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伏馬田城/神奈川県相模原市

先週と先々週は群馬遠征。
そしてGWも遠征。
その狭間となった今週末。
すこぶるお天気が良い!

かといってGW遠征の準備はまだ半分。
ここでまた泊りがけで城めぐりに行ったらGWの準備があせる
ということで、単発で行って来ました。

伏馬田城攻めの1回目は、城キチコースでとんでもなくしんどかったのですが・・・
後から調べたら、山キチさん達は楽そうなコースで登ってます。
そのコースがまた雲を掴むような情報しかありませんでした。
そこで!城キチ迷子予防委員会(本日設立w)として確かめねば、
ということで行って来ました。

ルートは国道413号で、まずは「バカンス村」をめざします。
今回は遠景を撮りたい!ということでゆっくり走りました。
そして、バカンス村の手前の坂で↓のを撮りましたヽ(´∀`)ノ
・・・と言っても、撮ったのは帰りの時ですw

伏馬田城2/遠景

バカンス村の前を素通りして、更に道なりに進みます。
しばらくすると、城キチコースの登城口があります。
道の左側には説明板があり、道の右側には「至 伏馬田城跡」の案内が。
あの時はまだケツが青かった(´・ω・`;)
ツライ登城を思い出しながら通り過ぎました。

伏馬田城2/城下町の標柱

さらに進むと、写真の標柱が現れます。
尾崎城城下町って、やっぱりこっちが正解なんですね。
地元では「尾崎城」と呼ばれているようです。
この標柱の所から集落に入ります。

伏馬田城2/スナックやまぶき

地図見てると右に行く道があるはず・・・
なんて思いながら進むとありました!
右に曲がる白い舗装道。
目印は「スナックやまぶき」です。

伏馬田城2/北角にある案内

細い道をウネウネ進むと、登山道の入口らしき所に着きました。
山の中に伸びる道と、入口にある案内図、標柱などなど。
結構にぎやかです。
私はここから登るのかと思っていましたが・・・
正面右端に「尾崎城趾→」の案内があります。
ここは素直に案内に従ってさらに道を進みました。

伏馬田城2/仁の丘農園(登城口)

こんどは「仁の丘農園」という所に出ました。
ここにも「尾崎城趾→」の案内があり、農園の中を指していました。
バイクを置かせてもらい、いざ登城!
山登りは大嫌いなクセに、城跡にならワクワクしながら登ります。

伏馬田城2/案内図
拡大表示

その入口には案内図があります。
おおおおおおぉぉぉぉぉ!
これが欲しかったんです!!
ざっくりですけど、これがあるととても心強いです。

伏馬田城2/案内

遅ればせながら、「尾崎城趾→」の写真です。
これは北角から先にはあるのですが・・・
スナックやまぶきの所にもあった方がいいような気がします。
迷いようも無い所に来てやっと拝める代物ですあせる

伏馬田城2/登城路

さて、肝心の登城路ですが、登り口はこんな感じです。
・・・城キチコースと同じような角度ですw
ただ、階段があって草が無いのはかなりデカイ!
こんなのが上まで続くのかと思っていました。
途中からはつづら折れになり、傾斜は緩くなります。

伏馬田城2/尾根の分岐

そんなつづら折れを4、5回過ぎると、あっと言う間に稜線に出ました。
ここで遊歩道は分岐します。
もちろん迷わず右へ進みます!

伏馬田城2/城跡見えた!

