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品川台場/東京都港区

品川台場は、東京湾の江戸城付近に築かれた海上の砲台跡です。
今年の4月6日に続日本100名城に指定されるまでノーマークでしたあせる
訪問日は今朝(2017年6月4日)です。
※2018年4月7日、続日本100名城スタンプについて追記しました。

【写1】品川台場

お台場海浜公園から見た第六台場(左)と第三台場(右)です。
お台場からは地続きになっており、レインボーブリッジがすぐ脇を通っています。

【写2】品川台場

第三台場の入口です。
こうやって見ると、元々は地続きではなかったのが何となくわかります。

【写3】品川台場

第三台場の内部です。
想像していたのは、海上に石垣で囲まれた真っ平らな埋立地でした。
実際には10メートル近い高さの土塁に囲まれた、海上の要塞です。
これなら、外から内部の様子を窺い知ることは出来ませんね!

【写4】品川台場

入口から上がってすぐの所にある説明板です。
続日本100名城になるずっと前からあるような、年代を感じさせます。

【写5】品川台場

その中の図だけ拡大してパクリます音譜
実は、この中に結構大事な事がこっそり書かれていたりします。

【写6】品川台場

周囲を囲む土塁です。
幅がかなりあり、陸上のお城なら多聞櫓が建てられそうです。
往時はここに塀などがあったのでしょうか。

【写7】品川台場

時計回りに進んで角を曲がると、南側の土塁には2基の砲台跡があります。
ちゃんと東京湾の外側を向いており、それらしい雰囲気を醸し出しています。

【写8】品川台場

遠くから見れば、、、ですがあせる
案内図の右隅にこっそり書かれていますからねw

【写9】品川台場

「砲台跡」付近から見た内部の様子です。
高土塁に囲まれた風景って、つい何度も撮ってしまいます。
だって、いい風景ですよね?

【写10】品川台場

西側に来ると、離れた所にもう1つの台場が見えます。
これが第六台場です。
立入禁止となっており、原形をとどめているそうです。

台場は11か所造る予定でしたが、完成したのは5か所でした。
その中で、現在も残っているのは第三台場と第六台場の2か所だけです。
「後でレインボーブリッジから上から目線で見てやるw」と、しばしのお別れです。

【写11】品川台場

案内図では、北西の角に「史跡記念碑」が描かれていました。
城址碑などを拝むのは、城跡巡りの楽しみの1つなので、楽しみにして近づいたのですが・・・
足元には外側に出ないよう、低いロープが張られて無言の圧力を掛けて来ます。
どこにも「立入禁止」とは書かれていないのですが・・・
空気読むと、その低いロープより外側には出てはいけなさそうな雰囲気。
ハッキリどこにも書かれてないので、外側に出たいけど、何となく出られないもどかしさ・・・
結局、ロープの内側から見えたのは、これが精一杯でしたあせる

【写12】品川台場

土塁は北西の角でいったん切れ、この外側に小さな船着き場があります。
立入禁止」と書かれていますが、藪漕ぎ上等の私でも遠慮したい草深さです。
でも、「立入禁止」じゃなかったら・・・わかりませんwww

【写13】品川台場

石碑の見えなかった側を撮ろうと、反対側の土塁に登り直しました。
こちらも外側に低っくいロープが張られており、精一杯近づいて撮ったのがコレです。
見える文字は「昭和二年八月建設 東京市」・・・
よく紹介されている「品川臺場」の文字は、レインボーブリッジから撮られたものと判明。
ちょっと距離はありますが、ますます上から目線で見てやろう!と闘志を燃やすのでしたメラメラ

【写14】品川台場

北側の土塁上から見た内部の様子です。
もう三度目ですね・・・w

【写15】品川台場

さて、第三台場も堪能したことだし、次はレインボーブリッジへ。
橋へ向かう通路の付け根に向かって歩いて行くと・・・???
ゲートが閉まっています。

【写16】品川台場

入口の建物に近づいてわかりましたが、通れる時間が決まっているようです。
橋を歩いて渡るだけなので、24時間いつでも通れるものと思っていましたあせる
この時まだ5時41分。
3時間19分はとても待てないので、上から目線攻撃は中止しました。
半年後か1年後にはスタンプが設置されそうなので、その時のお楽しみとしておきます。

