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花園御岳城/埼玉県寄居町

花園御岳城は、花園城の北西550メートルにありました。
訪問日は2021年2月23日です。

花園御岳城【1】①
①少林寺

花園御岳城への登城口は沢山ありますが、ここが一番メジャーです。
写真は入口側を向いていますが、反対側に大きな駐車場があります。

【位置・再】花園御岳城

ここも花園城と同じく、GPSの軌跡目当てで再訪問しました。
とは言っても、6年半も経つと見るポイントが変わってきます。

花園御岳城【2】②
②五百羅漢道

登城路は少林寺背後の五百羅漢道です。
こんなにあると着く前に500体超えるんじゃ?なんて思ってました。

花園御岳城【3】③
③竪堀?

五百羅漢道は九十九折れになっていて、登りやすい道でした。
その折れる所の1つに、上から下へ掘られた跡がありました。
これ、竪堀でしょうか?
お城からはちょっと離れていますが。

花園御岳城【4】④
④釈尊の石像のある広場

山道を登り切り虎口っぽい所から、石像のある広場に出ます。
ここに五百羅漢と千体荒神の説明板があります。
私は山頂に五百羅漢がズラッと並んでいるものと勘違い。
登ってくる道沿いに並んでいたのが、五百羅漢でした。
私のソックリさん、どこかに居たかもしれませんあせる

花園御岳城【5】⑤
⑤二郭

広場から山道を西へ進むと、土の壁が現れます。
そんなに高くないですが、登る道がクネっとしています。
そんな地味な虎口を登った所が二郭です。
全体的には平らですが、右側がちょっとこんもりしています。

花園御岳城【6】⑥
⑥堀切

奥に鳥居があり、その両脇がこんなになっています。
左側はすぐに終わりますが、右側の奥はそのまま竪堀になります。

花園御岳城【7】⑦
⑦主郭

鳥居をくぐった先が主郭です。
中央部を空けて、グルっと一周板碑が並んでいます。
おじいちゃんが映って会議を始めるヤツをテレビで見たような・・・
当時の感覚もそんなだったのかもしれません。

花園御岳城【8】⑧
⑧竪堀

主郭の左奥が少しだけ窪んでいます。
どうやらこっちが虎口のようで、その先が竪堀になっています。

花園御岳城【9】⑨
⑨竪堀

少し下ってみると、竪堀がよりクッキリと見えるようになります。

花園御岳城【10】⑨
⑨三郭

下った所の左側には、まとまった平坦地があります。
ここが三郭です。
地図では山頂に上がってくる参道がすぐ下を通っています。
往時からある道だとすると、登って来る敵に備える位置にあります。

花園御岳城【11】⑨
⑨横堀

竪堀を挟んで反対側には、ザクっと地面を掘った横堀があります。
ここが一番の見所だと勝手に思っているのですが・・・
写真だといつもの光景にしか見えませんあせる
肉眼ではしっかり見えるのですが・・・

花園御岳城【12】⑨

ということで、補助線入れます。
曲輪に沿って掘られた半円形の堀です。
これって三日月堀ですよね?
天神山城の三郭や花園城の主郭の下にも、同じような堀があります。
もしかしたら、藤田氏のお城の特徴なのかもしれません。

花園御岳城【13】⑩
⑩竪堀

横堀を奥まで進むと、今度は竪堀が現れます。
この竪堀は横堀とは直角になっていて、まっすぐ斜面を下っています。

花園御岳城【14】⑩
⑩四郭

竪堀を上がると、その先は細長い曲輪になっています。
ここが四郭です。

花園御岳城【15】⑩
⑩四郭

どこまで続いているのか進むと、土塁で行き止まりになっていました。
6年半前にはココには来ていません。
以前訪ねた城跡を久しぶりに訪ねてみると、新たな発見があるものですね^^


◆歴史◆

不明

史料には登場しないお城です。
すぐ近くの花園城の出城だったと考えられています。


所在地:埼玉県大里郡寄居町末野 GPSログダウンロードページ

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花園城/埼玉県寄居町

花園城は山内上杉家重臣・藤田氏歴代の居城でした。
杉山城や菅谷館にも引けを取らない、素晴らしい城跡ですラブラブ
訪問日は2021年2月23日です。

花園城【1】

地図を見ると花園城の南東の麓に「善導寺」があります。
でも、現地を訪ねるとその前に「藤田」と付きます。
お察しの通りで、創建も中興も藤田氏が関わっています。

【位置・再】花園城
別ウィンドウで表示

ここもこれが欲しくて、かなり久しぶりに訪ねました。
藤田善導寺の裏から登れるかとも思いましたが・・・
以前と同じ、お寺の西側にある①の諏訪神社から登城しました。

花園城【2】①
諏訪神社

線路沿いの道から見た諏訪神社です。
鳥居が目印です^^

花園城【3】①
3 諏訪神社

城跡までは、社殿右脇から目印のピンクテープが続いています。
前回訪ねた時には踏み跡がうっすらで、結局竪堀を直登でしたが・・・

花園城【4】②
4 竪堀

神社背後から西へ水平に進むと、この竪堀に行き当たります。
前回はこの堀底を落ち葉や枯れ枝を掻き分けながら登りました。
今はこの少し手前に、竪堀に沿って堅い踏み跡が上まで続いています。

