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古川山城/福岡県北九州市

古川山城は、南北にとっても長いです。
訪問日は2023年1月1日です。

古川山城【位置】 別ウィンドウで表示

古川山城は、北九州霊園の西側にあります。
別名は椎山城、志井城、城ノ粒城など。
西の徳吉では古川山城、東の志井では椎山城だそうです。
北九州霊園の展望台付近から山に入ることが出来ます。
その場所は2箇所あり
①一番高い段の一番奥から【写真1】
②手前の道端から【写真21】
です。
尾根の各ピークに曲輪があり、城域は広いです。
軌跡が何だかサボテンダーみたいな形になりました。
ご存知ない方はググってみて下さい♪
構造はほぼ帯曲輪と段曲輪のみで、シンプルです。
主郭はAの古川山の山頂と考えられています。
ここだけは浅いながら堀切も見られます。
記号は参照した『福岡県の中近世城館跡3』に合わせています。
無料でダウンロード出来るなんて有難や(*´人`)
歩いた距離は約11km(・□・;)
全部見るなら、気合入れて挑んで下さい!

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古川山城【1】
【1】獣避けフェンスを開けて山へ 上に戻る

城跡は北九州霊園のそばにあります。
大きな墓地で、あちこちに駐車場があります。
その一番奥が展望台です。
ここに車を停めて背後の山へ。
墓地の一番高い段に登って左奥へ。
端っこに階段があり、獣避けフェンスがあります。
紐で結んであるだけなので、ここから山に入れます。
古川山城【2】
【2】左奥へ 上に戻る

山に入ると、白いタンクがあります。
帯曲輪状になっていますが、右側は行き止まり。
高さは3メートル程あり、ひたすら左奥へと続きます。
断面が新しい感じなので、墓地の造成によるのかも。
直接登れない高さでもないですが、奥へ進みました。
古川山城【3】
【3】段差が段々低く 上に戻る

奥へ進むに従い、段差が無くなって来ます。
尾根を下る感じになると、合流する感じです。
この尾根上に、崩壊したフェンスがあります。
きっと墓地の敷地の境目なんでしょう。
ここからCの曲輪へ登れます。
道は無いので、ただ高みを目指して下さい。
古川山城【4】
【4】C:上から見た段差 上に戻る

フェンス沿いに登り切った所が平らになっています。
ここがCの曲輪です。
山キチ様達は「志徳尾根」と呼んでます。
そんなプレートがあるらしいですが、気付きませんでした。
だって私は城キチですから(*´ω`*)
それよりも、曲輪を囲む段差の方に目が行きます^^
古川山城【5】
【5】D:尾根のピーク 上に戻る

とにかく城域が広いので、どう回ろうか悩みます。
東の尾根に行ってそのまま道に下りる作戦を採用。
これなら東の尾根から登り直す必要ないですし。
ということで、南→西→北→東の順に回ることに。
Cから南の尾根を下り、ちょっと高くなった所がDの曲輪群です。
これは手前側(北側)のピークです。
古川山城【6】
【6】D:次のピーク 上に戻る

更に南へ尾根を進むと、次のピークが現れます。
いずれのピークも平らに馴らされています。
ここでも端が少し低く、帯曲輪状に囲んでいます。
古川山城【7】
【7】E:曲輪 上に戻る

更に南へ尾根を下った先にあるピークがEの曲輪群です。
ここも同じ感じの曲輪です。
堀や土塁が無いので地味に感じますが・・・
普通の山の中には、こんなに平らな場所はいくつもありません。
・・・と自分に言い聞かせたのは内緒です。
古川山城【8】
【8】E:曲輪 上に戻る

ハイ、とても平らです^^
古川山城【9】
【9】上から見つけた山道 上に戻る

さて、Eのピークの西にある山がHの曲輪群です。
もう、はっきりと隣の山です。
別の城だとおっしゃる方もいらっしゃるようで。
とはいえ、派手に下るものの尾根で繋がっています。
尾根の高い所を辿ればよくね?で、道無き斜面を下ります。
この辺、事前サーチすれば良かったのですが・・・
またも特技発動!
眼下に山道を発見したのでしたw
古川山城【10】
【10】山道の入口 上に戻る

ということで、EからHへの山道です。
これでもか!という位にピンクの目印があります。
私もこれは見つけたんですがね。。。
奥に続く道や目印が見えず、わかりませんでした。
ということで、帰りに奥にも目印付けて来ました。
山キチさん達は、そんなモノ無くても迷わないようです。
古川山城【11】
【11】H:曲輪 上に戻る

別の山に登り直した先にある、Hの曲輪群です。
県の報告書によると、南側に堀切があるようです。
私が読むのは大体帰宅してからなんですよね・・・
もっとちゃんと読んでから行けば良かった(-_-;)
古川山城【12】
【12】H:帯曲輪 上に戻る

ここも周りが一段低い帯曲輪状になっています。
基本的な構造は同じです。
古川山城【13】
【13】A:帯曲輪 上に戻る

南端まで行き切ったので、今度は北へ。
E→D→Cを登り直し、更にその先の山頂へ。
その山頂がAの曲輪群です。
ここは他の曲輪群よりも構造がハッキリしています。
段差もこんなにあります。
古川山城【14】
【14】A:主郭 上に戻る

ということで、ここが主郭です。
白い何かが立ってますが、何だったか覚えてません(;'∀')
少なくとも、城跡を示すものではなかったような。
城キチの記憶力なんて、そんなモンです(*´Д`)
古川山城【15】
【15】A:堀切 上に戻る

まぁでも、こういうモノはよく覚えています^^
他の曲輪群では見られない堀切です(*^▽^*)
古川山城【16】
【16】A:プレート 上に戻る

そして、山頂にはコレが。
道は不明瞭ですが、あると嬉しいデス(*'▽')
でも、事前に調べた時は「椎山城」でした。
別名?と思い帰宅して調べると、そうでした。
私の流儀では、現地での表記で城の名前を紹介します。
ということでの「古川山城」です。
古川山城【17】
【17】B:段差 上に戻る

次のターゲットは、山頂から南西に伸びる尾根。
そこにあるのはBの曲輪群です。
あまり高低差が無いので、ここは楽でした。
南側のようにアップダウン激しいとツライですから。
ここには「お姫山」のプレートがありました。
謂れなど書いたモノがあると嬉しいのですが。
古川山城【18】
【18】A:虎口 上に戻る

西の尾根も攻略したので、今度は北へ。
ここで時間を見ると13時前。
昼過ぎに実家に帰ると言ったのにまだ道半ば。
ちょろいと思ってたのに、想定以上に時間が掛かってます。
うわ、やべ!っと遅くなりますメールを送信。
そう思いながら見つめた、A曲輪群北側の虎口です。
古川山城【19】
【19】F:切通し 上に戻る

