2023/01/13
古川山城/福岡県北九州市
古川山城は、南北にとっても長いです。
訪問日は2023年1月1日です。
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古川山城は、北九州霊園の西側にあります。
別名は椎山城、志井城、城ノ粒城など。
西の徳吉では古川山城、東の志井では椎山城だそうです。
北九州霊園の展望台付近から山に入ることが出来ます。
その場所は2箇所あり
①一番高い段の一番奥から【写真1】
②手前の道端から【写真21】
です。
尾根の各ピークに曲輪があり、城域は広いです。
軌跡が何だかサボテンダーみたいな形になりました。
ご存知ない方はググってみて下さい♪
構造はほぼ帯曲輪と段曲輪のみで、シンプルです。
主郭はAの古川山の山頂と考えられています。
ここだけは浅いながら堀切も見られます。
記号は参照した『福岡県の中近世城館跡3』に合わせています。
無料でダウンロード出来るなんて有難や(*´人`)
歩いた距離は約11km(・□・;)
全部見るなら、気合入れて挑んで下さい!
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【1】獣避けフェンスを開けて山へ 上に戻る
城跡は北九州霊園のそばにあります。
大きな墓地で、あちこちに駐車場があります。
その一番奥が展望台です。
ここに車を停めて背後の山へ。
墓地の一番高い段に登って左奥へ。
端っこに階段があり、獣避けフェンスがあります。
紐で結んであるだけなので、ここから山に入れます。 |
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【2】左奥へ 上に戻る
山に入ると、白いタンクがあります。
帯曲輪状になっていますが、右側は行き止まり。
高さは3メートル程あり、ひたすら左奥へと続きます。
断面が新しい感じなので、墓地の造成によるのかも。
直接登れない高さでもないですが、奥へ進みました。 |
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【3】段差が段々低く 上に戻る
奥へ進むに従い、段差が無くなって来ます。
尾根を下る感じになると、合流する感じです。
この尾根上に、崩壊したフェンスがあります。
きっと墓地の敷地の境目なんでしょう。
ここからCの曲輪へ登れます。
道は無いので、ただ高みを目指して下さい。 |
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【4】C:上から見た段差 上に戻る
フェンス沿いに登り切った所が平らになっています。
ここがCの曲輪です。
山キチ様達は「志徳尾根」と呼んでます。
そんなプレートがあるらしいですが、気付きませんでした。
だって私は城キチですから(*´ω`*)
それよりも、曲輪を囲む段差の方に目が行きます^^ |
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【5】D:尾根のピーク 上に戻る
とにかく城域が広いので、どう回ろうか悩みます。
東の尾根に行ってそのまま道に下りる作戦を採用。
これなら東の尾根から登り直す必要ないですし。
ということで、南→西→北→東の順に回ることに。
Cから南の尾根を下り、ちょっと高くなった所がDの曲輪群です。
これは手前側(北側)のピークです。 |
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【6】D:次のピーク 上に戻る
更に南へ尾根を進むと、次のピークが現れます。
いずれのピークも平らに馴らされています。
ここでも端が少し低く、帯曲輪状に囲んでいます。 |
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【7】E:曲輪 上に戻る
更に南へ尾根を下った先にあるピークがEの曲輪群です。
ここも同じ感じの曲輪です。
堀や土塁が無いので地味に感じますが・・・
普通の山の中には、こんなに平らな場所はいくつもありません。
・・・と自分に言い聞かせたのは内緒です。 |
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【8】E:曲輪 上に戻る
ハイ、とても平らです^^ |
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【9】上から見つけた山道 上に戻る
さて、Eのピークの西にある山がHの曲輪群です。
もう、はっきりと隣の山です。
別の城だとおっしゃる方もいらっしゃるようで。
とはいえ、派手に下るものの尾根で繋がっています。
尾根の高い所を辿ればよくね?で、道無き斜面を下ります。
この辺、事前サーチすれば良かったのですが・・・
またも特技発動!
