2018/01/11
加久藤城/宮崎県えびの市
加久藤城は、伊東崩れの原因となった木崎原の戦に登場するお城です。前身は久藤城で、後に加久藤城と呼ばれ、覚頭城とも表記されます。
訪問日は2017年12月30日です。

ここも飯野城と同じく、割と遠くから案内があります。
この案内は国道221号から城跡への道に入る所にあります。
城キチならずとも、つい曲がりたくなりますよね?

途中には、こんな感じで手作りの案内もあります。
地元の方々に愛されているんですね


途中、軽(レンタカー)でも一度で曲がり切れなかったカーブです。
帰って来るまで気づきませんでしたが、既に大手門を通過していました

ということで、ここも防御のためこんな造りになっているようです。

そうして遠目に標柱と説明板が見え、もうすぐ着く

図では近くに「虎口」なんて書かれていますが・・・わかりませんでした


標柱の所から左を見ると、曲輪があるように見えました。
図では曲輪とは書かれていませんが、搦手口に通じる通路のようです。

図を拡大表示
ということで、真正面に見えた白い説明板です。
説明もしっかりしていて、図もバッチリです


そして、説明板の前の坂を上がった所がココです。
道は鳥居の所で終わり、Uターン出来る程の広さがあります。
鳥居には「加久藤城竈門神社」と書かれています。
ストレートにお城の名前が入っているのは、もしかしたら初めて見たかもしれません。

神社のある平場が本丸で、結構広いです。
西側には低い土塁がありますが、土塁の無い所が殆どでした。

図では道の右側が二の丸と描かれています。。
現状はその境目がわからなかったので、崩されて平らにされているのかもしれません。
土塁も描かれているので見たかったのですが・・・

天然バリケードが張り巡らされ、物理的に進入不可でした

ということで、本丸以外は見れていません。
事前に図を印刷して持参出来ていれば、もうちょっと周りを見られたかもしれませんでした。
◆歴史◆
応永年間(1394~1428年の間)に、北原氏により築かれました。
北原氏が徳満城の支城として「久藤城」を築きました。
これが加久藤城の前身となります。
この年代にあった出来事は、北原氏・相良氏両家の当主が徳満城で刺し違えています。
・・・サラッと書きましたが、かなりの大事件ですw
地図で見ると、相良氏の勢力圏である人吉がすぐ北にありました。
その入口に徳満城があるので、北からの侵攻に備えたという事のようです。
これが1396年の出来事で、北原氏はこの事件を機に島津家に近づくこととなります。
1564年、島津義弘がココに移って来ました。
1558年から1562年にかけて、北原氏の家督を巡るゴタゴタがありました。
はじめは伊東義祐が北原氏を乗っ取りました。
しかし、同年内に北原氏旧臣が中心となって北原兼親を当主とし、北原家を再興しました。
ところが、北原兼親は人の上に立つ資質があまり無かったようで・・・
出奔する家臣が相次いだため、島津貴久は北原兼親を薩摩国の伊集院へ移しました。
その後の真幸院は島津義弘が領主となりますが、前段階で久藤城に入りました。
島津義弘は中城と新城を加えて改修し、「加久藤城」と改名しました。
北原兼親が退去すると島津義弘が飯野城に移り、加久藤城には妻子を住まわせました。
1572年、伊東軍に攻められました。
伊東義祐は飯野城の島津義弘を攻めました。
この前年に島津貴久が没しており、伊東義祐は肝付兼亮とともに島津領へ侵攻しました。
この時の兵力は、伊東軍3000人に対し、飯野城が300人、加久藤城が50人でした。
島津義弘は策略で加久藤城の最も守りの堅い鑰掛口を攻めさせて、伊東軍を撃退。
この時に伊東杢右衛門や米良重方など、伊東軍の名だたる武将を討ち取っています。
島津義弘は大河平に大量の幟を立てたため、警戒した相良軍は手を出しませんでした。
撤退した伊東軍が川内川の支流・池島川で休息している所を島津軍が奇襲。
さらに、伊東軍が高原城へ退却する所も襲撃して、釣り野伏により島津軍が大勝しました。
一連の戦いを「木崎原の戦」と呼び、「九州の桶狭間」として語り継がれています。
この時に加久藤城を守っていたのは川上忠智でした。
川上忠智の子は、1584年にあった沖田畷の戦で龍造寺隆信を討ち取っています。
1615年、一国一城令により廃城となりました。
所在地:宮崎県えびの市加久藤
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