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宮城氏館/東京都足立区

宮城氏館の跡地には氷川神社があります。
訪問日は2013年5月5日です。

宮城氏館/氷川神社

この神社は割とわかり易い場所にあります。大通りが立体になっており、その脇道を入った所です。そのため車の往来も少なく、神社の前にクルマを停められます。

マイナーな場所のせいか下調べが甘く・・・宮城氏館跡の石碑を撮り忘れました。痛恨の極みあせる

石碑は神社境内の右隣の公園側にあります。あると思います。・・・見てないので何ともあせる


◆歴史◆

宮城氏は豊島氏の庶流なのは間違いないのですが、起源については諸説あります。有力な説では
(1)葛西清重の子・朝清を祖とする(『金輪寺本豊島家系図』、『豊島宮城系図』)
(2)葛西清重の4代後の豊島重信の子・重中を祖とする(『泰盈本豊島家系図』)
など。

宮城氏は1478年に太田道灌が本家・豊島氏を滅ぼすと、その軍門に降りました。

1486年に太田道灌が暗殺されて太田氏が内部分裂すると、岩附太田氏に従いました。

1564年に嫡男・太田氏資がクーデターにより家督を継ぐと、宮城氏はこれに従いました。氏資はそれまでの反北条の姿勢を一転し、後北条氏に仕えました。

1590年、豊臣秀吉により後北条氏が滅ぼされると、宮城氏も没落しました。

江戸時代になり、徳川秀忠が宮城氏を見出すと、宮城正業を旗本として登用しました。その領地はちとわかりません(;´ゝ`)

氷川神社の由緒書きによると、豊島八郎重中が屋敷の敷地に氷川神社を勧進したそうです。そして、1590年に豊臣秀吉により主家・後北条氏とともに滅びました。しかし、村の鎮守として氷川神社は残りました。

大正2(1913)年3月、荒川の河川改修に伴い移転。
昭和20(1945)年4月13日、戦災により焼失。
昭和25(1950)年10月、旧地に再建。・・・戻ったんすね。
昭和33(1958)年10月、宮城公園設置のため、移転新築し現在に至る。・・・また移転?

途中に書かれていた宮城1丁目38番6号を検索すると・・・氷川神社の場所がヒットしました。結局の所、今の場所がそうなんですね┐(´∀`)┌


所在地:東京都足立区宮城1丁目(氷川神社)

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豊島清光館/東京都北区

豊島清光の館は隅田川沿いにあり、現在は清光寺となっています。
訪問日は2013年5月5日です。

豊島清光館/清光寺入口
▲清光寺の入口

清光寺も入り組んだ細い路地の中にあります。周りを走っていると大きなお寺は見えるのですが・・・なかなかここに辿り着けませんでした。

豊島清光館/清光寺山門
▲清光寺山門

入口から攻め込むと、早速山門が出迎えてくれます。木の色がまだ白く、建て替えられたばかりのようです。

豊島清光館/清光寺本堂
▲清光寺本堂

更に攻め込むと、木の色がまぶしい本堂に辿り着きます。場所は確かにここのはずですが・・・あまりに建物が新し過ぎて、本当にここなのか少し不安になりました。

豊島清光館/豊島清光坐像の説明板
▲豊島清光坐像の説明板

しかし!本堂の前でウロウロしていると、脇にある小さな説明板を見つけました。その説明板は、豊島清光の坐像についてのものでした。嗚呼、ここで間違いなかったヽ(´ー`)ノ

坐像は本堂にあるそうですが、お願いすれば見せてもらえるのでしょうか?色々ブログを見ましたが、現物を見たという方がおられませんでした。複製が北区飛鳥山博物館に展示されているそうです。


◆歴史◆

豊島氏は秩父氏の一族で、1023年に秩父武常が武蔵国豊島郡に所領を得たことに始まります。その4代目の当主が清光ですが、「清光」は諱であり、本名は「清元」だそうです。・・・ということは、本当は「豊島清元館」?

さらに、清元以前からの豊島氏の館であれば、「豊島氏館」と呼んだ方がよいのかも。ただ、通りが良い名前だということで今でも「豊島清光館」と呼ばれているそうです。

豊島清元は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍しました。石橋山の戦いには関与せず、源頼朝が安房で再起してから仕えました。

その後の源平合戦での功績により、武蔵に広大な領地を得ました。3男の葛西清重も奥州合戦などで活躍し、陸奥の大家として栄えました。

ただ、清元自身は身内に不幸が相次いだようで・・・2男・清康が荒川での水練中に溺死。更に、1人娘が嫁ぎ先での不幸を悲しんで荒川に身を投げたり。これらのことが重なって、清元は出家して菩提を弔ったのでしょう。

清光寺はその後、何度か廃れては復興され、を繰り返しています。まずは1460年代。盗賊に襲われて荒らされました。更に1478年、太田道灌との積年の対立が長尾景春の乱で爆発。道灌により豊島氏が滅ぼされます。この時、清光寺の僧も豊島方として戦ったため、清光寺は焼かれてしまいました。豊島氏は太田道灌により滅ぼされましたが一族は続き、後北条氏に仕えています。

1546年、府河(布川?)城主・豊島頼継により再興されました。

1563年、上杉氏の残党が布川城を攻めた際に荒らされたらしいですが・・・この年にあった大きな戦は国府台合戦。地理的にもかなり近いので、この時の事だと思います。

その後、年は不明ですが豊島明重により再興されました。この豊島明重は1628年8月10日、江戸城内で老中・井上正就を斬り殺しました。これにより嫡男・継重にも切腹が命じられて豊島家は断絶しました。

