2018/01/12
徳満城/宮崎県えびの市
徳満城は、城塁が原型を留めている真幸院の最前線にあったお城です。訪問日は2017年12月30日です。

徳満城は県道102号沿いにあります。
その北東の角に、城址碑と案内図の付いた説明板があります


案内図を拡大表示
文章も沢山あって、図もとてもわかりやすいです


城址碑と案内図から県道を西へ進むと、すぐにここに来ます。
とても広い場所なので、安心して車を停められます


案内図を見て、図の左端にある小城から順に中心部へ進んでみようと思いました。
そう思って東側の道を南へ進んでみましたが・・・
小城へ入る道が見つかりませんでした。
そして、ようやく城跡の山に入って行く道を見つけました!

その道を進むと、急傾斜地崩壊対策のコンクリートの壁があります。
こいつの名前がよくわからないのですが、擁壁で合ってますか?
どうでもいいですけどw

という事で、私が城内に進入したのは、図の上の方からでした。
ここまでに2本の道があったようですが・・・
わからずにスルーしてしまっています

なので、ちゃんと道のある城跡でわざわざヤブ搔きをしました。

コンクリート壁の脇に、何となく上がって行けそうな所がありました。
もはや道を探そうなんて、面倒くさいことをする気はサラサラありません。
道の無い城跡の方が多いですからw

登り切ったのが①の所で、いきなりですが本丸です

知らずに入っていきなりというのが、お城としてどうなのか?という所ですが・・・
私の嗅覚の方が勝った、という事にしておきます( ・´ー・`)

本丸のある中之城の北側は、真ん中に1メートル程の段差があります。
図の②の所です。
小城に居ると勘違いしていたので、「まるで中之城みたいだ」なんて思ってましたけどw

この段差では、ほんのちょっとですが石積みが見られます


小城は北側の端に土塁が沢山描かれているので、北側を目指しました。
しかし、土塁らしきものは見当たらず、反時計回りに外周を歩きました。
そして、③の所で縁にある低い土塁を見つけました。
ここまで来てもまだ、自分が中之城に居るとわかりませんでした


土塁の外側には、自然地形の谷にしか見えない④の堀があります。

自然地形の谷にしか見えませんでしたが、底を歩くと薬研堀にしか見えません(`・ω・´)

堀底を南へ向かって進むと、そのまま人里に出そうな感じでした。
その右手前に⑤の櫓台っぽい高まりがありました。

人里に出たくなかったのでUターンし、西側の曲輪に上がれる場所を探しました。
すると、⑥の所に地面が掘り込まれた虎口を見つけましたヾ(*´∀`*)ノ

見つけた時は右に上がるように見えましたが、左にも上がれるようになっていました。
ということで、T字型の虎口です。
これを見つけて、ようやく自分がいる場所が一番西側の曲輪だと把握出来ました。

この曲輪は歩きやすかったので、一周歩いて形をトレースしました。
ここもあまり土塁が無かったのですが、⑦の所で土塁?という程度の土盛りを見つけました。
図ではハッキリと描かれているんですけどね・・・

T字虎口を出て堀を北へ進むと出口に出ます。
⑧の出口の所は、ちょっと土が盛られた感じになっています。
外から中が見えにくい感じがした、かもしれません

車を停めた所から、だいぶ西の方に出ました。
県道からは、この堀底道がよく見えました。
ここから城内に入るのがベストだと思います。
◆歴史◆
1395年、北原範兼と相良祐頼が刺し違えました。
宴会の最中に2人が喧嘩となり、そのまま刺し違えるという事件が起こりました。
両家は同盟関係にあったそうですが、その後は険悪な関係となりました。
そのため、北原範兼の子・久兼は島津元久と同盟を結び、真幸院より相良氏を駆逐しました。
このほか、北原氏は吉松・栗野・野尻にはで勢力を拡大しました。
1430年、島津総州家がこの地で滅びました。
島津総州家は長年奥州家と争いましたが、最後の当主・島津久林がこの地で自害しました。
発端は総州家の島津伊久・守久の親子喧嘩を、奥州家の島津元久が仲裁した事でした。
当時、総州家が薩摩守護、奥州家が大隅守護に分かれていましたが・・・
島津伊久は子の守久に薩摩守護職を渡さず、島津元久に譲りました。
・・・長くなりそうなのではしょります

島津久林は祖父の島津守久に連れらて肥前に落ち延びましたが・・・
こっそり戻り、真幸院の徳満城に潜伏していました。
しかし、当時の奥州家当主・島津忠国にバレて急襲され、島津久林は自害しました。
1564年、加久藤城の支城となりました。
1558年、北原兼守が急死すると、北原家中で家督争いが始まりました。
北原兼守の正室の父・伊東義祐が介入すると、1562年に北原家を掌握し乗っ取りました。
すると、反伊東派の北原家臣が島津貴久を頼り、年内に北原兼親を当主として北原家を復興。
しかし、その北原兼親に器量が無く、出奔する家臣が相次ぎました。
そのため、島津貴久は北原兼親を伊集院へ移し、1564年に島津義弘を飯野城に入れました。
それまでは徳満城がメインのお城でしたが、この時から加久藤城の支城となりました。
1615年、一国一城令により廃城となりました。
所在地:宮崎県えびの市東川北 GPSログダウンロードページ
宮崎県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント