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根古屋城/埼玉県飯能市

この根古屋城は、某大聖典には掲載されていない根古屋城です。
訪問日は2021年2月20日です。

根古屋城【1】①
①諏訪神社と根古屋城

埼玉県内にはいくつも根古屋城があります。
全国的に沢山あってもよさげな名前ですが。
地名を付けて「名栗根古屋城」と紹介されることが多いです。

根古屋城【2】①
①諏訪神社

東側の麓にある諏訪神社です。
ここが「なぜ根古屋城なんだろう。根古屋ってどこ?」と思っていました。
私の中の有力な候補地はココだと勝手に思っています。
駐車場の端に土蔵修理に寄進された方々の芳名録が掲示されています。
その先頭には、ひと際大きな文字で岡部姓の方々が名を連ねています。
きっと、城主様とつながりの深い神社なのだと感じました。

【位置・再】根古屋城(飯能市)

城跡への道すじですが、私は先輩方とは全く異なるルートで攻めました。
先輩方は、傾斜が45度はある険しい斜面を登ったという方が殆どです。
これに異を唱え、北西の尾根では?傾斜が多少緩いし、という方もいます。
砂礫で滑りやすい急斜面をなぜ登ろうと思うのか、私には謎です。
私は等高線を見て、南側の谷沿いならそんなに傾斜はキツクないと予想。
結果的にはもっといいルートの発見につながりました(*´ω`*)
最初に結果を書くと、赤い線で示した林道から簡単に登れます。

根古屋城【3】②
②谷底を進みました

まずは事前に予想した谷底から攻めました。
神社脇の小さな川を渡り、谷のある方へ進みました。
すると、明らかに人が歩いた道がありました。
よっしゃ(`・ω・´)vとガッツポーズしながら、奥へと進みました。

根古屋城【4】③
③右側の斜面

ただ、谷底の道は林業の方が時々歩いているような感じです。
谷底は所々小さく崩れており、そのたびに右へ左へと何度も移ります。
そんなことを何度も繰り返す内に、城跡方向の斜面が緩くなります。
踏み跡もそっち方向にいくつもあり、ここから登りました。

根古屋城【5】④
④登り切った所

登り切った所は、土橋のような細尾根でした。
すぐ右側には、小さなピークがあります。
城跡へはこっちへ進みます。

根古屋城【6】⑤
⑤細尾根上の窪み

ただ、反対側の細尾根がとても気になりました。
ここに堀切を入れれば、敵の侵入を防ぐ効果絶大だからです。
そう思って、城跡とは反対の細尾根を辿ってみました。
ハッキリした堀切はありませんでしたが・・・
ここが「もしかしたら?」という窪み方をしています。
尚、さらにこの奥へと進んでみたところ、林道にぶち当たりました。
未舗装ながら、車も通れるような立派なものです。
こちらは帰りに試しに通ってみよう!ということで、城跡方向へ戻りました。

根古屋城【7】④
④城跡へと続く細尾根

城跡方向へ戻り、さっき見えたピークに登りました。
ここがゴールならいいなぁ(*´ω`*)なんて思ってましたが・・・
お城の神様は、私に試練をお与えになりましたw
ということで、ピークから見えたのはこのほっそい尾根です。

根古屋城【8】⑥
⑥細尾根

細尾根は、小さなピークを何度も繰り返しながら続きます。
この真正面のピークでは、ど真ん中を大木が塞いでいたりします。
ただの山登りだったら「あ、無理w」で引き返すのでしょうが・・・
私、ただの山登りはしません。
山登り、嫌いですからwww

根古屋城【9】⑦
⑦城塁

何度もピークを越えてる内に、「あ、次ね」と思うようになりました。
しかし、ここはそれまでのピークとは丸っきり雰囲気が違いました。
それは、幅が桁違いに広いからです。
パッと見はただの土の壁で、どこから登るのかが?です。
ただ、城キチの目にはじわじわと上がる道が見えて来ました。
この写真の中にも写っていますが、見えますでしょうか?
答えは、左端の木の右脇です。

