2022/04/29
臼井城/千葉県佐倉市
臼井城は、上杉謙信を退けたことで有名なお城です。訪問日は2022年2月5日です。

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ここは上杉謙信が攻め落とせなかったお城でした。
現状は公園となっており、昔訪ねた時にはそれが何故なのか?でした。
色々見落としもあるようなので、それを確かめて来ました。

1.駐車場(堀切)
まずは駐車場です。
住宅街の真ん中にあり、周囲の道は細いです。
しかもかなりの交通量!
それでもご安心下さい。
公園になってるだけあり、ちゃんとあります!
駐車場は南側の真ん中です。

2.堀切
駐車場の奥です。
もうこれ見ただけで城跡感が漂います。
一見虎口のように見えますが・・・
実はココは大堀切で、奥は土橋です。
正体を知ると、かなり改変されているようで残念になります。

3.公園
ということで、とても広い公園になっています。
昔来た時の印象は、この写真の通りでした。
何故上杉謙信は攻め落とせなかったのか・・・?
かなり時間が経ったので、自分の目で確かめたくなりました。

4.案内図 2009年に撮影した綺麗な図を表示
ザックリです。
見習いたいです。

5.南口
とりあえず一周しようと、時計回りに外周を歩きます。
南西の南口ですが、要害性ゼロ。
ここは城の虎口ではなさそうです。
・・・とはいえ、チラッと見えてます^^

6.説明板 説明板を表示 図を表示
その前に、ここに城跡オブジェが揃ってます。
まずは説明板です。
かなり曇ってはいますが、縄張図付きです^^

7.城址碑
そして、立派な城址碑もあります。

8.堀
そして、チラッと見えていたアイツです。
ここでも地位は相当低いようで、原形を留めています

上から見ただけでも、相当な規模だとわかります。
上杉謙信を退けたのはこれでしょうか^^

9.南西の切岸
どこかに載ってた図では、反対側にも堀が描かれています。
それで見に行くと、道の外側は急斜面でした。
てっきり平地が続いているかと思っていました。
こうして見ると、要害性がかなり隠れています。

10.太田図書の墓 説明板を表示
堀底に下りてみたくて、堀沿いに歩きました。
すると、南口を出て間もなく太田図書の墓がありました。
太田図書は太田道灌の弟で、ここで討死しました。
お墓があるので守備側かと思いきや、攻撃側でした。

11.堀に下りる道
じっとりした目付きで堀を見ながら歩いていたら見えました。
堀底に下りる道が、北側にあります。

12.堀底
上から見た通りで、かなり大きいです^^
北から南西にかけ、台地と城を分断しています。
堀底も行ける所まで行きました。
大きな堀は、台地端に開口していました。

13.公園側から見た堀
再び公園に戻り、南口から時計回りに。
今度は内側から堀を見下ろします。
とはいえ、内側からはあまりよく見えません。
ここが一番よく見える場所でした。

14.土橋の説明板 説明板を表示 図を表示
さらに端を進むと、浅い堀沿いになります。
ここは、駐車場から上がって来た所にある土橋です。
日差しの関係で、しましまになってしまいました。

15.土橋
往時からあった感じです。
ここで二郭(西側)と主郭(東側)が繋がっています。

16.土橋から見た堀切
上から見ると、それっぽく見えます^^

17.堀
駐車場の堀切から、土橋を挟んだ反対側の堀跡です。
埋められているのが、幅の広さからわかります。
ちゃんとした深さで駐車場まで続くと、かなりの規模に。
昔の私が要害性を感じなかったのは、堀を全く見てなかったからでした