1742年、豊島清光の坐像が奉納されました。願主は祐真、施主は新田村の豪農・長谷川弥兵衛です。

そして2009年、本堂などが改築されました。それまであった建物は明治時代に建てられたものだそうです。この建替えの経緯についてはわかりませんでした(´▽`*)


所在地:東京都北区豊島7丁目(清光寺)

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八幡塚砦/東京都大田区

八幡塚砦は六郷神社の所にありました。
とても大きな神社で、迷うこともなく、停める場所にも困りませんでしたヽ(´ー`)ノ

八幡塚砦/六郷神社1

とても立派な神社なのですが・・・近所のお子様達が鳥居の下でゴム跳びをやっていました。懐かしい遊び・・・って歳がバレるかあせる

八幡塚砦/六郷神社2

砦があったとは言っても、砦が築かれる前からここは神社でした。周囲もすっかり市街地化しているせいか、ここにも城砦の遺構は見当たりませんでした。


◆歴史◆

行方氏はもとは扇谷上杉氏に仕え、太田道灌の時代の1450年頃から史料に現れます。行方氏はその後、北条氏に仕えるようになりました。周囲の状況から推察すると、1524年に江戸城を落とした北条氏綱の頃と思われます。

六郷神社の棟札によると、1531年、行方半右衛門が六郷神社を修造。さらに1549年、行方弾正が再び六郷神社を修造しています。

1559年の小田原衆所領役帳では、行方与次郎が六郷で361貫24文を領しています。

1569年に武田信玄の侵攻に備えて六郷の領主・行方直清により八幡塚砦が築かれました。本殿の裏には今でも「八幡塚」が残っているそうですが・・・やはりこれもついさっき知ったので、訪問時には見ていませんあせる

史料によっては「行方明連」により築かれたとされますが・・・明連は直清の初名なので同一人物です。信玄は滝山城から小田原へ進んだため、当地では戦闘が無かったとするのが通説です。それにしても、神社を砦にしてしまうなんて。

1590年の豊臣秀吉による小田原征伐では、行方弾正が山中城で討死して没落したようです。バチでも当たったのでしょうか・・・


所在地:東京都大田区東六郷3丁目(六郷神社)

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齋藤氏館/東京都大田区

齋藤氏の館も京急蒲田駅の近くにありました。
・・・というか、すぐ目の前にある八幡神社周辺がその跡とされています。

齋藤氏館/八幡神社

あまりにも駅に近過ぎるので、停める場所あるかと心配でしたが・・・バイクなら全然気にしなくても平気でした^^クルマはちとキツイです。

大きな駅のすぐ近くではありますが、ビルの陰にあるせいか意外と静かです。しかも、街中なのにしっかりと社叢もあります。そして細長い参道・・・これだけで神社ってサマになりますね♪・・・って神社仏閣めぐりじゃないのにあせる


◆歴史◆

齋藤氏についてわかっていることは・・・斎藤政賢の妹・妙安尼が近所の行方氏に嫁いだことくらい。政賢の事蹟についてはわかりませんでした。

永禄年間(1558~69年の間)に夫である行方修理亮義安が戦死。妙安尼は出家し、実家である斎藤政賢の屋敷内に庵を結びました。1589年に妙安尼が没すると、日蓮宗の日現上人が庵跡に妙安寺を創建しました。

明治時代に神仏分離で引き離されるまでは、妙安寺が隣の八幡神社の別当寺でした。そのため、両寺社一帯が齋藤氏の館があったと考えられています。

写真が八幡神社だけなのは・・・妙安寺の事を知ったのがついさっきだからですあせる


所在地:東京都大田区蒲田4丁目(八幡神社)

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大井氏館/東京都大田区

大井氏の館跡には三輪神社があります。
ここも込み入った路地にありまして・・・
しかも一方通行が多い場所なのでハマリましたあせる方向音痴にはツライ所です。

大井氏館/三輪神社

やっと辿り着いた三輪神社。この鳥居を見るまで、そこが神社だとは気付きませんでした。すっかり街並みに溶け込んでいますね・・・

大井氏館/三輪神社

こちらが社殿です。最初に裏から見た時は、町内会の倉庫か何かかと思いました。神社って普通、街中にあっても大きな木々に囲まれていて目立つものなので。私ってバチアタリですねぇ・・・あせる


◆歴史◆

大井氏は紀氏の末裔で、紀長谷雄を祖とします。長谷雄は従三位・中納言の公卿で、紀納言と呼ばれていました。『竹取物語』の作者候補の1人だそうです。

平安時代末頃に紀実直が武蔵国大杜郷に土着し、大井氏を称するようになりました。実直の子・実春は源頼朝のもとで活躍し、伊勢国にも多くの所領を得ました。実春の弟・清実は品川氏の祖となっています。今や地名としては兄弟が逆転していますね。・・・とは言っても地名を名乗っているだけですがw

大井実春、品川清実ともに源頼朝に重用され活躍しましたが・・・大井氏については以後サッパリわかりません。品川氏は1424年に所領を鎌倉公方・足利持氏に没収され没落しました。


所在地:東京都大田区大森中3丁目(三輪神社)

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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