北側の尾根は幅が広く、段があるような無いような。
そして気の急く身には、とても長く感じる尾根でした。
そんな時、突如として正面に現れた土の壁。
うわ!デケー堀切様ヾ(*´∀`*)ノ
実家に帰る時間を犠牲にしてまで来て良かった!
なんて思った切通しでした。
古川山城【20】
【20】F:切通し 上に戻る

まぁ、尾根を分断するよう人が掘ったものですが。
でも、これは東西を行き来するために掘られたもの。
決して南北の行き来を阻害するためのものではありません。
たぶん。
先人は前者の説が濃厚だとのたまっていらっしゃいます。
・・・私は後者であって欲しいですが。
イイ物見て力が沸き、一気に北のピークへ。
ここも平らに整形され、古志の峰のプレートがありました。
古川山城【21】
【21】道端から尾根に入れる場所 上に戻る

北端まで見て来たので、ラストは東の峰へ!
はよせな、はよせなと、山頂まで登り直し。
Cまで戻り、今度は元来たフェンスに沿って下ります。
そして下りた先が、展望台手前の道端です。
ここでは尾根と道が同じ高さに。
東の峰楽勝!なんて心の中で叫んだとか叫んだとか。
でも、世の中そんなに城キチには甘くありません。
アスファルトと尾根は、だんだん高低差が開いて来ます。
やべ、下りられネ!とならない内にガードレールの外側へ。
暫くはコンクリートの壁伝いに進むことになります。
古川山城【22】
【22】G:段曲輪 上に戻る

一旦下った尾根は、再び上り坂に。
この尾根にも、段になったような雰囲気があります。
目の錯覚ではないと思いますが、自信がありません。
さっきの事があったばかりですからネ!
古川山城【23】
【23】G:宮山の曲輪 上に戻る

登り切った東の峰の頂上です。
他の曲輪よりは、削平が甘いような気が。
それでもキタ!と、とりあえず一周。
不明瞭ですが、確かに人の手は入っています。
こうしてひと通り制覇したので駐車場へ。
先程のガードレールから車道を歩いたのでした。


◆歴史◆

鎌倉時代に長野種盛により築かれたと伝わります

長野氏は平安時代、豊前国司として長野城を築きました。
以後、周辺に勢力を拡大し、沢山の山城を築きます。
この頃の長野氏は桓武平氏と考えられています。
南北朝時代になると、別系統の長野氏が登場します。
中原氏系だったり、清原氏系だったり。
いずれの長野氏も、長野に拠点がありました。
以後の長野氏は、誰がどの系統なのか混乱が続いています。

1399年、大内盛見に攻め落とされました

南北朝時代の長野氏は、北朝方だったとされます。
1392年に南北合一が成り、1395年に今川了俊が九州を去ります。
以後、豊前は大内氏と大友氏の争奪戦の舞台となります。
1397年から翌年にかけて、長野氏は大友氏鑑に従いました。
しかし、大内軍に攻められ長野氏は降伏。
この時に古川山城も陥落し、一時廃城になったとされます。
以後も、長野氏は大内氏と大友氏の間で翻弄され続けます。

1568年、毛利軍の拠点になったという説があります

1566年、大友宗麟が『長野成敗』
1569年、毛利元就が『長野退治』
大内家滅亡後も、北部九州の争奪戦が続きました。
この時期には、筑後の秋月氏も長野氏と関わるようになります。
大大名の相次ぐ侵攻により、長野氏は衰退します。


所在地:福岡県北九州市小倉南区志井 GPS軌跡ダウンロードページ
福岡県の城跡/なぽの城跡巡りを表示

堀越城/福岡県北九州市

堀越城は、長野城の西隣にあった山城です。
訪問日は2023年1月1日です。

堀越城【全体】
別ウィンドウで表示

登山口は、長野緑地の西駐車場です。
無料ですが、8時~20時の間だけ利用可能です。
夜は無いと思いますが、朝駆けは出来ません。
登山道はよく整備されています。
城山までは東西2つのルートがあります。
私のおススメは時計回りです。
現地では笠岩から先に回ると覚えておいて下さい。
剣立山側は傾斜がキツイので、登るのが大変です。

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堀越城【1】
【1】説明板 上に戻る

長野緑地には3つの駐車場があります。
堀越城へ行くには、西側の駐車場を利用します。
無料ですが、朝8時にならないと開きません。
当日は入口から通路に登山者グループが数台停めていました。
お疲れ様と言っていたので、下りて来た所のようです。
山で初日の出でも見て来たのでしょうか。
松山城もそんな感じなので、駐車場は意外と混んでます。
堀越城の登城口ではありますが・・・
真ん中に描かれているのは、長野城 の縄張図です。
堀越城【2】
【2】堀越城はこのイラストだけ 上に戻る

堀越城はと言えば、イラストの端にありました。
ただ、位置が剣立山っぽいのですが・・・
何となくイメージは掴めるので良しとします(`^´)
堀越城【3】
【3】分岐 上に戻る

高速道路を潜り山道へ。
割とすぐに道が分岐します。
案内は左が笠岩、右が剣立山です。
どちらからも堀越城には行けますが・・・
登りは、傾斜の緩い笠岩側がおススメです。
堀越城【4】
【4】下から見る笠岩 上に戻る

登山道を登っていると、こんな場所に出ます。
いい撮影ポイントですね!
興味無かったので事前には見ていませんでした。
ただ岩があるだけでも面白いですが、形が独特です。
でもこれ、笠ですかねぇ?
私は烏帽子の方が合ってるような気がします。
堀越城【5】
【5】登山道から見た笠岩 上に戻る

笠岩まで来たなら山頂も近いハズ!
そう考えると俄然元気が出て来ます。
笠岩の横まで一気に登りました。
一般ピープルからはこんな角度ですが・・・
堀越城【6】
【6】空から見た笠岩 上に戻る

お天気良いし木々も無いので2023年の初フライト!
城山をバックに撮ったつもりでした。
正解は、右のもっと高い山が城山です。
城キチあるある?で、行くまでどの山か?だったりします。
堀越城【7】
【7】堀越城の案内 上に戻る

ここまでの案内は笠岩しかありませんでした。
その笠岩を過ぎると、堀越城の案内に変わります。
えー、あと30分!なんて思いますが、そんなにかかりません。
堀越城【城域】
【城域】 上に戻る