根古屋城【10】⑦
⑦主郭

先ほどの城塁を登り切った所です。
ちゃんと平らに馴らされています。
これ、城跡ですネヾ(*´∀`*)ノ

根古屋城【11】⑦
⑦主郭先端部

先端部の真ん中には、ウワサ通りの大きな穴も開いています。
用途は全く想像がつきませんが・・・

根古屋城【12】⑦
⑦主郭先端左下の段

主郭先端から見下ろすと、最初に目についたのがこの段です。
上からは短い帯曲輪?に見えましたが・・・
下りてみると、そんなに曲輪っぽくありません。

根古屋城【13】⑦
⑦主郭先端右下の段

もっと目立つのが、右下に下った所にある段です。
下りる道は無いのですが、来る時も道はありませんでしたw
どんな所か見てみたいと思い、下りてみました。

根古屋城【14】
⑦主郭先端右下の段

まぁ、こんなもんです。
すぐ下には名栗の集落と道がよく見えます。
見張りをするにはとても良い場所だと思います。

根古屋城【15】
⑧林道から見た城跡方向への尾根

さて、帰りは元の沢へ下りようと思っていました。
しかし、来た時に見つけた林道がどうしても気になりました。

根古屋城【16】⑧
⑧林道

この林道がどこに通じているのか知らなかったからでしたが・・・
地図を見ていると、神社脇の林道に繋がってそうな気がしてきました。
まぁ、ダメなら戻って来ればいい!と、こっちへ進んでみました。

根古屋城【17】⑨
⑨神社脇の林道との分岐

進みながらスマホを見てると、神社脇の林道に近づいていました。
そして、ここでついに合流!
地図では神社脇の林道はまっすぐ伸びていて、そっちへの道があります。
城跡方向へは、この壊れた橋を渡ります。
川はちょろちょろ流れる程度なので、歩いて渡るのは全く問題ありません。

根古屋城【18】⑩
⑩神社脇の林道の入口

神社脇の林道の入口です。
白いボードには、関係者以外の車の出入りはお断りと書かれています。
これから訪ねる方は、車で乗り付けるようなことはしないで下さいネ('Д')b
入口は路面が綺麗ですが、奥は大きな岩が露出しててボコボコですし。


◆歴史◆

不明ですあせる

戦国時代に間藤藤吉が城主だった、と諸先輩方は紹介されます。
ただし、伝承のみで詳しい事はサッパリです。

個人的には岡部氏が関係しそうな気はします。
それは、
・諏訪神社と関係が深そう
・城跡が「竜がい山」と呼ばれている
まぁ、これだけですけどあせる

諏訪神社の縁起がわからず。
説明板には江戸時代に伝わった獅子舞の事しか書かれていません。
江戸時代は青梅の三田氏の管轄になったことが関係しそうです。
近くのお寺も開基不明だったりして、何もわかりませんでした。

頼みの綱の『新編武蔵風土記稿』ですが・・・
古城の記載は無し。
村の概要として、元弘三年に討死した加治源太左衛門の領地とあります。
元弘三年は1333年で、鎌倉幕府が滅んだ年です。
加治氏は、飯能市から秩父にかけて活動した丹党の一族です。
加治氏は名栗川沿いに勢力がありました。
地理的には最有力候補は加治氏です。

史料と神社からは、岡部氏の線も濃厚です。
岡部氏は、岡部屋敷のある龍崖山を居城としていた一族です。
『寛政呈譜』によれば、天文年間に岡部氏は後北条氏に攻められました。
岡部泰忠は迎撃しますが討死し、我野(吾野)が陥落してしまいました。
この時幼子だった岡部忠秀は、高麗郡日影郷に蟄居しています。
この高麗郡日影郷はすぐ東隣の赤沢村で、城跡のすぐ近所です。
岡部氏は我野郷と名栗郷一体の鉱山師集団だったと伝わります。

どちらとも割り切れないのは、赤沢村の星宮神社の棟札です。
1571年再興時のものには加治修理大夫、岡部小次郎佐が登場します。
当地にはどちらの一族も支配層として存在した、という事ですね。


所在地:埼玉県飯能市下名栗 GPSログダウンロードページ

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両谷城/埼玉県小鹿野町

両谷城は、2007年に発見された山城です。
訪問日は2021年2月13日です。

【位置・再】両谷城(小鹿野町)

県境を越えずに山をウロウロしている今シーズン。
まだ行ける所無いかと地図を見ていて見つけました。
しかも、名前は「りょうがい」と読みます。
あのシリーズに、新たな風を吹き込んだのがまさにココでした。
もう1か所同じ名前の山城がありますが、路面凍結により断念。
もうちょっと暖かくなったら、リベンジしに行きます。