花園城【5】③
5 竪堀が2本に分岐

ピンクテープの踏み跡を登ると、上の方で隣の竪堀に合流します。
ここ、二重竪堀だったんですねラブラブ

花園城【6】③
6 竪堀と切岸

正面には、竪堀の奥に土の壁が見えます。
いよいよ城域に突入です。

花園城【7】④
7 東から3番目の堀切

土の壁手前で堀は右へ曲がり、さらにカギ形に左へ曲がります。
その曲がった先が、こんな感じになっています恋の矢恋の矢恋の矢
山の中で見る堀切としては、かなり長い部類に入ります。
しかも、掘った面は岩が露出しています。
相当な難工事だったと思われます。

花園城【8】⑤
8 曲輪

堀切は、奥から左右へ上れるようになっています。
まずは右(東側)へと上がりました。
曲輪内部は、いつもの光景です。
この写真を見せてどこか当てられたら、超ツワ者ですね!

花園城【9】⑥
9 東から2番目の堀切

上がってきた堀切のもう1つ東側にあるのがこの堀切です。

花園城【10】⑦
10 一番東側にある堀切

そして次の堀切です。
間の曲輪内部の様子は割愛しますクローバー
ここも岩盤を頑張って掘った様子がわかります。

花園城【11】⑧
11 上から見た竪堀

この堀切は、そのまま南斜面を下る竪堀となります。
見える限り、ずっと掘られています。

花園城【12】⑧
12 下から見た竪堀

花園城は、南側の斜面に腰曲輪があります。
その腰曲輪の脇まで下りて来て、振り返って見た竪堀です。
本当に真っ直ぐで、敵の進路をここに限定するかのように見えます。

花園城【13】⑨
13 竪堀

竪堀からやや草深めな腰曲輪を西側へ進むと、竪堀の所で終わります。
竪堀の向こう側にも腰曲輪が続いています。
この感じは、天神山城の腰曲輪とよく似ています。

花園城【14】⑨
14 曲輪南側の石垣

下の腰曲輪から城塁を見上げると、上の曲輪の石垣がよく見えます。
高さは1メートル程で、豊織式のものとは違って土止めのようです。

花園城【15】⑩
15 一番東の堀切の東側

14→10へと竪堀を登り直し、さらに東側へ進んでみました。
上の面は削平されていて、曲輪のような感じになっています。
しかし、ここから先には堀切は無く、やがて道は右(南)へと曲がります。
地図を確認したら、丁度善導寺の真上辺りでした。

花園城【16】⑪
16 東から3番目の堀切(7の反対側)

城内の真ん中に上がって東へ進んだので、今度は反対側へ。
上がってきた堀切を西側へ!

花園城【17】⑫
17 東から4番目の堀切

曲輪内部はどこも代り映えしないので、飛ばします♪
次の堀切も、ガッツリ岩場を掘り砕いています。

花園城【18】⑬
18 東から4番目の堀切

少し下のココが一番固そうな感じです。

花園城【19】⑬
19 主郭南側の石垣

この曲輪も、外側から見ると端っこが布積みの石垣で補強されています。
端っこに行くと、見に下りた跡があるのでわかりやすいです。

花園城【20】⑭
20 城址碑

かなり広い曲輪の端の方に、これがあります。
基本的に手付かずの城跡ですが、ちゃんとあります。
城跡の保存方法としては、かなり理想的だと思います合格

花園城【21】⑭
21 城址碑のすぐ西下にある横堀

城址碑のすぐ西側が崖のようになっています。
そこから下を見ると、城塁に沿って横堀があります。

花園城【22】⑮
22 城址碑のすぐ西下にある横堀

下りてみると城塁は岩盤で、その脇の土塁っぽいのも岩でした。
石を積んだものだと石塁と呼びますが、この場合は何と呼べば・・・?w
とにかく、岩盤の足元を掘って横堀にしてあります。

