天神山城は、北条氏邦が一時居城としていた山城です。
訪問日は2021年2月20日です。

登城口にある白鳥神社です。
天神山城の名前の由来となった神社です。
白鳥神社となったのは明治9年で、それ以前は白鳥天神宮でした。
天神山城もはじめは根古屋城でしたが、北条氏邦により改名されました。
北条氏邦は、天神様をとても篤く敬っていたそうです。

天神山城跡を歩き回った軌跡です。
とりあえず行ける所も残り少なくなり、これが欲しくて訪ねました。
以前訪ねた時には見てなかった所が多く、印象が全く変わりました

城の大手は⑦の先です。

①登城口
城跡に行ける登城口は、白鳥神社の社殿左隣にあります。
神社正面から見ると、白セメントの道を上がった所にあります。

①奥宮?
登城路を登り始めてすぐに、この石の祠が現れます。
目の前に白鳥神社があるので、山にあるのは奥宮でしょうか。
ここまでの道は、幅が広くとても綺麗です。
ここから先の道は、以前と比べればかなり綺麗になったと思います。

①北側の斜面
登城路から見上げた斜面です。
かなり急な勾配で、普通ならここを登ろうとは思いません。
大手口が塞がれているので、皆様こちら側から登ります。
今は道がありますが、往時この道があったかどうかは?です。

②西側の腰曲輪
さらに登城路を登ると、右下前方に腰曲輪が見えました。
以前は見えなかったような気がしますが、私が未熟だったかもしれず。
草が刈られている様子が見えます。

③北側の横堀のような腰曲輪
さらに登ると、横堀のように窪んだ腰曲輪に辿り着きます。
ここも以前訪ねた時の記憶にありませんが、これは完全に私の問題です

登城路は真ん中に通じており、敵が登って来るのに備えたのでしょうか。

③北側の腰曲輪から
もう1つ上の腰曲輪からは、模擬天守の後ろ姿を拝むことが出来ます。
廃墟となって久しいですが、まだ建物の姿を維持しています。

④北側の段曲輪
腰曲輪からは、北側に突き出した尾根が段になっているのが見えます。
行ってみると、下にも3段ほど階段状に段が連なっているのが見えました。

⑤模擬天守
登城路を登り切ると、模擬天守の目の前に出ます。
模擬天守が乗っかている土盛りが、色々手が加わってるように見えます。
肝心の廃墟ですが、やっぱり廃墟です。
屋根の崩壊が進んでいて、そのうち崩れ落ちそうに見えました。
建物のそばには近寄らない方が良さそうです。
まだある内に!ということで撮影しました。
こんな風に撮れるのって、ここだけかもしれません


⑤堀切
模擬天守の前に、この橋があります。
橋があるのは、ここに堀切があるからです


⑤堀切
やっぱり横顔がお美しい

ガッツリやられてる所なので、よくぞ埋められなかったと思います。
堀底も行ったり来たりで堪能しましたが・・・
この橋もかなり傷んでいるようです。

⑥二郭
堀切の先には、超広い二郭があります。
以前訪ねた時は、あまりに平らで広いので曲輪と認識せず。
長辺170メートルに及ぶかなり大きな曲輪です。

⑥二郭西側の腰曲輪
二郭を奥へ進んでいると、右下(西側)には帯曲輪が並んでいます。
この帯曲輪は、途中でザックリ断ち切られている所があります。
帯曲輪を竪堀で断ち切ってるのは、あまり見掛けない構造です。

⑦三郭
奥まで進むと、左側(東側)がだんだん高くなっていきます。
この先端が三郭です。

⑦三郭下の横堀
三郭の先端下には、横堀が付けられています。
横堀を奥まで進むと、竪堀で行く手を遮られています。
登ってくる敵を迎え撃ちつつ、ここに迷い込ませるものかもしれません。

⑦三郭ザックリ
そんな三郭ですが、丁度中央部がグランドキャニオンのように裂けています。
何となくですが、ショベルカーでやっちゃったように見受けられます。
往時からこうだったとすれば、興味深い構造ではありますが。

⑧出郭へはココから
最後に東側にあるという出郭を見てきました。
位置は何となく把握していましたが、どこから行けるのかが?でした。
というのも、出郭へとつながる道が無いからです。
二郭先端から戻る時にこちら側を歩き、ここから下ってみました。
目印は、ここだけやたらとゴミが落ちています