両谷城【1】
①登城口

登城口は、県道43号線の切通しです。
十分路肩は広いですが、50メートル先にもっといい所があります。
そっちの方が、安心して車を停めておけると思います。
城跡へは、カーブミラーの所から登ります。
後で地図みればどこからでも登れそうですが・・・
初めて来てみると、下からはどこが城跡か?です。

両谷城【2】
②道はありません

カーブミラーの所からは、歩きやすい所を進みます。
私は端っこを歩きましたが、要はこの景色の一番奥へ進めばokです。
左下から低い所をまっすぐ上がっても良さそうです。

両谷城【3】
③堀切?

切通しの端をなぞるように進むと、突然これが現れます。
切通しは緩やかな尾根をざっくり断ち切っています。
その尾根を、大昔に断ち切ったのがこっちです。
もしかしたら、往時はここから下る道があったのかも。
想像ですので、何とでも言えますw

両谷城【4】
④掘りこんだ道

堀切?の所から、ほかに選択肢の無い尾根を上がります。
すると、この尾根を蛇行するように道が掘られています。
道なのかどうなのかが?ですが・・・
これが無ければ、山城があったなんて誰も思わなかったかもしれません。
それくらいに、明らさまに人の手が加わっているのがわかります。

両谷城【5】
⑤すぐ上にも

④のすぐ上にも、同じように尾根を蛇行した道があります。
この手間を掛けた目的が見えませんが、直進を防ぎたかったのでしょうか。
それとも堀切掘るのを途中でやめてこうなっちゃったんでしょうか。
今となっては誰も知りません。

両谷城【6】
⑥尾根のピーク

ピークを迂回するよう、脇に道があります。
その脇道を登りきると、どうしてもピークが気になります。
すぐ下にあんなハッキリ掘られた跡がありますからね。
ここが城跡?ということで立ち寄ってみました。

両谷城【7】
⑦最初のピーク

立ち寄ったピークには、小さな祠がありました。
見晴らしは良さそうですが、これがお城・・・とはちょっと違うかも。
左奥にもう1つ小さなピークがありそっちまで寄り道。
しかし、城跡らしき構造は全く見られませんでした。
(なので、下の地図ではこっちの線をグレーにしています)

両谷城【8】⑥
⑥次のピーク

写真マークの位置が違ってるかもですが・・・
登って来た脇道から道なり?の尾根に進んだ所にある次のピークです。
測量に使う杭が見え、ここも見晴らしが良さそうです。
諸兄の紹介では、「堀切2つの小さな城」「すぐ登れる」でした。
さっき見た尾根を掘った所がそれ?と疑念が沸く程、ここまで何も無し。
通り過ぎちゃったのかとだんだん不安になって来ました。

両谷城【9】⑧
⑧堀切

でも!
そのまま進むと見えてきました。
見えた時は、ちょっとだけフリーズしました。
ルートや位置が?で、手探り状態でしたので。

両谷城【10】⑧
⑧堀切の先

先輩方の紹介では、城は2つの堀切に挟まれた小さなもの、でした。
なので、堀切の先が曲輪ということになります。
確かに尾根の上が丸っこくなく、平らにされたように見えます。

両谷城【11】⑨
⑨段差

人の手で馴らされたような尾根を進むと、途中で段差が現れます。
よ~く見ると、手前がうっすら掘られ、上はちょっと膨らんでいます。
かなり小さいですが、堀切と土塁のようです。

両谷城【12】⑩
⑩主郭

堀切と土塁の奥です。
ここもピークになっていますが、削平はかなり甘いです。
これだと建物は建てられませんよね?

両谷城【13】⑩
⑩木の根元にある石

ただ、真ん中の木の根元に、石が人工的に集められています。
なんの目的でこうなってるのかが?ですが・・・
わかる方いらっしゃいますか?
私には何も見えませんあせる
祠的なものがあった痕跡でしょうか・・・

両谷城【14】⑩
⑩先端部から

先端部まで進むと、奥は細尾根が下っていました。
少し急なので、堀切があるかどうかは見に行きませんでした。
先端部から振り返った主郭はこんな風に見えます。


※テキストを追加しました(2021/11/28)

写真だけではわかりづらかったかもしれません。
この日の城跡巡りはココまで。
まだまだ陽が高く所要時間も短いので、登り直して動画を撮りました。
動画では何も無かったピークには寄らず、地図の赤い線をなぞっています。
写真を全部繋げると、こんな感じになります♪


◆歴史◆

2007年に発見されました

それ以外は何もわかっていませんあせる


所在地:埼玉県秩父郡小鹿野町長留 GPSログダウンロードページ

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秩父氏館/埼玉県秩父市

秩父氏館の跡地は、小学校になっています。
訪問日は2021年2月13日です。

秩父氏館【1】
①南西の校門

秩父氏館のあった場所には、小学校と幼稚園と保育所があります。
その南西の入口がココです。
館の門もここにあった?かもしれませんね!