眼下に山道を発見したのでしたw |
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【10】山道の入口 上に戻る
ということで、EからHへの山道です。
これでもか!という位にピンクの目印があります。
私もこれは見つけたんですがね。。。
奥に続く道や目印が見えず、わかりませんでした。
ということで、帰りに奥にも目印付けて来ました。
山キチさん達は、そんなモノ無くても迷わないようです。 |
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【11】H:曲輪 上に戻る
別の山に登り直した先にある、Hの曲輪群です。
県の報告書によると、南側に堀切があるようです。
私が読むのは大体帰宅してからなんですよね・・・
もっとちゃんと読んでから行けば良かった(-_-;) |
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【12】H:帯曲輪 上に戻る
ここも周りが一段低い帯曲輪状になっています。
基本的な構造は同じです。 |
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【13】A:帯曲輪 上に戻る
南端まで行き切ったので、今度は北へ。
E→D→Cを登り直し、更にその先の山頂へ。
その山頂がAの曲輪群です。
ここは他の曲輪群よりも構造がハッキリしています。
段差もこんなにあります。 |
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【14】A:主郭 上に戻る
ということで、ここが主郭です。
白い何かが立ってますが、何だったか覚えてません(;'∀')
少なくとも、城跡を示すものではなかったような。
城キチの記憶力なんて、そんなモンです(*´Д`) |
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【15】A:堀切 上に戻る
まぁでも、こういうモノはよく覚えています^^
他の曲輪群では見られない堀切です(*^▽^*) |
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【16】A:プレート 上に戻る
そして、山頂にはコレが。
道は不明瞭ですが、あると嬉しいデス(*'▽')
でも、事前に調べた時は「椎山城」でした。
別名?と思い帰宅して調べると、そうでした。
私の流儀では、現地での表記で城の名前を紹介します。
ということでの「古川山城」です。 |
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【17】B:段差 上に戻る
次のターゲットは、山頂から南西に伸びる尾根。
そこにあるのはBの曲輪群です。
あまり高低差が無いので、ここは楽でした。
南側のようにアップダウン激しいとツライですから。
ここには「お姫山」のプレートがありました。
謂れなど書いたモノがあると嬉しいのですが。 |
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【18】A:虎口 上に戻る
西の尾根も攻略したので、今度は北へ。
ここで時間を見ると13時前。
昼過ぎに実家に帰ると言ったのにまだ道半ば。
ちょろいと思ってたのに、想定以上に時間が掛かってます。
うわ、やべ!っと遅くなりますメールを送信。
そう思いながら見つめた、A曲輪群北側の虎口です。 |
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【19】F:切通し 上に戻る
北側の尾根は幅が広く、段があるような無いような。
そして気の急く身には、とても長く感じる尾根でした。
そんな時、突如として正面に現れた土の壁。
うわ!デケー堀切様ヾ(*´∀`*)ノ
実家に帰る時間を犠牲にしてまで来て良かった!
なんて思った切通しでした。 |
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【20】F:切通し 上に戻る
まぁ、尾根を分断するよう人が掘ったものですが。
でも、これは東西を行き来するために掘られたもの。
決して南北の行き来を阻害するためのものではありません。
たぶん。
先人は前者の説が濃厚だとのたまっていらっしゃいます。
・・・私は後者であって欲しいですが。
イイ物見て力が沸き、一気に北のピークへ。
ここも平らに整形され、古志の峰のプレートがありました。 |
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【21】道端から尾根に入れる場所 上に戻る
北端まで見て来たので、ラストは東の峰へ!
はよせな、はよせなと、山頂まで登り直し。
Cまで戻り、今度は元来たフェンスに沿って下ります。
そして下りた先が、展望台手前の道端です。
ここでは尾根と道が同じ高さに。
東の峰楽勝!なんて心の中で叫んだとか叫んだとか。
でも、世の中そんなに城キチには甘くありません。
アスファルトと尾根は、だんだん高低差が開いて来ます。
やべ、下りられネ!とならない内にガードレールの外側へ。
暫くはコンクリートの壁伝いに進むことになります。 |
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【22】G:段曲輪 上に戻る
一旦下った尾根は、再び上り坂に。
この尾根にも、段になったような雰囲気があります。
目の錯覚ではないと思いますが、自信がありません。
さっきの事があったばかりですからネ! |
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【23】G:宮山の曲輪 上に戻る
登り切った東の峰の頂上です。
他の曲輪よりは、削平が甘いような気が。
それでもキタ!と、とりあえず一周。
不明瞭ですが、確かに人の手は入っています。
こうしてひと通り制覇したので駐車場へ。
先程のガードレールから車道を歩いたのでした。 |
◆歴史◆
鎌倉時代に長野種盛により築かれたと伝わります
長野氏は平安時代、豊前国司として長野城を築きました。
以後、周辺に勢力を拡大し、沢山の山城を築きます。
この頃の長野氏は桓武平氏と考えられています。
南北朝時代になると、別系統の長野氏が登場します。
中原氏系だったり、清原氏系だったり。
いずれの長野氏も、長野に拠点がありました。
以後の長野氏は、誰がどの系統なのか混乱が続いています。
1399年、大内盛見に攻め落とされました
南北朝時代の長野氏は、北朝方だったとされます。
1392年に南北合一が成り、1395年に今川了俊が九州を去ります。
以後、豊前は大内氏と大友氏の争奪戦の舞台となります。
1397年から翌年にかけて、長野氏は大友氏鑑に従いました。
しかし、大内軍に攻められ長野氏は降伏。
この時に古川山城も陥落し、一時廃城になったとされます。
以後も、長野氏は大内氏と大友氏の間で翻弄され続けます。
1568年、毛利軍の拠点になったという説があります
1566年、大友宗麟が『長野成敗』
1569年、毛利元就が『長野退治』
大内家滅亡後も、北部九州の争奪戦が続きました。
この時期には、筑後の秋月氏も長野氏と関わるようになります。
大大名の相次ぐ侵攻により、長野氏は衰退します。
所在地:福岡県北九州市小倉南区志井 GPS軌跡ダウンロードページ
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