【写17】品川台場

他にも台場の痕跡があるらしく、次に第五台場跡を訪ねてみました。
場所は品川ふ頭です。
Google Mapにハッキリ「第五台場跡」なんて書かれているので、ちょっと期待してみました。
結果はご覧の通りで、なんにもありませんあせる

天王洲アイル駅の区画の北東側では、第四台場の石垣を積み直したものが見られるそうです。
私は通り過ぎてしまいましたがあせる

【写18】品川台場

天王洲アイル交差点から西側に曲がり、橋を渡った先には御殿山下砲台跡があります。
ここは、品川台場構築の計画変更により新たに台場が築かれた所です。
ここも埋め立てられましたが、外周に沿って道が造られたので、地図で形がわかるのだとか。
この台場跡のモニュメントが台場小学校と台場幼稚園の正門脇にあります。
灯台のモニュメントは、第二台場にあった日本で三番目の西洋式灯台を模したものです。
本物の灯台が現存しますが、愛知県の明治村にあるそうです。
白い車の陰になって見えないのですが、モニュメントの前には説明板もあります。


◆歴史◆

1853年6月、ペリーが来航しました。

ペリーは日本と国交を結ぶべく、大統領の親書を携えて来航しました。
この時の日本側の対応に業を煮やし、東京湾や浦賀で勝手に測量を行っています。
これは日本側を威圧する目的だったようで、幕府は対応に苦慮したようです。
幕府からの返答を待っている間、ペリーは100発程空砲を撃ったそうです。

1853年8月、品川台場の建設が始まりました。

12代将軍・徳川家慶が病気のため、江戸幕府はペリーに返答を1年待つよう申し入れました。
ペリーはこの要請を飲みましたが、浦賀から東京湾奥深くまで入った後、香港へ戻りました。
この10日後に将軍・徳川家慶が世を去りました。

江戸幕府はペリーにどのような返答をするか決められずにいましたが・・・
海岸防衛のため、江戸城の手前の海上に砲台を築くことになりました。
設計は韮山反射炉で有名な伊豆韮山代官・江川英龍が行いました。
台場建設は急ピッチで行われ、第一から第三台場は翌1854年4月に完成させる早業でした。

1854年1月、ペリーが再び来航しました。

江戸幕府が返事をする期限はまだ先でしたが、ペリーは突然現れました。
これは、将軍が亡くなって間もない混乱期を狙ったものとされています。
しかし、東京湾で完成間近の台場があるのを見て驚き、慌てて浦賀まで引き返したそうです。

1854年5月、第四台場と第七台場の建設が中止されました。

3月末日に江戸幕府がアメリカと日米和親条約を結び、日本の鎖国は終わりました。
これにより品川台場の一部の建設が中止されました。
しかし、第五台場と第六台場の建設は続き、同年12月に完成しました。

1926年10月、第三台場と第六台場が国の史跡に指定されました。
1928年7月、第三台場が「台場公園」として公開されました。

他の台場は、埋め立てや航路の邪魔になるとして、姿を消しました。

・1939年6月、第四台場 埋め立て
・1961年12月、第二台場 撤去
・1962年9月、第五台場 埋め立て
・1963年3月、第一台場 埋め立て
・1965年3月、第七台場 撤去

続日本100名城スタンプ
 設置場所(2018年4月7日時点)
 マリーンハウス1階案内所(場所は地図の★印の所)
 4月~9月 9時~19時
 10月~3月 9時~18時
 ※潮風公園管理所が工事中の間の暫定措置と思われます


所在地:東京都港区台場1丁目(都立台場公園)ほか

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八王子城/東京都八王子市

前日の夜は小雨が降りましたが、朝起きたらイイ天気!
かねてから再訪したかった八王子城へ久しぶりに行ってきました。
訪問日は昨日(2017年1月21日)です。

前回はまだ私が城キチのヒヨコだった2008年9月8日です。
当時はまだ天守ばかりを追いかけており、土塁や堀などにはあまり興味を示さない時期でした。
そのため、主殿の石垣だけ見て「あとは高っかい山か、、、パスw」という感じでした。
それが、年月とともに嗜好も変わり、いつかまた訪ねたいと思うようになりました。
今日は雨上がりだからと予定を入れずに居ましたが、やはりお天道様の誘惑は絶大ですw