【位置・再】秩父氏館

山でも迷うような場所でもないので要らないかもですが・・・
地形を伝えるには良さげなので貼ります。
地図を見ていると、吉田川が蛇行した内側にあるのはわかります。
しかしそれだけでなく、南側も同様に大きな谷で隔てられています。
地図ではのっぺり描かれますが、等高線が付くと少しリアルになります。

秩父氏館【2】
②小学校の校門

秩父氏館の標柱やら説明板が小学校にあるというので訪ねました。
遺構は絶望的なので、せめて記念碑的なものを見たかったです。
どの辺にあるのかは???でしたが、偶然ここに辿り着きました。
お休みの日なので入れないと思ってましたが、門が半開きです。
これは入ってもいいの?という感じです。
門の近くには受付に寄るよう書かれていました。
ならばと勇気を振り絞って中へ進みました。

秩父氏館【3】
説明板を拡大表示

すると、入ってすぐ右の所にこれがありました。
門が半開きだったのは、見学する人への配慮でしょうか。
見たいのはこれだけだったので、写真だけ撮って退散しました。

秩父氏館【4】
④南側の深い谷

小学校駐車場の南側には、横一線にフェンスが巡っています。
その向こう側には、かな~り深い谷があります。
先輩方の書かれた「秩父氏館」を漁ると「神田堀、やまめ沢」が出ます。
吉田川はわかるのですが、神田堀とやまめ沢がそれぞれどこなのかが?です。
紹介するなら正しい名前を載せたいと思うのですが・・・
とにもかくにも、秩父氏館は吉田川と深い谷に囲まれています。

秩父氏館【5】
⑤南側上空から

そんな様子を見たくて、ここでも空を飛びました^^
まともに飛べるのは、広々として冬は何も無い南側です。
南側の神田堀?やまめ沢?(どっち?w)が、えぐい程ザックリですラブラブ


◆歴史◆

藤原秀郷の陣である鶴ヶ窪城があったとされます。

藤原秀郷は関東武士のヒーローですが、ここに来たことがあります。
それは平将門が起こした乱の鎮圧のためで、940年の出来事です。
下総で平将門を討ち取った藤原秀郷は、秩父の平将平を討伐に来ました。
しかし、平将平は山城の石間城に立て籠もり、頑なに抵抗しました。
そのため、藤原秀郷は鶴ヶ窪台地に陣を置き、じっくり腰を据えたのです。
激戦の末に平将平を討ち取っています。

秩父氏が一時本拠としました。

秩父氏は、1023年に藤原真枝を鎮圧した平将恒を祖とします。
平将恒はこの功により武蔵、上総、下総、駿河に領地を得ています。
かなり大きな乱だったようですが、ググってもあまり出てきません。
この後、秩父郡中村郷に拠点を移して秩父姓を名乗るようになります。

秩父将恒の母は平将門の娘・春姫です。
秩父将恒の父・平忠頼は、平将門とは従兄弟でした。
そして、従兄弟と対立した平繁盛を仇敵と呼んでいたそうです。
尚、兄・平忠常の子孫が長尾氏となります。
秩父将恒は源氏の先陣を務め、前九年の役で戦死しています。

その子・秩父武基が秩父別当となり吉田郷に拠点を置きました。
場所は鶴ヶ窪台地・・・ではなく、ちょっと南西の牧林とされます。
秩父武基は、年次は不明ですが謀反の噂により佐渡に流されています。

秩父武綱は祖父同様、源氏の先陣として前九年・後三年の役で活躍。
源頼義から「奧先陣譜代ノ勇士」として白旗を与えられています。
この白旗が、後に子孫が源頼朝に仕える際に役立つこととなります。
秩父武綱は武蔵国留守所総検校職に任命され、強大な武士団を形成。
鶴ヶ窪台地に館を築き、本拠地としました。
その子孫は畠山氏、河越氏をはじめ、関東一円で栄えることとなります。

