2018/01/14
都之城/宮崎県都城市
都之城は島津一族の北郷氏が本拠とした所です。訪問日は2018年1月1日です。

実はココには2007年8月24日にも来たことがあったのですが・・・
当時は天守にしか興味が無く、大手門を見ていませんでした

というか、他は全く見ていなかったので、せっかくだからと立ち寄りました。
大手門が本当にココにあったのかどうかは?な立地ですが、風格は


大手門の前は駐車場になっていて、その片隅にコレがあります。

一応、絵が気になる方のために載せておきます。

大手門をくぐって城塁沿いに西へ進むと、ココに着きます。
城山公園入口と書かれているココは、本丸と西城の間の堀でもあります。

ほら




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この堀の終端の本丸側に、屋根付きの説明板があります。
これはこの付近がかつて虎口だったという説明板です。
その説明文によると、直線的な虎口だったと書かれています。

読まずに撮ったので、カギ型だと思っていました


虎口を登ると、すぐにコレが現れます。
唯一無二のデザインがカッコイイ、破風のお化けです


本丸の様子です。
ぺったんこの平場に破風のお化けが居るだけです。
嫌いじゃないのですが、温泉旅館に見えますw

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模擬天守の左脇に写っている説明板です。
文章はかな~りザックリですが、いい図載せてます

10年前の私もこれはちゃんと撮っていたので、これを印刷して持って来ればよかった・・・
というのも、遺構がどこにあるのかはっきりわかるからです。

さて、模擬天守の前の道を西へ進むと、堀を渡る橋があります。
ちゃんと木造っぽい感じに造られています

この向こう側が西城です。

西城跡には狭野神社があります。
訪ねたのが元日ということで、人がいっぱいいるんじゃないかとドキドキしていました。
そうでもなくて、ひと安心です。
というのも、有名どころの神社になると、初詣渋滞に巻き込まれるからです。
今回走っていて実際にそういう所もありましたけど。

本丸と西城を見たので、後は消滅したといわれる曲輪の痕跡探しに歩き回りました。
まずは、本丸と西城の間の堀の先にある踏切を渡ります。
縄張図ではこの立ち位置なら、右に外城、左に中之城が見えたはずです。
両曲輪とその間の堀すら見当たらず、ぺったんこな風景が広がっています。
だからこそ、見つけるんです(`・ω・´)

まずは踏切の先の道を西へ曲がり、左へ入れる所は左へ入る感じで進みました。
平たく言うと、反時計回りに道をなぞって進みました。
場所的には外城の外周を回って、中之城と南之城へ行くイメージです。
途中あった竹藪が堀のように見えましたが・・・
あまりに密生し過ぎていて、写真では竹しか見えませんでした。
ので、載せませんw
その先はかなり広いソーラー発電所になっていて、その突き当りから北側を見た所です。
位置的には中之城と南之城の間から、中之城を見ている所です。
かなり削られたものの残された部分が、削り跡とともに痛々しく見えます。

元来た道を戻り、今度は踏切から東側へ進みました。
この道自体が堀跡であることが、なんとなく見て取れます


道を進むと、南側が突然崖っぽくなりました。
どうやら中之城の北東の城塁のようです。
市街地化で消えた城跡は、「ここが〇〇だったんだ!」と妄想しながら歩くと楽しいです

心残りと言えば、持ち歩いていたのが模擬天守前の図ではなかったこと。
この図では、西の端にある中尾城の周りがスゴイ事になっていました。
今度都城に行くことがあれば是非見たいのですが・・・!
続日本100名城のスタンプ狩りで通るかもしれないので、その時また見て来ようと思います。
◆歴史◆
1375年、北郷義久により築かれました。
北郷氏自体は1351年に薩摩迫(都城市山田町)に都城に入っていました。
しかし、北朝方が足利尊氏方と足利直義方に分裂すると、島津貞久は南朝方に一時降りました。
これは南朝方と畠山直顕(足利直義方)同時に戦わなければならなくなったからです。
しかし、この事が足利尊氏の怒りに触れ、都城を没収されてしまいます。
島津貞久は1358年に畠山直顕を駆逐すると、北朝方に復帰しました。
すると間もなく、都城の領地は島津家に返され、北郷氏が元通り入りました。
北郷氏2代目の北郷義久は都島に城を築き、本拠としました。
「都島の城」ということで都之城と呼ばれるようになり、地名にもなりました。
1453年、北郷氏が一時領地を失いました。
室町幕府第6代将軍は、前代未聞のくじ引きで決められました。
この時くじで負けた義昭は、都を出ると吉野へ行き反幕府的な活動を始めました。
これに危機感を抱いた将軍・足利義教は、義昭の討伐令を出しました。
義昭は各地を転々としながら西へ移動し、一時期都城にも滞在したことがありました。
1441年に義昭は櫛間に居る所を、島津忠国の刺客に追い詰められ自害しましたが・・・
次の次の8代将軍・足利義政は北郷氏が義昭を匿っていた事を問題視。
島津忠国は北郷持久の領地を没収し、和田氏の元に預かりの身としました。
1476年、北郷敏久が都城に復帰しました。
島津忠昌により北郷氏が許され、都城が返還されました。
以後、周辺勢力と争いが続きますが、北郷氏は都城だけは最後まで守り切りました。
1595年、伊集院忠棟の城となりました。
豊臣秀吉の討伐を受けた後、島津領で太閤検地が実施されました。
この結果に基づき大規模な島津家臣団の配置転換が行われました。
これにより、島津義久の筆頭家老・伊集院忠棟が都城の主となりました。
1599年、庄内の乱の中心となりました。
島津忠恒が伊集院忠棟を斬殺しました。
これは家中の怨嗟の声に加え、朝鮮での兵糧不足が伊集院忠棟のせいだと思われたためでした。
そのため、伊集院忠棟の子・忠真は都城で反島津の兵を挙げました。
安永城には伊集院五兵衛や白石永仙らが籠城し、庄内十二外城の1つに数えられました。
乱の鎮圧には1年の歳月を要し、徳川家康の仲介によりようやく和睦しました。
乱後、戦功抜群だったとして、都城が北郷氏に返還されました。
1615年、一国一城令により廃城となりました。
都之城は廃城となり、北郷忠能は領主館へ移りました。
これを機に「新地移り」と呼ばれる町づくりを行いました。
現在の都城市の基盤はこの時に作られました。
所在地:宮崎県都城市都島町(都城歴史資料館)
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