ということで、いつもなら入念に道順などもしっかり調べるのですが・・・
環七→甲州街道→ok!と、かなりザックリ走って来てしまいました。
やっぱり迷子になりました。

【写1】八王子城

そんなこんなで、自宅から3時間かけてようやくここに辿り着きました。
ここは登城口にあるガイダンス施設です。
管理棟は現在改築中のようなので、100名城スタンプはここでゲットです。

【写2】八王子城

100名城は全部回ったのに、スタンプは全く押さず・・・
「2周めのお楽しみ」という訳ではないのですが、近くに寄った時に押して回ってます。
スタンプ押しに来て誘惑に負け、そのまま登城してしまいますけどあせる
今回は登城がメインで、スタンプはついでですよ!

【写3】八王子城
拡大図

確か「説明板にいい図があったハズ」と思っていましたが見当たらず・・・
管理棟が建て替えのようで、その前にあったタイル貼りのも無くなっていました。
ということで、前回撮った図を載せます。
今回紹介するルートは、前半は要害地区、後半が居館地区です。

【写4】八王子城

上の図の右下にある「現在地」がココです。
工事をしている所に管理棟がありました。
山上の本丸へはここを右へ、麓の御主殿跡は左へ進みます。

【写5】八王子城

まずは前回行かなかった山上へ行く右へ。
舗装道の終わりにこれがあります。
この先の橋は幅員が狭いため・・・と書かれていますが、木と木の間の方がもっと狭い!
なんてツッコミは、城キチにはピンと来ません。
まず目が行くのは、橋の両脇ですよね?

【写6】八王子城

橋の左側はこんな感じになっています。
障子堀っぽく見えるのは気のせいで、倒木が等間隔に固まっているだけです。
私は人工的な堀に見えたのですが、パンフには「花籠沢」と書かれていました。
天然の地形ですが、城域への入口にあるとはニクイですね!

【写7】八王子城

登り始めてすぐですが、「←本丸・金子丸」の案内に従って左へ曲がると・・・
道端にこんな光景が!
石が真新しいので遺構ではないと思いますが、ついつい撮ってしまいます。

【写8】八王子城

その少し先で道が分岐します。
それまではどっちに進めば良いのか案内がありますが、ここには無し。
案内が無いなら真っすぐだろな?と思った私は少数派のようでしたw
この鳥居が見えたら、鳥居の方に進みましょう。
八王子城の登城で迷うとしたら、ここ1ヶ所だけです。

【写51】八王子城

鳥居を通り過ぎると、かなり広い平坦地に出ました。
そこには観音堂があり、重厚な土塁で囲まれていました。
後から知りましたが、ここがアシダ曲輪です。
このさらに奥にあるのが御主殿ですが、行き止まりに見えたのでUターンしました。

【写9】八王子城

迷ってアシダ曲輪を見て来ましたが、あっちが×ならこっちが〇
・・・ということで、残り一択の鳥居の所から登った先がコレです。
山城は大好きですが、山登りは大嫌いな私には、ちょっとした地獄絵図ですハートブレイク

【写10】八王子城

そんなプチ心臓破りな山道を登ると、白い標柱が見えて来ました。
ここが金子丸です。
八王子城の曲輪は、守っていた武将の名前が付けられている所があります。
ここもそうで、守っていたのは金子家重でした。
金子家重は・・・やめときます。
ただでさえ長いのであせる

※ちょっと遠回りしたのであまり参考にはなりませんが、登城口からの所要時間は10分です。
私はちょくちょく休むので、結構後から来た人に抜かれます。
抜かすこともあるので、歩くペースは早くも遅くもないと思います。

【写11】八王子城

束の間の平坦地で息を整えて、再びGo!!
見上げると・・・
夢で見たらうなされそうですw

【写12】八王子城

次の平坦地は柵門台です。(登城口から18分)
名前から推測すると、柵が厳重に巡らされた場所だったのでしょうか。
麓でもらったパンフを見ると、ここに5本の道が繋がっています。
そのうちの1本が、御主殿から本丸に通じる道中にある山王台へと繋がっていますが・・・
その道は、黄色いテープで通せんぼされています。

【写13】八王子城

柵門台を越えてもまだまだ山道は続きますが、やがてこんな風景が見えます。
山のシルエットの上に青い空ということは、ゴールは近い?