花園城【23】⑮
23 主郭の西側

西側には、数段の曲輪があるようです。
2段目の右側にうっすらと虎口っぽさはありましたが・・・
目立った堀や土塁などは見当たらず、城域はここまでのようです。

花園城【24】⑯
24 竪堀

登城口へ戻ろうと、先ほどの横堀に沿って進みました。
横堀は右へ曲がり、そのまま竪堀となります。

花園城【25】⑯
25 竪堀

下まで進んで振り返るとこんな感じです。
登ってきた時と同じように、土の壁が前方を塞いでいます。
でも、ここは登って来た所とは別の場所です。
GPS無しで登ると、城のどの辺なのかがわからず混乱しそうです。

花園城【26】⑰
26 竪堀

竪堀はここでも真っ直ぐ下っています。

花園城【27】⑱
27 石垣

南側の腰曲輪でも石垣が見られます。
ただ、上の曲輪とは積み方が異なります。
もしかしたら畑だったのかもしれません。

花園城【28】⑲
28 横堀と石垣

腰曲輪の下の横堀から曲がって竪堀になる所です。
ここは登ってきた竪堀に入る所で、来た時とは反対の左側です。
その足元にも石垣がありますが、入口を固める虎口だったのでしょうか。
それとも、この上に小屋を建てていたのでしょうか。
もしかしたら、ここも畑だったかもしれませんが・・・


城内散策の様子を動画にしてみました。


◆歴史◆

藤田政行により築かれたとされます。

藤田政行は猪俣政家の子で、平安時代の人物です。
保元の乱(1156年)に源義朝方として活躍しています。
その居城として築いたのが花園城とされます。
藤田政行の嫡男・藤田行康は源頼朝方として、一の谷で戦死。
その嫡男・藤田能国が領地を安堵されています。
1221年の承久の乱では藤田能兼とともに北条得宗家方として活躍。
文博士として院宣を読み上げており、文武両道の武者だったようです。
藤田一族は浄土宗に帰依し、持心が藤田派を起こしました。
その子・良心が、今も城の麓にある善導寺を創建しています。

藤田重行が天神山城に居城を移しました。

藤田重行は大石定久とともに、山内上杉家の重臣でした。
その山内上杉家では、上杉憲政と上杉憲寛が家督を巡り争いました。
この争いは1531年、上杉憲政が勝利しました。
藤田重行は上杉憲政方として、秩父地方の攻略に当たりました。
そしてその勝利後、秩父往還沿いに根古屋城と要害山城を築きました。
根古屋城は後の天神山城で、白鳥天神宮の背後の山に築かれました。
藤田重行は天神山城に居城を移し、秩父統一の拠点としました。

藤田重行が北条氏康に降伏しました。

1547年の河越夜戦で、上杉憲政が北条氏康に敗れました。
上杉憲政の勢力は上野国まで後退し、後北条軍が武蔵各地を攻略。
藤田重行は大石定久とともに、後北条軍の軍門に降りました。
この時に両家とも北条氏康の子を養子として迎えています。
ただし、藤田氏を継ぐことになる北条氏邦は1548年生まれです。
藤田重行が後北条氏に降ったとされる1549年でも1歳です。
藤田氏は1560年、長尾景虎が関東に攻め込んだ際に従っています。
そのため、本拠だった天神山城が後北条軍により攻め落とされました。
そして、北条氏邦が天神山城に入ったのは1564年です。
藤田氏が天神山城や鉢形城を明け渡したのは、この頃と思われます。
本拠を明け渡した藤田氏は用土城に移り、用土姓に改めています。

用土姓に改めた後も、藤田氏邦のもとで活躍したようですが・・・
1578年、用土重連は上杉家から沼田城を奪いその城代となりました。
藤田氏邦はこれに激怒し、用土重連を毒殺してしまいます。
北条氏政は用土重連の弟・用土信吉をその後任にしました。
用土信吉は兄の死の真相を知ると、身の危険を察し武田家に鞍替えします。
藤田家嫡流の人物が居なくなると、藤田氏邦は北条姓に復姓しています。

1590年、廃城になったと考えられます。

豊臣秀吉が後北条家を討伐し、北条氏邦の鉢形城も攻められました。
天神山城にも守将が置かれており、花園城も同様だったと思われます。
北条氏邦は1か月の籠城した後開城し、豊臣軍に降伏しました。
鉢形領の各城も同時に開城し、廃城になったものと考えられます。
北条氏邦は戦後、徳川家康の助命嘆願により前田利家預かりとなりました。
この時、上杉家臣となっていた藤田信吉も助命嘆願したとされます。
加賀に移った北条氏邦は、1597年に50歳で没しています。


