2018/01/08
酒谷城/宮崎県日南市
酒谷城は飫肥城の西を抑える要衝で、伊東四十八城の1つでもありました。訪問日は2018年1月1日です。

酒谷城はよく紹介されているお城なので、登城口は迷いませんでした。
城の東端の曲輪が酒谷神社になっており、麓から一直線に参道の石段が伸びています。
車はそのすぐ脇の道幅が広い所に停めさせてもらいました。

やっぱり神社の参道って、全国的にこうですよねw
山梨の新府城(書き掛け

きっとこれにも何らかの謂われがあるんでしょうけど。
城本来の道でなくても、道に迷わずに済むという点で何となく受け入れています。

登ってみると、そこには神社が2つ並んでありました。
とりあえず、二礼二拍一礼で挨拶しておきました。
酒谷城は、南九州でよく見られるシラス台地を大規模な堀で区切った典型的な縄張りでした。
どの曲輪も並列的で、どこが主郭だったのか不明なのだそうです。
何となくですが、造りは志布志城と似ているような気がしました。
私の城キチ的経験からすると、神社がある所じゃないか?なんて思いますが・・・
そんな気がしただけですw

神社のある曲輪から城の中心部を見ると、結構な下り坂となっていました。
目の前には隣の曲輪がありますが、数十メートル離れています。

神社から下って来た隣の曲輪です。
木々が根こそぎ伐採されていて、何だか城内の様子がおかしいです。
昨年訪ねた方のサイト様では、まだ木が鬱蒼と茂っていました。
ただ、藪という感じではなく杉林なので、下草は少なく見やすそうでしたが・・・
何が起きているのでしょうか?
まだ書いていませんが、えびの市の飯野城跡でも大規模に木が伐採されていました。
キャタピラの跡が生々しく残っていて、とても痛ましい気持ちになりました。
この素晴らしい城跡が破壊される事が無いことを願うばかりです。

確かに木は無造作に伐採されていますが、城塁は削られていません。
これはこれで見やすいですが、ちょっと殺風景ですよね?

とはいえ、1つ1つの曲輪と曲輪の間は、かなり大規模な空堀で隔てられています。
木が無い状態なので、とてもよく見えます。

上がりやすそうな所があったので、上がって見ました。
神社の隣にある南側の曲輪です。
ここは1つの登り口から、左右2つの曲輪へ入れるようになっています。

上がって見た曲輪内部の様子です。
木が途中まで伐採されています。
その先はヤブになっているので、伐採前だと曲輪内部は見られなかったかもしれません。

南と北に並ぶ曲輪の間を、東から西へ真っすぐな堀底を進みました。
その突き当りの山のような所も2つの曲輪です。
登り口がよくわからないのですが、2つの曲輪を隔てる堀の断面が下からも見えます。
この日は飛行機に乗って帰る日で、すでに日も傾きかけの時間でした。
本当は1つ1つの曲輪を見てみたかったのですが、ここは泣く泣く通り過ぎました。
ここからはこの曲輪の南側の道を通って、城の南西側に下りました。
そこから山中に伸びる道があり、その先に酒谷城の一番西側の曲輪があります。
そこも時間の都合という事でパスしました。
◆歴史◆
文明年間(1469~87年の間)、島津氏により築かれました。
この頃に島津氏により築かれたとすると、飫肥城を巡る攻防の際と思われます。
これは私の勝手な推測ですが