【写14】八王子城

そのまえにうねうね道がありますが、登り切った所に石積みのある平坦地が現れます。
ここが高丸です。(登城口から24分)
図で見る限りは、本丸とほぼ水平。
ようやくキツイ登り坂とはオサラバか?と期待が膨らみます。
その期待に応えるかのように、「九合目」のコンクリ標柱がここにはあります。

【写15】八王子城

高丸からさっき登って来たうねうね道を見下ろします。
こうやって見ると、登ってくる敵をここから狙い撃ち出来ますね?
・・・どこの山にもある山道ですけどw
城キチという病は、何でもそんな発想になってしまうもののようです。

【写16】八王子城

高丸からは、こんな風景です。
道に沿って幾重にも段が並んで見えます。
これらの段上には鉄砲や弓を抱えた兵士が大勢待ち伏せていたのでしょうか。
ここは超有名な心霊スポットでもあるので、兵士が見えなくてよかったですあせる

【写17】八王子城

これらの段を横目にみながら、あとひと息の山道を登ります。
すると、大きく右へカーブした先で、視界が開けた所がありました。
そこから見えたのがこんな風景。
東京都が全部丸見えです。
スカイツリーもちゃんと見えました合格
(真ん中よりちょっと左に写っています)

江戸幕府が立入禁止にしたおかげで、遺構の保存状態が良いとどこかに書かれていました。
立入禁止にしたのは、もしかしたらこの眺めが原因なのかもしれません。
江戸幕府は江戸城が見える山城をことごとく立入禁止にしましたので。
江戸城もこの景色の中に見えるのでしょうが、現代人の私には見えませんでした。

【写18】八王子城

眺めの良い場所から20メートル位先に、今までにないまとまった平坦地が見えました。
下の段が中の曲輪で、石段の先が八王子神社です。(登城口から29分)

【写19】八王子城

中の曲輪には、雨宿り出来そうな小屋と説明板があります。
ここの図はちょっとわかりにくかったのですが、周りに曲輪がいくつかあるのはわかりました。

【写20】八王子城

中の曲輪の石段を上がると、八王子神社があります。
古いですね~!
昔から色々心霊ネタがあったのでしょうか。
神社の雰囲気も、何となく不気味な感じがします。

で、私には見えちゃいました。
〇で囲んだ所に・・・
「←本丸」の文字が!
視力は悪いのに、こういうのはよく見えますw

【写21】八王子城

中の曲輪には「頂上」のコンクリ標柱がありましたが、更に登った所が本丸です。
中の曲輪からの比高は10メートル位ありそうです。
これだけの大城郭ですが、本丸はこんな感じです。
登城口からの所要時間は34分でした。

【写22】八王子城

小さな祠の陰には、こんな立派な城址碑があります。
八王子城にはいくつか城址碑がありますが、ここのは「本丸址」です。
ここじゃないと拝めない、貴重なヤツですね!

【写23】八王子城

城址碑も入れて本丸を撮り直すとこんな感じです。
本当に狭いのですが1590年にはここでも戦いがあり、横地吉信が守っていました。
さすがに「横地丸」とは言いませんよねあせる
横地吉信はココの城代で、落城後に檜原城へ移って抵抗を続け、そして散った武将です。
・・・あw

【写24】八王子城

本丸から中の曲輪を見下ろした所です。
やはり、神社などの何かしら古い建物があるとそれっぽく見えますね!

