2018/01/07
奈佐木城/宮崎県小林市
奈佐木城は那佐木城、奈崎城とも表記されることのあるお城です。Wikipediaと説明板では伊東48城ですが、某大聖典では伊東48城に含まれていません。
訪問日は2017年12月31日です。
奈佐木城は、Wikipediaの「伊東四十八城」ではリストアップされています。
私も当初は、ここに掲載されている所を中心に調べていました。
しかし、あれ?と思って数えてみると、49箇所の城がリストアップされていました。
Wikipediaさんてば、1つ多いwww
Wikipediaなのできっとどれかが間違いだと思い、今度は某大聖典を開きました。
見る順番間違ってたかもしれませんけど

某大聖典第16巻206頁に「伊藤氏48城の分布図」として48城載っていました。
・・・誰だって間違いはあるさw
こちらでは、那佐木城も奈佐木城も書かれていませんでした。
まぁでもとりあえず、「・・・かもしれない」ということで訪ねる事としました。
だって、まだ誰も紹介したこと無いんですもの。
こういう所は無駄に燃えます

さすがにだ~れも紹介したこと無いだけあって、場所を特定するのにとても苦労しました。
そして諦めかけた時に、チラっと引っ掛かる一文を見つけました。
それは「平成14年に公園化のため整備した」というものです。
そのために発掘調査も実施したそうで、その調査報告書がネットにアップされていました。
これが手掛かりとなり、訪ねることが出来ました。

登城口は城跡の北側であることが判明し、だいたいの場所も特定出来ました。
それでどんな感じなんだろうとストビューで見て、たまたまこの標柱を見つけました。
これは城跡の北側の道端に立てられています。
何も知らずにこれを見ると、この田んぼが城跡だと勘違いしそうです。
宮崎の城跡では、城址標柱がよくこのような立て方をされています。

城址標柱の背後には、こんな山があります。

わかってる人の正しい見方はこうです。(よそも)
大きな木と城跡の山が重なってしまいます。
立てた位置にセンスを感じませんネw

標柱の所から80メートル程進むと、右に入る道があります。

この角に「奈佐木城址公園→」の案内があります。

先ほどの交差点から230メートル程進むと、今度はこの建物が見えてきます。

この建物の壁面に、小さくこんな案内が出ています。
ここが登城口です。

ナビでは城跡まで道があるように表示されていたのですが・・・
入口にドーンとこんな物が置かれています。
明らかに行く手を阻んでいるのですが、立入禁止ではなさそうです。
車で楽々登城する気でいたのでガッカリでしたが、ここからは徒歩で進みました。

ほらぁ~、あんな物置くから落ち葉積もっちゃってるじゃぁ~ん、なんて思いましたが・・・

なぜ車が通れないようにしてあるのか、すぐにわかりました。
公園化のためアスファルトで舗装されはしたものの、誰も来ないため荒れていました。
舗装道なのですが、大半はヤブ搔きをしながら進むことになります。
真冬でなければ、ちょっと怖くてここ通れませんw

やがて、草に埋もれた白い板が遠目に見えて来ました。

説明版を拡大表示・左の図・右の図
ここはかつては駐車場があった場所で、トイレまであったようです。
今この状況では、どんなにお腹が痛くても、怖くて利用出来ません


案内板のすぐ前には、立派な竣工記念碑までありました。

その脇に、上がって行く階段があります。
ここまで来たら登ります(`・ω・´)

「遊歩道」は予想通り、完全に草に埋もれていました。
小雨混じりのお天気だったので、傘で草を掻き分けながら登って行きます。
途中、調査報告書にあった腰曲輪があります。
ここも草に埋もれていますが、辛うじて平坦面があることはわかりました。

これが「遊歩道」です。
正しくは「遊歩道跡」でしょうか。
ただ、かつて整備されたことが幸いし、道端に杭が打ってあります。
これが無ければ、山頂の主郭には辿り着くことは出来ませんでした。