笠岩を過ぎると、いよいよ城域に入ります。
山頂を中心に北西・北東・南東の尾根に遺構があります。
笠岩は南東尾根、剣立山は北東尾根にあります。
堀越城【8】
【8】南東尾根の堀切 上に戻る

笠岩を過ぎると、傾斜が緩くなります。
貫山への山道と分岐すると、いよいよ城山の尾根です。
鞍部から尾根の登りに差し掛かろうとすると土の壁が。
その御前に、大きな堀切様がいらっしゃいました(*´∀`*)
堀越城【9】
【9】南東尾根の堀切 上に戻る

上からだと相当深く見えましたが・・・
堀底の端から撮ると、そんなでもないように写ります。
もう、恥ずかしがらなくてもイイのに。
堀越城【10】
【10】南東尾根の段曲輪 上に戻る

堀切から先は城山山頂から伸びる尾根。
その表面は、大きな階段のように段があります。
堀切であたふたする敵を、一斉射撃でお出迎え!
なんて事が出来ると思います。
堀越城【11】
【11】主郭 上に戻る

山道はすんなり平坦面に入ります
虎口っぽい構造はありませんでした。
ここが堀越城の主郭です。
山頂部がとても広く平らにされています。
外周には土塁はありません。
構造としては古い部類のようです。
堀越城【12】
【12】城址プレート 上に戻る

主郭のやや北寄りにこれがあります。
こういうの、あるととっても嬉しいデス!
私もこういうの置いて来ようかなんて思うこともあります。
でも、場所間違えてたらハズイですよね(;'∀')
堀越城【13】
【13】北西尾根へ 上に戻る

主郭に着いたので、今度は北西尾根へ。
行き帰りに通らないので、わざわざ見に行きます。
登山道ではありませんが、歩いた跡があります。
下る道がある訳でも別の山がある訳でもなし。
山キチさん達には、全く用の無い方向です。
城キチがかなりここを訪れているようですネ!
堀越城【14】
【14】北西尾根の段曲輪 上に戻る

こちらの尾根も、段々に曲輪が連なります。
その1つ1つが、南東尾根のものより広いです。
傾斜が緩いせいでしょうか。
堀越城【15】
【15】北西尾根の堀切 上に戻る

その先端部に幅の広い堀切があります。
真ん中がちょっと盛り上がっているような気が。
元々は二重の堀切だったのかもしれません。
堀越城【16】
【16】北東尾根の段曲輪 上に戻る

さて、見る所は見たので山を下ります。
笠岩から登って来たので、下りは剣立山へ。
そっちの案内に従って山道を下ります。
こちらの尾根にも、段曲輪が連なっています。
1段につき1枚撮って段数を数えよう!と思っていましたが・・・
振り返って撮ったら、ここから下の段を忘れました(・_・;)
堀越城【17】
【17】剣立山 上に戻る

そうこうする内に、視界が開け小さなピークが。
尾根のピークなら眺めがイイよね!という場所です。
ここには何も標示が無かったのですが、剣立山です。
下に沢山案内出てたので、何かあると思っていました。
城山側はこんなですが、ピークは視界が開けています。
堀越城【18】
【18】剣立山からの眺め 上に戻る

ほら、こんな感じに!
ちゃんとベンチまであります。
ここを剣立山だと思わなかった自分が、ちょっと不思議です。
堀越城【19】
【19】空から見た城山 上に戻る

さて、見晴らしが良いのは北側だけ。
城山を振り返ると、木々が邪魔でよく見えません。
ならば私には翼がある!ということになります。
普通なら剣立山とツーショットで撮るのですが・・・
まだ先だと思っていた私に、そんな発想は生まれませんでした。
堀越城【20】
【20】北西麓の尾根 上に戻る

堀越城の城域は、剣立山の50メートル下の曲輪群で終わりです。
その曲輪群は残念ながら気付かずに通り過ぎてしまいました。
山道は、城跡だと思えばそれっぽい場所がいくらでもありますから^^;
GPS見てあ~あ、通り過ぎたっぽいと気付きました。
あとは下るだけ!と思っていましたが・・・
途中で、どうにも引っ掛かる場所がありました。
下って来た尾根の付け根が窪み、この先に細長い尾根。
もしかして?と思い、立ち寄りました。
堀越城【21】
【21】段差 上に戻る

尾根先端は平坦で、しかも段差まであります。
これって曲輪じゃね?というのが私の感想です。
堀越城【22】
【22】土塁っぽい土盛り 上に戻る

しかも、山道側にはこんな土盛りまであります。
この下は急斜面をジグザグに登って来る山道です。
敵を迎え撃ったり、麓を見張るには丁度良さげな場所です。
堀越城【23】
【23】北西尾根付け根の下 上に戻る

先程書いた通り、尾根の付け根は急斜面です。
たぶん、登山道全体で一番険しい場所かもしれません。
ここで上から一斉射撃されたらイチコロです。


◆歴史◆

詳細不詳です

長野城から至近距離のため、長野氏の城と考えられます。
山中で直接行き来出来る道もあるくらいですので。
史料上では大城、小城、鷲ヶ城と記されています。
ただし、鷲ヶ城は北隣りの丸ヶ口城の可能性も指摘されています。
大城は主郭、小城は北西尾根の細長い曲輪を指すと考えられています。
鷲ヶ城が堀越城だった場合、高橋治勝の居城という事になります。
戦国時代の長野氏は、大友家・毛利家双方から攻められ離散。
1578年に大友軍が耳川で大敗した後に復活しています。
長野氏は秋月種実の弟が長野助盛を名乗っています。
大友家に反旗を翻した高橋鑑種も秋月氏から養子を迎えました。
そのため城主は、長野姓・高橋姓を名乗る秋月家出身者と思われます。


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岩石城/福岡県添田町

岩石城は、15年ぶりの再訪問です。
訪問日は2022年12月30日です。

岩石城【全体】
別ウィンドウで表示

岩石城は、2007年以来の訪問となります。
ヒヨッコだった当時は、模擬天守だけ見て帰りました。
しかし後年、本格的な山城だったと知りました。
いつか訪ねてやろうと心に誓うこと数年。
大分シリーズで時間に余裕が出来、立ち寄りました。
登山口は添田神社隣のそえだジョイ脇にあります。
私は久しぶりに模擬天守を見たくて、美術館前から登りました。
登山道はよく整備され、奥の院へと通じます。
ここからが城域で、各所に曲輪が配置されています。
曲輪の名称は、某大御所様のイラストの番号を採用。
日没が迫っていたため、奥の方は回り切れていません。