【写25】八王子城

本丸奥の道から中の曲輪に戻ると、何やら大きな石碑が2つ並んでいるのが見えました。
この石碑があるのが松木曲輪です。
ここを守っていたのは中山家範で、その壮絶な戦いぶりが当時話題を呼んだ人物です。
徳川家康は後に中山家範の子を召し抱え、水戸藩の家老になっています。
松木曲輪はとても眺めがよいのですが、さっき別の所のを載せたばかりなので割愛します。

【写26】八王子城

松木曲輪からの眺めを堪能し、もういいかな?と思いましたが・・・
事前に用意した図には、この奥に「大天主」なんていうものも描かれていました。
上の図では左にはみ出した所にあるのですが・・・
頭の中で白い小人さんと黒い小人さんが喧嘩を始め、黒い方が勝ってしまいました。
という訳で、大天主は富士見台への道の途中にあります。

【写27】八王子城

「富士見台」という名前に釣られる人が大多数だとは思いますが・・・
私はこっちの方にとても魅力を感じましたラブラブ
大天主は「詰城」とも呼ばれ、八王子城の一番奥深い所にあります。

【写28】八王子城

松木曲輪脇から20メートル程下った後、斜面の端に付けられた細道を進みます。
しばらく進むとこんな光景が・・・恋の矢恋の矢恋の矢

【写29】八王子城

八王子城の堀切は太鼓曲輪にしか無いと思っていましたが、本丸の先にもありました。
ここは「馬冷し」と呼ばれる所で、北側からの道が合流する地点です。
こんな所まで馬が来るなんて、昔の人スゴイw
せっかくの堀切なので、バッチリこのシルエットを頂きますドキドキ

【写30】八王子城

堀切から先は、細い尾根上を進む道に変わります。
上がったり下がったりでピークを2、3回乗り越えると・・・

【写31】八王子城

ちょっと広めの鞍部があり、かなりの急坂が目の前に現れます。
黒い小人さんは、きっとドSに違いありません(T_T)

【写32】八王子城

それでも、ここで引き返しては城キチが廃るということで、ラストスパート!
登り坂が現れる度に、心の中ではラストスパートのつもりでいましたけどw
それでも、何となく頂上っぽい風景が期待感を抱かせてくれました。

【写33】八王子城

辿り着いた頂上は削平されており、小さな石碑があります。
石碑の文字を読まずとも、ここが何かであるかはピンと来ました!
(登城口からの所要時間はピッタリ1時間です)

【写35】八王子城

石碑には「史跡 八王子城天守閣跡」と彫られていました。
色々ツッコミたくはなりますが、まぁ記念ということで合格
その隣にある木の標柱には「詰の城」と彫られていました。
巨大な山城には、ちゃんと詰めの城があるものなんですね!

【写34】八王子城

頂上の削平地の奥に、さらにもう1段の削平地がありました。
山梨の躑躅ヶ崎館の詰め城である要害山城でも、本丸の裏に小さな曲輪がありました。
どちらも守備的なものというよりは、隠れる場所という印象を持ちました。
どうなんでしょう?

・・・ということで、山城編はここまでです。

【写36】八王子城

今度は御主殿跡を見るため、山を下りて管理棟前を左へ進みます。
すぐに道端に立派な石碑があるのが見えました。
文字が裏に彫られているので回り込むと、城址碑でしたラブラブ

【写37】八王子城

城址碑の先はこんな感じです。
御主殿についての説明板があり、その先のコンクリートの階段を下りて行きます。

【写38】八王子城

しばらく川沿いの道を歩いて行くと、立派な橋が現れます。
確かに下を川は流れているのですが、何だか無駄な橋のような気がしますw
その前に置かれた車避け?も、脇を通ればスルー出来てしまいます。
・・・悪口書いてる訳ではありませんけどあせる

【写39】八王子城

その先の広場です。
デジカメでは収まり切らなかったので、iPhoneでパノラマ撮りました。
広角レンズで入り切らない場所で活躍しています合格
左側には土塁、真正面には小さな堀切が見えます。

【写40】八王子城

御主殿への道は「古道」と呼ばれ、発掘調査で見つかったそうです。
ずっと進んで行くと、先の方に橋が見えて来ます。
これが曳橋です。
木橋を模してはいますが、素人目にもコンクリート・・・
姿かたちは不明なため、想像で復元されたものです。
それでもこうやって実際に橋があると、雰囲気はとてもイイ感じです合格

【写41】八王子城

曳橋の向こう側には、カクッカクッとした石垣が恋の矢
草に埋もれかけた堀や土塁ばかり見ていると、こういうのに飢えていたのがわかります。
やっぱりたまにはメジャーな城跡も、心の保養になっていいですね音譜

