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間宮氏館/神奈川県川崎市川崎区

間宮氏が館を構えた跡地には宗三寺があります。
訪問日は2013年2月11日です。

間宮氏館/宗三寺

▲宗三寺

宗三寺は河崎氏館跡から京急川崎駅寄りにあります。何やら立入禁止みたいな事が書かれていた、ような気が・・・

間宮氏館/説明板
▲宗三寺の外壁にある説明板

でも!中に入れなくても、外壁に1枚の説明板を見つけました。そこには・・・佐々木氏と間宮氏の名がヽ(´ー`)ノ


◆歴史◆(推測だらけ)

間宮氏は近江佐々木氏の末裔で、南北朝時代に近江から伊豆に移った間宮信冬を祖とします。近江佐々木氏は古くから源氏に従っており、源義朝の頃に運命を共にして一度没落しました。しかし、源頼朝に味方して大活躍すると本拠の他、全国各地に所領を得て飛躍しました。

川崎には平安時代末期は河崎氏が居ましたが、鎌倉時代には佐々木氏が館を構えました。推測ですが、これは河崎氏が何らかの理由で絶えたことによると思います。佐々木氏と河崎氏は何のつながりも無いように見えますが・・・ありました。

1159年にあった平治の乱。源義朝は平清盛と衝突し、壊滅的に敗れました。源義朝に従っていた佐々木秀義も全てを失い、近江を捨てて東国へ逃れて来ました。

この時に佐々木秀義と意気投合して自らの館に匿ったのが渋谷重国でした。渋谷重国は河崎基家の孫で、相模国高座郡渋谷庄を本拠としていました。佐々木秀義は渋谷重国の娘を娶り、5男の義清と6男の厳秀が生まれました。

1180年、源頼朝は石橋山で平家打倒の兵を挙げました。この時、佐々木秀義と1~4男は源氏に、渋谷重国と佐々木秀義の5男・6男は平家につきました。天下分け目の戦いと見て一族を両派に分けたのでしょうか。その後、渋谷重国と5男・6男も源氏方に鞍替えしたため生き延びました。

戦後、佐々木秀義は旧領を回復し、子の定綱が近江、長門、石見、隠岐の守護となりました。さらにその後、検非違使・左衛門少尉など幕府の重鎮となりました。

宗三寺にあった説明板では、1263年に佐々木定綱の孫・泰綱が梵鐘を寄進したとあります。ということは、佐々木氏は鎌倉時代は任地に赴かず、川崎で暮らしていたということですね。泰綱は六角氏を名乗りますが、近江で暮らすのは数代先の室町時代になってからのようです。

間宮氏が川崎にやってきたのは室町時代、間宮信冬が伊豆から移ったと考えられています。間宮信冬は川崎に館を構え、伊勢宗瑞(北条早雲)が相模に進出し始めた頃から従いました。間宮氏はこの他に横浜市港南区の笹下にも広大な所領を持っていました。「笹下」という地名は、「佐々木」から転訛したと考えられています。一族の間で受け継いできた土地だったのでしょう。

間宮氏が歴史に登場するのは、1510年にあった権現山の戦いです。この戦いは扇谷上杉氏の重臣・上田政盛が謀反を起こした戦です。それまで扇谷上杉氏は、伊勢宗瑞を援軍に山内上杉氏と戦っていました。ですが、上田氏謀反の黒幕が伊勢宗瑞とバレたため、完全に敵対することとなりました。この戦いの時、伊勢宗瑞は上田氏に援軍を送りましたが、その中に間宮氏も居ました。

城を囲む両上杉連合軍2万に、派手な鎧で単騎斬りかかって行ったのが間宮氏でした。この時は劣勢になりかけた上田・北条軍の士気が大いに上がったそうですが・・・最終的に戦は両上杉連合軍が勝利しました。戦の後、間宮氏は笹下に本拠を移しました。


所在地:神奈川県川崎市川崎区砂子1丁目(宗三寺)