18.堀切
浅くなった堀の奥は、堀切になっています。

19.堀の端から見た北側の堀
その奥で堀切は終わっていますが・・・
その先には、もっとずっと深い堀があります。
これは、先ほど歩いてきた北側の堀です。

20.腰曲輪
堀端の反対側は、腰曲輪となっています。
大手門から一段低くなっています。

21.大手門跡
堀底を戻って土橋の先が大手門跡です。
広くて土塁も残っています。

22.大手門の土塁
土塁はシャープさを欠いていますが・・・
端の櫓台っぽさが残っています。

23.大手門の反対側の土塁
反対側も^^

24.大手門前の右脇にある曲輪
大手門の左外には、土塁で囲まれた曲輪があります。

25.大手門脇から堀切
その端を歩くと、深い堀が見えます。
何度も登場している、北側の堀です。

26.大手門前の虎口
大手門の右側は、切岸を掘った虎口になっています。
大手門は、土塁で囲まれた枡形だったようです。

27.大手門下の腰曲輪
虎口の先には、一段低い曲輪があります。
先ほどの一段低い曲輪とはつながっていません。

28.北東側に下りる道
曲輪の先は、細道が下っています。
断崖に沿っていて、進路が限定されます。
しかもこの傾斜なので、大軍で突撃は不可です。

29.主郭北東部
大手門から再び城内へ戻り時計回り。
東側が主郭です。
ここも公園となっていて、ただの広場です。

30.主郭南東側の切岸
上はただの公園ですが、南東はこんなです。
13年ぶりに訪ね、ここの要害性を確認出来ました^^
◆歴史◆
臼井氏により築かれたと考えられています。
臼井氏は1114年、当地に来た平常康を祖とします。
平安時代なので、築城はもっと後の時代と思われます。
居館がどこだったのかは?ですが。
臼井氏は戦国時代まで臼井城を拠点とします。
1478年、太田図書に攻められました。
長尾景春の乱で、千葉孝胤は古河公方に従わず。
そのため連合軍の討伐対象となりました。
当時の居城を追われた千葉孝胤は臼井城に籠城。
この籠城戦は7か月にも及びました。
包囲が緩んだ際に籠城方が城外へ突出。
城主・臼井持胤と寄手の大将・太田図書が討死しました。
この激戦により臼井城は陥落。
千葉孝胤は逃れ、一時消息不詳となります。
臼井景胤が小弓公方の配下となります。
臼井景胤は、臼井持胤の子で千葉孝胤の孫です。
臼井持胤は千葉孝胤の子で、後継ぎの無い臼井氏を継いでいました。
臼井景胤は伯父の千葉勝胤とは不仲だったようで・・・
小弓公方に味方し、下総での中核的戦力と位置づけられました。
しかし、1538年の第一次国府台合戦には出陣していません。
この頃までには千葉家に抑えられていたと考えられています。
1557年、原氏の城となります。
臼井景胤が没し、子の臼井久胤が継ぎました。
ただし幼少のため、外祖父の原胤貞が後見となります。
原胤貞は善政を敷き、家臣・領民の支持を得ました。
臼井久胤は傀儡となります。
1561年、里見軍に奪われました。
長尾景虎が関東に出陣し、関東管領と上杉家を継ぎました。
これに呼応して里見義堯も北上し、生実城と臼井城を奪いました。
城を攻めたのは、この年に大多喜正木家を継いだ正木信茂です。
正木信茂は当時二十歳ですが、見事に父の勇名も継ぎました。
臼井久胤は千葉家ではなく、結城晴朝を頼りました。
1564年、原貞胤が奪還しました。
第二次国府台合戦で、後北条・千葉連合軍が里見軍に勝利。
勇将・正木信茂は討死し、千葉軍は里見家に奪われた領地を奪還。
原貞胤も本拠の生実城と臼井城を奪還しました。
臼井久胤は奪還後も戻って来ず、名実共に原氏の城となります。
1566年、上杉謙信を撃退しました。
この頃の上杉謙信は、毎年のように関東に出陣していました。
この時は離反を繰り返す佐野氏や小田氏を攻めに来ました。
そのまま南下し、千葉家重臣・高城氏を攻めて船橋一帯を占領。
海運を掌握し、さらに侵攻するための拠点としました。
そして千葉家筆頭の重臣・原胤貞の生実城・臼井城も攻めました。
圧倒的戦力差で、主郭を残すのみという所まで追い詰めますが・・・
軍師・白井浄三と赤鬼の異名を持つ北条家臣・松田康郷が活躍。
大激戦の末、上杉軍を撃退しました。
この敗戦が、関東諸将の上杉家離れを加速することとなりました。
1574年、原胤栄が本拠としました。
原貞胤の子・原胤栄が、本拠を生実城から臼井城に移しました。
原胤栄は千葉家筆頭の家老でしたが・・・
1557年に千葉親胤が殺害されてからは、その地位が揺らぎ始めます。
千葉親胤の後を継いだのは、分家の海上胤富でした。
千葉胤富は、従来から近くで従っていた原親幹を重用しました。
1585年、千葉邦胤殺害後、北条氏照の弟が千葉家当主となりました。
この養子・千葉直重を迎えたのは、原胤栄の主導によるものです。
これにより原胤栄も後北条家直臣・臼井衆筆頭となります。
1590年、徳川家の城となります。
豊臣秀吉の小田原征伐により、後北条家が滅ぼされました。
本土寺の過去帳によると、1589年に原胤栄が没しています。
小田原城が包囲されていたため、急遽一族の原邦房が城代となります。
その後、臼井城は徳川軍に攻められ落城します。
関東が徳川家康領になると、酒井家次が城主となります。
1604年、廃城となりました。
酒井家次が上野国高崎へ移封しました。
臼井は幕府天領となったため、臼井城は廃城となりました。
所在地:千葉県佐倉市臼井 GPSログダウンロードページ
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