2021/02/21
根古屋城/埼玉県飯能市
この根古屋城は、某大聖典には掲載されていない根古屋城です。訪問日は2021年2月20日です。

①諏訪神社と根古屋城
埼玉県内にはいくつも根古屋城があります。
全国的に沢山あってもよさげな名前ですが。
地名を付けて「名栗根古屋城」と紹介されることが多いです。

①諏訪神社
東側の麓にある諏訪神社です。
ここが「なぜ根古屋城なんだろう。根古屋ってどこ?」と思っていました。
私の中の有力な候補地はココだと勝手に思っています。
駐車場の端に土蔵修理に寄進された方々の芳名録が掲示されています。
その先頭には、ひと際大きな文字で岡部姓の方々が名を連ねています。
きっと、城主様とつながりの深い神社なのだと感じました。

城跡への道すじですが、私は先輩方とは全く異なるルートで攻めました。
先輩方は、傾斜が45度はある険しい斜面を登ったという方が殆どです。
これに異を唱え、北西の尾根では?傾斜が多少緩いし、という方もいます。
砂礫で滑りやすい急斜面をなぜ登ろうと思うのか、私には謎です。
私は等高線を見て、南側の谷沿いならそんなに傾斜はキツクないと予想。
結果的にはもっといいルートの発見につながりました(*´ω`*)
最初に結果を書くと、赤い線で示した林道から簡単に登れます。

②谷底を進みました
まずは事前に予想した谷底から攻めました。
神社脇の小さな川を渡り、谷のある方へ進みました。
すると、明らかに人が歩いた道がありました。
よっしゃ(`・ω・´)vとガッツポーズしながら、奥へと進みました。

③右側の斜面
ただ、谷底の道は林業の方が時々歩いているような感じです。
谷底は所々小さく崩れており、そのたびに右へ左へと何度も移ります。
そんなことを何度も繰り返す内に、城跡方向の斜面が緩くなります。
踏み跡もそっち方向にいくつもあり、ここから登りました。

④登り切った所
登り切った所は、土橋のような細尾根でした。
すぐ右側には、小さなピークがあります。
城跡へはこっちへ進みます。

⑤細尾根上の窪み
ただ、反対側の細尾根がとても気になりました。
ここに堀切を入れれば、敵の侵入を防ぐ効果絶大だからです。
そう思って、城跡とは反対の細尾根を辿ってみました。
ハッキリした堀切はありませんでしたが・・・
ここが「もしかしたら?」という窪み方をしています。
尚、さらにこの奥へと進んでみたところ、林道にぶち当たりました。
未舗装ながら、車も通れるような立派なものです。
こちらは帰りに試しに通ってみよう!ということで、城跡方向へ戻りました。

④城跡へと続く細尾根
城跡方向へ戻り、さっき見えたピークに登りました。
ここがゴールならいいなぁ(*´ω`*)なんて思ってましたが・・・
お城の神様は、私に試練をお与えになりましたw
ということで、ピークから見えたのはこのほっそい尾根です。

⑥細尾根
細尾根は、小さなピークを何度も繰り返しながら続きます。
この真正面のピークでは、ど真ん中を大木が塞いでいたりします。
ただの山登りだったら「あ、無理w」で引き返すのでしょうが・・・
私、ただの山登りはしません。
山登り、嫌いですからwww

⑦城塁
何度もピークを越えてる内に、「あ、次ね」と思うようになりました。
しかし、ここはそれまでのピークとは丸っきり雰囲気が違いました。
それは、幅が桁違いに広いからです。
パッと見はただの土の壁で、どこから登るのかが?です。
ただ、城キチの目にはじわじわと上がる道が見えて来ました。
この写真の中にも写っていますが、見えますでしょうか?
答えは、左端の木の右脇です。

⑦主郭
先ほどの城塁を登り切った所です。
ちゃんと平らに馴らされています。
これ、城跡ですネヾ(*´∀`*)ノ

⑦主郭先端部
先端部の真ん中には、ウワサ通りの大きな穴も開いています。
用途は全く想像がつきませんが・・・

⑦主郭先端左下の段
主郭先端から見下ろすと、最初に目についたのがこの段です。
上からは短い帯曲輪?に見えましたが・・・
下りてみると、そんなに曲輪っぽくありません。

⑦主郭先端右下の段
もっと目立つのが、右下に下った所にある段です。
下りる道は無いのですが、来る時も道はありませんでしたw
どんな所か見てみたいと思い、下りてみました。

⑦主郭先端右下の段
まぁ、こんなもんです。
すぐ下には名栗の集落と道がよく見えます。
見張りをするにはとても良い場所だと思います。

⑧林道から見た城跡方向への尾根
さて、帰りは元の沢へ下りようと思っていました。
しかし、来た時に見つけた林道がどうしても気になりました。

⑧林道
この林道がどこに通じているのか知らなかったからでしたが・・・
地図を見ていると、神社脇の林道に繋がってそうな気がしてきました。
まぁ、ダメなら戻って来ればいい!と、こっちへ進んでみました。

⑨神社脇の林道との分岐
進みながらスマホを見てると、神社脇の林道に近づいていました。
そして、ここでついに合流!
地図では神社脇の林道はまっすぐ伸びていて、そっちへの道があります。
城跡方向へは、この壊れた橋を渡ります。
川はちょろちょろ流れる程度なので、歩いて渡るのは全く問題ありません。

⑩神社脇の林道の入口
神社脇の林道の入口です。
白いボードには、関係者以外の車の出入りはお断りと書かれています。
これから訪ねる方は、車で乗り付けるようなことはしないで下さいネ('Д')b
入口は路面が綺麗ですが、奥は大きな岩が露出しててボコボコですし。
◆歴史◆
不明です

戦国時代に間藤藤吉が城主だった、と諸先輩方は紹介されます。
ただし、伝承のみで詳しい事はサッパリです。
個人的には岡部氏が関係しそうな気はします。
それは、
・諏訪神社と関係が深そう
・城跡が「竜がい山」と呼ばれている
まぁ、これだけですけど

諏訪神社の縁起がわからず。
説明板には江戸時代に伝わった獅子舞の事しか書かれていません。
江戸時代は青梅の三田氏の管轄になったことが関係しそうです。
近くのお寺も開基不明だったりして、何もわかりませんでした。
頼みの綱の『新編武蔵風土記稿』ですが・・・
古城の記載は無し。
村の概要として、元弘三年に討死した加治源太左衛門の領地とあります。
元弘三年は1333年で、鎌倉幕府が滅んだ年です。
加治氏は、飯能市から秩父にかけて活動した丹党の一族です。
加治氏は名栗川沿いに勢力がありました。
地理的には最有力候補は加治氏です。
史料と神社からは、岡部氏の線も濃厚です。
岡部氏は、岡部屋敷のある龍崖山を居城としていた一族です。
『寛政呈譜』によれば、天文年間に岡部氏は後北条氏に攻められました。
岡部泰忠は迎撃しますが討死し、我野(吾野)が陥落してしまいました。
この時幼子だった岡部忠秀は、高麗郡日影郷に蟄居しています。
この高麗郡日影郷はすぐ東隣の赤沢村で、城跡のすぐ近所です。
岡部氏は我野郷と名栗郷一体の鉱山師集団だったと伝わります。
どちらとも割り切れないのは、赤沢村の星宮神社の棟札です。
1571年再興時のものには加治修理大夫、岡部小次郎佐が登場します。
当地にはどちらの一族も支配層として存在した、という事ですね。
所在地:埼玉県飯能市下名栗 GPSログダウンロードページ
埼玉県の城跡/なぽのホームページを表示 |