fc2ブログ

勝山館/北海道上ノ国町

勝山館は、上国守護となった蠣崎信広により築かれました。
訪問日は2018年6月3日です。

勝山館【1】
①勝山館跡ガイダンス施設

勝山館へは、上からも下からも訪ねることが出来ます。
私はスタンプも欲しかったので、上から訪ねました。
決して下りる方が楽だ!と思った訳ではありません。
そういうことにしましょうあせる
続日本100名城スタンプは、ガイダンス施設にあります。
ここにはかなり大きな駐車場があり、安心して車を停められます。

勝山館【2】 勝山館跡ガイダンス施設
 開いている時間:10時~16時
 お休み:月曜日(祝日の場合その翌日)、
 11月10日頃~4月10日頃
 入場料:大人200円、子供100円

勝山館【3】

ガイダンス施設のすぐ脇には、夷王山が聳えています。
この山の周りで、お墓が多数見つかっています。
蠣崎信広のお墓も、この中に含まれていると考えられています。

勝山館【4】

ガイダンス施設脇の道を下ると、コンクリートの遊歩道に出ます。
この道がまっすぐに勝山館へとつながっています。
そろりそろりと下って行くと、やがて平坦地に出ます。

勝山館【5】
②「勝山館後ろの守り」の説明板の図 拡大表示

上の写真中央に見える説明板の図です。
ここは勝山館の背後で、先ほどの夷王山へと続く場所です。
説明文では、約650基のお墓に囲まれご先祖様に守られていたそうです。
地形的に、勝山館を攻めるなら背後が手薄な感じなのですが・・・
蝦夷地の方々は、とても信心深かったのかもしれませんあせる

勝山館【6】
③搦手口の堀切

搦手口の前には堀切があります。
この堀切は二重になっていて、手前にも浅いものが一条あります。
さらに、道幅を狭めるようにも掘られています。
背後から大軍で押し寄せられるのを防ぐ工夫のようです。

勝山館【7】
③搦手口の内側

搦手門の土塁のすぐ内側に、館八幡宮の跡があります。
手前が室町時代、土塁に近い奥が江戸時代に再建された場所です。
門を守る櫓を置くような場所なのですが・・・
こちらから攻められる事をあまり想定していないような感じです。

勝山館【8】
③館八幡宮跡からの眺め

館八幡宮跡が、勝山館では一番高い場所です。
内部は緩い傾斜になっていて、中央の道沿いに建物が並んでいました。

勝山館【9】

ちょうど中央辺りからの眺めです。
続日本100名城スタンプのデザインはこれですね!
中央をまっすぐ道が通っているのが、勝山館最大の特徴です。

勝山館【10】
④櫓門跡

勝山館内部は傾斜はあるものの、目立った段差はありません。
道の両脇には、様々な建物跡の説明板が並んでいました。
その中の1枚が、櫓門についてのものでした。
特に目立った段差は無いのですが、ココで上と下を隔てていたようです。

勝山館【11】
⑤城代住居跡

櫓門の前から大手門までの間に、城代の住居跡があります。
大手門の内側ですが、櫓門の外側というのが意外です。

勝山館【12】
⑥主郭を囲む柵

主郭は柵に囲まれていました。
その柵が復元されていて、いい雰囲気醸し出していますラブラブ
遺構を破壊しない程度なら、各地で採用して欲しいですね^^

勝山館【13】
⑦大手門前の木橋

通路部分は柵が無く、虎口になっています。
ここが大手門跡で、正面に木橋が架かっています。
城塁を上がるよう、斜めになっています。
通路が無かった城塁は、どこもこんな感じだったのかも。

勝山館【14】
⑧主郭城塁下の二重堀

主郭は高い城塁で下の曲輪と隔てられています。
外側から見ると、沖縄の中城城を思い出しました。
アレを土でやるとこんな感じですねラブラブ

勝山館【15】
⑨主郭城塁下の二重堀

高い城塁の前には二重の堀があります。
攻城側は、高い壁の下で足元の自由も奪われます。

勝山館【16】
⑩主郭前の曲輪

高い城塁の前には、広い曲輪があります。
ここも斜めになっていて、そのまま家を建てると体壊しそうです。
こんな綺麗にお手入れされているのに、貸し切り状態なのが恐縮です。

