2018/01/06
須木城/宮崎県小林市
須木城はすきむらんどの近くにあり、公園として整備されている伊東48城の1つです。訪問日は2017年12月31日です。

須木城跡へは国道265号を北上し、すきむらんど→の案内で右の道へ入ります。
その道の突き当りで左折し、国道の手前の道へ右折。
この道を進むと、この城址碑のある所に出ます。

そこから右の道へ進むと、主郭である松尾城に至ります。

途中、左側の城塁脇に荒神城の標柱があります


そのまま進むと、道は谷間を通りますが・・・
ここが松尾城脇の大規模な堀切です。

ここから道はグルッと回り込み、突き当りが松尾城です。
ここに車を停められます。
芝生側の奥にはこのように土塁が付けられています。
この背後に、先ほどの大堀切があります


松尾城は、中央を石垣で区画されています。

ここに松尾城の標柱が立てられています。

普段あまり見ない石垣様がおられたので、じっくり堪能しました


石垣のある側の一番奥から見た松尾城内です。
さすがに主郭とされるだけあって、かなり広いです。

松尾城の入口手前には、両脇に曲輪らしきスペースがあります。

こちら側はアスファルトで舗装されており・・・駐車場はココだったかもしれません


先ほど通った大堀切脇には、松尾城の反対側に上がる道があります。

上がってみると、かなり広い平坦地となっており、奥には果樹園があります、
これだけ広い平坦地で西と北を堀切で区画されているのですが・・・
須木村教育委員会様の調査報告書(ココで無料ダウンロード可)には、特に何も書かれていません。
他のどの曲輪よりも広いんですけどね・・・
どうなんでしょう?

そこから、上がって来る道を見下ろした所です。
ここ、どう見ても曲輪ですよね?w

城址碑の方へ歩いていると、先ほどの曲輪?の方にかなり大きな堀切が見えました。
本当はまっすぐ歩いて外周を一周する予定だったのですが・・・
かなり引力が強く、体が勝手に吸い寄せられてしまいました。

ここもかなり大規模で立派な堀切です


その突き当りから振り返って見た所です。
左側に上がって行く道があります。

上がって見ると、道端には土塁がありました。

更に奥へ進むと、畑の脇が堀跡のように窪んでいます。
ココ、絶対に曲輪ですよね???

畑の正面は木が刈られた芝生になっており、そこから真正面に隣の山?が見えました。
あっちも出城じゃないかと思いましたが、見には行きませんでした。

曲輪?内の道を歩き、堀切ではない所から外周の道に出ました。
その途中、所々に土塁らしき土の壁があります。

曲輪もどき内の道と外周の道の接点には、公衆トイレがあります。

ここから外周の道を下ると、城址碑の所に戻ります。
須木城は松尾城・荒神城と肥田木城の3つの曲輪の総称です。
松尾城と荒神城の標柱は見つけたのですが、肥田木城のものは見つけられず。
そもそも訪問時に曲輪の配置がわかっていなかったのがイケナイんですが・・・
事前に上のリンクを見つけられればもっとちゃんと見れたのにと、悔しい登城となりました。
◆歴史◆
かなり古くからあったお城です。
1339年、南朝方の肝付兼重が北朝方の畠山直顕との戦で須木城に籠城しました。
この頃には既に須木城は存在していたようです。
戦国時代は米良氏の城でした。
米良氏は肥後国守護を務めた菊池氏の一族とされます。
出自のはっきりしている系統は、1501年に菊池能運の子・重為が戦火を避け米良に避難。
その子孫が代々米良を治め、明治時代まで続いています。
須木城主の米良重方も通字の「重」を名乗っているので、近い系統だとは思いますが・・・
米良氏でいくらググっても、どの系統の人物なのかが?です。
ただ、米良重方は文武両道のとても優れた武将でした。
1566年には伊東義祐に命じられ、三ツ山城(小林城)の築城を始めました。
これは、飯野城の島津義弘を牽制するための最重要軍事拠点とするためです。
島津義弘としては放置出来ず、当然築城を阻止するため攻めて来ました。
この時、米良重方・矩重兄弟は力を合わせ、島津義弘に手傷を負わせ撃退しています。
1568年の飫肥合戦では、和議で島津貴久に飫肥城を割譲させる大手柄を挙げました。
その功により、米良重方は加江田郷と野首城を与えられました。
ここまでは順調だったのですが・・・
1572年、米良重方が討死しました。
伊東義祐が飯野城の島津義弘を攻めました。
この時の戦を木崎原の戦いと呼びます。
伊東軍は飯野城を牽制し、加久藤城を攻めました。
しかし、島津義弘の策がハマリ、伊東軍を撃退しました。
この退却時に米良重方が殿軍を務めましたが、島津軍の狙撃により討死しました。
この戦の後、米良家は弟の矩重が継ぎましたが・・・
伊東義祐は米良重方に与えていた加江田郷と野首城を取り上げ、身内に分け与えました。
米良矩重の怒りは相当なものだったようで、伊東義祐が懐柔のため送った使者を斬っています。
1576年、島津家臣・宮原景種が城主となります。
島津義久が3万の大軍を率い、伊東氏の高原城を攻めました。
高原城の長倉祐政はわずか300の兵力で粘りますが、水の手を絶たれ開城しました。
その翌日、須木城・小林城の城主・米良矩重が、島津軍に寝返りました。
すると、ビビった近隣の三ツ山城、野首城、岩牟礼城が連鎖的に島津方となりました。
須木城は宮原景種、小林城は川上忠兄が城主となりました。
翌1577年野尻城の福永祐友が島津方に寝返ると、ドミノ式に近隣の城が島津方となりました。
島津軍は飫肥城も下して伊東氏の本拠地・佐土原に迫る勢いを示しました。
また、日向北部の土持氏も伊東氏の城を攻撃し始めたため、伊東義祐は豊後へ逃れました。
1583年、米良矩重が須木地頭に復帰しました。
宮原景種が肥後国佐敷の地頭となり、米良矩重が島津家臣として須木地頭となりました。
1587年、米良矩重が出奔しました。
豊臣秀吉による九州征伐の後、伊東義祐の子・伊東祐兵が清武・曽井に復帰しました。
すると、米良矩重は島津家を出奔し、伊東祐兵の元に現れました。
そして、先年の非を詫びて切腹すると言い出しましたが、許されて伊東家臣に復帰しました。
その後、1594年に須木に移住した村尾重侯が、1596年より須木地頭となりました。
村尾重侯は元は入来院氏の一族で、祁答院良重に仕えていました。
1566年に祁答院良重が正室に刺殺されるという事件がありましたが・・・
村尾重候がその正室を屏風で押さえ、殺しています。
また、1602年には島津忠恒に命じられ、伊集院忠真の暗殺にも関与しています。
1615年、一国一城令により、須木城は廃城となりました。
須木の地頭仮屋は、松尾城のすぐ北側に置かれました。
所在地:宮崎県小林市須木下田 GPSログダウンロードページ
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