2013/06/11
丸山城/福岡県粕屋町
東京の城跡が続いているので、ちょっとひと息。福岡の丸山城跡です。
丸山城は福岡ICのすぐ脇にあり、御霊神社から登ります。



▲御霊神社
鳥居をくぐって階段を上がると、すぐに社殿が見えます。
山城の麓にあるということは、もともとは城主の居館だったのでしょうか?

▲丸山遊歩道の入口
登城路は「丸山遊歩道」で、社殿の右隅にあります。
でも、案内の矢印が無いと見つけられないくらい目立ちません。
もしかしたら、隠し通路だったのかもしれませんね。
道はよく整備されており、とても登りやすいです。
丁度よい段差の階段、ウッドチップでも敷き詰めたような道。
そして程よい傾斜です。

▲主郭の入口
そして5、6分くらいで主郭の入口に到着。
もうちょっと登るんじゃないかと思っていましたが・・・
久々の山城に、足取りが軽くなっていたのでしょうかw

▲説明板
東京とは違う感じの説明板です。
ここに黒地に金文字のあれがあったら、それはそれでたまがりますが。
・・・と、地味に方言を放ちますw


▲主郭の周りの横堀
説明板の足元を見ると、なんだか窪みが。
その窪みが主郭を囲むように巡っています。
これは空堀ですね!
梅雨時なので草ぼーぼー。
やっはり山城へは冬場に来るべきですね


▲主郭
階段を登って主郭へ。広さは直径20mほどの円形。
そして井戸も無いので、物見台的なお城ですね。

▲もう1枚の説明板
主郭入口の反対にも階段があり、下りてみるともう1枚説明板がありました。
なんと、こちらには実測の測量図付きです!
やはり、来たからには隅々までちゃんと見ないとソンしますね^^
◆歴史◆(かなり推測混じり)
丸山城は、杉権頭連並が築いたと「筑前国続風土記」にあります。
連並は大内氏の家臣で、杉弾正忠重とともに高鳥居城に在城し、
筑前守護代を務めていました。
丸山城の築城年は不明ですが、
連並が高鳥居城に来たのは1551年の陶晴賢の乱後です。
1555年に陶晴賢は安芸・厳島で毛利元就に討たれます。
すると、それまで大内氏領だった周防、長門、豊前北部と
筑前が空白地帯になり・・・
その両隣の毛利氏と大友氏による領地争いが始まりました。
高鳥居城の杉氏の動向は不明ですが・・・周囲の状況から、
大友氏に従ったとみられます。
1560年代には筑前で大友氏家臣の謀反が相次ぎました。
この謀反に毛利氏が援軍を出す、といったことが繰り返されます。
1569年、毛利氏が筑前へ攻め込み、立花山城が落城。
しかし、背後で尼子氏再興の動きが活発となったため、
毛利氏が撤退。以後、筑前は大友氏の支配が続きます。
1578年、耳川の戦いで大友宗麟が壊滅的敗北。
各地で大友氏に対する謀反が活発化します。
この時に秋月種実も大友氏に叛旗を翻し、
北部九州に版図を広げました。
1585年、立花道雪が筑後へ出陣している隙を狙い、
秋月種実が立花山城を攻撃。
留守番をしていた立花統虎(後の宗茂)が種実の軍勢を撃退しました。
1586年、島津軍が北上し、岩屋城で高橋紹運が玉砕。
立花山城も島津軍に包囲されましたが、豊臣秀吉の九州征伐が開始。
この報により、島津軍は撤退しました。
この時、島津軍の先鋒として岩屋城や立花山城を攻めたのが秋月軍です。
丸山城は「天正年間(1573~92年の間)に秋月氏により攻め落とされた」
と伝わります。
地理的に立花山城と岩屋城の中間にあるため、
この時に攻め落とされたものと思います。
所在地:福岡県糟屋郡粕屋町大隈
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