勝山館【17】
⑩広い所から下る道があります

広い曲輪から、麓に下りる大手道が通じています。
道は窪んでいて、通る場所を限定しているように見えます。

勝山館【18】
⑪虎口

上から見ると堀底道っぽく見えましたが・・・
下から見ると、クネッと曲がった道を土塁が囲んでいます。
カギ型の虎口ですねラブラブ

勝山館【19】
⑫虎口っぽい所

全般的に掘り下げた感じの道ですが、ここは顕著です。
こんもり盛り上がったのか盛り上げたのか、その下に道が通っています。
これくらいの傾斜なら、ただ通るだけならわざわざ掘りませんよね?
地形的には通せんぼ向きなので、違う形の虎口があったかもしれません。

勝山館【20】
⑫登城路から見上げたところ

虎口状の堀底道から見上げるとこんな感じです。
上から矢や槍で狙われたらイチコロです。

勝山館【21】
⑬虎口

麓から勝山館へ行けそう?
そんな予感がする辺りで、道がクネッとなっています。
おそらくココに、門があったのでは?と思います。
現代では、ツルピカ石碑が城キチ達を出迎えます^^

勝山館【22】

下からの登城口です。
何も言われないと、両脇の家に入る道にしか見えません。

勝山館【23】

でも、続日本100名城に選ばれましたからね!!
登城口の国道沿いに、ちゃんと案内出ています^^

【位置・再】勝山館


◆歴史◆

蠣崎信広により築かれました。

蠣崎信広は、上国守護・蠣崎季繁の養子となり継いだ人物です。
養子となる前は武田信広という名で、若狭国から来たとされます。
ずいぶん遠いですが、当時は海運で蝦夷地と交易がありました。
史料上では登場人物どうしの年齢にかなり無理があるようですが・・・
本当の所は???です。
ただ、ウソだとしても、そういう人の流れはあった事がわかります。
そうでなければ、そうかもしれないね?とは思ってもらえないので。

武田信広が登場するのは、安東政季とともに蝦夷地へ渡った頃からです。
1454年に下北半島を脱出して蝦夷地へ渡り、南部家に反旗を翻しました。
安東政季は1456年、又従兄弟の安東惟季に招かれ出羽国小鹿島へ移ります。
丁度その頃にアイヌと和人の争いから、コシャマインの乱が始まりました。
武田信広は花沢館の蠣崎季繁のもとで大逆転勝利に貢献。
蠣崎季繁の養女(安東政季の娘)を娶り、蠣崎家の後継者となりました。
1462年頃に蠣崎季繁が没した後、勝山館を築き始めました。
完成年月は不明ですが、1473年までには完成したと考えられています。

1514年、蠣崎光広が松前大館へ移りました。

1512年、アイヌが松前大館を襲撃し陥落。
大館を守っていた相原季胤と村上政儀が討死しました。
その後、上国守護の蠣崎光広がアイヌの乱を鎮圧して大館を回復。
1514年に船180艘を率いて居城を松前大館に移しました。
翌年、再びアイヌが蜂起して松前大館を襲撃。
蠣崎軍は劣勢でしたが、和議の席でショヤ・コウジ兄弟を謀殺。
形勢は逆転し、蠣崎光広は乱の鎮圧に成功しました。
蠣崎光広は乱鎮圧後、檜山安東家に対して松前守護に任じるよう迫ります。
安東尋季は当初拒んだものの、蝦夷交易の収益を納める事で折れました。
家督相続前の蠣崎光広の嫡男・義広を、上国・松前両守護としました。
勝山館は弟・蠣崎高広を城代とし、和喜の館と称するようになります。

1548年、城代・蠣崎基広が乱を起こしました。

1545年に蠣崎義広が没し、嫡男・蠣崎季広が家督を継ぎました。
従兄弟の蠣崎基広は、自分の扱いに不満を感じて挙兵したとされます。
それが具体的にどんな理由なのかが???なのですが・・・
1548年、蠣崎基広は挙兵し、蠣崎季広の家臣・長門広益に討たれました。
大手道脇の荒神堂が蠣崎基広のお墓だったと、現地に案内があります。
そこには「上ノ国守護・蠣崎基広が謀反を企て~」とあります。
蠣崎基広が当時の城代だったんですね!