畠山重忠により若宮八幡宮が勧請されたと伝わります

気になって『新編武蔵風土記稿』秩父郡巻之十五 下吉田村の所を見ました。
すると、若宮八幡宮の所に文字がビッシリ書かれていました。
そこには、畠山重忠が鶴岡八幡宮を勧請し鶴窪八幡宮と号したとあります。
その後は長過ぎて読みませんでしたが・・・

古城址の所には「小名町にあり、秩父武綱の城跡と云う」があります。
この続きは「八幡社の条に出せり」とあり、先程の神社につながります。
この次に陣屋跡が続き、同じ「小名町にあり」と書かれています。
こちらは江戸時代に年貢を集める場所だったようですが・・・
『新編武蔵風土記稿』の取材時点では、村民の畑となっていたそうです。
伝承レベルですが、以後は城として使われなかった可能性大です。

その後の秩父氏

秩父武綱の子・秩父重綱も、秩父郡吉田郷を本拠としたとされます。
しかし、その子が畠山重弘と河越重隆です。
両名とも、拠点とした畠山荘・河越の地名を姓としています。
しかも、家督を巡って争い、勝利した畠山重弘が本拠地を継いでいます。
その地が、吉田郷ではなく大蔵です。
秩父氏は、豊かな軍事力により東へと勢力を拡大。
そのためか、秩父の外側に拠点を置くようになったようです。
秩父牧があるので一族が居たと思われますが・・・
歴史の表舞台には登場しなくなります。

戦国時代には、北条氏邦の家臣として秩父孫次郎の名が登場します。
秩父氏が畠山氏と河越氏に分かれてから300年以上経っています。
この頃、犬懸長尾氏や丹党の一族も秩父姓を名乗っていたようです。
ググって見つかるのは秩父孫次郎ですが、鉢形城三の丸に館がありました。
秩父「孫次郎」の名前がいかにも長尾一族っぽいのですが・・・
調べて見つかるいずれの系統も、四~六の間ですあせる
まぁ、長尾氏も秩父氏の子孫なので、別氏族からの養子かもですが。
秩父孫次郎は後北条氏滅亡後、秩父郡阿熊村で帰農したと伝わります。


所在地:埼玉県秩父市下吉田 GPSログダウンロードページ

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浦山城/埼玉県皆野町

浦山城は、群馬県との県境に近い山の中にありました。
訪問日は2021年2月13日です。

浦山城【1】
①あじさい山公園駐車場

ここには本当は1月1日に来る予定でした。
しかし、大晦日から一気に冷え込み最低気温は-7度。
道が凍ってるだろうと予想し、後回しにしていました。
先週は小春日和が続き「もしかしたら」と思ったら来れました。
道を調べてストビュー見てた時は、この角度で見てました。
しかし、実際に辿り着いたのは反対側からでした。
道を間違えたようですが、全ての道はお城に通じているようですw

浦山城【2】

さて、どこから山に入るんかい?と、少しだけウロウロしました。
ここら辺かな~と、尾根の端まで歩いて来てしまいました。
ここは、流石の城キチでも登るのは嫌です。

【位置・再】浦山城

ということで軌跡です。

浦山城【3】
①登り口

山へは、ここから登ります。
ストビューでは写っていた階段が、落ち葉に埋もれて見えませんでした。
「その場に辿り着けば何とかなるさ♪」的なA型の特徴が出ています。

浦山城【4】
②細尾根

階段から上がると、尾根に沿って虎ロープが両サイドに張られています。
しかしそのロープは、途中で左下の広い所へ向かって下って行きます。
城跡はロープの外になるので、くぐってそのまま真っすぐ進みます。

浦山城【5】
③見えてきたピーク

階段を上がってから3分で、それっぽいピークが見えて来ます。
今までの経験から「あれは幻だ」と思うようにしていますが・・・

浦山城【6】
④虎口

このピークは真っすぐ上がらず、小さく脇に反れてから上がります。
手前が少し高くなっていて、わざと曲がって上がる感じになっています。

浦山城【7】
④虎口から見た堀切

すぐにお城っぽくなったなぁと思ったら、今度は堀切が現れました。
私の城跡巡りにしては、かなり早いご登場ですラブラブ

浦山城【8】
⑤西側の堀切

こんな山奥まで来て良かった(*´▽`*)と思えるお姿です恋の矢

浦山城【9】
⑥主郭

堀切を越えた所に石灯籠があります。
ここが主郭です。
長さ10メートル、幅5メートル程の小さな平坦地です。
周りは山に囲まれていて、眺めが良い訳ではありません。
峠道を抑えるのが目的だったのでしょうか。

