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田原山城/大分県杵築市

田原山城は、田原氏発祥の地とされる山城です。
訪問日は2023年5月1日です。

田原山城【写真位置】大きな地図を表示

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田原山城は、沓掛城の南の山にありました。
某大聖典では、城へは東から行けるとあります。
登城記はネット上では1件しか見つからず。
そのルートを辿ってみました。
木ノ下橋の交差点から南東へ進みすぐに西側の細道へ。
細道は、民家が途切れるとすぐに未舗装となります。
道はみるみる荒れ、ぬかるんだり崩れたり。
途中、倒木を1つどけて進んだりしました。
嫌な音を立てつつ進み、やがて目印の田原山橋に。
そこから坂を登ると、右手前への分岐があります。
ここからひたすら荒れた林道を歩き山上へ。
開けた場所に出たら右へ進み、標高403m地点へ。
そこから北の尾根を少し下った所が城跡です。
田原山城【1】
【1】田原山の山頂 上に戻る

そんな情報をキャッチ出来ずに挑んだ昨年の年末。
田原山の山頂から稜線を辿る作戦でした。
遠目にギザギザで「鋸山」の異名を持つ田原山。
さぁ稜線辿ろう!として見た光景がコレです。
田原山城は、右斜め前方の尾根上です。
これは空でも飛べなければ無理です。
そりゃそうだよね、ギザギザなのは稜線だし・・・
という事があって、今回のリベンジとなりました。
田原山城【2】
【2】田原山橋 上に戻る

田原山城を訪ねる上で、目印となるのがこの橋です。
ネット上で見つかったのは、山キチ様の会報のPDFただ1つ。
道案内は、地元の人にしかわからなさそうな地名が並びます。
その中に出て来る唯一の固有名詞がこの橋でした。
思わずガッツポーズです!
田原山城【3】
【3】城跡へ続く林道 上に戻る

橋から坂を登ると、右斜め手前への道が現れます。
これが城跡の手前まで続く林道です。
某山キチ様はココに車を停めています。
なので私もココまで車で来ましたが・・・
車が大事な方は、なるべく早い内から歩くことを勧めます。
田原山城【4】
【4】車を停めた場所 上に戻る

もうこれ以上はムリw
・・・で停めた感じです。
倒木が塞ぐような道ですからね。
あまり端ではないですが、これで精一杯。
大きな石が沢山転がり、切り返しもままならず。
こんな道は二度と走りたくありません。
地図ではこの道が南の大きな道に繋がっています。
でも、ストビューではこっちに入る道が見当たらず。
大した距離ではなさそうなので、辿ってみればよかったです。
田原山城【5】
【5】荒れた林道 上に戻る

車を停めた場所からは、ひたすら林道を登ります。
某山キチ様情報は、そこら辺が少しアバウトでした。
路面は草木が生えてないだけで、完全に山の斜面です。
しかもUターン出来る所がありません。
オフ車の方でも、ここ走るとゼッタイ後悔します。
田原山城【6】
【6】林道の転回場所 上に戻る

荒れた林道は、進むにつれ傾斜がキツクなります。
元車道というか、ちょっといい登山道です。
宿題をギリギリ終える感じで登り切った所がココです。
さて、ここからどっちへ進んだものかと迷います。
某山キチ様情報だと、たぶんここから右。
Google Mapのアイコンだと左です。
・・・結局両方とも見て来ましたケドw
それだけ情報が無かったというコトです。
田原山城【7】
【7】まずは右側へ 上に戻る

右側には、幅の広い緩い尾根が続きます。
その左脇に、林道の最後の部分が寄り添います。
ここを車で走って何かする予定だったんですね。
一応植生はスギ林なので。
田原山城【8】
【8】・403地点 上に戻る

やがて辿り着いたピークです。
GPSを確認すると、標高403メートル地点。
某山キチ様が書かれていた場所に到着です。
でも、城跡に関する情報はここまで。
城跡の位置についてはこれ以上書かれていません。
鎌倉時代の城跡なので、平らなだけというのもあり得ます。
そういう意味では、既にココが城跡なのかもしれません。
以後は完全に城キチとしての経験と勘だけが頼りです。
GPSの地形図だと、北の尾根が何となく怪しい・・・
ということで、北へ向かいました。
【動画】 上に戻る

せっかくなので動画を撮りました。
内容は、ココから城跡を探索する様子です。
下手な文章よりこっち見た方がわかりやすいかも^^;
迷わず歩いているのは、一度見て来たからです。
ネタバレ気味ですが、北へ向かったのは正解でした。
その先には更に驚くべき発見が!
田原山城【9】
【9】北側の尾根 上に戻る