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岩石城【登城口周辺】
【登山口周辺】 上に戻る

登山口はそえだジョイ脇にあります。
少し登った所に展望台があり、舗装道から合流も可能です。
ただ、展望台周辺には駐車場がありません。
模擬天守から舗装道を歩き、展望台付近で登山道へ入ります。
私が訪ねた時は、美術館から先は通行止めでした。
登山道はよく整備され、とても歩きやすくなっています。
岩石城【1】
【1】そえだジョイ 上に戻る

登山口の目印になるそえだジョイです。
城郭風のちょっとイタイ感じの建物です。
添田公園内に聳え、よい目印にはなっています。
岩石城【2】
【2】登山口 上に戻る

その左脇が、岩石山への登山口です。
周りに駐車場は無く、私は通り過ぎましたが・・・
この奥に駐車場があります。
岩石城【3】
【3】添田美術館 上に戻る

12年ぶりの御対面となる模擬天守です。
前回は門が固く閉ざされ、外から見ました。
気になり調べたら年中無休らしいのですが・・・
今回も門は固く閉ざされていました。
クリスマス頃の積雪のためと貼られていました。
滋賀の水口城や岐阜の神岡城も、私が行くと必ず閉まっています。
嗚呼ココもかいと、何とかリストに追加するのでした。
ということで、12年前と同じく門の右脇の段差上から撮影。
正面から御尊顔を拝む日は果たして来るのか?
岩石城【4】
【4】登山道 上に戻る

模擬天守の先からも、岩石山に登ることが出来ます。
舗装道をそのまま進み、展望台付近で登山道に合流します。
訪問当日は、土砂崩れのため通行止めでした。
ただの通行止めでなく立入禁止だったので、そこから山道へ。
山中をショートカットして展望台の先に出ました。
そこから展望台方向へ少し下り、登山道に合流しています。
登山道は写真の通りとてもよく手が入っています。
ストレートになると、視界の限り私の苦手な階段が続きます。
それで少しハートがヤラレちゃったのは内緒です。
岩石城【城域】
【城域】 上に戻る

岩石城の城域は、奥の院から先です。
多くの曲輪が、左右に配置されています。
豊臣軍に攻められた時には3000人で立て籠もっています。
それだけの規模の山城だったということです。
日没が迫っていたので、東側の下段は見られず。
きっと数年したら再訪問するかと思います。
岩石城【5】
【5】奥の院鳥居 上に戻る

美術館前から40分程で、奥の院に着きました。
現地では「奥の院」とだけ書かれています。
ただ、麓には沢山神社があります。
どの神社の「奥の院」なのだろうかと気になりました。
鳥居には白山宮と書かれています。
岩石城【6】
【6】奥の院 上に戻る

成り立ちを考えれば、添田神社のものだろうと思っていました。
添田神社は、岩石城築城の際に麓に建てられました。
古来、岩石山山頂には天忍穂耳命が祀られていたそうです。
私は城キチなので、これ以上は深入りシマセン^^
岩石城の城域は、ここから始まります。
岩石城【7】
【7】二重堀切 上に戻る

奥の院の先で、道が3つに分かれます。
まずは右から。
こちら側には二重の堀切があります。
写真は見つけた時の視点で撮りましたが見えますか?
手前が浅く、奥の方が随分と深いです。
岩石城【8】
【8】深い方の堀切 上に戻る

浅い方もの撮りましたが、写真ではよくわからず。
深い方はもっとハッキリ見えたのですが・・・
写真だとこんな風にしか写らず。
岩石城【9】
【9】6郭下の竪堀(手前側) 上に戻る

今度は反対側の6郭をめざします。
とは言え、明確に案内がある訳ではありません。
目印になるのは、6郭直下の2本の竪堀。
道の左側にこんな竪堀があります。
岩石城【10】
【10】6郭下の竪堀(奥側) 上に戻る

その2、3メートル先にもこんな竪堀が。
この2本の竪堀を見たら、右側の高みに直登です。
岩石城【11】
【11】6郭 上に戻る

登って正解。
上には平坦地が待っていました。
道や土塁などもなく、ただ平らな場所です。
もしかしたら、見つけてほしくない場所なのかもしれません。
岩石城【12】
【12】柱穴の目印 上に戻る

奥の院へ戻り、今度は直進です。
すると、今度はこれが現れます。
某大御所様のイラストにも描かれています。
ただ、その足元には何もありません。
岩石城【13】
【13】柱穴 上に戻る

そこら辺に無いかな~?と探すと見つかります。
この先にあるのは、本丸直下の5郭です。
ここが防ぎ所とばかりに、色々建てたのでしょう。
どんなものが建っていたのか、想像する他ありませんが。
岩石城【14】
【14】4郭前の堀切 上に戻る

それよりも私の眼を惹いたモノがあります。
それが、登山道右側に横たわる堀切です。
登山道側からは、切り通しに見えます。
断ち切っているのは、どうやら右側の尾根のようです。
登山道からすんなり入れるので先にそちらへ。
岩石城【15】
【15】4郭 上に戻る

堀切の右側に登った所が4郭です。
岩石交じりの尾根先端が削平されています。
先程の柱穴エリアで迎撃するための兵溜まりでしょうか。
岩石城【16】
【16】5郭 上に戻る

柱穴エリアに戻りその先へ。
坂を登った先に、そこそこ広い平坦地があります。
奥に1メートルほどの段差があります。
岩石城【17】
【17】本丸の虎口 上に戻る

5郭から上がる道があります。
その先に見える明るい空間。
山頂まで間近なようです。
土の壁を縫うこの道は、本丸の虎口です。
岩石城【18】
【18】本丸 上に戻る

そして本丸です。
城内で一番広い曲輪、だと思います。
行けてない所があるので暫定デス。
所々に大きめの石が散らかっています。
多分ですが、石垣があったのではないかと思います。
岩石城【19】
【19】山頂にある展望台 上に戻る

そして、更に高い所へ通じる道が。
その先にあるのが展望台です。
某大御所様は天守台と書かれています。
ココに聳える現代の天守がコレです^^
デザインは、もうちょっと凝った方が良かったかも^^;
白亜じゃなかっただけ良かったかもですが。
岩石城【20】
【20】馬場 上に戻る

天主台の奥へ進むと、さらに道があります。
その道を進むと一直線に。
馬場っぽいなぁと思っていたら、やっぱり馬場でした。
お馬さん達、ここまで登らされたんですね。
ご愁傷様です。
岩石城【21】
【21】国見岩 上に戻る

馬場の先の開けた場所に、とても目立つ巨岩があります。
ここにあるのが国見岩です。
何とかの一つ覚えでとびつきますが、テッペンまでは登れず。
こんなの趣味じゃないと、捨て台詞を吐きますw
近くには梵字岩や天狗岩もあります。
この山自体が彦山修験道場の途中らしく・・・
修験者じゃなくて良かったデス。
岩石城【22】
【22】空から 上に戻る