城代・南条広継が自害しました。

蠣崎基広の討伐後、蠣崎季広の娘婿・南条広継が上国守護となりました。
蠣崎季広の長女(長子)を娶った南条広継は、とても優秀だったと思われます。
しかし、それが悲劇の元になってしまったのかもしれません。
蠣崎季広の長女は、実弟2人を毒殺しました。
自分が果たせなかった蠣崎家の家督を、夫に継がせるためでした。
しかしこれが長女の仕業と判明し、怒り狂う父により自害させられました。
嫌疑は夫の南条広継にも向けられますが、身の潔白を訴えました。
しかし信じてもらえないことに絶望し、翌年、南条広継も自害しました。
南条広継は自ら棺に入り、その上に1本の水松を逆さに活けさせました。
「この水松が根付いたら無実だ」と言い残し、家臣に埋めさせました。
これが「逆さ水松」です(ちょっと離れた所にあります)。
この事件の起きた年が、サイトによりバラバラです。
早い所では1552年から、遅い所で1562年までかなり幅があります。
記録上では、勝山館に城代が居たのは1552年までとなっているそうです。

この頃の蝦夷地では、かなり大きな動きがありました。
それが1550年の「夷狄の商舶往還の法度」によるアイヌとの和睦です。
アイヌの支配地域と収益が大幅に見直されたのでした。
この和睦には、檜山安東家当主・安東舜季も立ち合っています。
西夷尹となったハシタインが、勢力境となった上国に移り住みました。
それが勝山館なのかどうなのかが???ですが・・・


所在地:北海道檜山郡上ノ国町字勝山 GPSログダウンロードページ

北海道の城跡/なぽのホームページを表示

花沢館/北海道上ノ国町

花沢館は、上国守護・蠣崎季繁の拠点でした。
訪問日は2018年6月3日です。

花沢館【01】
①石碑

登城口は、国道の信号からすぐの所です。
駐車場は無く、登城口に突っ込む感じなら1台だけ停められます。
入口からすぐの所に、花沢館の石碑があります。

花沢館【02】
②曲輪

回り込むように道を登ると、最初の曲輪が現れます。
ここから尾根に沿って曲輪が段々に連なっています。

花沢館【03】
③もう1つ上の曲輪

段々の曲輪に沿って進むと、大きな段差のある曲輪に出ます。
名前はわかりませんが・・・

花沢館【04】
④説明板の図 拡大表示

ここに説明板があり、そこに載っている図をパクリます。
ちょっとわかりづらかったので「説明板」の文字を加えています。
尾根の地形を利用し、1列で上がって来るを迎え撃つ構造に見えます。

花沢館【05】
⑤上がる道

上の図では道ではありませんが、実際の風景はこんな感じです。
素直に上へと進みます。

花沢館【06】
⑥主郭のすぐ下

尾根筋を登ると、再び壁のような城塁が現れます。
周りを帯曲輪に囲まれているこの上が主郭です。

花沢館【07】
⑦主郭

城内で一番高いだけあって、登り切った感があります。
広さもそこそこあります。

花沢館【08】
⑧主郭奥の土塁

一番奥には、向こう側を見えなくするような土の壁があります。
城の形が尾根の細長い地形をそのまま利用しています。
こういう所に土塁があるということは・・・

花沢館【09】
⑨土塁下の堀切

その裏には堀切が!
本州の山城と同じセオリーでした。
年代的には応仁の乱のちょっと前ですが、既にあったんですね。

花沢館【10】
⑩堀切

最大の見所ということで、ちゃんと草が刈られています。
わかってらっしゃるぅラブラブ

【位置・再】花沢館

ただ写真だけ並べても、どこが何なのかですよね?
撮った本人ですら、時間が経つとわからなくなりますあせるあせる
GPSログも採り慣れてきたので、こんな技も覚えました。
デジカメの時計をちゃんと合わせれば、こんな事も出来ます^^


◆歴史◆

上国守護・蠣崎季繁の居城でした。

築城年代は不明ですが、上国守護・蠣崎季繁の居城でした。
史料の初出が『新羅之記録』で、既に花沢館を居城としていました。
蠣崎季繁は『蠣崎氏系譜』では、1443年に若狭から来たとされます。
実際の所は不明としか言いようがないのですが・・・
「蠣崎」は下北半島のむつ市にある地名なので、そこと関係ありそうです。
下北半島は安藤氏の支配地域で、領地を姓として名乗ったと考えられます。
「季」の字なんて、バリバリ安藤さん絡みですしw
通説通りなら若狭武田一族が、安藤氏に従い領主となったのでしょう。
私的には安藤一族で、宗家となった安東政季に近い人物だと思います。