・403地点から緩い尾根を下ります。
しばらくすると、尾根は幅の広い平坦地に。
戦国時代の城跡だと「馬場」がこんな感じです。
こんな所まで馬を連れて来るのかどうか?ですが。
人の手が加わった感じもしませんし。
でも、険しい山上が平らなのは不自然なのです。
田原山城【10】
【10】目印の倒木 上に戻る

しばらく進むと、大きな倒木が見えて来ます。
正直邪魔だなぁと思いましたが・・・
その向こう側が一段高くなっています。
お!です^^
田原山城【11】
【11】堀 上に戻る

一段高いだけだと思いましたが、手前は堀でした!
気付いたのは帰りでしたが^^;
ただ、ちょっと堀が浅くて上手く撮れず。
一番堀らしく撮れたのがコレです。
田原山城【12】
【12】虎口 上に戻る

そして、木がかかる所で土塁が窪んでいます。
ここが虎口のようです。
それにしても邪魔な倒木です。
私にチカラがあれば、こんなモノどけるのに・・・
なんて、ちょっと痛いジジィですね^^;
もちろん魔法なんて使えませんヨ!
田原山城【13】
【13】土塁 上に戻る

そして、堀に沿ってある土塁です。
曲輪全周とはいきませんが・・・
堀に沿ってあります。
田原山城に辿り着けたと確信しました。
主郭は奥行きもありかなり広いです。
田原山城【14】
【14】北の尾根先端 上に戻る

さて、辿り着いただけでは満足しません。
情報の乏しかった城跡なので、隅から隅まで堪能します!
主郭を時計回りに進み、まずは北の尾根へ。
山城に来たら、尾根は全部見なきゃデス。
大抵の場合、堀切がありますからネ!
でも、ここはハズレでした。
ただただ下り、ココで行き止まりです。
田原山城【15】
【15】南東の尾根 上に戻る

更に時計回りに進み、今度は東側の尾根へ。
幅の広い尾根が緩やかに下ります。
当日は時間もあり、半日ここだけでもokな予定。
という事で、気になる所は迷わず見て回ります。
田原山城【16】
【16】大堀切 上に戻る

緩い尾根を進むと、地面が何だか凄く凹ンデル!
尾根をぶった斬るソレは、まごう事なく堀切です。
しかも、超デカイヾ(*´∀`*)ノ
鎌倉時代の城跡には似つかわしくない遺構です。
こういうモノがあるのは戦国時代後期の城跡なのですが・・・
とりあえず現状を受け入れて先へ!
田原山城【17】
【17】大堀切の切岸 上に戻る

最初は林道の切通しかと思っていました。
でも、両端は真っすぐ奈落の底へ落ちています。
なぜこの城跡に?とは思いましたが・・・
現に在るんだからしょうがない(〃▽〃)
切岸はかなり岩っぽいです。
野面積みともちょっと違いますが、石垣でしょうか?
田原山城【18】
【18】大土塁 上に戻る

更に、大堀切の向こう側に登ってビックリ。
向こう側の切岸は、大きな土塁でした。
主郭側にはありませんでした。
ということは、重要度は奥の方が高い?
ということは、本当の主要部はこの奥?
これは確かめねば!
田原山城【19】
【19】南東尾根先端 上に戻る

しかし、土塁から先に目立った遺構はありませんでした。
土塁のある所はそれなりに曲輪っぽかったですが。
その先は堀も土塁も無くそのまま尾根に。
少し下った鞍部には堀切ナシ。
ちょっとした高台を通り過ぎると、そのまま行き止まりに。
・・・動画見た方がわかりやすそうです^^;
田原山城【20】
【20】Google Mapが示す場所 上に戻る

今度はGoogle Mapで田原山城のアイコンがある場所へ。
さっきしっかりした遺構を見たので、こちらは期待せず。
それでも自分の目で確認しないことには気が済みません。
もしかしたらこっちにも!なんてあり得なくはないので。
けっこうしっかり登山させられましたが・・・
こちらはただの自然地形でした。
いい加減なアイコン置かないでね、知ったかサン(# ゚Д゚)