分岐の所からほんのちょっと歩くと、もう城跡が見えてきます。
坂はそれなりにキツかったのですが、拍子抜けする位にあっと言う間でした。
写真は2郭とその下の堀切です。

伏馬田城2/主郭下の堀切

2郭から見た主郭とその下の堀切です。
堀切って登城路にあるものですよね!
あたりまえですがあせる

伏馬田城2/主郭

1年ちょっとぶりに伏馬田城に登りました!
登城時間は10分!
昨年は憲政の神様ってすんげー健脚!なんてぶったまげましたが・・・
尾崎行雄が登ったのって、たぶん今回のルートですねあせる


今回のルートは地図の赤い線で、仁の丘農園から主郭まで10分です。
青い線は1回目の城キチルートで、道無き直登コースです。
緑は山キチさんの石砂山登山の寄り道ルートで、下りで25分かかりました。
伏馬田城地図2

所在地:神奈川県相模原市緑区牧野(赤線が農園からのルートです)
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糟屋館/神奈川県伊勢原市

糟屋館は相模守護・扇谷上杉氏が一時本拠としていました。
訪問日は2013年12月7日です。

糟屋館/道灌の墓の入口
▲道の右手に目立つ石柱があります

糟屋館/道灌の墓
▲その垣根の中で、名将・太田道灌が眠っています

県道611号「山王中学校前」交差点を右折して100m程走ると、右手に太田道灌の墓があります。太田道灌は扇谷上杉家の家宰を務め、文武両道の武将として活躍しました。しかし、あまりに活躍し過ぎたため、主・上杉定正により糟屋館で殺されてしまいました。

糟屋館/周辺案内図
▲案内図

その脇には「観光めぐり」として案内図があります。おいおい、人様のお墓まで観光名所に・・・wで、お目当ての糟屋館こと「上杉館跡」が案内図に描かれていました。300mか、歩こうヽ(´ー`)ノ

※私はバイクでしたが、クルマの方は停める所がココしかありません

糟屋館/上粕屋神社
▲上粕屋神社

道灌の墓から糟屋館跡へ向かう途中に上粕屋神社があります。参道は大先輩方の憩の場となっていましたw

糟屋館/空堀
▲からぼり

その上粕屋神社の裏には小田原城もビックリするような「からぼり」があります。・・・とはいえ、見た感じでは自然地形ですね。防御面ではとても効きそうですが^^

糟屋館/発掘調査の看板
▲発掘調査の看板

糟屋館/発掘現場
▲発掘調査の現場

その「からぼり」を土橋のような道で渡ると、「埋蔵文化財の発掘」をしているという看板が。を、ついに糟屋館の場所を特定しようと本気出したかヽ(´ー`)ノ発掘現場のお友達・ブルーシートがそこかしこに掛けられ、所々に掘り出された溝が。・・・そこは確か「からぼり」ではw

糟屋館/道路工事の案内図

糟屋館/道路工事の案内図
▲道路工事の案内板

永らく糟屋館の位置は特定されていませんでしたが、これでようやく・・・と喜んだのも束の間。5mも歩かない内に、今度は絶望的な看板が目に飛び込んで来ました。え、、、道路工事・・・???

ガ━━(゚Д゚;)━━━ン!!!!!

案内図を見ると、糟屋館があったであろうと言われている場所が、かなり道路で潰されそうダウンダウンダウンなんでこんな計画が通ってしまったのか・・・確かに国道246号はいつ通っても渋滞してるので、拡張は必要なのでしょうが。よりによって、葛西城の二の舞になるとはT_T

・・・とはいえ、推定地の半分はまだ残っています。そちらも発掘して白黒ハッキリさせて、これ以上潰されないようしっかり守ってほしいものです。「からぼり」は完全に消滅してしまいますが・・・

糟屋館/重機が土をさらう
▲重機が土をさらう・・・


◆歴史◆

糟屋館が築かれた時期ははっきりしていません。

1450年に関東管領・上杉憲忠の家臣が鎌倉公方・足利成氏を襲った時にはまだ無かったようです。足利成氏を襲ったのが自分の家臣と知った上杉憲忠は、自ら鎌倉を退去して謹慎したのが七沢城でした。七沢城は糟屋館から北に約4kmの所にありました。そこは当時は重臣であった相模守護・扇谷上杉家の本拠地でした。

糟屋館が歴史に登場したのは、1487年です。この時、太田道灌が主・扇谷上杉定正に糟屋館に招かれて謀殺されました。太田道灌は扇谷上杉家の家宰で、享徳の乱で大活躍して主家を山内上杉家と並び立つ程にした人物です。