1456年、コシャマインの乱で攻められました。

アイヌと和人の争いから、和人の拠点が次々襲撃される事件が起きました。
これは首領の名からコシャマインの乱と呼ばれます。
アイヌ軍は道南十二館を攻め、10か所を陥落させています。
この時陥落しなかったのが、花沢館と茂別館の2か所だけでした。
和人は残った2つの拠点に逃れ、翌年反撃に転じます。
この時に和人軍を率いたのが、花沢館に居た武田信広でした。
武田信広は七重浜でコシャマインを討ち取り逆転勝利。
蠣崎季繁と武田信広は、道南和人集団での絶対的地位を確立しました。
蠣崎季繁は、安東家政・安東定季と並び守護の1人に任命されました。
この頃に安東政季の娘を養女とし、武田信広を婿養子に迎えています。
やっぱり蠣崎季繁って安東政季とは近い身内だと思うんですよね・・・
武田信広は以後、蠣崎姓を名乗るようになります。

蠣崎信広が勝山館を築いて移りました。

1462年、蠣崎季繁が没しました。
この頃から蠣崎信広は、勝山館の築城に着手したと考えられます。
完成年月は不明ですが、1473年までには勝山館に移ったようです。
(勝山館内にあった館神八幡宮の創建が1473年と伝わります)
その後も花沢館には一族を配置し、支城として使ったようです。

1514年頃、廃されたと考えられます。

蠣崎信広は1494年に没し、子の蠣崎光広が継ぎました。
1496年、茂別館がアイヌに襲撃され陥落。
下国守護の安東家政が蠣崎光広のもとに逃れ、その配下となっています。
また、松前守護の安東恒季は1496年に自害させられ不在でした。
安東恒季の素行が横暴だと、本家の檜山安東家に訴えられたためでした。
何となく、タイミングが良すぎるような気がしてきましたw
蠣崎光広は1513年、松前の大館を攻略。
翌1514年に、本拠を勝山館から大館へ移しました。
この頃に花沢館は廃されたと考えられています。

その後、蠣崎光広はショヤコウジ兄弟の乱を平定。
この戦は蠣崎光広による作り話だという説もありますが・・・
自らを松前守護に任じるよう、檜山安東家に迫りました。
一度は蹴られますが、蝦夷交易の収益の多くを納めることで認められます。
こうして蠣崎氏は、蝦夷地では対抗し得る勢力の無い地位を確立しました。


所在地:北海道檜山郡上ノ国町字勝山 GPSログダウンロードページ

北海道の城跡/なぽのホームページを表示

洲崎館/北海道上ノ国町

洲崎館は松前氏の祖・武田信広が築いたと伝わります。
訪問日は2018年6月3日です。

洲崎館【1】
①砂館神社の鳥居と洲崎館の説明板

洲崎館の跡には、砂館神社があります。
ココは史跡としては有名ドコロなので、迷わず辿り着けます。

洲崎館【2】
拡大表示

鳥居脇にある説明板に載っている図を拝借。
図は広い範囲が描かれているので、神社周辺にクローズアップしました。
等高線で地形が想像しやすいのですが、縄張りがよくわかりませんあせる

【位置・再】洲崎館

私もどの写真をどこで撮ったか???になっていました。
GPSログから撮影位置を割り出し、城内の様子を紹介します。

洲崎館【3】
③東曲輪にある砂館神社

まずは、中心部にある砂館神社です。
おそらくここにメインの建物があったと思われます。
鳥居と石灯篭が無ければ、タイムスリップしたと勘違いしそう・・・
ですよね?あせる

洲崎館【4】
④東曲輪

次に、社殿右側に見えた広い平坦地を見てきました。
1メートル程の段差があるので、曲輪としては別だったかもしれません。
・・・こっちが主郭っぽい感じがしてきましたあせる

洲崎館【5】
⑤堀切

東曲輪の端に沿って進むと、北側に大きく窪んだ地形があります。
諸兄は「堀切」と紹介されるのですが・・・
年月とともに埋まったとしても、鋭さが全くありません。
傾斜もだいぶ緩いです。
もしかしたら、自然地形のままなのかもしれません。