◆歴史◆

田原氏最初の城とされます

1213年、大友能直の第12子・泰広が田原別符の地頭となりました。
某大聖典では「12男」と書かれています。
当時の名乗りは「豊前六郎」です。
12「子」と12「男」ではだいぶ意味が違いますよね?
領地の地名から、田原泰広と改名。
後に大友家中最大勢力を誇る田原家の祖となりました。
この時に築いたのが田原山城とされます。
ただ、史料上での記載は「沓掛に」とあり、混乱を招きます。
田原山城があるのが大字大田沓掛字田原山
沓掛城があるのは大字大田沓掛字城山
・・・小字でもややこしいw
田原泰広は文永の役に従軍するなど活躍。
2代めの田原基直も弘安の役に従軍し功を挙げました。
田原基直の嫡男・田原盛直は若くして戦死。
この時に田原盛直の子・田原直平はまだ幼少でした。
そのため弟の田原直貞が3代めとなります。
田原直平は別家を興し、沓掛城へ移りました。
田原直貞は観応の擾乱で足利尊氏方として活動。
長年の功により、国東郷を与えられました。
そして4代めの田原貞広は飯塚城を築城。
田原宗家は以後、飯塚城を本拠としました。
沓掛田原氏は、悪党化し衰退したと伝わります。
田原山城も拠点として利用したのでしょうか・・・


所在地:大分県杵築市大田沓掛 GPS軌跡ダウンロードページ
大分県の城跡/なぽの城跡巡りを表示

今市城/大分県国東市

今市城は、武蔵田原氏の本拠地でした
訪問日は2023年4月30日です。

今市城【写真位置】 大きな地図を表示

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これまで田原宗家や吉弘家の城を見て来ました。
そういえば武蔵田原家の城ってどこだろう?
大分県の城跡も大詰めを迎え、ふと疑問が沸きました。
田原親賢の妙見嶽城は後付けだし・・・
ということで調べて今市城だったと判明。
諸兄は遠景の写真1枚と「武蔵中学校が城跡」とだけ。
でも、某大聖典では「多郭式の大規模な城」とあります。
何か痕跡でも見つけられれば、と立ち寄りました。
今市城【1】
【1】志成学園 上に戻る

城跡は現在、志成学園となっています。
武蔵中学校で探しても見つからない訳です。
誰も触れませんが、藤波辰爾さんの出身校でした。
中学校は2020年に閉校し、現在は小中一貫校となっています。
今市城は堀を挟んで東西に分かれていました。
学校があるのが東城だった部分です。
今市城【2】
【2】グラウンド 上に戻る

グラウンドを造成中、抜け穴が見つかったとどこかで見ました。
後からどこで見たか探しましたが見つからず・・・
そのグラウンドがこれ?と思って撮った1枚です。
GPSを見ている内にどうも違いそうな気が。
地形図ではココ、大きな谷になっています。
城を東西に隔てた幅50メートルの堀跡のようです。
今市城【3】
【3】北側の林道 上に戻る

とは言え、そう思うのはまだちょっと先です。
訪問前に目星を付けたポイントを攻めに行きます。
まずは北に進み、林道を通って南東へ。
何か痕跡が無いか探りつつ、東側先端へ向かいました。
今市城【4】
【4】山中に入る石段 上に戻る

林道から南側には、所々に平地が見えました。
どこも草ぼーぼーですが、平坦なのがわかります。
高い確率で畑跡だと思いますが、曲輪跡かも?
そう思いながら南東へ下りました。
すると、下の道に出る直前に山中に上がる石段が。
これはもう上がるしかありません!
今市城【5】
【5】平坦地 上に戻る

石段を上がった所は平らでした。
明らかに人の手が入っています。
所々に新旧様々なお墓があります。
でも、ポツポツなんですよね。
初めから墓地という感じではありません。
場所があるから墓を建てたという感じです。
今市城【6】
【6】掘られた道 上に戻る

そんな平坦面に溝を発見。
どうやらそのまま下から上に通じているようです。
この溝を辿れば何か見つかるかも!
城のものではない可能性もありますが・・・
一縷の望みを賭けてまずは下へ。
今市城【7】
【7】溝の入口 上に戻る

そのまま下ると、麓の道近くに出ました。
外から見ると、ココから上がれるように見えません。
登城路不明な山城あるあるです。
ココがそうなのかは今もって?です。
この左奥から山中へは上がっていません。
航空写真では、学校の東側がD字型に膨らんで見えます。
こっちからも上がって見ればよかったと思いますが・・・
完全に後出しジャンケンです。
リベンジしには行きませんヨ^^;
今市城【8】
【8】東側の平坦面の1つ 上に戻る

溝を下ってみたものの、虎口など見つからず。
今度は溝に沿って登ってみました。
基本的には雑木林のプチ藪掻きです。
陽射しが無いので歩きやすかったですが。
こちら側は平坦面が段々に続きました。
曲輪っぽく見えますが、堀や土塁等は無し。
畑跡の可能性大です。
残念ムネン
今市城【9】
【9】学校の北東側に出ました 上に戻る

山中に城跡らしさを求めましたが・・・
平坦面が段になっている以外に何も無し。
そんな事を繰り返す内に学校に出ました。
嗚呼、東城の痕跡は遂に見つからず。
今市城【10】
【10】堀跡?へ 上に戻る