【写42】八王子城

曳橋を渡ると、それまでの道とは一変して総石垣の道になります。
お城の超重要部分ということで、道は真っすぐではなくコの字形になっています。
滝山城でもこんな造りを見た記憶があります。

【写43】八王子城

御主殿の入口には、雰囲気バッチリな冠木門があります。
前回も確か逆光でした。
成長してませんねあせる
ここを撮るなら、午前中が良いです。

【写44】八王子城

冠木門から撮った御主殿です。
広いです!
さすがは北条氏照の居館跡です。
当の御本人様は小田原城に詰めて不在でしたがw

【写45】八王子城

御主殿に入って右側には、立派な説明板があります。
説明文によると、遺構は土で埋め戻し、その上に柱の位置を示す石を置いたそうです。

【写46】八王子城

でも、やっぱり私は左側の土塁に目が行ってしまいます。

【写47】八王子城

御主殿は前回も見たし、もういいか・・・
そう思ってUターン仕掛けると、黒い小人様が「おい、奥に石垣あるだろ?」と呟きました。
「でもまた山道登るんだろ?だるいよ・・・」と白い小人様が反論します。
しかし、最近は黒い小人様の権勢が凄まじく、私は従わざるを得ませんでした。

御主殿の奥へ進むと、何やら怪しげな道が。
「マムシに注意」が2つもあります。
きっと出るんですね、・・・真冬以外はw

白い板には「石垣保護のため、山頂方面への通り抜けはご遠慮願います」と書かれています。
要するにこの奥に石垣があり、道は山頂へ続いていますという事ですね!
山頂へはさっき登ったばかりなので、頼まれても登りません!ということでGo!です。

【写48】八王子城

2、30メートル進むと、真正面に「右へ」と書かれた板が。
「ん?右?」と首を回すと・・・

【写49】八王子城

石垣見えちゃいました恋の矢恋の矢恋の矢

【写50】八王子城

近づいてみると、野面積みのしっかりしたヤツでした。
通り抜けちゃいけない!と白い小人様が制止するので、一番下の石垣の前しか見ませんでした。
これだけでも十分満足でしたが、後から調べると、こんな石垣が四段あるそうです。
・・・白い小人様の地位が、また一段下がっちゃいました。


当初の目論見としては、山中城にも行くつもりでいました。
しかし、ココだけでかなりぐったり疲れてしまい、そのまま帰宅しました。
地図に載せる登城路をGPSロガーから引っ張り出して見ると、長さが6.9kmありました。
7km近くも山の中をウロウロすれば、それは疲れますよね?
普段が1日10箇所程でグッタリなので、ココ1ヶ所で1日分のボリュームがあった事になります。
写真も普段の感覚で選んでいたら、51枚になりました。

さらに皆様が知ってる歴史まで書く気にはなれなかったので、今宵はここまでに致しますw


所在地:東京都八王子市元八王子【印刷用】

東京都の城跡/なぽのホームページを表示


車はガイダンス施設脇の無料駐車場に停められます。
かなり広い駐車場なので、満車になることは無いと思われます。
駐車場は利用時間が設定されており、8:30~17:30の間なら利用できます。

100名城スタンプはガイダンス施設内の人のいるカウンターにあります。
ポンポン式のスタンプで、状態は上の通り良好です!

葛西城/東京都葛飾区

東京都の在庫ラストは葛西城です。
訪問日は2013年5月5日です。

葛西城/青戸7丁目東交差点
▲青戸7丁目東交差点

葛西城はとてもわかり易い場所にありました。なんたって環七になってますのでw青戸7丁目東交差点周辺が城跡です。

葛西城/御殿山公園
▲御殿山公園

この交差点の北寄りに、環七を挟んで両側に公園があります。まずは西側にある御殿山公園から。

葛西城/御殿山公園の様子
▲御殿山公園の様子

御殿山公園は環七沿いにある細長い公園です。公園内は木が植えられ、ちょっとした散策路といった感じです。そこかしこにベンチがあるので、ゆっくりくつろげます。

葛西城/説明板1
▲航空写真と地図付の説明板

この公園の南側(交差点寄り)に説明板が集中しています。まずは大きなものから。設置者が誰なのかは記載がありませんが、かなり立派です。航空写真と地図まで載っていますから。ここまでできるのはやはり国でしょうかね。