洲崎館【6】
⑥堀切

かなり長い窪みですが、全般的にこんな感じです。

洲崎館【7】
⑦北曲輪

堀切を越えた所に、北曲輪があります。
土塁などは見当たらず、とりあえず高い所を馴らしただけな感じです。

洲崎館【8】
⑧堀切

北曲輪をグルっと回り、堀切の西端に戻ってきました。
窪んでいるのは一目瞭然ですが、やはり緩いです。

洲崎館【9】
⑨西曲輪

堀切を越え、神社のある平坦地の端を進んだ先が西曲輪です。
松の雑木林になっていますが、下草が薄くて平坦なのがよくわかります。
・・・下草、薄い、ですよね?クローバークローバークローバー

洲崎館【10】
⑩堀

その先端部にも、堀っぽい地形がありました。
ここはどなたも紹介していないような気が・・・
西曲輪の先に南西曲輪があるらしいのですが、この堀の先なのかも。
初夏とはいえ、この先へ踏み込む度胸はありませんでした。


◆歴史◆

1457年、武田信広により築かれたとされます。

武田信広は、後の松前氏の祖となった人物です。
出自不詳ですが、若狭武田氏出身と称していたそうです。
ただ、登場人物の整合性が取れない部分がチョイチョイあるようで・・・
南部一族の出身だとする説もあります。
足跡が追えるのは、安東政季と行動を共にする頃からです。

南部家が下国安藤家を滅ぼした後、安東政季を下北半島の宇曽利に配置。
安藤一族が多く残る蝦夷地を版図に加えようという思惑だったようです。
しかし、まもなく安東政季は武田信広とともに宇曽利を脱出。
蝦夷地に渡り、一族や家臣を道南十二館に配置しました。

まもなくアイヌが蜂起し、和人の拠点である道南十二館を襲いました。
これはコシャマインの戦と呼ばれ、アイヌ軍が10の館を陥落させました。
持ち堪えたのは蠣崎季繁の花沢館と、下国家政の茂別館のみでした。
しかし、ここから逆襲が始まります。
蠣崎季繁のもとに居た武田信広が総大将となり、反撃を開始。
ついにはコシャマインを討ち取り、反乱の鎮圧に成功しました。

武田信広は、蠣崎季繁の養女を娶って蠣崎家の婿養子となります。
この時に築いたのが洲崎館とされます。
蠣崎季繁の居城・花沢館とは、川一本隔てただけの近所にあります。
要害性が無いため、軍事拠点というより居館だったように思われます。

武田信広が勝山館に移り、廃城となりました。

武田信広は蠣崎家を継ぎ、蠣崎信広と改名します。
養父の蠣崎季繁が没した後、新たに勝山館を築いたとされます。
その時期が曖昧ですが、1462年から1473年の間と考えられています。
蠣崎信広が勝山館に移ったことで、洲崎館は廃城になりました。


所在地:北海道檜山郡上ノ国町字北村 GPSログダウンロードページ

北海道の城跡/なぽのホームページを表示

志苔館/北海道函館市

志苔館は、函館空港脇にある続日本100名城です。
訪問日は2018年6月3日です。

志苔館【1】

空港でレンタカーを借り、最初に訪ねた城跡がココです。
周辺は住宅街で、細い道が西側を通り抜けるだけです。
目の前に車は停められないので、空港脇の公園の駐車場を利用します。
よし着いた!と虎口が見えます。

志苔館【2】

虎口で回れ左すると、城内への入口はまだ奥に見えました。
ココは虎口で間違いなく、左右には腰曲輪があります。
おそらく、ここに櫓門的なものがあったと思われます。

志苔館【3】

上の写真で奥に見えた城址碑と説明板です。
続日本100名城に選出される前からあったようです。

志苔館【4】
拡大表示

説明板に載っている図を拝借します。
この説明板があるのは図の左上で、十字路の一番上の所です。

志苔館【5】

城内へ入る道です。
ここも虎口ですね!
左側が内郭、右側が腰曲輪である外郭です。

志苔館【6】

そして、内郭に入る虎口です。
最初の虎口からカギ形に堀底を進む感じです。
それ自体が大きな枡形虎口のように見えなくもありません。

志苔館【7】

内郭内部は、かなりの広さがあります。

志苔館【8】

志苔館は台地の端っこにあります。
端っこだったからこそ、空港建設で潰されなかった感じです。
台地との間にあるのがこの堀です。
堀沿いに土塁があり、高低差は10メートル程あります。