しかし、上杉定正は優秀過ぎた道灌を恐れて、殺してしまいました。この時、道灌は「当方滅亡」と言って亡くなったそうです。道灌の目には、これから何が起きるのかがハッキリ見えていたのでしょうね。

1488年、関東管領・山内上杉顕定は、鉢形城から兵を率いて糟屋館を目指しました。山内上杉家と扇谷上杉家は享徳の乱の戦後処理を巡って対立していたからです。当時、扇谷上杉家の本拠地は糟屋館で、山内上杉軍は扇谷上杉定正がそこに居ると思っていたのでした。この動きを察知した扇谷上杉定正は、河越城から200騎で追い、実蒔原で奇襲を掛けて大勝しました。

これが長享の乱の始まりです。
実蒔原では勝利したものの、体勢を立て直した山内上杉軍によって七沢城は攻め落とされてしまいました。以後、18年にわたって両上杉家は骨肉の争いを続けました。この乱によって山内・扇谷上杉家はともに疲弊し、後北条家によって駆逐される原因となったのです。

その後、糟屋館がどうなったのかはわかりません。確かに「からぼり」は立派なのですが、東西は要害地形ではないので軍事拠点には向いてなさそうです。上杉定正はその後、相模から武蔵(江戸・河越)に拠点を移したのかもしれません。


所在地:神奈川県伊勢原市上粕屋

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田代城/神奈川県愛川町

田代城は中津川を挟んで細野城の対岸にあります。
訪問日は2013年3月9日です。

神奈川の在庫もこれで終わり!まだ行ってない城跡もありますが・・・山城なので、蜂や蛇の心配がない季節になったら攻める予定です^^

田代城/愛川中学校
▲愛川中学校

田代城本丸のあったとされる場所には、現在は愛川中学校があります。今となっては攻め込めるのもここまでですw

田代城/富士居山
▲富士居山

その北側には富士居山があります。その名の通り、遠くから見ると富士山のような形をした山です。この山の山頂には田代城が管理する狼煙台がありました。

田代城/首塚
▲首塚

田代城は三増合戦の戦場のすぐ近くにありました。そのため、合戦にまつわる史跡も散見されます。愛川中学校のすぐ東には、首塚があります。これは三増合戦での戦死者を弔うものだそうです。

これとは別に、胴塚というのもあるそうです。こちらは見つけられなかったのですが、近所にあるそうです。

田代城/三増合戦場碑
▲三増合戦場碑

愛川中学校の前の道を東に進むと、三増合戦の戦場跡の石碑があります。場所は、下のGoogle Mapで少し右にスクロールした所です。

田代城/三増合戦場跡
▲反対側から

田んぼに囲まれた道路沿いにあり、わりと目立ちます。石碑の脇には説明板や、合戦の際にどう布陣したかの図があります。今はのどかな田園風景なのですが、かつて大きな戦がここであったんですね。


◆歴史◆

<築城>

田代城は弘治年間(1555~58年の間)に内藤秀勝により築かれたとされます。田代城の背後には富士居山があり、狼煙台がありました。

内藤氏本家は津久井城主であり、三増峠や中津川の監視を目的に城を築いたと考えられます。その後、永禄年間(1557~70年の間)に秀勝の孫・定行が中津川対岸に細野城を築きました。1560年代は武田信玄が不穏な動きを見せており、田代城では守備に不安があったのでしょうか。

<三増合戦>

1569年10月、武田信玄が小田原城を包囲しました。信玄は堅城である小田原城から北条軍をおびき出そうと挑発を繰り返しましたが・・・北条氏は城から出なかったため、信玄は城の周りを焼いて退却しました。

しかし、北条氏康はこの機会を狙っていました。滝山城の北条氏照と鉢形城の北条氏邦の合わせて2万の軍勢を三増峠に配置。ここで武田信玄を足止めし、背後から攻め立てて挟撃する作戦を立てました。これが三増合戦です。

