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万木城/千葉県いすみ市

万木城は万喜城、萬喜城とも表記された、上総土岐氏の城でした。

訪問日は2022年1月29日です。



【位置・再】万木城

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万木城は現在公園となっており、舗装された道が整備されています。

オンロードのRSタイプに跨る私には、とてもありがたい城跡です。

駐車場は1と坂道の上の4の2箇所あります。

この坂道には、片側交互通行の時の信号機があります。

確かにこの急な坂道で正面から車が来たら、バイクでも困ります。

公園化で訪ねるのは容易ですが、城跡ものっぺりしてしまい・・・

展望台のある大きな平坦地は、某大聖典によると堀があったそうです。

7の所からは、土岐氏の菩提寺である海雄寺に抜ける山道があります。

この道端には堀切が見られますが、現在は立入禁止になっています。

城の北側の雑木林にも遺構があり、曲輪や堀切などが見られます。



【1】万木城

1 下の駐車場



万木城への登り口に、トイレのある立派な駐車場があります。

真冬の朝に駆け付けた私は、ここにバイクを停めました。

途中で凍ってたらシャレになりませんからね・・・

本当は、上にも停められる事を忘れていただけですがあせる

坂道には信号があり、上り下りで交互通行となっています。

クルマがすれ違うか?という疑問は、とりあえず横に置きましょうw



【2】万木城

2 上の駐車場



片側交互通行の坂道を登ると、右手に大きな駐車場があります。

某大聖典の図によると、ここが三郭跡のようです。

ここにも沢山クルマを停められます。



【3】万木城

3 妙見望台楼にある展望台



駐車場からは、万木城のシンボル・四ツ脚首だけ天守があります。

・・・私が写真を見てたった今命名したので、誰もこう呼びませんが。

まぁでも、私、こういうの嫌いじゃありません^^

ということで、誰も居ないので遊ばせて頂きました。



【4】万木城

4 上から見た城跡


城跡はガッツリ公園化されていますが、主要部は3つの曲輪でした。

手前から展望台までが三郭、裏の広場が二郭、右奥の山林が主郭です。

某大聖典に掲載されている要図では、それぞれを堀が隔てていたようです。

今はその堀が無くノッペリしていて、展望台が本丸っぽくなっています。







ということで、本丸もどきを一周してみました。



【5】万木城

5 稲荷社



駐車場の北側は、細長い台状になっています。

元々段差があったのか、駐車場にするときに削られず残ったのか・・・

ここにこうしてお社があることがポイントになりそうです。

バリバリ市街地でも、お社の周りだけ昔のまま残ってたりしますからね。



【6】万木城

6 展望台の東側



駐車場から見て、展望台の左側に小さな広場があります。

普通の山城ならとても広い部類の曲輪ではありますが。

腰曲輪っぽいですが、某大聖典の図ではここも三郭だったようです。



【7】万木城

7 小鳥の森入口


という呼び方だと、城跡感がビミョーになりますが・・・

某大聖典の図では、搦手口という事になりそうです。

入口に虎ロープが渡され、真ん中に「立入禁止」の禁制が出ています。

2019年の台風被害だと思われます。

世の中にはヘーキな輩もいるのですがあせる



【2016】万木城

2016年当時



ということで、2016年に訪ねた時の写真を引っ張り出します。

こちら側は細尾根となっており、数条の堀切が見られます。



【8】万木城

8 二郭跡



曲輪どうしの境界が無くなっていますが、コンクリ広場が二郭です。

駐車場に見えますが、車道とはつながっていません。

・・・別にいいですけど。

真ん中のブルーシートは、2016年は黒いシートでしたw

土の盛り上がり方や大きさから、おそらく土俵があるものと思われます。

黒いのは、2019年に飛ばされてしまったのでしょうか?



【9】万木城

9 西側



コンクリート二郭の西側に、ちょっと飛び出す感じの曲輪があります。

北側にむかって園路が下りていて、もしかしたら堀跡、かも?