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河崎氏館/神奈川県川崎市川崎区

河崎氏館は現在は稲毛神社辺りにあったとされています。
訪問日は2013年2月11日です。

河崎氏館/稲毛神社
▲稲毛神社

稲毛神社は京急川崎駅の東側にあります。国道15号(第一京浜)沿いにあり、クルマは鳥居の所から入って4、5台は停められます。

大都会の真ん中にありますが、歴史有る神社だけあって境内は別世界。不思議な落ち着きがあります。大昔の館跡なので、遺構らしきものは見当たりませんでした。


◆歴史◆

河崎氏館は前九年の役(1051~62年)の戦功で当地を得た、河崎基家の館と伝わります。基家は秩父武綱の子で、兄は畠山氏や河越氏の祖である秩父重綱です。

基家はこの他に相模国高座郡渋谷庄、武蔵国豊島郡谷盛荘も与えられた。基家の孫・重国が渋谷姓を名乗り、谷盛荘に築いた城が「渋谷」の由来らしいです。

かなりの大身だった河崎氏ですが、その後の事蹟はほとんどわからず・・・鎌倉時代になると、川崎の地は佐々木氏の領地となりました。

渋谷氏は続いているので、本家は平家に味方して歴史ごと抹消されたのかもしれませんね^^;土佐坊昌俊(渋谷氏)の忠臣ぶりは、一族の汚名をすすぐためのものだったのでしょうか。わからないと色々と妄想が駆け巡りますw

河崎氏の館跡とされる稲毛神社ですが、こちらの歴史もかなり古いです。

杜伝によれば、景行天皇が東国巡行の際に賊難を避けたと伝わります。景行天皇は日本書紀や古事記に登場する第12代の天皇です。年代で言うと4世紀前半らしいですあせる

河崎基家が山王権現を勧請してからは「河崎山王社」「堀之内山王権現」と呼ばれています。鎌倉時代には社領700石が寄進され、佐々木高綱によって社殿が造営されました。しかし、室町時代になると新田家との関わりから社領が20石に減らされました。

幕末の1868年、幕府征討で下向中の有栖川宮熾仁親王が河崎山王社で休憩しました。この時、神仏分離の方針に相応しくないという理由で「川崎大神稲毛神社」と改名されました。「川崎大神宮」とも呼ばれていましたが、明治時代中頃には「稲毛神社」で定着しました。


所在地:神奈川県川崎市川崎区宮本町(稲毛神社)

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佐江戸城/神奈川県横浜市都筑区

佐江戸城は鶴見川がカーブし、麓に中原街道が通る舌状台地にありました。
訪問日は2013年2月11日です。

佐江戸城/杉山神社
▲杉山神社

城跡の比定地としてよく名前が出てくるのが杉山神社です。台地の端にあるため、急斜面に参道の階段があります。杉山神社は城主・猿渡氏が鎮守のために勧請したといわれています。

佐江戸城/杉山神社周辺の畑
▲杉山神社周辺

ここら辺りは城跡のはずですがw一面に畑が広がり、所々に集落があるといった感じ。遺構らしきものが無いかキョロキョロしていると・・・

佐江戸城/杉山神社付近にある堀切?
▲堀切跡?

ある畑の一角に、いかにも人工的な溝がありました。深さも幅もそんなにないのですが、堀切ではないか?と言われている溝です。

佐江戸城/工事中の地蔵尊付近
▲台地先端の地蔵尊付近

台地先端部の地蔵尊辺りも有力な比定地ということで行きましたが・・・台地の先を派手に重機で削る工事中あせるあぁ、、、崩さないで~~~

佐江戸城/工事の図面
▲工事現場に貼ってあった図面

工事現場は白い壁に囲まれていて、中を見ることができません。その白い壁に一枚の図面が貼ってありました。等高線の入った図面を見ると、、、斜面の所々に平場がある感じです。

佐江戸城/腰郭?1
▲地蔵尊脇の斜面

早速工事していない、地蔵尊周辺をウロウロしてみました。すると、人工的な感じのする平場がぼちぼちありました。

佐江戸城/腰郭?2
▲腰郭?

斜面を登る歩道脇にいくつもある細長い平場。お城の遺構なら腰郭ですね。遺構であるとは限りませんが・・・w


◆歴史◆

佐江戸城も築城年代および築城者は不明です。記録が残っているのは、鎌倉時代の猿渡(さわたり)氏からです。

猿渡氏は平安時代末頃、藤原兼延が武蔵国橘樹郡猿渡村に下り、名乗ったことに始まります。橘樹郡猿渡村は現在の横浜市神奈川区沢渡ですが、足柄郡猿渡村という説もあります。

猿渡氏は鎌倉時代より代々、武蔵国総社の大宮司を務めていました。室町時代に入り、足利尊氏に逆らったため一時所領を失いましたが、すぐに復帰しています。

そして戦国時代には後北条氏に仕えていました。1559年に編纂された『小田原衆所領役帳』では、猿渡内匠助が佐江戸に48貫文を領しています。1590年、豊臣秀吉による小田原征伐の際に当主・猿渡盛正が八王子城で討死。このため、猿渡盛正の妹が嫁いでいた江戸城主・遠山景政の次男を養子としました。