今度は、航空写真を見て堀だと思った場所へ。
ストビューで見つけたそこに入る道です。
今市城【11】
【11】平坦面 上に戻る

ここら辺にも、平坦面がいくつも見られます。
これらすべてが曲輪だった???
現代の諸事情を考慮すれば、耕作放棄地っぽいですが。
今市城【12】
【12】谷間 上に戻る

航空写真での予想通り、道は谷に通じていました。
城の東西を隔てた50メートルの堀?
それを直に見て確かめよう!
今市城【13】
【13】下りた所 上に戻る

途中ジメジメした所もありつつ下りました。
幅50メートルの堀、のように見えます。
それだけの規模となると地形を利用したのでしょう。
ココはまさにそんな場所に見えます。
ただ、GPSの地形図ではグラウンドの所が怪しい・・・
それならココの西側を確かめよう!
今市城【14】
【14】西側の竹藪 上に戻る

ということで、谷から西側の斜面をよっこらしょ。
すると、平坦面が段になって連なっていました。
先程の東側の斜面と同じ感じです。
こちらも土塁などは見当たらず。
西城跡の藪に堀や土塁があるらしいのですが・・・
今市城【15】
【15】西側の窪み 上に戻る

そう思い奥へ進むと、縦方向に低くなっています。
溝は妙に整っており、堀のように見えます。
城キチあるあるの目のビョーキかもしれませんが。
土塁が見つかれば合わせて一本!なのですが・・・
ついにそれらしいものは見つかりませんでした。
今市城【16】
【16】グラウンドの上 上に戻る

さて、事前にはノーマークだったのがグラウンドです。
地形図的にはここが東西を隔てる堀っぽく見えます。
グラウンドの上を横切るのがこの道です。
山の地形だと、この間に谷がある感じです。
もしそうだとすると、さっきの場所は西に行き過ぎ。
藪探索のポイントを見直す必要が出て来ました。
今市城【17】
【17】学校の校庭 上に戻る

学校の正面はグラウンドですが、南側にも校庭が。
それだけ今市城が広大だったという事なのでしょう。
抜け穴が見つかったのはこっち側だと思います。
今市城【18】
【18】グラウンドの南側 上に戻る

学校に上がる道の途中から、この道が分岐します。
奥には大きな谷が見えます。
どうやらこっちが東西を隔てた堀跡のようです。
奥には向こう側に渡る道が見えます。
どうやらグラウンドの南側に登れそうです。
西城の遺構を見られるかも!と、期待が膨らみました。
今市城【19】
【19】谷底 上に戻る

上の写真の道を進み、南側を見た所です。
堀切だとすればとんでもない規模です。
こんなのを埋めたグラウンドもとんでもないですが。
恐らくですが、今回唯一の収穫かもしれません。
今市城【20】
【20】グラウンド南側の竹藪 上に戻る

道の終点から無理やり直登した竹藪です。
上はかなり広い平坦面でした。
その端はこんな感じで細長い段になっています。
このような帯曲輪状の段が数段あります。
構造は亀城の西半分や立石城と同じような感じです。
とは言え、堀や土塁っぽいものはここでも見つからず。
某大聖典では城域は東西340×南北240メートル。
地図上で測ると、西のグラウンドから学校の東端までです。
今回は、それよりもかなり広い範囲で探索していました。
見て無い場所もかなりありますが・・・
ちょっと残念ですが、それが結果だという事で。


◆歴史◆

武蔵田原氏の城でした。

武蔵田原氏は、5代田原氏能の子・田原親昌を祖とします。
田原氏能が武蔵郷を手に入れたのは1379年頃です。
足利義満袖判下文により与えられたとされます。
この領地が庶子の田原親昌に分知されました。
田原親昌が今市城を築いたかどうかは?ですが。
武蔵田原氏については、調べてもほぼ?です。
出て来るのは椿八幡神社と田原親賢ばかりです。
田原宗家との関係などもわからず終いです。

1550年頃、田原親賢が当主となります

田原親賢は、大友義鎮の2人目の正室・奈多夫人の兄です。
2人目のってのがちょっとアレですが。
『陰徳太平記』では「九国一の美女」だそうです。
仕方ありませんネ!
奈多夫人の「奈多」は旧姓です。
ということで、田原親賢も奈多氏の出身です。
田原親賢は、奈多氏から武蔵田原氏に入った養子です。
大友家に反抗的な田原氏を分裂させる目的だったとされます。
この頃の大友家と田原氏の出来事といえば・・・
・1550年:二階崩れの変で大友義鑑が死亡
・1552年:田原親宏が赦され周防から帰国
です。
田原親宏の帰国と引き換えに、領地を削ったかもしれません。
武蔵田原氏を継いだ田原親賢は、毛利軍との戦いで活躍。
この時の功により、大友家中の頂点・加判衆の1人となります。
そして1556年、妙見嶽城を与えられます。
しかし、今市城は保ち続けたと思われます。
それは、妙見嶽城を養子の田原親盛に譲るからです。
田原親賢はその後も大友家の筆頭として活躍。
隠居して大人しくした訳ではありません。