ここでようやく空を飛びました。
展望台にはヒトが居ましたので^^;
左下手前が国見岩で、右上奥が山頂です。
登って来たのは、左上奥からです。
こうして見ると、山頂付近は傾斜が緩やかです。
岩石城【23】
【23】2郭にある石垣 上に戻る

帰りは、登って来たのとは別の所から下りました。
山頂からそっち側への道端に立入禁止とあります。
最初はこっち側通れないんかいと思いました。
よくよく見ると、その足元が立入禁止でした。
どうやら超ヤバイきのこがあるようです。
命に関わる程ヤバイ代物なので、興味本位で見ないようにして下さい。
さて、その先にある平坦地が2郭です。
古井戸の案内が盛んに現れる曲輪です。
でも私は井戸には興味ゼロ。
白い服着た人が出るからではありませんyo。
それよりも私の眼を惹いたのがコチラ。
崩れかけの石垣です。
あるとは知っていたものの、ようやく巡り遭えました^^
岩石城【24】
【24】3郭前の堀切 上に戻る

馬場下の曲輪には行けなかったのでせめて3郭だけでも!
・・・とは思っていましたが、2郭の先はこんな感じです。
せめてあと30分余裕があれば下りていました。
眼下には、かなり深い堀切が横たわっています。
その先にあるのが3郭です。
こういう終わり方だと、私また来ちゃうかもしれません。


◆歴史◆

1158年、大庭景親により築かれたとされます

平清盛と源義朝が武家の棟梁の座を争っていた時期です。
1156年の保元の乱で、平清盛は源氏勢力の分断に成功。
相模では、源氏との関係から三浦氏や中村氏が劣勢となります。
大庭景親が岩石城を築いたのはそんな時代です。
築城の労役を負担することで、平家に接近したのかもしれません。
城を築いたものの、大庭氏の城とはならなかったようです。
1159年の平治の乱で、平清盛はその地位を不動のものとします。
1180年の石橋山の戦では、平家方として源頼朝を撃破します。
しかしその後、富士川の戦で敗れ降伏。
上総広常に預けられた後、処刑されました。
弟の大庭景義は早くから源頼朝に従っていました。
そのため、大庭景義が領地を継いでいます。

大友氏と大内氏が争奪戦を繰り返します

1221年の承久の乱後、岩石城は大友家の城となります。
南北朝時代には、南朝方の菊池軍に攻められたりもします。
そんな南朝方に対抗するため、九州に赴任したのが今川了俊です。
大友親世ははじめ、今川了俊に協力しました。
しかし、今川了俊は九州に領地がありませんでした。
そのため、大宰府のある筑後国守護の少弐氏と対立。
和解しようと招いた陣で、少弐冬資を殺してしまいました。
少弐冬資に出陣を促した島津氏や大友氏は面目丸つぶれ。
南朝軍との決戦を前に、両者とも帰国しています。
そんな事があってかどうかは?ですが・・・
今川了俊の次に豊前守護になったのは大内氏でした。
大内氏は本格的に北部九州への侵攻を開始。
この頃に岩石城主になったのが、大庭景忠です。
大庭景忠は、城を築いた大庭景親の弟の子孫です。
鎌倉時代に備後国新庄本郷の地頭になった一族がいます。
その末裔が大内家に仕えていたようです。
以後5代にわたり、岩石城の城主を務めています。
戦国時代には、大友家の持ち城になっていました。

1585年、秋月種実の城となります

耳川の戦で大敗後、大友家の勢力が衰退。
秋月種実は大友家領へ侵攻し、勢力を拡大しました。
岩石城もこの時に攻略し、豊前国での足掛かりとしています。

1587年、豊臣軍に攻め落とされました

秋月種実は島津義久に従い、豊臣軍に抵抗しました。
豊臣軍は堅城の岩石城は見張るだけでスルーする予定でした。
しかし、岩石城の見張役である蒲生氏郷や前田利長が攻城を主張。
豊臣秀吉が折れて、城攻めが実行されました。
豊後一の堅城と言われた岩石城ですが、たった1日で落城。
守備兵3000人の内400人が討死するという、激戦だったと伝わります。
岩石城が1日で落城した報せに、秋月種実は戦略の変更を迫られます。
秋月種実は益富城の兵を古処山城に集め、守りを固めました。
しかし、翌日には破却したはずの益富城が復活。
これは豊臣軍お得意の張りぼて一夜城でした。
そうとは知らず、秋月種実は戦意喪失。
茶器と名東、さらに娘を差し出して、豊臣秀吉に降伏しました。

1616年、一国一城令により廃城となりました

九州征伐後、小倉城主・毛利高政の持ち城となりました。
岩石城には毛利高頼が配置されました。
関ヶ原の戦後は、細川忠興の支配地域となりました。
1602年、長岡忠尚が京都郡・上毛郡の郡代となっています。
しかし1606年、長岡忠尚は父・飯河宗祐ともども成敗されます。
成敗の理由は明らかではありません。
長岡姓なので関係を調べていたら出て来ました^^;
ちなみに飯河宗祐の母親が、細川忠興の母親と姉妹です。
城は、1616年の一国一城令により廃城となりました。


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上仏来山城/福岡県添田町

上仏来山城は、英彦山の西尾根にある山城です。
訪問日は2022年12月30日です。

上仏来山城【位置①】
大きい地図を表示

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ここは私が迷子スキルを遺憾なく発揮した所です。
上仏来山の案内は途中1か所のみ。
○印の所が迷子ポイントとなります。
全然違う遺跡を彷徨い、全然違う山に登り。
地図の黒い線が迷った線です。
普通の人なら迷わないかもですが・・・
同類の方もいらっしゃると思い、早めに書くことにしました。
上仏来山城【1】
【1】駐車場から真っすぐ上がります 上に戻る

地図の赤線の先端に、無料駐車場があります。
駅のではないので、気兼ねなく停められます。
ここから真っすぐ舗装道を登ります。
上仏来山城【2】
【2】目的地 上に戻る

行きはどの山なのか???ですが・・・
帰りに撮ったターゲットです。
真っすぐ登る道の右手に見えるこの山です。
ロックオンしながらだと迷いにくい、と思います。
上仏来山城【3】
【3】英彦山花園駅 上に戻る