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天神山城/埼玉県長瀞町

天神山城は、北条氏邦が一時居城としていた山城です。
訪問日は2021年2月20日です。

天神山城【1】①

登城口にある白鳥神社です。
天神山城の名前の由来となった神社です。
白鳥神社となったのは明治9年で、それ以前は白鳥天神宮でした。
天神山城もはじめは根古屋城でしたが、北条氏邦により改名されました。
北条氏邦は、天神様をとても篤く敬っていたそうです。

【位置・再】天神山城

天神山城跡を歩き回った軌跡です。
とりあえず行ける所も残り少なくなり、これが欲しくて訪ねました。
以前訪ねた時には見てなかった所が多く、印象が全く変わりましたラブラブ
城の大手は⑦の先です。

天神山城【2】①
①登城口

城跡に行ける登城口は、白鳥神社の社殿左隣にあります。
神社正面から見ると、白セメントの道を上がった所にあります。

天神山城【3】①
①奥宮?

登城路を登り始めてすぐに、この石の祠が現れます。
目の前に白鳥神社があるので、山にあるのは奥宮でしょうか。
ここまでの道は、幅が広くとても綺麗です。
ここから先の道は、以前と比べればかなり綺麗になったと思います。

天神山城【4】①
①北側の斜面

登城路から見上げた斜面です。
かなり急な勾配で、普通ならここを登ろうとは思いません。
大手口が塞がれているので、皆様こちら側から登ります。
今は道がありますが、往時この道があったかどうかは?です。

天神山城【5】②
②西側の腰曲輪

さらに登城路を登ると、右下前方に腰曲輪が見えました。
以前は見えなかったような気がしますが、私が未熟だったかもしれず。
草が刈られている様子が見えます。

天神山城【6】③
③北側の横堀のような腰曲輪

さらに登ると、横堀のように窪んだ腰曲輪に辿り着きます。
ここも以前訪ねた時の記憶にありませんが、これは完全に私の問題ですあせる
登城路は真ん中に通じており、敵が登って来るのに備えたのでしょうか。

天神山城【7】③
③北側の腰曲輪から

もう1つ上の腰曲輪からは、模擬天守の後ろ姿を拝むことが出来ます。
廃墟となって久しいですが、まだ建物の姿を維持しています。

天神山城【8】④
④北側の段曲輪

腰曲輪からは、北側に突き出した尾根が段になっているのが見えます。
行ってみると、下にも3段ほど階段状に段が連なっているのが見えました。

天神山城【9】⑤
⑤模擬天守

登城路を登り切ると、模擬天守の目の前に出ます。
模擬天守が乗っかている土盛りが、色々手が加わってるように見えます。
肝心の廃墟ですが、やっぱり廃墟です。
屋根の崩壊が進んでいて、そのうち崩れ落ちそうに見えました。
建物のそばには近寄らない方が良さそうです。



まだある内に!ということで撮影しました。
こんな風に撮れるのって、ここだけかもしれませんあせる

天神山城【10】⑤
⑤堀切

模擬天守の前に、この橋があります。
橋があるのは、ここに堀切があるからですラブラブ

天神山城【11】⑤
⑤堀切

やっぱり横顔がお美しい恋の矢
ガッツリやられてる所なので、よくぞ埋められなかったと思います。
堀底も行ったり来たりで堪能しましたが・・・
この橋もかなり傷んでいるようです。

天神山城【12】⑥
⑥二郭

堀切の先には、超広い二郭があります。
以前訪ねた時は、あまりに平らで広いので曲輪と認識せず。
長辺170メートルに及ぶかなり大きな曲輪です。

天神山城【13】⑥
⑥二郭西側の腰曲輪

二郭を奥へ進んでいると、右下(西側)には帯曲輪が並んでいます。
この帯曲輪は、途中でザックリ断ち切られている所があります。
帯曲輪を竪堀で断ち切ってるのは、あまり見掛けない構造です。

天神山城【14】⑦
⑦三郭

奥まで進むと、左側(東側)がだんだん高くなっていきます。
この先端が三郭です。

天神山城【15】⑦
⑦三郭下の横堀

三郭の先端下には、横堀が付けられています。
横堀を奥まで進むと、竪堀で行く手を遮られています。
登ってくる敵を迎え撃ちつつ、ここに迷い込ませるものかもしれません。

天神山城【16】⑦
⑦三郭ザックリ

そんな三郭ですが、丁度中央部がグランドキャニオンのように裂けています。
何となくですが、ショベルカーでやっちゃったように見受けられます。
往時からこうだったとすれば、興味深い構造ではありますが。

天神山城【17】⑧
⑧出郭へはココから

最後に東側にあるという出郭を見てきました。
位置は何となく把握していましたが、どこから行けるのかが?でした。
というのも、出郭へとつながる道が無いからです。
二郭先端から戻る時にこちら側を歩き、ここから下ってみました。
目印は、ここだけやたらとゴミが落ちていますあせる