1593年、大友家が改易されます

朝鮮での戦で、大友義統が敵前逃亡したとして改易。
田原親賢も領地を失いました。
その後は豊臣秀吉の直臣として直入郡(現竹田市)へ移封。
岡城の中川秀成の与力となります。
今市城は、以後の歴史に登場しなくなります。


所在地:大分県国東市武蔵町成吉 GPS軌跡ダウンロードページ
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亀城/大分県国東市

亀城は、戦国時代の田原宗家の城でした。
訪問日は2022年12月31日です。

亀城【写真位置】 大きな地図を表示

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亀城は、飯塚城が洪水被害に遭い築かれた城です。
飯塚城よりも上流側にあり、標高もあります。
しっかりとした山城ですが、知名度はあまりありません。
歴史の表舞台に登場しなかったせいかもしれませんが。
田原宗家の城と言うと飯塚城と安岐城ばかりが出て来ます。
それはここが避難所的な役割だったからかもしれません。
しかし、それなりの規模と遺構がバッチリ見られます。
亀城【1】
【1】車を停めた場所 上に戻る

知名度もあまりないせいか、登城記はかなり少ないです。
そんな中、某大御所様は北西から登ったと記されています。
東側の神社の麓は民家の敷地を通るらしく・・・
ということで、北西の登城口を目指しました。
北側の道を走ってると、ここに停められそう!
ということでココに駐車しました。
亀城【2】
【2】登り口 上に戻る

某大御所様が登られたのはもっと西ですが・・・
駐車場所のすぐ近くに、白いガードレールが見えました。
これはここから登れる?
直感的にそう感じたのでここから登りました。
亀城【3】
【3】ガードレール沿いに登った所 上に戻る

北東側から登る道はちょっと草深かったですが・・・
北西側から登って来る道と上で合流。
大御所様が登って来られた側は草が刈られていました。
亀城【4】
【4】虎口? 上に戻る

上の北側は特に何も見当たらず。
西端のここからは段差が見られるようになります。
城域は山上の東半分とされます。
なので城の遺構ではないと思われますが・・・
明らかに人の手が加わった土の造形です。
亀城【5】
【5】段差に埋もれる石列 上に戻る

西端からは、南側に数段の段差があります。
その段には、補強するように石が埋もれています。
とは言え城域とはされない西側。
戦国時代以降の畑のものかもしれません。
亀城【6】
【6】中央付近 上に戻る

山上の段差に沿って進み中央付近に。
ここで段差の様子が少し変わります。
向こう側(東側)が少し高くなっています。
その手前が少し低いような・・・!
亀城【7】
【7】西側の堀 上に戻る

そう思っていたら、幅の広い堀でした。
ここで山上が東西に隔たれています。
平らなので別にいいじゃんって思いますが・・・
広過ぎて使い切れなかったのでしょうか。
亀城【8】
【8】オテンス 上に戻る

堀のやや北寄りに大きな土盛りがあります。
これがオテンスと呼ばれる櫓台です。
漢字で御天守と書きそうな・・・
きっとそうに違いないですが。
それにしても山上の中央部。
ここから見渡すとすれば北東側でしょうか。
でもそれなら、東端にあった方が良さげですが。
亀城【9】
【9】土橋 上に戻る

オテンスの下だけ、堀が浅くなっています。
状態としては土橋のようになっています。
それでもオテンスに登る感じではありませんが。
往時がどんな感じだったのか、ちょっと想像出来ません。
そもそもコチラ側が防御面だったのかどうやら。
亀城【10】
【10】東側の堀 上に戻る

中央部の堀は、二重堀になっています。
こちらはその東側の堀です。
西側の堀と比べると幅が狭くなっています。
亀城【11】
【11】東側の堀 上に戻る

それでも深さは同じ位あります。
幅が狭いので、鋭く見えます。
深さは2、3メートルあるので、簡単には登れません。
亀城【12】
【12】東側の堀 上に戻る

こちらは土橋はありません。
山上を南北に貫いています。
平坦な山上を真ん中で二重堀で隔てています。
なぜこんな造りになったのかが?です。
東西でキッチリ分ける必要があったのでしょうか。
亀城【13】
【13】南東側の帯曲輪 上に戻る