坂を登り切った所にあるスロープカーの駅です。
運休で駅も閉まってるのに大盛況!
とりあえずご参考までに。
上仏来山城【4】
【4】九大の施設 上に戻る

坂道の突き当りを右へ。
その突き当りにある九大の施設です。
入ってくれるなとお札があり・・・
あれ?道はこっちだったハズなのに?
ここが最初の迷子ポイントです。
上仏来山の案内が全く無いので。
上仏来山城【5】
【5】山道はこっち 上に戻る

奥に見える稜線を辿れば楽そうだと思いました。
しかし、中には入れません。
回り込んで上がろうかと思い左の階段上りましたが・・・
そこから登れそうな感じには見えず。
そうして次に選んだのが、右側の沢です。
実は、この沢を渡った所から山道があるのです。
上仏来山城【18】
迷った先には総石垣の遺跡が

2つ目の迷子ポイントは石垣です。
道見っけ!と進むと、こんな感じの所があります。
肝心のその場所を撮っておらず・・・
こんな雰囲気の場所があります。
道をまっすぐ進む感じで、石垣の間に石段がある所があります。
正解は、石垣の手前を右へ進みます。
真正面にある石垣の間を進みたくなりますが・・・
正解は石垣の手前右側なんです。
大事な事なので2度書きました。
案内も無く道も不明瞭なので、ここもよく覚えておいて下さい。
ちなみに、ここいらの石垣遺構は英彦山座主関連なのだとか。
見学には九大施設の許可が要るそうです。
迷い込んだだけなのでご容赦下さいませ(_人_)
上仏来山城【19】
上から山道を発見した瞬間

なんか方向違う!
そう気づいてリカバリーしようと必死に。
あ、ここ道かもしれない!は、アッサリただの斜面に。
世間ではこんな状態を「遭難」と呼ぶらしいデス。
そんなこんなを繰り返して舞い戻った山道です。
10m程上から山道を見つけるの、特技かもしれません。
こうして人の歩く道へと戻って来れたのでした。
地図の軌跡が繋がらないのはこのためです^^;
上仏来山城【6】
【6】分岐 上に戻る

3つ目のポイントはココです。
一瞬堀切かと思いましたが、城跡はまだ先です。
私は、ココだけは迷いませんでした。
目指すゴールはここから右へ登った先です。
上仏来山城【7】
【7】唯一の案内 上に戻る

何故かと言うと、これを見つけたからです。
なぜか割と遠くからコレが見えました。
帰りは中々見つけられませんでしたが^^;
上仏来山唯一の案内です。
ココまで来れば、もう迷う心配はありません!
上仏来山城【位置②】
【城域】 上に戻る

上の地形図だと城域が小さ過ぎるので、これを載せます。
単郭なのですが、コレがあると説明しやすいので^^
上仏来山城【8】
【8】細尾根 上に戻る

分岐してすぐは、細い尾根が続きます。
何となく人工的に見えたり見えなかったり。
もちろん私は前者です。
上仏来山城【9】
【9】幅の広い尾根 上に戻る

その先の尾根は、少し幅が広くなります。
何となく段々の曲輪に見えたり見えなかったり。
以下略です。
上仏来山城【10】
【10】城跡の入口 上に戻る

左側がだんだん道らしくなります。
頂上も見えてくるので、進入路を限定したいのでしょう。
ええ、限定されてあげますとも♪
上仏来山城【11】
【11】虎口の石垣 上に戻る

やがて道は、大きな石積みの所で右に曲がります。
そのすぐ先で左に曲がる、食い違いの虎口です(*^▽^*)
山中を迷いに迷ってようやく辿り着きました。
喜びもひとしおです^^
上仏来山城【12】
【12】帯曲輪 上に戻る

城跡の左側(南側)に畝状竪堀があるはず・・・
そう思って見たら、下に帯曲輪がありました。
畝状竪堀は経験上、帯曲輪の所から始まります。
これはあとで見に行かねば!
まずは主郭を1周見てから。
上仏来山城【13】
【13】先端部 上に戻る

先端部は少しずつ2段低くなっていきます。
北部九州はこういうの多いですよね?
上仏来山城【14】
【14】山頂のプレート 上に戻る

真ん中にこれがありました。
案内が全然無かったので、着いたのが確認出来てよかった!
上仏来山城【15】
【15】真ん中にある石の祠 上に戻る

さすがは山岳信仰の地!
中には石像が祀られています。
紆余曲折×2ありましたが・・・
無事に辿り着けたことに感謝!
しっかり手を合わせてきました。
上仏来山城【16】
【16】畝状竪堀? 上に戻る

上を1周したので、今度は畝状竪堀です。
帯曲輪から斜面を見に下りて来ました。
やっぱり私、竪堀が苦手みたいです。
事前に見て来た縄張図では沢山竪堀描かれていました。
しかし実物は・・・
写真以前に、肉眼でもサッパリわかりませんでした(;'∀')
上仏来山城【17】
【17】上空から 上に戻る

最後に空を飛びました。
山頂上空を360度回るも、ただの山にしか見えず。
それでも一応撮りました。
その内、後ろの高い山って英彦山?
ということで、山同士のツーショットです。


◆歴史◆

彦山衆徒の城でした

英彦山に「英」の字が付いたのは江戸時代。
ということで、往時は彦山権現でした。
古くから修験の霊場として栄えていました。
伝承では531年開基なので、古墳時代です。
865年に従四位上を授けられており、本当かもしれません。
鎌倉時代には天台宗に属するようになります。
室町時代に入ると、親王を座主に迎えました。
僧房三千余、四十九窟を数えるなど大変栄えました。
この頃から武家の宇都宮氏と関係を持つようになります。

大友軍、豊臣軍に攻められました

サイト様により、その年はバラバラです。
大まかには
秋月氏と彦山が手を組む
→耳川合戦以後、秋月氏が大友氏領に侵攻
→大友軍が反撃に転じ、彦山も攻められた
といった感じです。

1587年、豊臣秀吉が九州に侵攻。
この時も、彦山は秋月氏と行動を共にしました。
そのため、堂宇がことごとく灰塵に帰したとされます。


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長野城/福岡県北九州市

長野城は、竪堀の本数日本一という説もある山城です。
訪問日は2022年1月1日です。

【位置・再】長野城

長野城は、訪ねるのが難しいと言われている城跡です。
何が難しいかというと、登城口がわかりづらいのかもしれません。
「かもしれません」というのは、私がそう感じなかったからですが・・・
道無き山城ばかり訪ねていると、「ココ」というのを感じます。
そこにピンクテープがあったりすると、確信出来てしまいます。
とはいえ、誰が見ても間違いなくわかるのが17の本丸登城口です。
ここは目立つ案内と、それとわかる道があります。
6、7、36の登城口からは、道無き斜面の直登となります。
道らしい道は無いので、慣れていない方にはお勧め出来ません。
誰でも歩きやすいのは、17の登城口から二の丸にかけてです。
17→15→27→35だけでも、長野城の特徴を十分堪能出来ます。

