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安岐城/大分県国東市

安岐城は、大分空港の近くにあった平城です。
訪問日は2022年12月31日です。

安岐城【写真位置】 大きな地図を表示

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安岐城は安岐の港を抑える要衝にありました。
今は空の港がありますが、そんな未来は予想しなかったでしょう。
城跡の案内は、本丸跡の城山天満社にあります。
ココだけ見ると小じんまりした城と勘違いします。
近所を散策すると、それなりに色々と残っています^^
安岐城【1】
【1】古城天満社の入口 上に戻る

地図で城跡と記されている場所です。
目立つ看板があり、迷わず辿り着けます。
ただ、駐車場はありません。
道幅が割と広いので、近くに路駐しました。
地方では割と普通の事なんですが・・・
都会暮らしに慣れると、ちょっとドキドキします。
安岐城【2】
【2】土塁上の参道 上に戻る

参道は、緩いカーブを描いています。
左右がなんか低いような・・・!
参道はそのまま土塁だったんです。
気が付いて見ると、結構分厚いです。
右側が主郭、左側が二郭です。
安岐城【図】
上の写真に写っている説明板の図です。
見掛けはとても綺麗でわかりやすい!
でも、いざこの図を見ながら歩くと???になります。
どうも現状の道と合わないような。
というのも、国道213号が描かれていません。
近くで一番大きな目印はどれ?と、無い物を探すからです。
東側にあるオレンジ色の櫓台の所を国道が通っています。
また、中心部分の道もありません。
そう気付いたのは、ウチに帰って地図と並べて見てから。
現地ではあれ?あれ?となりながらの散策となりました。
安岐城【3】
【3】西側の堀 上に戻る

土塁上から見た左側の堀です。
かなりの深さがあります。
しかしここからは下りられず。
民家の敷地を通らないと下りられないように見えます。
ならばせめてと撮った1枚です。
でも、実は近くで見る事が出来ます。
それは後程。
安岐城【4】
【4】古城天満社 上に戻る

土塁を辿ると、突き当りに神社があります。
神社なので高い所にあって当然!
・・・なんて、城キチ目線を忘れてはイケマセン。
土塁上にある高まりは櫓台!
しかも本丸の北西!
位置的には天守っぽいけど小さいかな?
なんて思い図を見ると「天守」と書かれていました^^
安岐城【5】
【5】堀跡 上に戻る

神社を出て、外側の痕跡を探索します。
図がよく分からないので、城キチの勘を頼ります。
確かこの辺に櫓台があったはず・・・
そう思った場所がココです。
細い窪みなので堀跡?と、とりあえず撮りです。
帰宅して何だ?何だ?とじっくり考察。
どうやら下池が道を横切った場所のようです。
下池は、下の写真の大きな水堀の跡です。
図にある櫓台は、この写真の右端にあったようです。
安岐城【6】
【6】下池 上に戻る

城跡の北東にある大きな低地があります。
ここが下池と呼ばれる水堀の跡です。
流石に大き過ぎて埋め立て切れなかったのでしょうか。
そのまま田んぼになったようです。
安岐城【7】
【7】土塁 上に戻る

国道の交差点を斜め左へ。
ここから西は、図の通りなのでわかります。
茶色で描かれた土塁がコレです。
道端にある土盛りは他に無いので。
ただ、図が無ければ気付かないと思います。
草木が深く、地形が全くわからないので。
安岐城【8】
【8】北西から見た下池 上に戻る

さっきとは正反対の位置から見た下池です。
わかりやすい遺構なので、つい撮りまくります。
これだけ大きな沼地なので、北側の守りは万全ですね!
安岐城【9】
【9】北虎口付近 上に戻る

北側の真ん中で、城内方向に入る道があります。
私は土塁に目が行き、堀を見ようと躍起でしたが。
現地で気付かなかったココが北虎口付近です。
地図では道が、それっぽく曲がっています。
何故気付かなかった、あの日の私・・・
安岐城【10】
【10】土塁 上に戻る