天神山城【18】⑨
⑨出郭

二郭脇から派生した尾根を下ると、そこは上とは別世界でした。
ひと言で言えば、堀堀ワールドです。
横堀と堀切が複雑に入り組み、まるで迷路のようです。
廃墟しかイメージが無かった天神山城に、こんな所があったとはラブラブ



まだまだ拙いですが、下から戻る時に動画を撮りました。
とにかく堀だらけで、グルグル見回しまくってますあせる


◆歴史◆

天文年間(1532-55)に藤田重利により築かれました。

藤田氏はこの頃、山内上杉家に仕えていました。
上杉家四家老に数えられ、重臣に列しています。
築城された時期は、関東享禄の乱で上杉憲政が勝利した頃です。
同じ時期に、秩父街道沿いに要害山城も築いています。
秩父への交通の要衝を抑える目的だと考えられます。

天神山城のあった所は、丹党・白鳥氏(岩田氏)の支配地域でした。
この事から、藤田氏が岩田氏を降したと考えられます。
ただし、攻め降したというよりも、時勢を見て鞍替えしたようです。
岩田氏は白鳥氏の総領で、白鳥神社付近に館があったと考えられています。
藤田氏と婚姻関係を結び、秩父神社遷宮の流鏑馬を断っています。
この頃から、岩田氏は藤田氏の筆頭家老となっています。
藤田重利は藤田康邦のことだと考えられていますが・・・
そうではないという説もある、謎の多い人物です。

1560年、後北条軍に攻め落とされました。

藤田重利は河越夜戦の後、後北条家に降りました。
その時期は、河越夜戦から2年後の1549年頃とされます。
この時に北条氏康の子・乙千代丸を養子に迎えて娘婿としました。
乙千代丸はその後藤田氏邦と名を改め、藤田氏の家督を継いだとされます。
北条氏邦といえば、鉢形城を拠点として北関東を制圧した名将です。
なぜ後北条軍に攻められるのか?というのが素朴な疑問ですが・・・

北条氏邦をググると、生年は1548年です。
養子に入ったのが1歳、攻められた時でも12歳です。
いくら家督を譲られたとはいえ、自分の意志で動ける年齢ではありません。
藤田氏内部には、反後北条の派閥があったと思われます。

1560年というと、長尾景虎が山内上杉憲政の要請で関東に侵攻。
鎌倉の鶴岡八幡宮で山内上杉家の家督と関東管領職を譲られています。
この時、後北条家に従っていた上杉旧臣が多数寝返っています。
しかし、上杉輝虎(長尾景虎)が越後へ引き揚げると後北条氏が反撃。
上杉家に寝返った者達を攻めています。
天神山城が攻められたのは、その一環と思われます。
藤田康邦は1560年に没したとする文書もあり、謎が深まるばかりです。

1564年、北条氏邦が居城としました。

北条氏邦が藤田家に送り込まれ、家督を継いでいます。
年齢的には、1560年の事があってからの方が自然な気がします。
藤田重利はこの頃、天神山城を譲り鉢形城へ移りました。
天神山城に入った北条氏邦は、岩田義幸の後見を受けています。
岩田氏は藤田氏の家老なので、藤田氏の家督を継げばそうなりそうですが・・・
後見が藤田一族ではない所が、ちょっと不自然な気もします。
北条氏邦は後に義兄弟の藤田重連を毒殺し、藤田信吉には離反されます。
やっぱり、藤田一族とは折り合いが悪かったようです。

1568年、北条氏邦が鉢形城へ移りました。

鉢形城を改修した北条氏邦は、居城を鉢形城へ移しました。
以後は家老の岩田義幸に天神山城を守らせました。
北条氏邦と藤田一族の対立で、北条氏邦に味方したのかもしれません。
長瀞一帯は元々、岩田氏の支配地域ですし。

1590年、廃城になりました。

豊臣秀吉により、後北条氏が滅ぼされました。
この時、鉢形城とともに天神山城も開城となっています。
守将が誰だったのか?ですが、藤田氏ではなさそうです。
(藤田重連は1578年毒殺、藤田信吉は1580年武田家に鞍替え)
岩田氏当主だったと思われる岩田幸清は、小田原に居ました。
戦後は相模国糟屋に隠れ、後に寄居町末野に戻り没したとされます。