地図を拡大して撮ったのですが、うまく撮れませんでした。゜(゚´Д`゚)゜。この地図は現在の地図に堀跡がどこなのかが書き込まれたものでした。・・・ということで、下のGoogle Mapに堀跡を線で描いてみましたm( __ __ )m

葛西城/説明板2
▲東京都教育委員会様による説明板

さらに!東京都の史跡といえば東京都教育委員会様。葛西城跡にもお馴染みのヤツがありましたヽ(´ー`)ノ

葛西城/青砥藤綱城址碑
▲青砥藤綱城址碑

そしてさらに!青砥藤綱城跡の碑まで!青砥藤綱って誰だろうw・・・後でゆっくり調べよう。

葛西城/葛西城址公園
▲葛西城址公園

今度は環七を渡って葛西城址公園へ。

葛西城/葛西城址公園の様子
▲葛西城址公園の様子

名前はバッチリなのですが・・・説明板の類は全く無し。こっちに設置した方が迷わずに済むと思うのですが。歩道に沿って街路樹が植えられ、内側はちょっとした広場になっています。訪問時はお子様達がキャッチボールをしていました。

葛西城/環七
▲城跡は環七の下に・・・

環七の工事の時に一応ちゃんと発掘調査はしたらしいです。そこで色々出てきたそうなのですが・・・思い止まってはくれなかったんですね( TДT)「遺構保護のため」埋め戻され、予定通り立派な道が造られました。いつか環七が移転して本格的に整備される、なんてのは絶望的ですねショック!


◆歴史◆

築城年・築城者は不明ですが、鎌倉時代に葛西氏により築かれたとする説が有力です。下総国の西端に位置し、上杉氏や後北条氏が武蔵側からの進出拠点としていました。大きな戦は1538年と1564年の2度、国府台合戦がありました。

1538年の第一次国府台合戦は、相模から進出してきた後北条氏と小弓公方の争いです。互いに勢力が拡大した結果、江戸川を挟んで隣接するようになりました。両者ともに勢いがあったので、互いに脅威に感じたのでしょう。

ただこの戦、本来の目的が違っていたようで・・・小弓公方・足利義明は、当初は古河公方の関宿城を目指していたという説が有力です。関宿城は国府台の北にあり、利根川と江戸川が分岐する水上交通の要衝でした。そこを押えようと挙兵した所、ご近所の後北条氏が反応したといった感じです。この戦で義明が討死したため後北条氏が勝利。後北条氏は下総国を新たに支配下に収めました。

一方、義明側だった里見氏も、義明討死により空白地帯となった上総国を手に入れました。結局、戦を起こした本人だけが全てを失いましたあせる

1564年の第二次国府台合戦は、この後北条氏と里見氏が戦いました。お互いに勢力を拡大しようとしていたので、当然の流れではありますが。発端は上杉謙信が里見氏と一緒に後北条氏を挟み撃ちにしようとしたことでした。

ところがいざ蓋を開けてみると・・・年が明けてすぐ、ということは真冬ですね。上杉謙信は雪で越後から出られず、結局は後北条氏と里見氏の直接対決となりました。待てども待てども北から援軍の来ない里見氏はさぞ焦ったことでしょう。

結果は後北条氏の圧勝。里見氏は上総国を失い、房総半島先端の安房一国を維持するのがやっとの状態に。後北条氏を攻めるはずが、勢力を拡大させる結果になるなんて皮肉ですねw

1590年、後北条氏は豊臣秀吉により滅ぼされました。この時に廃城になりましたが、徳川家康は城跡に青戸御殿を建てました。これは鷹狩りの時に休憩するための施設だったようです。

しかし、1657年に明暦の大火により江戸城が焼失。江戸城再建のための資材として青戸御殿の建物は解体されました。

そして・・・1972年、環七建設のため発掘調査が行われました。その結果、戦国期の陶磁器、漆器、人骨などが出土したそうです。遺構保護のため埋め戻されると、立派な道路が造られ現在に至ります。

御殿山公園にあった「青砥藤綱」の碑ですが・・・調べてみると、どうやら架空の人物だったようです。彼は鎌倉時代後期、鎌倉幕府の執権・北条時頼の妄想から生み出されました。