浦山城【10】
⑥東側

主郭の東側にも堀切があります。

浦山城【11】
⑦東側の堀切

こちらはこちらでお美しいデス^^

浦山城【12】
⑦から見た⑧の平坦地

堀切から先は尾根が下るだけ、、、かと思ったら違いました。
下の方に平坦面があるのが見えます。

浦山城【13】
⑧平坦地と展望

下りてみたら、縁に若干の土塁っぽさがありました。
もしかしたら曲輪?な感じです。
ここからは、ザックリ削られた山々が見えます。
秩父には、こういう山が沢山あります。
いくつも山城が消滅したんだろうと、心が痛くなります。

この下にも段になった小さな平坦地が2段あります。
小さな木が密生していましたが、見えちゃうんですよね・・・道が。
とりあえず一番下の平坦地まで下りました。
⑧を少し狭くしたような感じで、ザックリ山がよく見えました。

浦山城【14】
⑧近道

さて、戻るとなるとまた登り直しとなります。
下る時は前方に夢中になって、帰りの事忘れちゃうんですよね。
ちょっとヤバくなって来たかもですあせる
そう思っていると、水平に進む綺麗な道がありました。
「どこにつながってるんだろう?」という好奇心もありこちらへ。

浦山城【15】
⑨近道の真ん中にある食い違い

尾根にあった小さな段が曲輪なのか、工事用のものなのかは???です。
そこにまっすぐつながるこの道も、往時のものではないと思います。
ただ、丁度真ん中ぐらいにグネッとねじれている所があります。
土塁は無いので虎口ではありませんが、どうなんでしょう?

浦山城【16】
⑩近道の出入口

そのまま進むと、駐車場から100メートル程離れたヘアピンに出ました。
入口には竹が積まれていて、あまり入って欲しくなさそうに見えます。
反対側から来ちゃったので、そのまま乗り越えました。

浦山城【17】

最後に、せっかくなので空飛びました。
本当は1周回ろうと思いましたが、電池が足りず。
残念ですが、静止画だけです_| ̄|〇


◆歴史◆

不明あせるあせるあせる


所在地:埼玉県秩父郡皆野町金沢 GPSログダウンロードページ

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要害山城/埼玉県寄居町

ココの要害山城は通称「金尾山城」と呼ばれています。
訪問日は2021年2月13日です。

【位置・再】要害山城(寄居町)

現在ココは「金尾つつじ山」ということで、公園として整備されています。
そのため、歩きやすい道などが整備されています。

要害山城【1】
①駐車場

入口の真正面には、車が沢山停められる駐車場があります。
いつもこうだったらイイのに!というくらいに広いです。
でも、ツツジのないつつじ山はまぁ、ザッとこんなもんです。
今日も張り切って貸し切りでGo!です。

要害山城【2】
①入口

駐車場の目の前に、迷いようが無いくらいに目立つ入口があります。
これを見て「どこから登ったらいいの?」なんて言う人がいたら・・・
私ならお友達やめちゃいそうですw

要害山城【3】
②城キチの入口

私は上の入口ではなく、城キチ用の入口から登りました。
場所は、さっきの所からちょっとだけ上です。
この道、城キチじゃない人にもたぶん見えると思います。

要害山城【4】
②城キチ専用道

さっきの入口からは、とても綺麗に整備された山道があります。
普段の山にもこんな道があればもっと楽に登れるのですが・・・
でも、それだとどこもかしこも人がいっぱい来ちゃいますよね?
今は密にならないよう、人の居ない山城がお勧めですし。

要害山城【5】
③尾根に連なる曲輪群

城キチ専用道からは、斜面に分け入った踏み跡がいくつもあります。
私もそっちに進みたい衝動を抑えつつ、人の道を歩み続けました。
そして、人の道を歩み切った所は笹がいっぱい茂る藪でしたクローバー
曲輪群はここから下の尾根に沿って連なっているのですが・・・
こんな状態では、苦労して分け入っても遺構を見ることが出来ませんあせる