所在地:埼玉県秩父郡長瀞町岩田 GPSログダウンロードページ

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両谷城/埼玉県神川町

もう1つの両谷城は、とんでもない山奥にありました。
訪問日は2021年2月20日です。

両谷城【1】①
①入口のヘアピンカーブ

先週は奈良尾峠の手前で路面凍結により断念しましたが・・・
今回は凍結箇所には遭遇せずに、何とか辿り着きました。
とはいえ、ナビアプリで案内された道が立入禁止で山中を大回り。
ここに来るだけでかなり難儀しましたあせる
城跡へは、真正面の重機で削られた部分から突撃しました。

【位置・再】両谷城(神川町)

ヘアピンカーブからは、ひたすら尾根上をまっすぐ進みます。
尾根の分岐は無いので、まず迷うことは無いと思われます。

両谷城【2】②
②尾根をまっすぐ

ここの尾根は色々な表情を見せてくれます。
入ってすぐ開けた場所があり、そこでは杉の苗木が並んでいました。
アイツの出ない品種でありますように・・・( *´人`)

両谷城【3】③
③1つめの堀切

事前にマークした尾根に間違いはないのですが、結構歩きます。
本当にこっちで合ってるのか、だんだん疑心暗鬼になってきました。
しかし、歩くこと8分で前方の地面に異常をハッケソ(*´▽`*)

両谷城【4】③
③1つめの堀切

ようやく巡り会えました。
山の中をあっちこっち迂回しまくった甲斐がありました^^

両谷城【5】④
④2つめの堀切

そのすぐ先にもう1条。
青々とした杉をバックに、今日もお美しいラブラブ

両谷城【7】④
④2つめの堀切

振り返って上から見ても、やっぱりイイ!

両谷城【6】④
④2つめの堀切の先

2つめの堀切から先は、一気に高さが増します。
この上が主郭です。
ここには途中に2つの段があります。

両谷城【8】⑤
⑤斜めに上がる

ただ、一直線に駆け上がるのはもう卒業しました。
産毛の抜け掛けたひよっこは、ちゃんと往時の道を探します。
それっぽいのが、左斜めに上がるこの道でした。
写真だと伝わりにくいのですが、見えますか?

両谷城【9】⑥
⑥北西側の腰曲輪

左斜め上に上がると、真正面に大きな岩が現れます。
そのすぐ下に、細長い段があります。
下は急斜面なので、ここを上がって来る敵はいないでしょうが・・・
もしかしたら、詰丸的な隠れる場所だったのかも?

両谷城【11】⑦
⑦主郭

腰曲輪を見終わったら、まっすぐ上がりました。
上がる道、無かったのであせる
思ったよりもかなり広く、中央部がこんもりしています。

両谷城【12】⑧
⑧北側の堀切

主郭外周を時計回りに進むと、すぐ足元に超ザックリが現れました。
こちら側の尾根も堀切で断ち切られています。

両谷城【13】⑧
⑧北側の堀切

断ち切ろうと掘ったら岩が出てきた!
・・・という感じでしょうか。

両谷城【14】⑧
⑧下から見た北側の堀切

堀切の先から主郭がどう見えるのか、振り返って見ました。
切岸は鋭く、こちら側は通路は無かったことが見て取れます。
本当に遮断するだけの堀切です。

両谷城【15】⑨
⑨尾根を回り込む林道

堀切から下は、まっすぐ尾根が下っています。
その先に、もう1つ堀切がある!
そう思って意気揚々と下って来ました。
そこにあったのは、林道でした。
・・・ということで登り直します。

両谷城【16】⑩
⑩主郭東側の土塁

再び主郭外周を時計回りに進みます。
途中から下草が沢山枯れている部分があり・・・
その足元が少しだけこんもりしています。
東側部分には、痕跡程度ですが土塁があります。


◆歴史◆

不明!!

尾根先端にあり、北側に聳える山とその麓がよく見えました。
ここは上野国との国境に近く、見張り台だったと思われます。
武蔵から上野を見張るとすれば、後北条軍が武田軍を、でしょう。
山越えの峠道を抑えている所も、後北条軍っぽさが出ています。


所在地:埼玉県児玉郡神川町矢納 GPSログダウンロードページ

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龍崖山城/埼玉県飯能市

龍崖山城は、岡部屋敷の奥にある詰城です。
訪問日は2021年2月20日です。

龍崖山城【2】①

奥が龍崖山、右手前が岡部屋敷です。
岡部屋敷は、そんなに高くない尾根部分にありました。
そして、背後の龍崖山山頂を詰城としていました。
それにしても、山一面がヤバイ色してます。
当日はまだ花粉症の私でも何も感じませんでしたが・・・
ここ数日は小春日和を通り越して初夏の陽気が続いています。
私の山城シーズン、早くも黄色から赤に変わりつつありますあせる