今度は道でぶった斬られた土塁です。
道の南側へ斜めに寄って来る感じです。
安岐城【11】
【11】堀 上に戻る

道端の土塁前に横たわる堀です。
形はハッキリしていますが、竹が絡んでいます。
ズンズン入って行きたかったのですが、無理でした。
安岐城【12】
【12】土塁 上に戻る

道で分断された土塁が、反対側に続いています。
とは行っても、この先がどうなってるのか?です。
図では、道の北側にも大きな北堀がありますので。
ということは、ここも城内ということに。
古城天満社からかなり離れているのですが。
安岐城は、思ってたよりも遥かに大きなお城だったようです。
安岐城【13】
【13】再び土塁 上に戻る

ちょっと進むと、再び道の左側に土塁が見えます。
土塁に沿って進んでみたかったのですが・・・
民家の敷地に入って行く感じで、表から見るのが精一杯。
というか、土塁も堀も藪に埋もれています。
ここら辺は雰囲気を感じるしかなさそうです。
安岐城【14】
【14】北西側の堀跡 上に戻る

もうちょっと西に進むと交差点があります。
ここでは道の南北を貫く堀跡が見られます。
道の北側には、曲がりながら東へ伸びる堀跡が。
この先が北堀と呼ばれる大きな堀に続いています。
図ではすぐ終わっちゃうように見えたのでこの先は見ず。
ほんの少しの距離なので、行って見ればよかったデス^^;
安岐城【15】
【15】道路脇から始まる堀跡 上に戻る

今度は交差点から南側に続く堀跡です。
こちらは埋められているものの、形がクッキリ。
こういう堀跡、イイですね(*´▽`*)
この堀が安岐城の西端部に当たるようです。
向こう側の家が、何となく櫓に見えてしまい・・・
つい往時の姿を想像してしまいます^^
安岐城【16】
【16】堀跡の角 上に戻る

道の南の堀は、少し進んだ所で左へ曲がります。
こういう形が残っているのもイイですね^^
曲がった先の堀は、図では南堀と書かれています。
割と長く描かれているのですが・・・
曲がって割とすぐに終わっています。
安岐城【17】
【17】古城天満社西側の堀跡 上に戻る

思いの外イイ物見ちゃった♪
なんて思いながら次へ向かおうと車へ。
そして神社の手前まで戻った時に!となりました。
神社手前で左に入る道の脇が・・・低い!
神社の土塁から見た堀が、ここから見えました。
奥へ行くほど幅が広くなって行きます。
見られないと思ってた堀が見られラッキ~♪
最後の最後でまた独りで盛り上がったのでした^^


◆歴史◆

応永年間に飯塚城主・田原親幸により築かれたとされます

応永年間は1394年〜1428年の間を指します。
この頃の豊後は、大友家が真っ二つに分裂していた時期です。
それでも当主は交互に継ぐという不思議な体制でしたが。
安岐城は飯塚城の支城として築かれたとされます。
当初は館があるだけの小規模な城でした。
田原親幸は1431年、大内軍との戦で筑前で戦死しています。
この年、大友持直・少弐満貞連合軍が大内盛見を討ち取っています。
ということは、田原親幸は大内持直に従っていた事になります。
田原宗家は大友家に反抗的だったとされますが・・・
分裂していた時期にどちらに属していたかがヒントになります。
大友義右・政親の争いで、大友親治は大友政親を支援しました。
ということは、田原氏は大友義右側だった可能性があります。
大友義右の生母は大内家出身でした。
父との争いでは、大内家の支援があったと考えられます。
その後の動向からも田原氏がコチラ寄りだったのでしょう。
その後の大友宗家に反抗的なのも納得行きます。
この頃当主だった田原親述は、大聖院宗心推しでした。
大聖院宗心は大内家に身を寄せ、大友家当主を狙う野心家でした。
田原親述は事あるごとに大友家に反抗。
大友家中最大勢力を誇ったため、大友家も対応に苦労したようです。
そして1543年、子の田原親宏が一時豊後を追放されました。
赦され豊後に復帰したのは、二階崩れの変後の1552年です。
大友家に復帰した田原親宏は、大友軍の主力として活躍。
秋月軍や毛利軍との戦で功を立てています。
しかし、大友宗麟は田原親宏を信頼していませんでした。
いきさつはわかりませんが、安岐城を没収。
田原宗家への対抗馬とした田原親賢に与えました。