登り切った所で、奥になにやら白い物が見えます。
どうやらここが主郭のようです。

拡大表示
せっかくなので、アップします


主郭は全体的に草深いのですが、奥の方はそうでもありませんでした。
ということで、奥から見た主郭です。

本当はここで終わって次へ行くはずでしたが・・・
見えちゃいました。
低いバリケードの奥にも平坦面が続いているのが。
えっと、これ、私がやったんじゃありませんよ


主郭の奥は、5メートル程は同じ高さの平面が続いています。

そこで1メートル程の段差があり、さらに奥へと続いています。

50メートル程進むと、今度は目の前に土塁が現れました。
わーい、虎口?とその裏に回ると、やっぱりそうでした。
高低差は人の背よりも低いのですが、明らかに虎口です。

さらにそこから30メートル程進むと、再び土塁が視界を遮っていました。

上から見るとこんな感じですが・・・

真横から見るとこんな感じです。
今度は人の背よりも高い高低差の堀切と土塁でした


その先へ20メートル程進んだ所には、今度は1メートル程の段差があります。
写真は下から撮っていますが、主郭側の方が高くなっています。

そこから先は緩い上り坂が続く細尾根になりました。
もう土塁も堀切も無くなったので、城域の外に出たようです。
Uターンして再び草を掻き分け、下の案内板を再び見ました。
右側の図に堀切が描かれていることに、そこでようやく気付きました。
普段からヒトの話を聞かないと、こういう所でもバッチリ損しています。
その図では、私が見て来た図の上の方だけでなく、右側(西側)にも堀切が描かれていました。
やってもうたと悔しがったものの、再びあの草むらを掻き分けて登り直す気にはならず…
という事で、これからココを訪ねるアナタ!
私が見落とした西側の堀切を、ぜひとも見て来て下さい

◆歴史◆
戦国時代の城主は肥田木三郎兵衛尉でした。
説明板によると、1567年の城主が肥田木三郎兵衛尉だったと書かれています。
出典として『日向記』が記されていたので原文を見たかったのですが・・・
ネット上では見つからず。
超ものぐさなので図書館に出向く気にもならず、あぁそうか、で済ませます

「肥田木」というと、すぐ北の須木城には「肥田木城」という曲輪があります。
米良重方以前には肥田木氏が城主だったと、どこかに書いてありました。
ということで、この辺りの武士だという見当だけはつきます。
他には、戸崎城の城主が肥田木四郎兵衛尉の名が思い出されます。
名前から、この二人は兄弟では無いか?と思われます。
1577年、島津家の城となりました。
説明板に書かれている年が1577年ですが、近くの須木城は1576年に島津家の城となっています。
これは城主の米良矩重が、積年の恨みから島津家に寝返ったためです。
米良矩重は須木城と小林城の城主であり、この時に野首城も島津家の城になっています。
一方、肥田木四郎兵衛尉が城主だった戸崎城は、1577年に島津家の城となりました。
肥田木四郎兵衛尉は1572年の木崎原の戦で戦死し、漆野豊前守が守将を務めていました。
戸崎城は福永祐友の管轄だったので、肥田木三郎兵衛尉も近い関係だったのかもしれません。
以後の城主が誰なのかは?です。
1615年の一国一城令により廃城になったと、説明板には書かれています。
所在地:宮崎県小林市須木奈佐木 GPSログダウンロードページ
宮崎県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント
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2018/01/07 12:10 by 家田城跡 URL 編集
Re:いいね!
鹿児島終わったら次は宮崎、という事で回ってます。島津さん絡みで続きというのでもあります。延岡には来月行く予定があるので、そこでいくつかアップすると思います。ただ、私は基本的に1人で城廻りする派です。我儘なので、予定変更は日常茶飯事なのと、あとはせっかちなので(^-^;)アップするタイミングも自由気ままなので、あまり期待せずにお待ち下さい。
2018/01/07 12:36 by なぽ URL 編集