【1】長野城
1 長野緑地・中央駐車場

最寄りの駐車場は、長野緑地の中央駐車場です。
ただし、開いているのは朝8時から夜20時までです。
いつも通り夜明けから朝駆けすると、お預けを食らいます。
たまたま松山城に寄り道したので、開いていましたあせる
ここから南へ真っすぐ進み、林道を登れば城跡に辿り着きます。

【2】長野城
2 説明板 説明板を表示縄張図を表示

諸兄は西駐車場にしかないと紹介されていますが・・・
中央駐車場にも、縄張図付きの説明板がありましたヾ(*´∀`*)ノ

【3】長野城
3 案内はありますが・・・

さて、上でわざわざ「林道を登れば」と書きました。
それは、ご丁寧にこの案内があるからです。
諸兄が紹介していない案内がある!と、そっちへ進みましたが・・・
案内があるのは次の角まで。
山に入り道が分岐する所には、何も案内がありませんでした。
いぶかしく思いGPSで位置を確認すると、城跡からは遠ざかる一方。
GPSで軌跡を録っているので、泣く泣くスタート地点まで戻ったのでした。

【4】長野城
4 林道へ

・・・ということで、車両通行止の林道を徒歩で進みます。
林道のゲートは、民家の目の前にあります。
駐車出来る場所が無いので、駐車場が開いてる時間に攻めましょう。

【5】長野城
5 林道

林道の入口にはチェーンが1か所、ゲートは2箇所あります。
それだけ厳重に車の進入を拒むのは、林道が荒れているからです。
ここは崩れており、人一人がやっと通れる幅しかありません。
この他にも大きなヒビ割れがあったり、土砂で埋まったり。
おそらく修復する日は未来永劫来なさそうな程荒れています。

【6】長野城
6 出丸南西側の登城口

とはいえ、楽しみにしていた長野城。
林道を歩いている間は、ずっとワクワクでした。
そんなワクワクがピークに達したのが、登城口を見つけた時です。
出丸北西側の登城口ですが、ここからは登りませんでした。
ショッキングピンクのテープと虎ロープがあります。
・・・見えますか?

【空撮】長野城
空から

ここの道は上空が開け、風も無し。
前日、前々日は風が強く飛べなかったので、禁断症状も出ていました。
ということで、翼解放!
完全に逆光になってしまいましたが、長野城の全体像をゲットしました。
特徴的な馬蹄形がバッチリ撮れていますラブラブ

【7】長野城
7 出丸北東側の登城口

事前に「ここから登ろう」と決めていたのは、出丸北東側です。
机上のシュミレーションなので、北西側との差は無さそうですがあせる
尾根の分岐は無いので、城キチの本能のままに高い方へ進みます。

【8】長野城
①出丸-8 段曲輪

しばらくすると、明らかに平らに馴らされた所に出ます。
しかも、奥はカックンと段差にラブラブ
憧れだった長野城の城域に、いよいよ足を踏み入れたと実感します。

【9】長野城
①出丸-9 出丸

段曲輪が数段続き、次、次、と進みます。
特別に広い訳でも構造体がある訳でもありませんが・・・
奥に「出丸」と書かれたプレートが貼られたココが出丸です。
お城自体はとても規模が大きいので、ちょっと意外に感じました。

【10】長野城
①出丸-10 出丸裏の堀切

出丸の奥はちょっと草深く、ルートがわかりづらくなります。
エイクローバー、ヤっクローバーと進むと、すぐ裏に堀切がありましたラブラブ

【11】長野城
11 出丸側の道

出丸から先は、尾根伝いに登ります。
草がやや深く道も不明瞭なので、ホームに帰って来た感じでしたラブラブ
いよいよ人外への道へ踏み込んでしまったのでしょうか・・・

【12】長野城
12 畝状竪堀

事前に見た図などでは、右側に畝状竪堀群があるハズでしたが・・・
草深いせいもあって、やや不明瞭でした。
しかし、今まで見た中ではわかりやすいサイズではありました。

【13】長野城
②本丸-13 本丸

いつも通りな感じの山道を登り、やや平らな感じの所に出ました。
直感は、ココは曲輪だよと教えてくれます。
まぁ、平らですからねw

【14】長野城
②本丸-14 本丸

左奥にこんもりした土盛りがあり、上に「本丸」が刺さってました。
こんもりはどうやら櫓台のようです。

【15】長野城
②本丸-15 畝状竪堀

本丸の西側斜面には、誰がどう見てもわかるウネウネがあります。
あまりにも数が多いので、流石は日本一!と心の中で叫びました。
誰も居ないので、大きな声でも良かったのですが(`・ω・´)

【16】長野城
16 本丸南側の登城路

しばらく畝状竪堀群を堪能し、次は南西の馬場を目指しました。
馬場への道がどこかにあるハズですが・・・
目に入るのは、そこかしこに連なるウネウネの竪堀ばかり。
どこ下りても同じだ!とヤケクソになった時に見えちゃいました。
天使の階段ならぬ、ピンクのテープと虎ロープです。

【17】長野城
17 本丸南側の登城口

山城目印セットを辿って下ると、目の前を横切る林道が見えました。
そのまま林道に出ると、本丸→の立派な案内があります。
下って来た所を見ると、ちゃんとした道に見えました。
上からは竪堀の1本にしか見えませんでしたがあせる

【18】長野城
18 馬場への道

本当は林道まで下りるつもりはなく、馬場に行くつもりでした。
さてここからどう行こう?と思案していると、そっち方向にも道が。
痕跡程度の古道ですが、一度見えるとビシッと見えます。

【19】長野城
③馬場-19 二重堀切

尾根に上がったなぁと感じたその時、正面からただならぬ気配が。
ビリビリ感じたその気配の主は、二重の堀切様でしたラブラブ
写真では草深くてわかりませんが、結構大きいです。

【20】長野城
③馬場-20 二重堀切

1枚に収まらなかった、もう1本です。

【21】長野城
③馬場-21 馬場

ここから、西へ向かって平らな道が続きます。
馬場は多分、右上なんだと思いますが・・・
馬走らせるならこっちですよね?