志苔館【10】

ぐるっと回りこんで、東側も深い堀で隔てられています。

志苔館【11】

南側は、目の前に港があります。
城がここに築かれたのは、この港も関係ありそうですね。

志苔館【12】

虎口から出て、今度は外郭へ。
往時からこんなに真っすぐだったかは?です。

志苔館【13】

堀と土塁を隔てて、一段下の腰曲輪が外郭です。
ここに四阿とトイレがあります。

志苔館【14】

この四阿の中に、スタンプ台があります。
城跡は常時開放で、スタンプは盆正月でも真夜中でも押せます。

志苔館【15】


デザインは、北側上空から見た鳥瞰です。
私はよくスタンプと同じアングルで写真撮るのですが・・・
このアングルは、地上からは無理ですw


◆歴史◆

14世紀末~15世紀中頃に使用されたと考えられています。

発掘調査の結果、3つの時期で郭内の様子が変わっていたそうです。
1つめは14世紀末から15世紀初頭、
2つめは15世紀中頃、
3つめは16世紀以降です。
この中で、遺物が最も多いのが14世紀末から15世紀初頭のものです。
この時期は、安藤氏が南部氏と争っていました。

1442年に安藤盛季が十三湊を追われ、蝦夷地へ逃れて来ました。
安藤盛季が蝦夷地へ逃れたのは、道南に一族が多くいたためです。
安藤盛季は間もなく没し、子の安藤康季が継ぎます。
安藤康季は津軽奪還のため何度も出陣したものの、1445年に陣中で死去。
志を継いだ子の安藤義季は1453年、南部軍との戦に敗れ自害。
下国安藤氏宗家は断絶しました。

1454年、道南十二館が配置されました。

安藤義季の没後間もなく、南部氏は下国安藤家を再興します。
1438年に捕らえていた潮潟師季に下北半島を与え、安東政季と改名。
安東政季は、安藤義季の祖父・安藤盛季の弟・潮潟通貞の孫です。
母親は南部義政の娘のため、生け捕りにして八戸で育てていました。
安藤宗家を継がせて傀儡にし、蝦夷地を支配する狙いでしたが・・・
安東政季は、間もなく武田信広とともに下北半島を脱出。
蝦夷地へ渡ると、一族配下を道南各地に配置しました。
これが道南十二館で、志苔館には小林良景が配置されました。
小林氏の祖先は、萬里小路藤房に従って津軽に下向したと伝わります。

1457年、コシャマインの乱で攻め落とされました。

1456年、志濃里でアイヌが和人に殺される事件が起きました。
これは、和人の鍛冶屋での小刀をめぐるトラブルが原因でした。
値段の割に粗悪だったため、クレームが発生したそうです。
当時のアイヌは、鉄製品の入手ルートが和人に限られていました。
この件に限らず、和人が日常的にアイヌを虐げていたようで・・・
ブチ切れた渡島半島東部の首領・コシャマインが1457年に挙兵。
呼応したアイヌ達とともに、道南十二館を次々に襲撃しました。
コシャマインの乱では、道南十二館の内10ヵ所が陥落しました。
志苔館も陥落し、城主の小林良景も討死しています。
乱は、蠣崎季繁の娘婿・武田信広がコシャマインを討ち取り終結。
しかし、これを機にアイヌと和人の争いは100年以上続きました。
志苔館は、小林良景の子が戻って来て継いでいます。

1512年に廃城になったと考えられています。

正式な年代は不明ですが、数少ない史料では1512年陥落となっています。
1512年が懐疑的なのは、城主が65年前に討死した城主の子だからです。
さすがに長生きし過ぎじゃね???という感じです。
「子が城主」を信じれば確かに疑問符が付きますが・・・
年代メインで考えれば、65年前に討死した城主の孫かひ孫かもしれません。
当時はアイヌのショヤ・コウジ兄弟が蜂起し、和人と戦っていました。
この中で志苔館が攻められ、城主の小林良定が討死しています。
小林氏は以後蠣崎氏に従って志苔館を去ったため、廃城となりました。