この作戦通りになれば武田信玄も絶体絶命のピンチだったのですが・・・北条軍の作戦を見抜いた信玄は、別働隊を背後に回して氏照・氏邦軍を挟み撃ちにしました。これにより武田軍が優勢に。作戦が見破られたことを悟った北条軍本隊は進軍を止めたため、武田軍の勝利が確定しました。

一説には田代城と細野城はこの時、武田軍の攻撃を受けて落城したと言われています。戦場から至近距離にあるのに史料には登場しないので、確かな事は今もわかりません。

尚、津久井城の軍勢は三増合戦には参加できませんでした。それは武田軍の小幡重貞率いる別働隊に牽制されたためであったといいます。三増合戦の戦場跡には石碑と説明板が設けられました。

<廃城>

廃城時期ははっきりしません。三増合戦の後、田代城主の内藤秀行は出家したそうですが・・・

内藤氏の菩提寺である勝楽寺に1578年の寄進状があるそうです。このことから、定行が家督を継ぎ、1590年の後北条氏滅亡まで続いたと思われます。ただ、定行は細野城を居城としており、2つの城を同時に管理していたかは不明です。

定行は北条氏滅亡後、帰農したとされています。


所在地:神奈川県愛甲郡愛川町田代

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細野城/神奈川県愛川町

細野城は厚木と津久井を結ぶ国道412号沿いにありました。
訪問日は2013年3月9日です。

細野城/堀切跡とみられる国道
▲堀切跡とみられる国道

細野城は中津川沿いにある台地上に築かれていました。下のGoogle Mapの等高線を見ると地形が何となくわかります。そして、その堀切に国道が通されたと伝わります。確かに道沿いに土が盛られていて、土塁っぽいですね。

細野城/説明板
▲説明板

この国道がカーブする所に白い大きな建物が建っています。その道沿いに写真の説明板があります。

丁度選挙期間中だったのでポスターがありましたが・・・まさか城キチ狙いではないでしょうw一応ボカしておきます。

細野城/対岸より
▲対岸より

この地形を撮りたくて、対岸へ渡りました。今は橋が架かっていますが、天然の要害地形ですね^^

城の中を南北を結ぶ街道が貫いて・・・というのは現代の話。当時はおそらく、街道は川の東側にある県道65号だったと思われます。そちらに有名な古戦場・三増峠がありますので。


◆歴史◆

<築城>

細野城は永禄年間(1557~70年の間)に内藤定行によって築かれたと伝わります。中津川を挟んだ対岸には田代城があり、定行は田代城主・内藤秀行の嫡男です。

田代城は弘治年間(1555~58年の間)に定行の祖父・内藤秀勝により築かれたとされます。田代城の背後には富士居山があり、狼煙台がありました。

内藤氏本家は津久井城主であり、三増峠や中津川の監視を目的に城を築いたと考えられます。1560年代は武田信玄が不穏な動きを見せており、田代城では守備に不安があったのでしょうか。

<三増合戦>

1569年10月、武田信玄が小田原城を包囲しました。小田原城は上杉謙信でも落とせなかった堅城なため、信玄は挑発を繰り返したのですが・・・北条氏は城から出なかったため、信玄は城の周りを焼いて退却しました。

しかし、攻められてそのまま黙っている北条氏ではありません。この機会を狙っていたのでしょう。滝山城の北条氏照と鉢形城の北条氏邦が三増峠に布陣。ここで武田信玄を迎撃し、背後を小田原本隊が衝いて殲滅するという作戦を立てました。これが三増合戦です。

この作戦がはまれば武田信玄もピンチだったのですが・・・作戦を見抜いた信玄は、山形昌景に別働隊を任せ、氏照・氏邦軍を挟み撃ちにしました。これにより武田軍が優勢に。作戦が見破られたことを悟った北条軍本隊は進軍を止めたため、武田軍の勝利が確定しました。