その後しばらくは不明ですが、江戸時代初期には竹尾氏が領有していたようです。竹尾元孝については何もわかりませんが、1633~72年まで東漸寺が元孝の菩提所でした。


所在地:神奈川県横浜市都筑区佐江戸町

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寺尾城/神奈川県川崎市多摩区

今日は晴れていますが、物凄い風が・・・
ということで、今日も思い出しブログです。

今回は川崎市多摩区にあった寺尾城跡。
訪問日は2013年2月10日です。
比較的新しめですw

寺尾城は寺尾台団地の台地先端部にありました。ルートは、小田急よみうりランド前駅の前に有る斜めに入る道を上がります。そして「寺尾台住宅入口」の信号で右斜めの道を進みます。その突き当たりが城跡です。

寺尾城(多摩)/遠景
▲寺尾城跡の遠景

「寺尾台」というだけあって、しっかり地形は台地です。しかも、これだけはっきり台地の地形が撮れるのも珍しいです^^台地の上に団地が1棟写っていますが、この右側にもいっぱい並んで建っています。

寺尾城(多摩)/城跡への入口
▲団地脇にある古道

城のあった台地は団地となり、遺構はほぼ潰されてしまっています。しかし、その一角に斜面を下る歩道が一筋あります。ここが城跡への入口となります。

寺尾城(多摩)/台地先端の平地
▲台地先端部にある削平地

その道へ入り、台地先端側に歩いて行くと、程なく広場に出ます。位置的には城の郭跡だと思いますが・・・団地造成であれだけ派手に壊していますからね。住民憩いの場として展望の利く場所を公園化しようとしたのかもしれません。土塁なども見当たらないので、何ともいえません。

寺尾城(多摩)/笹藪の向こうは崖
▲広場の端に崖

この広場は一応柵で囲ってありますが、そんなに高くありません。大人なら簡単に乗り越えられるほどです。柵の向こう側は笹薮になっていて足元が見えないのですが・・・この貼り紙の通り、断崖となっているようです。

寺尾城(多摩)/古道
▲古道?

さっきの広場からUターンして、今度は古道を下ります。ここには唯一?の遺構として大きな竪堀があるというので。

寺尾城(多摩)/古道を下から
▲古道を下から見上げました

わずかに残された遺構を見ようと、じっと目を凝らして歩きましたが分からずあせる古道をUターンして登ります。この道、昔からありそうな感じがします。山城に登る雰囲気がぷんぷんして、短い距離ではありましたがワクワクしました。

寺尾城(多摩)/竪堀
▲竪堀跡

そして見つけました!古道に沿って土塁っぽい土盛があり、その向こう側に。真冬だというのに、藪で埋まっていてかなりわかりづらいです。

寺尾城の跡には、城跡という表示は一切ありません。台地先端部が破壊されずに残ったのは奇跡的ですね。この一見ただの藪と化した窪みが、今後も破壊されずにいることを願います。


◆歴史◆

わかっている事は
「室町時代に寺尾若狭守により築かれた」
の1点だけですあせる

ですが、歴史大好きな私を燃えさせてくれました。それは、諏訪右馬助のお城が何箇所かあり、その全てが「寺尾城」であるということ。ほんとかよ???とついつい食いついて、休日の午前中を潰しましたw

色んなサイトを見ていると・・・

寺尾若狭守は諏訪氏の一族、とか
戦国時代は諏訪姓を名乗った、
と書かれています。
更に『小田原衆所領役帳』には「久良岐郡寺尾、諏訪三河守弐百貫文」と書いてあるなど。史料に「武蔵国寺尾の住人諏訪右馬助」としか書かれていないのが混乱の根源みたいです。

まず、「久良岐郡」がどこなのかを調べてみました。すると、横浜市のおおよそ南半分くらいであることがわかりました。つまり、地理的には鶴見にある寺尾城辺りが該当する訳です。

そして、川越市にあるとされている寺尾城ですが、今もってその位置すら不明です。下手をすると無かったかもしれないです。

河越夜戦の時に和議の交渉に当たったのが諏訪右馬助。史料には「武蔵国寺尾の住人」としか書かれていません。川越市に「寺尾」という地名があれば、関連付けたくもなりますね。

