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安永城/宮崎県都城市

安永城は北郷氏の本拠地だったこともあり、庄内の乱でも伊集院十二外城の1つでした。
訪問日は2018年1月1日です。

【写1】安永城

城跡の南側には、南洲神社があります。
ナビにも出てきたので、とりあえずここを目指しました。
参道の両脇に白い幟が並びんでいる様は壮観です合格

【写2】安永城

真っすぐな石段を登ると、すぐに南洲神社の社殿があります。
お城に関係あるのかと思って縁起を読みましたが、創建は昭和2年(1927年)でした。
これは西南戦争から50年経ってから、西郷南洲翁と庄内郷戦没者を祀ったものだそうです。
そのうち、西郷どんの終わりに紹介されたりする可能性大です音譜

【写3】安永城

神社のある帯曲輪は、社殿の奥にもずっと続いています。

【写4】安永城

神社の右側(東側)にも続いていて、こちらは公園っぽくなっています。

【写5】安永城

さらに登り切ると、真っ平らに馴らされた公園になっています。
全面芝生ですがグラウンドという訳でもなく、お花見が出来る広場のような感じです。

【写6】安永城

公園の西の隅っこには、アスファルトで舗装された立派な駐車場がありました。
・・・聞いてねぇーよwww
そんな事を知らなかった私は・・・w
ここに車を停めれば、だいぶ時間が節約できましたあせる

【写7】安永城
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上の写真で奥に写っている白い物がコレです。

【写8】安永城
拡大表示

そして、縄張り図です。
こうして見ると、入口が分かりづらいように工夫されています。
私も地図見て来たのに、わかりませんでしたあせる

【写9】安永城

そして、これが現在の本丸(内城)の大手門(入口)です。
門に掲げられているプレートには「庄内児童公園」と書かれていました。
せめて・・・爆弾

【写10】安永城

本丸の正面にある曲輪です。
名前、何て言うんでしょう?

【写11】安永城

この感じは、ちゃんと残っていた堀のようですラブラブ

【写12】安永城

そして、本丸の虎口です。
虎口というにはかな~り長いですが、やっぱり虎口としか言いようがありません。

【写13】安永城

虎口の入口がココです。
両脇を高い城塁に挟まれ、とても守りが堅そうです音譜

【写14】安永城

今度は二の丸見るゾー!で出てきたのですが・・・
真正面には牛さん、馬さんが沢山居ましたw

【写15】安永城

そして、ちょっと視線を右にズラすと、派手に山肌を削っている光景が。
ショベルカーが置かれたままになっていて、今でもガツガツ削っているようです。
いやぁ~~~叫び

【写16】安永城

それでも道はあり、上がれるようになっています。

【写17】安永城

そしてドキドキしながら登り切ると、二の丸の番人が無言でこちらを見つめていました。

【写18】安永城

野良ではなさそうですw


◆歴史◆

1468年、北郷氏により築かれました。

まずは長~い前置きからw
北郷氏は都城の庄内を本拠にした島津一族です。
北郷持久はその5代目で、室町時代中期の人物です。
室町幕府の5代将軍・足利義量が19歳で病没。
その父で4代将軍・足利義持には、他に男子がありませんでした。
足利義量の没後は足利義持が将軍代行を務めましたが、後継者の指名を拒否。
そして、そのまま死んでしまったため、6代目の将軍はくじ引きで決められることになりました。
その結果、足利義教が当たりくじを引きました。
この時にハズレくじを引いた義昭(ぎしょう)は出奔し、各地を転々としました。
義昭は四国を経て日向にもやって来て、北郷持久の元にもしばらく居ました。
足利義教は義昭を討伐するよう各地に命令を出していましたが・・・
北郷持久は義昭の滞在を黙認し、庇い続けたのでした。
1441年、義昭が櫛間に滞在中に将軍から島津忠国に早く討てと催促が来ました。
島津忠国もさすがにこれは無視出来ず、家臣5人を櫛間に派遣して義昭を自害に追い込みました。
足利義教の代には特に問題にされませんでしたが・・・
次の次の8代将軍・足利義政が北郷持久が義昭を庇った事を問題にして、追討令を出しました。
1453年に島津忠国は北郷持久の領地を没収し、正室に実家である和田氏の元に預けました。

月日が経ち1465年に北郷持久が許されると、庄内を返還されました。
Wikipediaでは北郷持久、その子の北郷敏久のどちらにも安永城を築いたと書かれています。
まぁ、親子なので「その頃」でいいのかもしれませんがw
この時はまだ都城は返還されませんでしたが、北郷敏久の代になり返還されています。

1476年、北郷氏が都城を回復し移りました。

島津忠昌の命令により、没収されていた都城が北郷氏に返還されました。
没収自体が宗家に逆らった訳でもなかったので、当然と言えば当然ですが。
ただ、なぜなんだろう?と気になり、当時の状況を調べました。
すると、櫛間の島津久逸が1473年に島津忠昌に叛乱を起こしていました。
北郷氏は宗家に従っていたので、宗家は味方の分家を強くする必要があったんですね!
本拠は移りましたが、その後も北郷氏は当主の隠居城として使い続けています。

1595年、伊集院忠棟の城となりました。

太閤検地が実施されると北郷氏は祁答院へ移され、伊集院忠棟が都城の領主となりました。
伊集院忠棟は島津家の筆頭家老でしたが、九州征伐後かなり豊臣秀吉寄りの姿勢を見せました。
この時に島津家中では各地で移封がありましたが、伊集院忠棟の領地が急増しました。
そのため、伊集院忠棟に対する風当たりが日増しに強くなって行きました。

1599年、伊集院忠真が庄内の乱を起こしました。

島津忠恒が伊集院忠棟を斬殺しました。
これは家中の怨嗟の声に加え、朝鮮での兵糧不足が伊集院忠棟のせいだと思われたためでした。
そのため、伊集院忠棟の子・忠真は都城で反島津の兵を挙げました。
安永城には伊集院五兵衛や白石永仙らが籠城し、庄内十二外城の1つに数えられました。
乱の鎮圧には1年の歳月を要し、徳川家康の仲介によりようやく和睦しました。
乱後、戦功抜群だったとして、都城が北郷氏に返還されました。

1615年、一国一城令により廃城となりました。

廃城後は麓に地頭仮屋が置かれ、北郷氏のち都城島津氏が都城を治めました。


所在地:宮崎県都城市庄内町 GPSログダウンロードページ

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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