一説には細野城はこの時、武田軍の攻撃を受けて落城したと言われています。戦場から至近距離にあるのに史料には登場しないので、確かな事は今もわかりません。

尚、津久井城の軍勢は三増合戦には参加できませんでした。それは武田軍の小幡重貞率いる別働隊に牽制されたためであったといいます。

<廃城>

廃城時期もはっきりしません。三増合戦の後、田代城主の内藤秀行は出家したそうですが・・・

内藤氏の菩提寺である勝楽寺に1578年の寄進状があるそうです。このことから、定行が家督を継ぎ、1590年の後北条氏滅亡まで続いたと思われます。城主の内藤氏は戦後、帰農したとされています。


所在地:神奈川県愛甲郡愛川町半原

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丸子城/神奈川県川崎市中原区

丸子城は日枝神社の辺りにありました。
訪問日は2013年2月11日です。

丸子城/日枝神社

日枝神社は多摩川堤防のすぐ内側にあります。周りは閑静な住宅街です。旗日なせいか、参拝者がぼちぼちいました。


◆歴史◆(なるべくザックリ)

丸子城が歴史に登場するのは、1478年にあった長尾景春の乱の時です。乱の詳細は省いて以下に経緯をザックリと書きます。

時は1473年6月、山内上杉氏の家宰・長尾景信が没しました。家督は嫡男の景春が継ぎましたが・・・

主である山内上杉顕定は、景信の弟・忠景に家宰職を継がせました。これは、白井長尾氏が主を凌ぐ勢いであり、危機感を抱いたからだとされます。家宰職を継ぐのが当然と思っていた景春は面白くありません。

味方が欲しい景春は、従兄弟の太田道灌を誘いますが断られました。しかし道灌は景春に同情したようで、山内上杉顕定に景春を懐柔するよう説きました。

ザックリと言いながらついついあせる

年月は進み、話は更にこじれ・・・

1476年、長尾景春はついに挙兵し、古河公方と対陣中であった主君を攻めました。景春には武蔵の多くの国人が同調したため、かなりの勢力となりました。景春は主君と敵対していた古河公方をも味方につけました。

そのため、乱の鎮圧を命じられた太田道灌がついに出撃。各地で反乱軍をあっさり撃退する活躍ぶりでした。

思わぬ形で上杉陣中が内部分裂をして喜んだのが古河公方・足利成氏でした。乱を起こした景春の誘いに乗るフリをして、実は傍観していたのでした。これは20年来の戦に嫌気がさしていたからで、有利に和睦しようと動き始めました。

これに反応したのが景春方として戦に参加していた豊島氏でした。豊島氏は鎌倉時代以来、武蔵南部に広大な勢力を持っていました。しかし、太田道灌が豊島氏の所領を分断して拠点を築いていたため、道灌とは犬猿の仲でした。このままでは一矢も報いずに戦が終わってしまう・・・

戦が終わることを恐れた豊島氏は、1478年正月に単独で反道灌の兵を挙げました。和睦の調停中であり勝手な挙兵であったため、景春や古河公方には見捨てられてしまいました。豊島氏がいくら大族とは言っても、さすがに百戦錬磨の名将・太田道灌には敵いません。豊島氏発祥の地・平塚城や本拠地・石神井城など次々と拠点を陥とされていきました。

石神井城落城後に、味方の小机城へ向かう途中で陣を敷いたのが丸子城だとされています。丸子城は多摩川の西岸にありました。多摩川と渡ってくる太田道灌の軍勢をここで迎え撃つつもりだったのかもしれません。

しかし、、、特に戦があったという記録なし。あっさり落とされたか、陣を敷く時間がなかったのでしょうか。豊島泰経が逃れた小机城は太田道灌の軍勢に包囲され、4月に落城しました。

・・・歴史に登場する丸子の城?は以上ですw

歴史は繰り返すといいますが・・・皮肉なものです。1486年、太田道灌は暗殺されました。家宰・道灌の勢力が強くなることを恐れた主・扇谷上杉定正によって。


所在地:神奈川県川崎市中原区上丸子山王町1丁目(丸子山王日枝神社)

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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