この「寺尾」という地名、けっこうクセ物です。同じ地名が各地にごろごろあるのでwしかも、地名の由来が「そこにお寺があった」という点まで同じです。

しかし、1点だけ気になる点があります。それは寺尾という姓。調べてみると、信濃国の諏訪神党にルーツがあるというのです。寺尾若狭守の出自が一切不明なので、もしかしたら、というのはあります。

あとは、近くにある小沢城の支城だったという説。
私は否定的です。

小沢城は東西に伸びる嶺を詰の城とした殿谷戸形式です。これは平安時代末期から鎌倉時代初期に流行った造りです。1455年1530年に北条氏康が初陣で扇谷上杉朝興を破ったことで有名なお城です。

ただ、小沢城は造りが後北条氏っぽくないのです。どちらかというと、舌状台地の先端に築いた寺尾城の方が、後北条氏っぽさで溢れています。

そこで新説!
初陣の大勝利でご機嫌な北条氏綱が、記念にお気に入りの無名の若武者に与えたお城・・・というのはどうでしょうか?

《追記》
川越辺りを否定的に書いたものの・・・伝承がある限り、否定することはできませんね。当時はあちこちに飛び地で所領を持っているのが当たり前の時代。所領ごとに館を建て、身内を置いて管理させていた可能性はありますネ。


所在地:川崎市多摩区寺尾台

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早川城/神奈川県綾瀬市

今週も生憎のお天気なので、思い出しブログです。
行きっ放しの城跡が減らないもので・・・w
ここには2011年11月5日に訪問しましたあせる

この城跡を知るきっかけとなったのは迷子になった時です。「ここどこだろ~?」と走っていた時に「城山公園」の案内標識がありました。その時はそれどころではなかったのでスルーしたのですが・・・後で自分がどこを迷走していたのかを調べている内に、そこが城跡だと知りました。

で、ルートはと言うと・・・さすがに迷走していた時にそばを通っただけあって、中々文章では説明が難しいです。一番下にある地図(Google Map)を見てチャレンジしてみて下さいw

早川城/城山公園となっています
▲城跡は「城山公園」として整備されています

早川城跡は公園として整備されているだけあって、駐車場もかなり立派です。もちろん、公園の駐車場なのでタダです。公園の周りは新興住宅地のようで、綺麗に区割りされて新しい家が沢山並んでいました。

早川城/公園の案内板
▲城山公園の案内板

公園を入ってすぐの所に公園の案内板がありました。「早川城跡」と銘打ってけっこうな文字数があり期待したのですが・・・要約すると、

"ここはかつて渋谷氏の城であり、発掘の結果遺構が見つかった"

程度の事しか書かれていません。何も無いよりははるかにマシですが・・・

早川城/案内板の図を加工
▲案内板の図を加工して遺構の位置を記入しました 拡大表示

・・・ということで、5時間かけてチマチマ加工して期待していたものを作ってみました。悪天候でヒマじゃなければこんな事できませんwさて、公園に入ってすぐの所は本当にただの公園です。案内板のある広場が二郭です。なので、あまり期待もせずに進んだのですが・・・

早川城/堀切(虎口前の土橋から)
▲主郭と二郭の間の堀切(内側から)

木々の間を通る道を進んで行くと・・・・突如現れた見事な堀切。かなり埋もれた様子ですが、それでも2m程の深さはあります。

早川城/堀切(外側から)
▲主郭と二郭の間の堀切(外側から)

後で反対側(西)から撮影したものです。かなり深さもあり、ハッキリそれとわかる堀切です。ここが二郭と主郭の境目となります。

早川城/土塁
▲主郭入口にある虎口の土塁

主郭に入って振り返ると、さっきの堀切に沿って土が盛られています。虎口の土塁だったんですね!堀切と土塁で高低差をつけた厳重な門だったようです。

早川城/主郭
▲主郭

主郭はかなり広い広場となっています。鎌倉時代の城跡というと、もっとこじんまりした所が多かった気がします。これだけの広さがあると、守る兵の数も相当な人数が必要だと思います。

早川城/物見塚
▲主郭にある物見塚

主郭の中に、木々で覆われた土盛があります。これは物見塚と呼ばれています。テッペンにある石碑は、東郷平八郎が建てたものだそうです。

早川城/腰郭
▲南斜面にある腰郭

主郭からは南の斜面を下る道があり、その途中に腰郭があります。大した広さではありませんが、緩やかな斜面にある平場は大切な防衛拠点です。お城の造りは北に備えた感じですが、裏を取られないようちゃんと備えていたんですね!