彼は時頼が鶴岡八幡宮に参拝した日の夜、夢で神様のお告げの中で登場します。お告げに従い、時頼は藤綱を評定衆に大抜擢します。しかし、藤綱は「功なくして賞を受けるのは国賊と同じである」と断ったそうです。時の執権が大役を与えようとしているのに、凡人には中々言える台詞じゃありませんねw

彼のエピソードは他に、落とした10文を探させるため50文の松明を買ったことがあります。家人が「10文探すのに50文使うなんてもったいない」と言うと、「自分は50文損したけど、他人は合計60文得することになる」と笑って答えたとか。探させる筈の10文は、藤綱はとっくに諦めてたんですね。
太っ腹ですw

藤綱は各地に沢山所領を持っており豊かでしたが、暮らしぶりは質素だったそうです。そのため、現地を治める代官たちの綱紀も引き締まり、よく治まったんだとか。・・・というお話が、江戸時代にとても流行ったそうです^^


所在地:東京都葛飾区青戸7丁目(御殿山公園、葛西城址公園)

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渋江陣屋/東京都葛飾区

渋江陣屋の跡地とされる所には白髭神社があります。
訪問日は2013年5月5日です。

渋江陣屋/白髭神社1
▲白髭神社の鳥居

白髭神社は周りを道で囲まれています。道を造るときに神社を避けたんでしょうね。鳥居は南側にあります。来る時は北から下って行ったので、背後から回り込むような形になりました。

渋江陣屋/白髭神社2
▲白髭神社社殿

鳥居をくぐるとすぐに社殿があります。小さな神社ですが、町の鎮守といった雰囲気があります。夏はこの小さな広場でささやかなお祭りがありそうな感じです^^


◆歴史◆

当陣屋についての歴史はよくわからないのですが・・・白髭神社の創建年代は不明です。別当であった観正寺は1491年に創建されたそうです。神社が館跡と比定されているということは・・・当時の領主が敷地内に築いたのでしょうか。

1559年編纂の『小田原衆所領役帳』では、山中内匠助が渋江郷39貫500文を領していました。内匠助の所領は他に

・相州海老名 268貫423文
・川越寺井 213貫333文
・川越的場 78貫558文
・・・合計599貫814文。

結構な大身だったんですね!葛西渋江之郷はこれらの中では一番少ないので、館というより詰所が合った程度かもです。

渋江陣屋は、1564年の国府台合戦で里見氏が陣を築いた場所と伝わります。山中内匠助は後北条家臣なので、里見氏に追われた、ということですね。この戦いの詳細は省きますが、後北条氏が圧勝しました。以後は名主の屋敷となったそうです。


所在地:東京都葛飾区東四つ木4丁目(白髭神社)

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葛西清重館/東京都葛飾区

葛西清重の館跡には西光寺があります。
訪問日は2013年5月5日です。

葛西清重館/西光寺山門
▲西光寺山門

コンビニのある交差点から細い路地に入った突き当たりに山門があります。何か無いかな~と見回すと・・・!!

葛西清重館/西光寺山門脇にある説明板
▲山門脇に説明板

山門の右斜め上を見上げる感じの所にありましたヽ(´ー`)ノ説明文自体はとても短いのですが、こういう物が1つあるだけで

来・た !

と実感できます^^

葛西清重館/西光寺本堂
▲西光寺本堂

・・・それ以外は普通のお寺ですw


◆歴史◆

葛西清重は平安時代末から鎌倉時代初期の武将です。秩父一族・豊島清元の3男であり、源頼朝に従って大活躍しました。

1189年、奥州藤原氏討伐に参加。清重は勲功抜群として胆沢郡、磐井郡、牡鹿郡を与えられ、更に奥州総奉行に任じられました。奥州葛西氏の誕生です。翌年まで続いた奥州藤原氏の残党による乱が安定すると、清重は鎌倉に戻りました。

頼朝亡き後は北条氏に接近。北条得宗家による粛清の嵐を潜り抜け、幕府の中心にあり続けました。清重の没年は定かではありませんが、1237年か1238年という説があります。

その後の葛西氏は奥州に本拠を移し、1590年の奥州仕置きで滅ぼされるまで続きました。


所在地:東京都葛飾区四つ木1丁目(西光寺)

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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