上げながら、立入禁止の反対方向へ進みました。
こっちからも「展望台」に行けます。
こうやって見上げると、やっぱり城塁ですね!
ただ、公園化のためかなり削られ整えられた印象はあります。

北側から園路を登り、模擬天守手前から撮りました。
やっぱり展望台のある所が主郭でしょうか。
整備された公園の道ではありますが、回り込んで入る感じになっています。
ここが往時の通りの造りなら、寄せ手は上からの攻撃に晒されます。

模擬天守の下から見た、南側の平地です。
手前で一度くびれて、その奥にかなり広い曲輪があります。
このくびれ、やっぱり堀切の跡でしょうか?

奥の曲輪から、城塁越しに撮った模擬天守です。
ガケっ縁に建ってる感じが、やっぱりカッコイイですね

◆歴史◆
建武年間(1334~38年の間)に肝属兼重により築かれたと伝わります。
肝付兼重は肝付氏8代目当主で、南朝方として活動しました。
1339年、畠山直顕に降伏しています。
延文年間(1356~60年の間)、畠山義顕が在城しました。
畠山義顕は畠山直顕の初名です。
あちこちで「畠山直顕」の名で書いたので、以後こっちの名前で書きます。
畠山直顕は南朝勢力討伐のため、足利尊氏により日向に派遣されました。
日向に入った畠山直顕は、在地の伊東氏や土持氏らを取り込みました。
手始めに確保したのは三俣院(松尾城周辺)で、肝付氏と戦いました。
畠山直顕は日向だけでなく大隅にも進出したため、島津氏と対立しました。
1358年頃、島津氏の城となりました。
観応の擾乱が始まると、畠山直顕は足利直義方として活動しました。
島津貞久は南朝方に囲まれた上、畠山氏との戦いも劣勢でした。
そのため一時南朝方に降ることで、畠山直顕と対抗しました。
畠山直顕は志布志の楡井頼仲を滅ぼすなど、一時は他勢力を圧倒しました。
しかし、その結果として南朝方の大将・菊池武光の遠征を受け大敗。
更に島津貞久が畳み掛けるように攻め、畠山直顕は豊後へ落ち延びました。
島津家臣・樺山安芸守が城主になったとされます。
1495年、伊東尹祐の城となりました。
島津忠昌が肝付兼氏を攻めると、新納氏や北郷氏が肝付氏に味方しました。
更には伊東尹祐も肝付氏に味方したため、島津忠昌は和睦を選びました。
この時に三俣の1000町が伊東尹祐に割譲されました。
北郷氏の城となりました。
伊東尹祐は北郷氏を攻め続け、一時は滅亡寸前まで追い詰めました。
しかし、1522年に伊東尹祐が急死すると、家督争いが始まります。
北郷忠相は勢力を盛り返し、本田氏や新納氏を攻めて勢力を拡大。
さらに島津豊州家、北原氏と密約を結び、伊東氏から領地を奪い返します。
1532年に不動寺馬場の戦で伊東軍は大敗し、三俣院から撤退。
北郷忠相は奪われた領地を取り戻すと、三俣院高城に本拠を移しました。
その後が?です

1595年、都城は伊集院忠棟の領地となり、北郷氏は祁答院へ移されました。
1599年、伊集院忠棟が斬殺され、伊集院忠真が庄内の乱を起こします。
伊集院氏方の「庄内十二外城」に、松尾城は含まれていません。
所在地:宮崎県都城市山之口町花木(山之口あじさい公園)
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