ちなみに、ショヤ・コウジの乱は作り話だった?という説があります。
それは、蠣崎氏による蝦夷地独占の野望を正当化するためだという説です。
蝦夷地は1456年に、安東政季が3人の守護を中心に十二館を配置しました。
3人の守護は安東定季(松前)、安東家季(下国)と蠣崎季繁(上国)です。

安東定季は安藤家惣領・安藤康季の弟です。
没後は子の安東恒季が継ぎますが、性格が横暴だったそうです。
そのため家臣達に訴えられ、1496年に檜山安東家に攻められ自害。
以後、松前は重臣の相原季胤と村上政儀が仕切っていました。

安東家季は初代檜山安東家当主・安東政季の弟です。
1500年頃に没し、その後は孫の下国師季が継いでいました。
下国氏はその後、蠣崎氏に重臣として仕えています。

1513年、ショヤ・コウジ兄弟が松前大館を攻め陥落。
大館を守っていた相原季胤と村上政儀はともに討死しました。
そのショヤ・コウジ兄弟を蠣崎光広が和議と称して謀殺し乱が終結。
すると、蠣崎光広は居城を上国花沢館から松前大館へ移転。
そして檜山安東家に、自分を松前守護にするよう迫ります。
安東尋季は当初拒否しますが、後に蠣崎光広を松前守護としています。
蠣崎氏はもう1人の守護・下国氏を従えており、既に一強状態でした。
その後、独立傾向を強めて豊臣秀吉の時代に独立を果たします。


所在地:北海道函館市志海苔町

北海道の城跡/なぽのホームページを表示

四稜郭/北海道函館市

四稜郭は、五稜郭支援のために築かれた野営陣です。
訪問日は2009年8月16日です。
かなり昔なので、現状とは合ってない所が多々あるかもしれませんあせる

四稜郭【1】

北海道ツーリングへ行く時に存在を知り、気になって立ち寄りました。
地図を片手に迷い迷い走ると、この案内が現れとても安心しました。
形がやっぱり・・・ですね(#^^#)

四稜郭【2】

ようやく到着です。
目の前には立派な石碑があります。

四稜郭【3】
拡大表示

説明板もちゃんとあって、図も載っています。
パッと見は前方後円墳っぽいですが、内側にちゃんとあります。

四稜郭【4】

石碑の後ろに写っていましたが、最初に見たのはこんな感じです。
思った程土塁は高くありませんが、向こう側は見えない横一線です。

四稜郭【5】

土手っぽい写真1枚では飽き足らず、いいアングルを求めて歩きました。
1か所だけある虎口がココです。
もうちょっと欲張って真ん中に大きく撮れば良かった・・・
こういう反省を繰り返しながら、腕を上げるしかありませんねあせる

四稜郭【6】

土塁の角に上がって、内部を見渡してみました。
五稜郭のようなタワーが無いので、なかなか「四」を実感出来ません。
今行けば、間違いなくドローン飛ばして空撮しますが・・・
11年前ですからねw

四稜郭【7】

どうにか西洋式稜堡を実感したい!
そんな思いで撮った出っ張りです。
トンガっていますよね?


◆歴史◆

1869年、函館政権により築かれました。

当時は、旧幕府軍と新政府軍が戦った戊辰戦争の最中でした。
北へ北へと追い詰められた旧幕府軍は函館に集結。
五稜郭を拠点として、最後の抵抗を続けていました。
この時、五稜郭を支援するための拠点として築かれました。
兵士200人と近隣住民100人で突貫工事により数日で完成。
井戸は無く、籠城には向かない野戦用の陣でした。

5月11日、新政府軍が五稜郭への総攻撃を始めました。
旧幕府軍は四稜郭にも兵を置き、新政府軍に備えていましたが・・・
四稜郭と五稜郭の間の拠点が、長州軍の攻撃により陥落。
退路を断たれることを恐れた旧幕府軍は、五稜郭へと撤退しました。
一週間後の5月18日に旧幕府軍が降伏し、四稜郭は役割を終えました。

国の史跡に指定されました。

1934年に国の史跡に指定されました。
函館戦争後は特に手入れもされず、周囲は畑となっていました。
土塁の一部は崩されていたそうですが・・・
1973年に整備され、崩されていた土塁も復元されました。


所在地:北海道函館市陣川町

北海道の城跡/なぽのホームページを表示

プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

北海道・東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方・沖縄

プライバシーポリシー
本サイトについて
お問い合わせフォーム



検索フォーム

QRコード

QR