要害山城【6】
③山頂方向

笹藪を5メートルほど掻き分けると、真人間の世界が現れます。
尾根の曲輪群を見られないなら、こっち側から登っても良かったです。
でも、山の雰囲気を味わえる「人の道」を進んだことに後悔はありません。
事前に見た資料では「人の道」で竪堀を2本見られるハズでしたが・・・
気にして無かったので、完璧に見落としましたあせる
まだまだ山城に行き足りてないという事デスね!
精進せねば・・・w

要害山城【7】
④三郭下の段

真人間の世界に入り込んで、最初の平らな場所です。
三郭の下なので四郭かと思いましたが、資料の図には何もナシ。
やっぱり、遺構なのか遺構じゃないのか、見る目がまだまだです。
精進せねば、精進せねばw

要害山城【8】
⑤三郭から見た主郭

さっきの段から階段を上がった四阿のある所が三郭です。
ここから見た主郭のこんもりが、お城らしくて恋の矢恋の矢恋の矢デス。
変な白亜の張りぼてにしなかった所も、なかなかイケています。

要害山城【9】
⑥二郭にある春日神社

三郭と並んでいる大きな曲輪が二郭です。
なんか真ん中で幅狭くなってるなぁと思いましたが・・・
1つの曲輪だと思っていましたが、間に竪堀がありましたあせる
私、もしかして調子悪い?
きっと公園化で色々いじられているからデス。
草木の茂るいつもの山中でも、やっぱり気付かない気が。
修業が足りませんね・・・

要害山城【10】
⑥二郭の虎口?

そんな私でも、城キチアンテナが反応した場所があります。
それが、二郭の東端です。
若干つつじの枝に視界を阻まれていますが、土の迷路が見えました。
辿って歩くと、カギ形になって二郭へ入って行きます。
これゼッタイに虎口だと思います(`・ω・´)p

要害山城【11】
⑦主郭からの眺め

最後に、一番高い所にある主郭です。
カメラを構えたのですが、狭いので展望台の足しか写らず・・・
しかたがないので、上から目線で見下してみました。
ちょっと気分良かったですヾ(*´∀`*)ノ



見通しが良いのと貸し切りだったのとで、空も旅しました♪


◆歴史◆

1532年、藤田重利により築かれたと伝わります。

藤田重利は、後に北条氏邦を養子に迎えた藤田康邦と考えられています。
当時は関東享禄の内乱が終結した頃です。
藤田氏は上杉憲政に味方し、西の丹党・白鳥氏を攻略しました。
同時期に築いた天神山城は、白鳥氏の白鳥神社のある山にあります。
築城当時は根古屋城でしたが、後に北条氏邦が天神山城と改名しています。

白鳥氏の他にも秩父氏らを攻め、秩父一帯を支配下に置いたとされます。
根古屋城(横瀬町)の歴史で秩父氏が登場し、誰?となりましたが・・・
どうやら犬懸長尾氏のようです。

要害山城には、金尾弥兵衛が城主として置かれました。
出自等ぜんぜんわかりませんが・・・
要害山城は、秩父街道が荒川を渡る殿蔵の渡しを抑える位置にあります。
殿蔵は、金尾弥兵衛の蔵があった所と伝わります。
天神山城もこの街道沿いにあり、秩父街道の掌握が目的だったようです。

藤田重利は1546年、河越夜戦の後に後北条氏に降伏しました。
その際に北条氏康の子・北条氏邦を養子に迎えて家督を譲りました。
藤田重利はこの時に用土康邦と改名し、本拠を明け渡しています。

城跡にある説明板では、1560年に愛宕神社が二の曲輪に創建されました。
火伏せの神と導きの神を勧請し、城の守りとして祀ったとされます。
何があったかと思えば、長尾景虎が関東に攻め込んだ年でした。
この時、藤田氏は長尾景虎に味方し、天神山城を攻め落とされています。
北条氏邦が天神山城に入城したのは、その後の1564年です。

藤田氏による秩父統一後も、北条氏邦は城を重視したという事になります。
この頃に、麓の秩父往還を取り込む形に改められたと考えられています。
その後は歴史に登場しませんが、後北条氏と運命を共にしたと思われます。


所在地:埼玉県大里郡寄居町金尾 GPSログダウンロードページ

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故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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