早川城は、北から南に突き出した舌状台地の先端に築かれたお城でした。東~南~西は深い谷で隔てられています。当時そこまでは写真を撮っていないので、画像はありませんあせる

郭は台地先端の南から主郭・二郭と続き、かつては三郭まであったそうです。三郭は完全に住宅地となってしまったので面影はありません。かなり広いお城なので、渋谷氏の勢力が相当なものであったことが窺われます。


◆歴史◆

早川城は平安時代に渋谷氏により築かれました。渋谷氏は秩父氏の一族で、河崎基家の孫・重国が渋谷姓を名乗ったのが始まりです。

河崎基家は武蔵国荏原郡(川崎市南部から東京都大田区、品川区辺り)を本拠としていました。とても武芸に秀でた武将でしたので、各地に所領を沢山持っていました。その1つが相模国高座郡渋谷荘であり、重国がこちらに移って城を構えました。

東京の渋谷には、重国の子・金王丸が居ました。かつては城がありましたが、今は金王神社となっています。金王丸は源義朝に仕え、平治の乱に敗れて東国に落ち延びる義朝に最後まで仕えました。その後、26年間姿を隠していました。1180年に源頼朝が挙兵した時、土佐坊昌俊と名を変えて初めから味方しました。

一方、本家の渋谷氏をはじめ、秩父一族は源頼朝が石橋山で挙兵した際は平家方でした。当時、武蔵国は平清盛の知行国であり、清盛の4男・知盛が武蔵守を務めていました。武蔵武士の棟梁は平家だったのです。

石橋山の戦いでは平家方が圧勝し、頼朝は命からがら安房国へ落ち延びました。そこで里見氏や上総氏を従えて再び挙兵するのですが・・・そこで秩父一族は平家を裏切りました。

これは渋谷氏だけでなく、武蔵国のほぼ全勢力が寝返ったのです。一度は平家方として戦って大勝利を収めたはずなのですが・・・何があったんでしょうね?w県内の城跡に行って歴史を調べると、大体こんな感じの流れになります。

鎌倉時代になり、重臣達が次々と粛清されていく中、渋谷氏は生き残りました。1213年の和田合戦で次男坊は和田方について戦死しましたが。長男坊は北条方についたので、一族滅亡とはなりませんでした。

その後、渋谷氏は1221年の承久の乱で手柄を立て、薩摩に多くの所領を得ました。そのため、長男以外は任地である薩摩に移ったのでした。一方、相模の本家も室町時代までは続きました。室町時代の相模といえば北条早雲。伊豆からじわじわと東へ勢力を伸ばしていました。

早雲ははじめ、山内上杉氏と戦っていた扇谷上杉氏の援軍として相模に兵を出していました。そうやって相模国内にある山内上杉氏方の城を攻めては自分の領地にしていったのです。小田原城の大森氏は、扇谷上杉氏から山内上杉氏に寝返ったため、早雲に滅ぼされたのです。

ですが、1510年に早雲が扇谷上杉氏の重臣・上田氏に謀反をそそのかしていたのがバレました。こうして起きたのが権現山での戦いです。それまで争っていた両上杉氏が和睦し、早雲の排除を始めたのでした。

権現山では両上杉軍が大勝しました。ここから逆襲が始まるはずでしたが・・・山内上杉氏で内紛が始まり、扇谷上杉氏がその仲裁に奔走する始末。もう1つの同盟相手の古河公方も同じような状況に陥りました。こうなると早雲の敵ではありません。

1512年に早雲は、扇谷上杉氏随一の家臣・三浦義同の岡崎城を攻め落としました。三浦氏も秩父一族です。この戦いで、早雲は相模のほぼ全土を手中に収め、義同は三浦半島へ落ち延びました。渋谷氏は扇谷上杉方として戦っていたので、早川城もこの時落城したと思われます。1519年に早雲は他界しましたが、2代目の北条氏綱は早雲の志を継いで勢力を拡大しました。

そして1524年、氏綱は江戸城を攻め落としました。この時の戦いで渋谷氏が守っていた渋谷城も攻め落とされ、相模の渋谷氏は滅びてしまいました。

一方、薩摩に移った弟たちは東郷氏、祁答院氏、鶴田氏、入来院氏、高城氏を名乗りました。彼らは当地でも活躍し、島津氏に拮抗するほどの勢力となりました。公園の物見塚に石碑を建てた東郷平八郎も、渋谷氏の子孫だったのです。


所在地:神奈川県綾瀬市早川

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

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