某大聖典の図、現地に持っていけば少しは!が来たかもしれません。

だってココ、図では主郭ですからあせる
思わせぶりな標柱には「わたしの街みどりづくり事業」と書かれています。



【10】万木城

10 虎口



奥の土塁っぽい所に、やっと城跡らしい虎口ありましたヾ(*´∀`*)ノ

某大御所様の図では、「倉の台」と書かれている所です。



【11】万木城

11 虎口から見た段曲輪



虎口から二郭方向を振り返ると、園路に沿って段々があります。

大きなお城では、どんなに条件が悪い土地でも平地にしています。

ここら辺はかなり旧状を留めていそうな感じです。



【12】万木城
12 主郭・倉の台

下からは土塁に見えた土盛りは、かなり広い曲輪でした。
下の段も含めての主郭ですが、ここだけでも十分な広さです。

【13】万木城

13 坂道の脇



表から見た城跡は以上ですが、藪歩き城キチは帰りに何かを感じます。

片側交互通行坂道の脇が、いつも見ているゴール地点に見えます。

この平らで段差のある地形、ココもバッチリ城跡です。



【14】万木城

14 土塁



上の写真の右奥に見える、削り残しの土塁です。

細尾根を利用した、房総半島の典型的なヤツですラブラブ



【15】万木城

15 堀切



そのまま奥へ進むと、細尾尾根と小さな曲輪が続いています。

所々に、このような堀切も見られますラブラブ



【16】万木城

16 曲輪



ガッツリ手付かずの雑木林ですが、小さな曲輪がいくつもあります。

メインは南北の尾根に連なり、西側の道に段々に下る感じです。

段々に下ると言っても、斜面というより断崖ですがw



【17】万木城

17 細尾根が北へ続きます



普通なら入って行かない山中でも、ここではある予感で足が進みます。

このまま奥へ行けそう!と、黒なぽが背中を押してるだけですけど。



【18】万木城

18 浅間社



そのまま細尾根を進むと、高台の平坦地に着きました。

奥にはしっかりした道があり、土塁に囲まれたお社が現れます。

城域北端の物見的な位置にあるのが、浅間台というピークです。

ここから駐車場まで、人の歩く道が続いています。





◆歴史◆



築城年代は不明です。



判明している城主は土岐氏ですが、土岐氏自体が不詳です。

万木城の土岐氏は美濃から来たとされますが、その時期も不明です。

さらに、1590年に没落するまで何代続いたのかすら諸説あります。

史料の初見は1565年で、万木城内で書物を書き写したという内容です。



実在が確実とされる土岐為頼は、娘を里見義堯に嫁がせています。

そして、里見義堯の跡を継いだ里見義弘は、土岐為頼の孫です。

里見義弘が生まれたのが1530年です。

しかし、1538年の第一次国府台合戦での動向がサッパリ不明。

里見義堯が真里谷氏から小田喜城や勝浦城を奪ったのが1544年頃。

万木城はその更に東側にあります。



上総土岐氏を調べていると「里見三羽烏」という言葉が出て来ます。

里見軍の主力を担った三家で、小田喜正木氏、酒井氏と土岐氏を指します。

小田喜正木氏が真里谷氏から小田喜城を奪ったのが1544年。

酒井氏の上総での活動が記録されているのが、1480年代です。

正木氏もその年代には、ずっと西の山之城を本拠としていました。



土岐氏の勢力圏は、万木城を頂点に東へ台形状に広がります。

それぞれの支城もググってみますが、どれも歴史が?ですあせる



支城の中で歴史が割とわかっているのが鶴ヶ城です。

鶴ヶ城は万木城の北東の海に近い場所にありました。

元々は土岐氏の菩提寺である海雄寺のあった場所なのだそうです。

海雄寺の移転と鶴ヶ城の築城されたのが、1574年です。



これらから想像すると

・土岐氏も1400年代後半には里見家に仕えていた?

・里見家に従って各地を転戦し、1550年頃までにいすみ周辺を入手。

・東の前線・鶴ヶ城辺りを最初の本拠とした(菩提寺があった)。

・第二次国府台合戦(1563~64年)、里見家から離反。

・備える方向が西に変わり、万木城に本拠を移した?

のかもしれませんあせる



1575年、正木頼忠に攻められました。



正木頼忠は勝浦正木氏の当主です。

勝浦正木氏も第二次国府台合戦の頃、里見家から離反しています。

土岐為頼も後北条家に鞍替えしたため、同じ陣営となります。



正木時通は1570年代初頭に里見家に帰参しています。

その直後に正木時通は没し、弟の正木頼忠が当主となりました。

土岐為頼は里見方として攻め寄せた正木頼忠を撃退。

その後、後を継いだ土岐頼春も相次ぐ里見軍の侵攻を撃退しています。



1590年、徳川軍に攻められ落城しました。



小田原征伐では、土岐頼春は後北条家に味方しました。

求めに応じ1589年、300騎を小田原へ向かわせています。

そのため守りが手薄になり、庁南城の武田豊信に攻められました。

一時は危機的状況だったものの、夜になり支城から援軍が到着。

武田軍の背後を衝き撃退しました。

しかし、肝心の後北条軍が豊臣軍に降伏。

徳川家康が、房総半島の後北条方の城を攻めて回りました。

土岐頼春は万木城に籠城しますが陥落し、自害したと伝わります。



1591年、廃城になりました。



上総国が徳川家康の領地となり、大多喜に本多忠勝が配置されました。

本多忠勝は里見家の侵攻に備え、大多喜城に大幅な改修工事を施します。

その工事が完成するまでの間、万木城を居城としていました。

そして大多喜城が完成すると、万木城は廃城となりました。





所在地:千葉県いすみ市万木 GPSログダウンロードページ



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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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