東側も南に帯状の曲輪が並行します。
この帯曲輪は、堀切の底よりも低い位置にあります。
なんだかんだ言ってもお城です。
簡単には城内を行き来出来ないようになってます。
亀城【14】
【14】南東側の帯曲輪 上に戻る

東へ進もうとすると、どうしても帯曲輪に出ます。
帯曲輪からと主郭は、人の背よりも高い段差があります。
亀城【15】
【15】堀底 上に戻る

先程は二重堀の間の上からでしたが、今度は堀底を北へ。
西半分はのっぺりしていたのでついはしゃぎます。
ここは下草があまり無いので、かなり歩きやすかったです。
亀城【16】
【16】主郭 上に戻る

堀から上がって見た主郭です。
広くて平らです。
山城の主郭は、いつも同じコメントになります。
この写真だけだと、ただの山の中ですからね。
どうしてもそうなっちゃいます(汗)
亀城【17】
【17】北側から見た東側の堀 上に戻る

他に見所が無かったせいか、この堀の写真ばかりです。
堀好きなので私は飽きませんが・・・
奥の高い所がオテンスです。
亀城【18】
【18】主郭東端 上に戻る

時計回りに外周を進みました。
主郭の端には土塁が無く、ただ平坦面の端を進みます。
そのまま東端に来ると、数基のお墓があります。
埋もれてないので、今でもお参りに来られているようです。
亀城【19】
【19】亀城神社 上に戻る

東端の一段下に神社があります。
鳥居に名前が彫られていましたが、超達筆で読めず。
どうやら「亀城神社」と読むようです。
神社自体はこんな感じで廃れてしまっています。
この正面に、下りて行く道がありました。
民家の前に出ると思い下りませんでしたが。。。
こちら側からも普通に登って来れるようです。


ということで、亀城の「気掛かり」を確かめて来ました。
訪問日【再】は2023年5月1日です。

亀城【位置・追記あり】
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亀城東端にある神社。
普通に考えれば、そのすぐ下に参道があるはず。
そう考えると居ても立ってもいられず・・・
という程でもありませんがw
丁度近くに来たので、立ち寄ってみました。
亀城【A】
【A】東側の登城口 上に戻る

亀城のある独立丘陵の東側に道が1本あります。
この道沿いに、鳥居があります。
亀城神社のものに違い無い!
そう思った光景です。
車はココか、南東の公民館に停められます。
亀城【B】
【B】鳥居 上に戻る

民家の敷地に入らず登れる!
そう思いワクワクした光景です。
でも、この石段はすぐに行き止まり。
下から見てすぐにそうだとわかります。
あれ?と思ったのですが・・・
左側に登っていく道があります。
亀城【C】
【C】大分県名物 上に戻る

多分こっちから上がるんだよね?と半信半疑。
でも、道端の木陰にありました!
大分県名物のオレンジプレート!
ここから城跡へ上がれると確信した瞬間です。
亀城【D】
【D】登城路 上に戻る

神社への道ですが、直線ではありません。
掘られた道が、グネグネと続きます。
どうやら城に上がる道をそのまま利用したようです。
傾斜はそれなりにキツイですからね!
(真正面は30度以上ありそうです)
亀城【E】
【E】石垣 上に戻る

途中、石垣に遭遇しました。
ここだけですし、少し脆い感じ。
多分、神社のものと思われます。
そう思いながらもつい撮るのが城キチです。
亀城【F】
【F】虎口 上に戻る

道が曲がる両サイドが平坦になっています。
上から見ると、道を挟む番所のように見えます。
東側の登城路では、こんな光景が数段見られます。
亀城【G】
【G】亀城神社 上に戻る

そして、あっという間に亀城神社に到着。
登城時間は約5分。
それまでの間、城跡らしさを感じられました。
こっち側から登った方が楽しめます♪


◆歴史◆

1544年、飯塚城が洪水被害に遭いました

飯塚城は、当時の田原宗家の本拠地でした。
その飯塚城が洪水被害に遭い、居館が半壊。
そのため亀城を築いたとされます。
しかし、当主の田原親宏は出雲、のち大内家に居ました。
大友義鑑に年寄を解任され、追放されたとされます。
何があって追放されたのかは定かではありませんが・・・
追放されたのが、どうも当主本人だけっぽい感じです。
その間の田原宗家領の扱いがどうだったのかも?です。
大内家と和睦後、目立った戦が無かったからかもしれません。
留守を守った田原一族が、高台に避難したものと思われます。