龍崖山城【1】①
①中屋敷跡

郵便局前の信号から線路をくぐった所がココです。
岡部屋敷の真下の広大な平坦地が、中屋敷があったとされる場所です。
元々ここに小学校があったそうで、遺構らしき物は何も見当たりません。
車を停める場所には困りませんが^^

【位置・再】龍崖山城

毎回録ってるGPSログですが、ここでは不安定でした。
3個でログを録ったのですが、かなりバラけていました。
こいつが一番まとまっていましたが・・・
それでも①から④まではブレブレです。

龍崖山城【3】①
①ブレハブの裏から

龍崖山には山キチさん達も登りますが、ここからではありません。
あちこち山巡りしつつ、上から尾根伝いに立ち寄る感じです。
ヤツラは口々に「何も無かった」と言いますが・・・
登城路をかなりパクってる身分なので、口を慎まねばあせる
城キチの登城口は、プレハブの裏側です。
笹藪クローバークローバークローバー状態で、一見どこから山に入れるのかがわかりません。
えいや!っと笹を掻き分けると、すぐに下草が無くなります。

龍崖山城【4】①
①この尾根を登ります

中屋敷から一段高いここからみて、右側に尾根があります。
道はありませんが「ここを登れ」と訴え掛けてくる感じがします。
私の心の声でしたが、精神に働きかけるタイプでしょうか・・・
ホラーじゃないですよw
下の方は道がありませんが、少し登るとはっきりした道が現れます。

龍崖山城【5】②
②帯曲輪状の場所

少し登ると、帯曲輪状の所に出ます。
踏み跡はそのまま構わず登っています。
私も先人に倣いここを登りました。

龍崖山城【6】③
③岡部屋敷

登った所は往時の道ではなかったようで、そのままここに出ました。
噂には聞いていましたが、マジで超広いです^^

龍崖山城【7】③
③岡部屋敷・妙見様

GPSで形を記録しようと、外周を一周しました。
一部やや笹の濃ゆい所もありましたが・・・
東側の祠の周りはとても綺麗でした。
そういう場所だからここに祠を祀ったのかもですが。
扉にはお月様のマークがあります。
妙見様ですね^^
とりあえず参上のご挨拶しました。

龍崖山城【8】③
③岡部屋敷・虎口

一周する少し手前で、地面が窪んでいるのを見つけました。
カギ型に窪んでおり、どうやらここが虎口だったようです。
先ほど登って来た所は、ここから10メートル程先です。
②の帯曲輪状の所から回り込み、ココから上がったかもしれません。

龍崖山城【9】③
③岡部屋敷

虎口の西側は、かなり緩い傾斜となっています。
曲輪なのかもしれませんが、建物を建てるには斜め過ぎます。

龍崖山城【10】③
③岡部屋敷・登山口

虎口のすぐ後ろに、山へと入っていく道があります。
その手前の木に、ピンク色のテープで目印がありました。
見つけた順番が逆でしたが・・・
城キチなんて、そんなもんですw

龍崖山城【11】④
④岡部屋敷上の曲輪

ピンクテープから5メートル程上がった所から、手前側にあります。
目印や案内は無く、何となく寄ったら平らな場所でした。

龍崖山城【12】④
④岡部屋敷上の曲輪から見た岡部屋敷

広い岡部屋敷を表現するには上から!と思っていました。
しかし、杉の木が沢山あって、ドローンを飛ばせる状況でもなし。
そんな私への何かのご褒美、という事にしておきます。
何かの運をココで使い果たした、という訳ではないと思いたいデス。
まぁでも、肉眼ではとても良く見えたのですが・・・
写真にすると、ただのバーコードに見えなくもなし。
お天気がいいと、陰陽のコントラストが強烈になります。
写真撮ることだけ考えれば、うっすら花曇りがベストです。

龍崖山城【13】⑤
⑤登山道

岡部屋敷から山頂までは、割と道がはっきりしてます。
そう思って撮ったのですが、見え、ますよね?あせる

龍崖山城【14】⑥
⑥龍崖山山頂の一歩手前

山道を登り切るとココに出ます。
皆様の足跡はまっすぐ正面のこんもりを登っています。
ほんのわずかですが、山頂部は段差があります。
段差を登っちゃいけないとすれば、こっちへ進むのが正解です。
こっちへ進むと、主郭から鞍部へと向かう側に出ます。

龍崖山城【15】⑥
⑥主郭

と言いつつ、そう思ったのは帰宅してからです。
ここでも先人に倣って真っすぐ上がっちゃいました。
人の手が入った証のように、とても綺麗に馴らされています。

龍崖山城【16】⑥
⑥主郭の西側

こんどは鞍部のある西側へ。
こちら側は先細りのような感じで下ります。
先端が台形のようになっているのが見えると思います。
下る道は、こちら側から見て右脇へ回り込むようになっています。
ココ、虎口なんですねラブラブ

龍崖山城【17】⑦
⑦主郭西側の1つ下の曲輪

上の虎口を反対側から見た所です。
反対側から見ているので、道は左脇から回り込んでいます。
真正面は2メートル程の切り立った段差になっています。
これ、尾根を人為的に削っていますね!