この頃の島津家当主は島津忠昌でした。
当時の飫肥周辺の状況は、飫肥城の新納忠続が櫛間城の島津久逸と対立していました。
両名はともに、日向の伊東軍が南下するのを防ぐ役目だったのですが・・・w
新納忠続は島津忠昌に、島津久逸を本貫地の伊作(薩摩南西部)へ戻すよう訴えました。
島津忠昌がこの願い出を受諾した事から、島津久逸が島津本家に叛旗を翻しました。
島津久逸はあろう事か宿敵・伊東祐国と手を組み、飫肥城を攻撃しました。
島津忠昌は島津忠廉(豊州家)に援軍に向かうよう命じますが、島津忠廉も叛旗を翻しました。
翌年になると島津忠廉は相良長毎の仲介により和睦。
帖佐の島津忠廉が大人しくなり、ようやく薩摩から飫肥への道が開かれました。
島津忠昌は当時病身でしたが、侍医を連れて飫肥城救援のため出陣しました。
飫肥に駆け付けた島津忠昌は飫肥城近くで伊東軍を破り、伊東祐国を討ち取りました。
その後、島津久逸も降伏し、飫肥での騒乱はひと段落しました。
この時に島津軍が飫肥城を包囲する伊東・伊作家連合軍を攻撃する拠点にしたと思います。
しかし、伊東祐国を討ち取った事が仇となり、伊東氏は度々飫肥を攻めるようになりました。
1562年、伊東義祐が一時的に飫肥を占領しました。
当時の飫肥は島津忠親(豊州家)が城主で、以前から伊東軍の侵攻に悩まされ続けていました。
そのため、1560年に島津貴久の次男・島津義弘を養子に迎え、飫肥城を守っていました。
しかし、伊東義祐と組んだ肝付兼続が島津家を脅かしたため、島津義弘は本家に帰りました。
この機を捉えて伊東軍が飫肥城を攻め、島津忠親はついに飫肥城を明け渡しました。
島津軍が撤退した後、酒谷城は落合加賀守と平賀刑部少輔が守将として入城しました。
しかしその半年後、島津忠親が飫肥城に夜襲を掛けて奪回しました。
すると、酒谷城は孤立してしまい、落合加賀守は討死、平賀刑部少輔は落ち延びました。
酒谷城は島津家臣の柏原常陸守が城主となりました。
1568年、再び伊東氏の城となりました。
伊東義祐は、2万の大軍を率いて飫肥城を包囲しました。
島津貴久も北郷時久を援軍として送りました。
島津方の兵力は合わせて1万3千でした。
この戦いで酒谷城主・柏原常陸守は飫肥城へと出陣しましたが・・・
途中で伊東軍に包囲されて大敗し、その中で戦死してしまいました。
北郷時久が酒谷城に入りましたが、伊東軍に包囲され飫肥城へ向かう事が出来なくなりました。
飫肥城は長らく伊東軍に包囲され、兵糧が底をついていました。
しかも、城主・島津忠親が病身であったため、島津貴久は和睦を選びました。
島津家は北郷忠顕、伊東家は米良重方が代表として戦後の処理を交渉。
その結果、島津家は飫肥を割譲することとなりました。
酒谷城は伊東家臣・長倉淡路守が城主となりました。
1577年、島津氏の城となりました。
島津忠長が櫛間城を攻め落とし、飫肥城を包囲しました。
さらに野尻城の福永祐友が寝返ると、紙屋城、内山城と連鎖的に島津軍に寝返りました。
そのため、伊東家の本拠地である佐土原の目前まで島津軍が迫る状況となりました。
すると、伊東義祐は一族を伴って、豊後の大友宗麟の元に落ち延びました。
これにより伊東氏は一時滅亡し、島津義久は日向を手中に収めました。
1587年、再び伊東氏の城となりました。
島津義久はその後も肥後や豊後を攻め、勢力を北へ拡大し続けました。
豊後の大友宗麟も滅亡寸前まで追い詰められ、豊臣秀吉に助けを求めました。
豊臣秀吉は島津家討伐のため出陣し、島津義久は降伏しました。
この時、伊東義祐のあとを継いだ伊東祐兵は、日向の清武・曽井2万8千石を与えられました。
翌年には飫肥も与えられ、酒谷城には川崎権助、のちに山田匡徳が城主となりました。
川崎権助は朝鮮出兵の最中の1593年、異国の地で病死しました。
この死には異説があり、伊東義賢・祐勝兄弟を毒殺したというものです。
伊東義賢・祐勝兄弟は、伊東祐兵の兄・伊東義益の子でした。
伊東祐兵が後々家中の争いの元になると憂い、命じたようです。
伊東義賢・祐勝は勉強家で、明の使者との通訳としてとても活躍していたそうです。
そんな主家筋の若者を毒殺するに当たり、自らもその毒を飲んだようです。
川崎権助が最初に死にましたが、その1ヶ月後、兄弟も同じ病で相次いで没しました。
伊東家はその後改易されること無く明治時代を迎えています。
そのため、酒谷城はおそらく1615年の一国一城令より廃城になったと思われます。
所在地:宮崎県日南市酒谷乙 GPSログダウンロードページ
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