2017/06/04
品川台場/東京都港区
品川台場は、東京湾の江戸城付近に築かれた海上の砲台跡です。今年の4月6日に続日本100名城に指定されるまでノーマークでした

訪問日は今朝(2017年6月4日)です。
※2018年4月7日、続日本100名城スタンプについて追記しました。

お台場海浜公園から見た第六台場(左)と第三台場(右)です。
お台場からは地続きになっており、レインボーブリッジがすぐ脇を通っています。

第三台場の入口です。
こうやって見ると、元々は地続きではなかったのが何となくわかります。

第三台場の内部です。
想像していたのは、海上に石垣で囲まれた真っ平らな埋立地でした。
実際には10メートル近い高さの土塁に囲まれた、海上の要塞です。
これなら、外から内部の様子を窺い知ることは出来ませんね!

入口から上がってすぐの所にある説明板です。
続日本100名城になるずっと前からあるような、年代を感じさせます。

その中の図だけ拡大してパクリます

実は、この中に結構大事な事がこっそり書かれていたりします。

周囲を囲む土塁です。
幅がかなりあり、陸上のお城なら多聞櫓が建てられそうです。
往時はここに塀などがあったのでしょうか。

時計回りに進んで角を曲がると、南側の土塁には2基の砲台跡があります。
ちゃんと東京湾の外側を向いており、それらしい雰囲気を醸し出しています。

遠くから見れば、、、ですが

案内図の右隅にこっそり書かれていますからねw

「砲台跡」付近から見た内部の様子です。
高土塁に囲まれた風景って、つい何度も撮ってしまいます。
だって、いい風景ですよね?

西側に来ると、離れた所にもう1つの台場が見えます。
これが第六台場です。
立入禁止となっており、原形をとどめているそうです。
台場は11か所造る予定でしたが、完成したのは5か所でした。
その中で、現在も残っているのは第三台場と第六台場の2か所だけです。
「後でレインボーブリッジから上から目線で見てやるw」と、しばしのお別れです。

案内図では、北西の角に「史跡記念碑」が描かれていました。
城址碑などを拝むのは、城跡巡りの楽しみの1つなので、楽しみにして近づいたのですが・・・
足元には外側に出ないよう、低いロープが張られて無言の圧力を掛けて来ます。
どこにも「立入禁止」とは書かれていないのですが・・・
空気読むと、その低いロープより外側には出てはいけなさそうな雰囲気。
ハッキリどこにも書かれてないので、外側に出たいけど、何となく出られないもどかしさ・・・
結局、ロープの内側から見えたのは、これが精一杯でした


土塁は北西の角でいったん切れ、この外側に小さな船着き場があります。
「立入禁止」と書かれていますが、藪漕ぎ上等の私でも遠慮したい草深さです。
でも、「立入禁止」じゃなかったら・・・わかりませんwww

石碑の見えなかった側を撮ろうと、反対側の土塁に登り直しました。
こちらも外側に低っくいロープが張られており、精一杯近づいて撮ったのがコレです。
見える文字は「昭和二年八月建設 東京市」・・・
よく紹介されている「品川臺場」の文字は、レインボーブリッジから撮られたものと判明。
ちょっと距離はありますが、ますます上から目線で見てやろう!と闘志を燃やすのでした


北側の土塁上から見た内部の様子です。
もう三度目ですね・・・w

さて、第三台場も堪能したことだし、次はレインボーブリッジへ。
橋へ向かう通路の付け根に向かって歩いて行くと・・・???
ゲートが閉まっています。

入口の建物に近づいてわかりましたが、通れる時間が決まっているようです。
橋を歩いて渡るだけなので、24時間いつでも通れるものと思っていました

この時まだ5時41分。
3時間19分はとても待てないので、上から目線攻撃は中止しました。
半年後か1年後にはスタンプが設置されそうなので、その時のお楽しみとしておきます。

他にも台場の痕跡があるらしく、次に第五台場跡を訪ねてみました。
場所は品川ふ頭です。
Google Mapにハッキリ「第五台場跡」なんて書かれているので、ちょっと期待してみました。
結果はご覧の通りで、なんにもありません

天王洲アイル駅の区画の北東側では、第四台場の石垣を積み直したものが見られるそうです。
私は通り過ぎてしまいましたが


天王洲アイル交差点から西側に曲がり、橋を渡った先には御殿山下砲台跡があります。
ここは、品川台場構築の計画変更により新たに台場が築かれた所です。
ここも埋め立てられましたが、外周に沿って道が造られたので、地図で形がわかるのだとか。
この台場跡のモニュメントが台場小学校と台場幼稚園の正門脇にあります。
灯台のモニュメントは、第二台場にあった日本で三番目の西洋式灯台を模したものです。
本物の灯台が現存しますが、愛知県の明治村にあるそうです。
白い車の陰になって見えないのですが、モニュメントの前には説明板もあります。
◆歴史◆
1853年6月、ペリーが来航しました。
ペリーは日本と国交を結ぶべく、大統領の親書を携えて来航しました。
この時の日本側の対応に業を煮やし、東京湾や浦賀で勝手に測量を行っています。
これは日本側を威圧する目的だったようで、幕府は対応に苦慮したようです。
幕府からの返答を待っている間、ペリーは100発程空砲を撃ったそうです。
1853年8月、品川台場の建設が始まりました。
12代将軍・徳川家慶が病気のため、江戸幕府はペリーに返答を1年待つよう申し入れました。
ペリーはこの要請を飲みましたが、浦賀から東京湾奥深くまで入った後、香港へ戻りました。
この10日後に将軍・徳川家慶が世を去りました。
江戸幕府はペリーにどのような返答をするか決められずにいましたが・・・
海岸防衛のため、江戸城の手前の海上に砲台を築くことになりました。
設計は韮山反射炉で有名な伊豆韮山代官・江川英龍が行いました。
台場建設は急ピッチで行われ、第一から第三台場は翌1854年4月に完成させる早業でした。
1854年1月、ペリーが再び来航しました。
江戸幕府が返事をする期限はまだ先でしたが、ペリーは突然現れました。
これは、将軍が亡くなって間もない混乱期を狙ったものとされています。
しかし、東京湾で完成間近の台場があるのを見て驚き、慌てて浦賀まで引き返したそうです。
1854年5月、第四台場と第七台場の建設が中止されました。
3月末日に江戸幕府がアメリカと日米和親条約を結び、日本の鎖国は終わりました。
これにより品川台場の一部の建設が中止されました。
しかし、第五台場と第六台場の建設は続き、同年12月に完成しました。
1926年10月、第三台場と第六台場が国の史跡に指定されました。
1928年7月、第三台場が「台場公園」として公開されました。
他の台場は、埋め立てや航路の邪魔になるとして、姿を消しました。
・1939年6月、第四台場 埋め立て
・1961年12月、第二台場 撤去
・1962年9月、第五台場 埋め立て
・1963年3月、第一台場 埋め立て
・1965年3月、第七台場 撤去
続日本100名城スタンプ
![]() | 設置場所(2018年4月7日時点) マリーンハウス1階案内所(場所は地図の★印の所) 4月~9月 9時~19時 10月~3月 9時~18時 ※潮風公園管理所が工事中の間の暫定措置と思われます |
所在地:東京都港区台場1丁目(都立台場公園)ほか
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