⑨出郭
二郭脇から派生した尾根を下ると、そこは上とは別世界でした。
ひと言で言えば、堀堀ワールドです。
横堀と堀切が複雑に入り組み、まるで迷路のようです。
廃墟しかイメージが無かった天神山城に、こんな所があったとは

まだまだ拙いですが、下から戻る時に動画を撮りました。
とにかく堀だらけで、グルグル見回しまくってます
◆歴史◆天文年間(1532-55)に藤田重利により築かれました。藤田氏はこの頃、山内上杉家に仕えていました。
上杉家四家老に数えられ、重臣に列しています。
築城された時期は、関東享禄の乱で上杉憲政が勝利した頃です。
同じ時期に、秩父街道沿いに
要害山城も築いています。
秩父への交通の要衝を抑える目的だと考えられます。
天神山城のあった所は、丹党・白鳥氏(岩田氏)の支配地域でした。
この事から、藤田氏が岩田氏を降したと考えられます。
ただし、攻め降したというよりも、時勢を見て鞍替えしたようです。
岩田氏は白鳥氏の総領で、白鳥神社付近に館があったと考えられています。
藤田氏と婚姻関係を結び、秩父神社遷宮の流鏑馬を断っています。
この頃から、岩田氏は藤田氏の筆頭家老となっています。
藤田重利は藤田康邦のことだと考えられていますが・・・
そうではないという説もある、謎の多い人物です。
1560年、後北条軍に攻め落とされました。藤田重利は河越夜戦の後、後北条家に降りました。
その時期は、河越夜戦から2年後の1549年頃とされます。
この時に北条氏康の子・乙千代丸を養子に迎えて娘婿としました。
乙千代丸はその後藤田氏邦と名を改め、藤田氏の家督を継いだとされます。
北条氏邦といえば、鉢形城を拠点として北関東を制圧した名将です。
なぜ後北条軍に攻められるのか?というのが素朴な疑問ですが・・・
北条氏邦をググると、生年は1548年です。
養子に入ったのが1歳、攻められた時でも12歳です。
いくら家督を譲られたとはいえ、自分の意志で動ける年齢ではありません。
藤田氏内部には、反後北条の派閥があったと思われます。
1560年というと、長尾景虎が山内上杉憲政の要請で関東に侵攻。
鎌倉の鶴岡八幡宮で山内上杉家の家督と関東管領職を譲られています。
この時、後北条家に従っていた上杉旧臣が多数寝返っています。
しかし、上杉輝虎(長尾景虎)が越後へ引き揚げると後北条氏が反撃。
上杉家に寝返った者達を攻めています。
天神山城が攻められたのは、その一環と思われます。
藤田康邦は1560年に没したとする文書もあり、謎が深まるばかりです。
1564年、北条氏邦が居城としました。北条氏邦が藤田家に送り込まれ、家督を継いでいます。
年齢的には、1560年の事があってからの方が自然な気がします。
藤田重利はこの頃、天神山城を譲り鉢形城へ移りました。
天神山城に入った北条氏邦は、岩田義幸の後見を受けています。
岩田氏は藤田氏の家老なので、藤田氏の家督を継げばそうなりそうですが・・・
後見が藤田一族ではない所が、ちょっと不自然な気もします。
北条氏邦は後に義兄弟の藤田重連を毒殺し、藤田信吉には離反されます。
やっぱり、藤田一族とは折り合いが悪かったようです。
1568年、北条氏邦が鉢形城へ移りました。鉢形城を改修した北条氏邦は、居城を鉢形城へ移しました。
以後は家老の岩田義幸に天神山城を守らせました。
北条氏邦と藤田一族の対立で、北条氏邦に味方したのかもしれません。
長瀞一帯は元々、岩田氏の支配地域ですし。
1590年、廃城になりました。豊臣秀吉により、後北条氏が滅ぼされました。
この時、鉢形城とともに天神山城も開城となっています。
守将が誰だったのか?ですが、藤田氏ではなさそうです。
(藤田重連は1578年毒殺、藤田信吉は1580年武田家に鞍替え)
岩田氏当主だったと思われる岩田幸清は、小田原に居ました。
戦後は相模国糟屋に隠れ、後に寄居町末野に戻り没したとされます。
所在地:埼玉県秩父郡長瀞町岩田
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