【22】長野城
③馬場-22 馬場の堀切

馬場は、途中にも浅い堀切が1条あります。

【23】長野城
③馬場-23 馬場先端

馬場を歩くんだ!と妙な矜持に囚われ、なぜかちょい藪歩きましたクローバー

【24】長野城
24 馬場から本丸へ

まだ二の丸行ってねぇ!
さて、また下りて登り直そうか悩んでいると、道は勝手に開けます。
上に向かって虎ロープ付きの道が、デーンと現れました。
本丸から来る時には見えなかったのですが・・・
本丸の登城口を見つけるよう、何かの神様が仕組んだ罠かもです。

【25】長野城
②本丸-25 本丸

何となくな確信もあり、本丸に帰還!
下りて登り直す手間が省けました(*´∀`)

【26】長野城
②本丸-26 本丸南西側

出丸から来た時も通ったはずなこの道。
南西側の腰曲輪になぜか目を引かれました。
曲輪なら外周をトレースしたいなんて一瞬思いましたが・・・
これ見た感じだと、畝状竪堀ですね!
行かなくて良かった!

【27】長野城
②本丸-27 二の丸へ

いよいよ二の丸へラストスパート。
本丸のこんもり右脇に、二の丸の案内があります。
こちら側は、出丸側と違ってくっきりした道があります。
こっち歩く人の方が多いんですネ

【28】長野城
28 畝状竪堀

それが何故なのか、割とすぐにわかります。
細尾根状の道の右脇には、延々と畝状竪堀群が続きます。
あまりにずっと続き、壮観のひと言では片付きません。

【29】長野城
29 土橋

満腹気分で歩いていると、正面にウネウネグニャグニャが現れます。
竪堀の変形なのか、土塁なのか、堀切なのか???でしたが・・・
敢えて名前を付けると、三重堀切をまたぐ土橋?のようです。
それにしても、魚の背骨みたいな形をしています。
こんな土橋は初めて見ました。

【30】長野城
30 二の丸脇の堀切

そんな三重堀切の先に、さらに堀切があります。
この堀切の先の急斜面が、二の丸の切岸です。
よっぽどココ登られたくなかったんですね!

【31】長野城
④二の丸-31 二の丸の切岸

二の丸に上がる道が無いので、虎ロープに頼りながら直登です。
往時は梯子でも架かっていたのでしょうか。

【32】長野城
④二の丸-32 二の丸

切岸を上がった所が二の丸です。
向こう側が何となく低く見えるのは、ここが土塁の上だからです。

【33】長野城
④二の丸-33 二の丸

上の写真の奥から見た二の丸です。
あの虎ロープは、よりにもよって一番高低差のある所にあります。
いつも思うのですが、城キチって真っすぐにしか進めないっぽいです。

【34】長野城
④二の丸-34 二の丸西側の段曲輪

二の丸の上から見渡し、西側が他と違って見えました。
1本の細い尾根に沿って、曲輪が段々に連なって見えたからです。
途中まで下りて見ようということで、段になっている様子を撮りました。
後から知りましたが、このまま下りた所も登城口だったようです。
林道歩いていても気付きませんでしたがあせる
確かに、斜面直登よりは登りやすいかもしれません。

【35】長野城
④二の丸-35 畝状竪堀

二の丸も、東から北にかけて大きな竪堀群に囲まれています。
こいつらのどれかを伝って林道に下りるのですが・・・
どこから下りても同じに感じられ迷いました。
しかし、木の枝に巻かれた小さな赤テープを発見。
その竪堀をまっすぐ下り、林道に生還しました。

【36】長野城
36 二の丸北東側の登城口

下りて来た林道です。
目の前にはかなり目立つようピンクリボンが付けられています。
ただ、斜面を見ても道など無く、慣れてない人には???かもしれません。


◆歴史◆

1157年、平康盛が築いたと伝わります。

平康盛は左大臣・平時盛の六男で、平清盛の甥に当たります。
とはいうものの、平清盛の兄弟に平時盛の名は見当たらず。
『豊前志』によれば、平康盛は豊前守護として下向し城を築きました。
そして、地名から長野姓を名乗ったと記されています。
源平合戦では、長野康盛の子・長野長盛が平家方として戦います。
戦後、平清盛に近い一族ということでなかなか許されず。
豊前守護の職は解かれましたが・・・
源範頼のとりなしにより、企救郡の地頭職となりました。
というのが、一般的な長野氏の出自とされます。
他に、清原氏系、中原氏系、桓武平氏系の長野氏が当地にいました。
今となっては誰がどの系統だったのか、解析不能らしいですあせる

その後、大三嶽城、小三嶽城、稗畑城など、長野一族が一帯を支配。
とはいっても、別々の系統の長野氏が一族に見えた結果かもしれません。
区別出来ないので、1つの氏族のようにまとめてしまいますあせる

長野氏は南北朝時代、少弐家に従っていたようです。
少弐家は筑前国の守護でしたが、地理的に重なる九州探題と利害が対立。
そのため、九州では九州探題、少弐家、南朝方の三つ巴となります。
今川了俊が九州探題の時、少弐貞頼は和睦しましたが・・・
渋川満頼が九州探題となると再び反抗し、幕府が討伐を命じます。
そこで攻めて来たのが大内義弘です。
長野氏は大友氏鑑に従い、大内軍の松山城を攻めました。
しかし戦に敗れ、以後は大内家に従うようになります。

1551年に大内義隆が暗殺され、1556年に厳島合戦で大内家が滅びました。
空白地帯となった旧大内領は、激しい争奪戦の的となります。
長野筑後守は当初、毛利家に従い大友軍と戦いました。
1565年、大友義鎮は「長野御成敗」と呼ばれる討伐を行います。
降伏した長野祐盛は人質を出し、後に田原家を継ぐ田原親貫となります。
すると1569年、今度は毛利軍が長野家に襲い掛かります。
この時の戦は「長野退治」と呼ばれ、長野家の城が集中攻撃されました。
これにより、領主としての長野家は没落し、しばらく歴史から消えます。

1578年、耳川の戦で大友家が衰退すると、馬ヶ岳城に長野氏が復活します。
この頃に長野城も復興されたと考えられています。
しかし翌年、小倉城の高橋鑑種が攻め落とし、長野助盛を城主とします。
高橋鑑種は元大友家臣で、毛利家に寝返り家督を失っていました。
反大友家の秋月種実とは、養子を二人迎えている程近い仲です。
長野助盛は秋月種実の弟で、兄と行動を共にすることが多かったです。

しかし1587年、九州征伐で兄弟は別々の道を歩むこととなります。
秋月種実は島津家に従っており、豊臣軍の討伐対象となりました。
弟の長野助盛は、馬ヶ岳城を豊臣軍に差し出すなど協力的でした。
戦後、長野助盛は筑後へ国替えとなり、長野城は破却されました。


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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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