ところでその追放先で何があったかと言うと・・・
1543年、大内義隆は尼子家の月山富田城を攻め大敗。
この戦で後継ぎの養子・大内晴持が戦死しました。
以後、大内義隆は覇気を失います。
1544年、大内義隆は大友義鎮の弟・塩乙丸を養嗣子に迎えます。
この時に元服し、将軍から偏諱を与えられ大内晴英と改名。
しかし1545年、大内義隆に実子・大内義尊が生まれ猶子解消。
1551年、陶隆房が台頭し、大内晴英を次の当主に要望。
大内義隆とは、次の当主を巡り対立していたのでした。
その年の9月、陶隆房が大寧寺で大内義隆を討ちました。
そして1552年、大内晴英が山口に迎えられました。
大友義鎮は「傀儡にされる」と反対したそうです。
田原親宏は追放されたのではなく大内家中を探っていたのでは?
・・・なんて異説を立てたくなるような時期でした。

1552年、田原親宏が復帰しました

二階崩れから2年経ち、大友義鎮に許され復帰。
以後、毛利軍との戦いで大活躍しています。
田原親宏の城としては、安岐城がよく登場します。
不在の間に築かれた城が気に入らなかったのでしょうか。


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飯塚城/大分県国東市

飯塚城は、田原宗家の本拠地でした。
訪問日は2022年12月31日です。

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田原氏は大友家中で最大勢力でした。
しかし、その本拠地は現在消滅。
小学校となっています。
とは言え巨大城郭だったので、その名残を探してみました。
飯塚城【1】
【1】城塁 上に戻る

小学校の入口です。
この高くなっている所が小学校です。
城キチ的には城跡というべきでしたネ!
完全に破壊されてしまってはいますが・・・
巨大城郭の面影までは消滅していませんでした。
飯塚城【2】
【2】小学校 上に戻る

続いて台地上の城跡です。
グラウンドと校舎の間に段差があります。
小学校造るためわざわざこんな事はしません。
おそらくお城だった時の名残でしょう。
陣屋跡の学校もこうなってる所がよくあります。
飯塚城【3】
【3】城址碑 上に戻る

坂を登ってすぐの所に城址碑があります。
城跡なのでもしかしたらと思ったらそうでした^^
それにしても木のすぐ脇って・・・
見落としちゃったらどうしてくれるのでしょう?w
飯塚城【説明板】
【4】説明板 大きく表示 上に戻る

最後に説明板です。
上の写真で車の脇に写っています。
城跡の学校って何となく入りづらかったりします。
でも、ここは坂を上がってすぐで門なども無し。
ここまでなら小心者の私でも気兼ねなく入れます。
系図は田原宗家、武蔵田原家と吉弘家が載っています。


◆歴史◆

田原宗家の本拠地でした

築城は正平年間(1346~1370年の間)と伝わります。
田原氏が国東郷を得たのは1351年正月でした。
それまで地頭だった二階堂氏に代わり、田原直貞に与えられました。
田原直貞は、足利尊氏に従い鎌倉幕府との戦いに参戦。
足利尊氏が九州に落ち延びた際にも多々良浜で活躍しました。
一方、二階堂行朝は観応の擾乱で足利直義に味方しました。
そのため、その領地を没収し田原氏に与えたと考えられます。
田原氏は田原別符を本拠としていました。
田原別符は、沓掛城周辺の田染荘です。
こちらは父の兄の子・田原直平が継ぎ、沓掛田原氏となります。
田原直貞は新しい領地に居城を築き、本拠地としました。
田原氏は田原親述が、大友家にかなり反抗していました。
田原親述はまるで大内家の家臣のように振舞っていました。
そのため、後を継いだ田原親薫は周防に亡命。
1534年に勢場ヶ原の戦で国東に戻ろうとしたものの失敗しています。
大友家と大内家は、北部九州の覇権を争っていました。
1538年に将軍・足利義晴の仲介により両家は和睦。
田原親薫はこの時に国東に復帰したと思われます。

1544年、本拠地を亀城に移しました

洪水により半壊したため、独立丘陵に亀城を築き移りました。
でもちょっと疑問なのが、誰が亀城を築いたのかです。
当時の田原氏当主は田原親宏ですが・・・
前年に豊後を追放され、この時は出雲に居た筈です。
勢場ヶ原の戦では大友方として陶興房と戦いました。
大内家との和睦後、兄に代わり当主だったものと思われます。
ということは、兄・田原親薫が国東に残ったのでしょうか。
田原親宏には跡を継ぐ男子が居なかったので。
田原親宏が豊後に復帰したのは、1552年になってからです。
二階崩れの変で大友義鑑が没した2年後の事です。


