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戸崎城/宮崎県小林市

戸崎城は野尻湖西岸の山上にあった、伊東48城の1つです。
訪問日は2017年12月31日です。

【写1】戸崎城

戸崎城は国道268号線沿いにあります。
と言うより、南半分を国道建設により削られてしまっています。
城跡部分は登坂車線のある所なので、城跡の前に車を停めることが出来ません。
どこに停めようか迷いましたが、一番確実なのじりこぴあの無料駐車場を借りました。
そこから700メートル程西へ歩き、城跡を目指しました。

ここら辺は歩道が無い上、車の交通量もかなり多いです。
なので、かな~り怖い思いをしながら城跡へ向かいました。
特に野尻大橋は路肩が50センチ程しかなく、私も車もお互いビビりながら通りました。

後から気付いたのですが、城跡の西側に自販機のための広いスペースがありました。
西から東へ向かう上り車線側で登城口もそちら側なので、そこに停めるのがベストと思います。

【写2】戸崎城

さて、なぜ怖い思いをしてまで野尻大橋を渡ったかと言うと、この1枚を撮るためでした。
城跡の所に白い大きな「戸崎城跡」の看板があるのです。
上り車線の橋の東側にもスペースがあったので、後で来ればよかったのですがw
・・・と、やっちまってからの反省ですあせる

【写3】戸崎城

さて、怖い思いをして野尻大橋を渡り切ると、そこはもう城跡です。
国道が城跡の南側を削ったため、その断面は城跡の断面という事になります。
気のせいレベルかもしれませんが、断面が段々になっているように見えます。

【写4】戸崎城

野尻大橋から歩くこと300メートルで、道の北側に城跡への入口があります。
戸崎城については紹介している方が居たので、事前にここはわかりました合格

【写5】戸崎城

道は轍もあるので車でも登れそうです。
ただ、足元の草が深いので、車の底が綺麗になりそうですけどw

【写6】戸崎城

そのまままっすぐ進むと水平になり、城内は事前に拝見したサイト様どおりの杉林でした。

【写7】戸崎城

途中で土塁っぽい土の壁が左の方に見えましたけどw

【写8】戸崎城

そのまま真っすぐ最先端部分まで進みました。

【写9】戸崎城

その先は段々になっていて、細尾根を下っています。
この先に堀切があるようですが、私は見に行っていません。

【写10】戸崎城

先端部からは外周を反時計回りに歩きました。
GPSロガーで曲輪の形をトレースしようと思ったからです。
最先端部分から2、30メートル北に進むと、橋から見えた大きな看板がありました。
かなりデカイですが、私にとっては城址碑代わりですw

【写11】戸崎城

看板の前から見た野尻大橋です。
橋の脇に緑の足場が見えますが、塗装工事をしているようです。
怖い思いをして橋を渡りましたが、この足場を通ることは出来ません。

【写12】戸崎城

そして、曲輪の北端から西方向に向きを変える所で、城塁の脇に見えちゃいました。
まだ誰も紹介していない、戸崎城の横堀ですw
皆様真っすぐ先端まで見てUターンしているので、ここには気づいてない様子です。

【写13】戸崎城

堀底を歩きたいと思いましたが、結構な高さがあるのですぐには下りられませんでした。
主郭の付け根に向かうとだんだん堀までの高さが低くなり、飛び降りなくても下りられました。

【写14】戸崎城

堀底を行ける所まで進むと、東側の断崖の所で切れていました。

【写15】戸崎城

今度は堀の付け根を探ろうと、登城口側へ堀底を進みました。
だ~れも歩いていないので、けっこう低木が茂って歩きづらかったですw
写真の場所はかなり木の密度が低い所です。
そのまま進むと、土塁の脇を通って登って来た道に出ました。
道からは木々が濃くてこの堀が見えませんでした。

下の地図で、北側へまっすぐ歩いた軌跡が2本あります。
西側のは登る時に、北へ曲がる車の轍に沿って歩いた所です。
その轍は北の断崖脇まで続き、花が大量に捨てられていました。

【写16】戸崎城

もう1本のすぐ東隣りの軌跡は、帰りに低い土塁に沿って北側に歩いた時のものです。
先ほどの轍のすぐ隣と気付かず歩きましたが、その終点から右側に土塁がありました。
今思えば、この土塁に沿って歩けばよかったと後悔しています。
・・・でも、リベンジは致しません。
これから行くあなたが「なぽが見落とした土塁」を見て来て下さいwww


◆歴史◆

天文年間(1532~55年)に伊東氏によって築かれました。

天文年間はじめ頃は、伊東家中で家督争いがあった時期です。
この争いで最終的に勝ち残ったのが、伊東義祐です。
その後、伊東義祐は飫肥を巡って島津豊州家と激しく争うようになります。
伊東家中の争いの時に築かれたのか、島津家との戦に備えたものかはわかりませんでした。

永禄年間(1558~70年)は肥田木四郎左衛門尉が城主でした。

肥田木四郎左衛門尉についてはサッパリわからず。
名前から、須木城を構成する曲輪の1つ・肥田木城に関連があるのかもしれないと思いました。
そう思って必死にググってみると、須木城の元々の城主は肥田木氏だったそうです。
その他、須木城の南にあった奈佐木城の城主が肥田木三郎兵衛でした。
おそらく兄弟と思われます。
肥田木四郎左衛門尉の事績は?ですが、1572年にあった木崎原の戦で戦死したそうです。
その後は野尻城主・福永祐友が漆野豊前守に戸崎城を守らせていたようです。

1577年、島津軍に攻め落とされました。

島津義弘が3万の兵力で伊東攻めを開始しました。
初めに高原城を攻め落とし、その次のターゲットになったのが野尻城でした。
野尻城主・福永祐友は、主君である伊東義祐に何度も救援を求めたのですが・・・
高原城に入った島津家臣・上原尚近の策により、伊東義祐は福永祐友を疑っていました。
そのため伊東方の援軍は最後まで来ませんでした。

福永祐友は親族の内山城の野村刑部少輔、紙屋城の米良主税助に諮り・・・
3城とも島津軍に投降しました。
この状況にビビったのが戸崎城で、城を守る兵が次々逃亡しました。
元々僅かな兵しか居なかったため、島津軍によりあっさり攻略されてしまいました。

前年の米良矩重の寝返りと今回の4城の投降・陥落により、佐土原の西の守りが無くなりました。
また、南からは櫛間城・飫肥城が攻め落とされ、島津軍への寝返りも増えてきました。
その結果、伊東義祐日向を捨てて豊後の大友宗麟を頼り落ち延びることとなりました。

その後の戸崎城については、サッパリわかりません。


所在地:宮崎県小林市野尻町東麓 GPSログダウンロードページ

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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