2018/01/07
三ツ山城/宮崎県小林市
三ツ山城は元々は北原氏の本拠でした。伊東義祐が乗っ取ってから伊東四十八城の1つとなりました。
訪問日は2017年12月31日です。

南側からの遠景です。
地形が城の名前の由来という事なので、ポンポンポンを期待したのですが・・・
どれが城のあった山なのか?だったので、右半分しか写っていません


現在、三ツ山城跡は城山団地となっていて、遺構は完全に消滅しています。
大きな鉄筋コンクリートの団地をイメージしていましたが、一軒家が密集しています。

何か無いかとウロウロしていると、真ん中辺りの公園に1本の白い標柱がありました。
もしかしてと近寄ると「小林古墳」と書かれていました。
ちょいガッカリでしたが、その下に(城山)とも書かれていました。
そんな感じなのでとりあえず撮りでしたが、これが唯一、城があった事を示す物だそうです。
◆歴史◆
鎌倉時代に日下部氏により築かれたと考えられます。
1160年、日下部重貞が真幸院司となり、飯野城を築いて居城としました。
日下部氏が真幸院司の時代にその拠点があったと考えられています。
日下部氏は北条得宗家と関係が深かったため、鎌倉幕府滅亡とともに没落しました。
室町時代に北原氏の居城となりました。
真幸院は一時、南朝方の肝付兼重が支配していました。
1336年頃から北朝方の相良氏が日向に侵入し、肝付兼重が劣勢となります。
1339年には北朝方の畠山直顕に敗れ、肝付兼重は本拠の大隅へ撤退しました。
1343年、畠山直顕が真幸院の細川氏領を押領し、地頭代の坂氏を追い出しました。
この真幸院の元・細川氏領が北原兼命に与えられ、真幸院司に任命されました。
北原氏は当初飯野城を居城としましたが、いつ頃からか三ツ山城に移りました。
1558年、馬関田右衛門佐が城主となります。
北原兼守が急死すると、後継者が居なかったため家督争いが始まりました。
伊東義祐の娘が北原兼守の正室だったため、この問題に介入しました。
伊東義祐は娘を再嫁させ、北原一族の馬関田右衛門佐が北原家当主となりました。
1562年、島津貴久が北原家を再興させました。
北原家中の反伊東派が、島津貴久に北原家再興への協力を求めました。
島津貴久はこれに応じ、相良義陽・北郷時久を誘って北原氏領を回復しました。
1563年、再び伊東氏の城となりました。
再興された北原家の北原兼親は、当主としては器量が無かったようです。
家臣と些細な事で仲違いすると島津義弘の兵を退かせ、その城が伊東軍に攻められました。
そんな事もあり、北原兼親を見限って出奔する家臣が相次ぎました。
この機に乗じて伊東義祐は北原氏領に侵攻し、三ツ山城も伊東氏の城となりました。
元北原家臣・平良兼賢が、伊東家臣として城主となりました。
1576年、島津家の城になりました。
島津軍が高原城を攻め落とすと、小林城・須木城の城主・米良矩重が島津軍に寝返りました。
これにより近隣の城が島津軍に攻められ、三ツ山城も島津軍のものとなりました。
島津家臣・川上忠兄が16歳で小林地頭に抜擢され、その持ち城となりました。
その後、1615年の一国一城令により廃城となりました。
所在地:宮崎県小林市細野
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