所在地:大分県国東市国東町安国寺
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吉弘城/大分県国東市

吉弘城は、吉弘氏初期の本拠地でした。
訪問日は2022年12月31日です。

吉弘城【写真位置】 大きな地図を表示

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城は「吉広城」とも表記されます。
吉弘氏初代・吉弘正賢により築かれました。
鎌倉時代末から室町時代始めの人物です。
麓には吉弘楽で有名な楽庭八幡社があります。
ほぼ単郭の小さな山城で、横堀で囲まれています。
吉弘城【1】
【1】案内 上に戻る

城跡までは、北の県道から案内があります。
この案内を見つければ、迷う心配はありません。
吉弘城【2】
【2】駐車場 上に戻る

西側の林道から脇道に入り、駐車場に至ります。
これだけ広い平地があるという事は、やっちまった?
この奥にある主郭よりも、駐車場の方が広いです。
そういう目で見ると、駐車所の周りもよく見ておけば。。。
というのは、一歩引いた目でないと思いつきません。
当日は「便利だ!」としか思いませんでしたので(汗)
吉弘城【3】
【3】入口 上に戻る

城跡への入口です。
本当は裏側のはずですが。
手前に特徴的な生垣があります。
この生垣の裏に、小さな堀切があります。
何だか、色々な意味でやっちゃった感が漂います^^;
吉弘城【4】
【4】横堀 上に戻る

その堀切から左右に横堀が続きます。
まずは左側から。
堀というには浅い気もしますが・・・
帯曲輪というには狭過ぎます。
どちらかと言えば、横堀な気がします。
吉弘城【5】
【5】奥の方 上に戻る

横堀といえば、一周するのが私の流儀。
扱いが雑な所が多いので、そのまま藪掻きとなるのが常です。
吉弘城の横堀はというと、だんだん細くなります。
そして、裏に着く前に無くなります。
無理やり歩いた跡がありますが・・・
私はそこまではしません(`・ω・´)
吉弘城【6】
【6】反対側の横堀 上に戻る

正面に戻り、こんどは反対側へ。
一周するのが私の・・・ですからネ!
こちら側も綺麗に残っています。
吉弘城【7】
【7】こっちがわの奥 上に戻る

結末は知ってるものの、行ける所まで行きます。
行ける所まで、というのがココでした。
堀はまだ奥へと続いています。
でも、ミッシリと藪で覆われています。
まだ見ぬ堀が続くなら潜りますが・・・
結末を知っているので、ここまでで引き返しました。
吉弘城【8】
【8】上から見たさっきの所 上に戻る

今度は一段上がり、外周に沿って歩きました。
それで上から見たさっきの行き止まりです。
見る事の出来なかった先の形くらいわかると思いましたが・・・
堀の形もわからぬ程、草が覆い尽くしています。
潜って行かなくてヨカッタ
吉弘城【9】
【9】外周 上に戻る

主郭はこんもりと盛り上がっています。
その外周だけこんな感じで平らになっています。
城の曲輪といえば平らなのが普通です。
平らじゃない吉弘城に、建物があったのか?です。
吉弘城【10】
【10】城址碑 上に戻る

主郭の一番高い所に城址碑があります。
ココのも一点モノですヾ(*´∀`*)ノ
写真でもわかりますが、全く平らではありません。
吉弘氏は100年程ココを本拠としました。
特に要害性があるとも思えず。
南北朝時代のお城だからなのかもしれませんが。


◆歴史◆

吉弘氏初期の居城でした

吉弘氏は、田原直貞の次男・正賢を祖とします。
その吉弘正賢により建武年間(1333~1338年の間)に築かれました。
吉弘正賢は父・田原直貞(正曇)に従い各地を転戦。
筑後にも領地を与えられるなど活躍しました。

姫嶽合戦以後、都甲地区に移りました

姫嶽合戦は1431年、大友持直が討伐された戦です。
吉弘直意は大友持直の偏諱を受け、従っていたと思われます。
一方、子の吉弘綱重は1437年には都甲地区に入部しました。
父とは逆に、大友親綱に従っていたようです。
都甲地区は六郷山の総本山・長安寺のある場所です。
「六郷」は国東半島にある6つの郷を指します。
姫嶽合戦以前は、宇佐一族の都甲氏が支配していました。
都甲氏は領地を没収され、代わって吉弘氏が入ったようです。
吉弘綱重の男子・円仲が六郷山執行に就任。
六郷山執行は、在地武士に対して軍事指揮権を持っていました。
大友親綱は、国東半島の掌握を狙ったようです。
吉弘氏は次第に都甲地区に移り、筧城・屋山城を築きます。
吉弘城の麓には菩提寺の永泰寺があります。
ここにある吉弘氏歴代の墓は、吉弘綱重の孫までです。


所在地:大分県国東市武蔵町吉広 GPS軌跡ダウンロードページ
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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

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