龍崖山城【18】⑦
⑦主郭西側の1つ下の曲輪

人の手が入っているということで、ここも平らに馴らされています。
しかし、居住空間という広さはありません。
おそらくココがこちら側の防衛拠点と思われます。

龍崖山城【19】⑦
⑦主郭西側の1つ下の曲輪の虎口

ああ、固有名詞が無いと長ったらしいw
⑦の外側には、平らな岩が並んでいます。
周りに岩は見当たらず、通り道に都合よく並んでいます。
これもおそらく、人為的なものと思われます。

龍崖山城【20】⑦
⑦虎口

反対側から見るとこうなっています。
これ、誰が見ても門ですよね?
ご丁寧に階段まであります。

龍崖山城【21】⑧
⑧堀切

⑦の門のすぐ外側には、土橋のある堀切があります。
私がココで一番見たかったのが、この堀切です。
門のすぐ外側なので、おそらくセットだったと思われます。

龍崖山城【22】⑧
⑧堀切

せっかくなので、横顔を拝見しました。
左側は巨岩です。
人の手では動かせない大きさなので、地形を利用したようです。
通り道を完全に塞いでいたら、また違った形になったと思います。

龍崖山城【23】⑧
⑧堀切

反対側から見た堀切です。
葉っぱのある木があり視界が良くありません。
右下から進み、大きな岩の右脇の土橋を通ります。
こちら側には、登って来た側には無い防御機構が沢山あります。
もしかしたら、城としての大手はこちら側だったかもしれません。


◆歴史◆

我野岡部氏の居城でした。

岡部氏は猪俣党の一族とされます。
地理的には丹党の鍛冶氏の勢力圏ですが・・・
岡部氏は深谷が本貫地なので、飛び地的な感じがあります。
何か大きな戦があり、鍛冶氏の領地が岡部氏に与えられたのかもしれません。
そう思って鍛冶氏を調べると、鍛冶氏的にも飛び地感がたっぷりでした。
鍛冶氏の本貫地は、上野国との境に近い神流川流域だそうです。
ただ、入間市や飯能市には鍛冶氏関連の城がいくつもあります。
鎌倉時代には、領地が飛び地になることがよくありました。
御家人が力を持ち過ぎないよう、地理的に分断したのかもしれません。

天文年間(1532-55)に後北条軍に攻め落とされました。

『寛政呈譜』に、岡部氏歴代の挙動が記されています。
はじめは鎌倉公方に仕え、岡部景澄は足利持氏と共に自害しています。
子の岡部忠邦もはじめ足利持氏に仕え、後に上杉憲実に仕えます。
足利持氏は上杉憲実と争い敗れており、岡部忠邦は降伏したようです。
次の代の岡部憲澄は足利成氏に仕えた後、上杉定政に仕えています。
足利成氏は古河に移っており、地理的に離れたからでしょうか。
以後の岡部氏は、扇谷上杉家に仕えています。
そして岡部泰忠の天文年間に、後北条軍により我野を攻められています。
扇谷上杉家と後北条家が天文年間に争ったとすれば、河越夜戦ですね!
後北条家に侵略された上杉方は、この時手を結んで対抗しました。
山内上杉家、扇谷上杉家だけでなく、長年争った古河公方とも組みました。
そうして挑んだ一大決戦が河越夜戦でしたが、夜襲により形勢逆転。
扇谷上杉朝定が戦の最中に病死か戦死し、後北条家は勢力を拡大しました。
攻められたとすれば、おそらくこの時期だと思われます。
この時、岡部泰忠は撃って出て、後北条軍により討ち取られています。
たぶんですが、勝ち目が無いと見たのかもしれません。
当時幼子だった次の当主・岡部忠秀は、高麗郡日影郷に蟄居しています。
なので、この落城で廃城になったと思われます。

岡部忠秀は成人すると後北条家に仕え、松田憲秀の配下となっています。
松田憲秀といえば、小田原征伐の際に主家を裏切ったことで有名です。
その自害の際に介錯をしたのが、孫の岡部吉正です。
岡部吉正は高野山へ赴いたものの、後に徳川家康に召し抱えらています。


所在地:埼玉県飯能市吾野 GPSログダウンロードページ

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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