1580年、大友軍に攻め落とされました

1578年、大友軍は島津軍に耳川の戦で大敗しました。
この時大友軍を指揮していたのが田原親賢でした。
そのため家中ではその責任を問う声が高まりました。
その機運に乗じ、田原親宏が安岐城の返還を強要。
大友宗麟は渋々応じますが、秋月氏と連携し続けました。
そのため大友宗麟はこれを謀反と断定。
田原親宏討伐のため出陣します。
当時の大友家中はグダグダで、田北紹鉄も謀反のため挙兵。
田原・田北両軍が府内を攻めれば陥落確実な状況でした。
しかし、その出陣直前に田原親宏が急死。
家督は長野家出身の養子・田原親貫が継ぎました。
大友宗麟に対する謀反は続行されました。
田原親貫は毛利水軍の支援を安岐城で受ける手筈でした。
しかし、毛利水軍は大友水軍の若林鎮興により撃退。
孤立無援となった安岐城は、1580年9月に落城します。
田原軍は鞍懸城で抵抗を続けましたが、翌月には落城。
以後、田原親貫の消息が不明となります。
田原宗家の名跡は、大友宗麟の子・親家が継ぎました。

1593年、熊谷直陳が城主となります

田原親家は大友義統の弟ですが、不仲でした。
大友家と不仲な田原宗家を継いだのは宿命でしょうか。
1586年に島津軍が北上すると、大友家を裏切り内通。
しかし事前にバレたようで、領地を没収されました。
諸兄のサイトでは、その辺が省かれています。
そのため1593年まで田原親家が城主のように書かれています。
大友家改易後は、熊谷直陳が安岐城主となりました。
熊谷直陳は豊臣秀吉の馬廻衆だった人物です。
出自は不詳ですが、若狭国の出身と考えられています。
金切裂指物使番を務めており、お気に入りだったようです。
※金切裂指物使番は金色の旗を背負い戦場で伝令を務めました
しかし、豊臣秀吉の死後に加藤清正・黒田長政らに訴えられ改易。
一時領地を失いました。
関ヶ原の戦が始まると、石田三成により安岐城主に復帰しました。

1600年、黒田軍に攻め落とされました

熊谷直陳は西軍に属し、自身は美濃の大垣城を守りました。
安岐城は、一族の熊谷外記に守らせました。
関ヶ原では東軍が勝利。
大垣城は東軍に包囲されました。
すると相良頼房・秋月種長・高橋元種らが裏切ります。
彼らは一緒に城を守っていた諸将の首を手土産に東軍に寝返りました。
一方、九州では黒田如水が西軍の諸城を攻略。
安岐城も黒田軍により攻め落とされました。
戦後、国東郡は細川家の小倉藩領となりました。
杵築城が支配拠点になったため、廃城になったものと思われます。


所在地:大分県国東市安岐町下原 GPS軌跡ダウンロードページ
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月隈城/大分県日田市

月隈城は、天領・日田の代官所の原型となった城です。
訪問日は2022年12月30日です。

月隈城【写真位置】 大きな地図を表示

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月隈城は通称で、正式には永山城、旧名が丸山城です。
日田には先に日隈城があり、対の存在と認識されたのでしょうか。
日隈城と月隈城は、それぞれが日田を支配する拠点でした。
この2つの城は、1601年~1639年まで併存していました。
両者が統合され天領となり、1639年に廃城となっています。
月隈城跡は現在、学校と公園になっています。
麓は市街地となりましたが、山上には石垣等の遺構が残っています。

城内にある説明板を表示 
月隈城【1】
【1】駐車場 上に戻る

割と大きな公園なので、駐車場があります。
城跡の東側で、堀を埋め立てた場所です。
普段開いてるのは午前9時~午後7時まで。
しかし12月28日~1月9日はずっと開放されています。
朝駆けでもよかった、というのは来てから分かった事。
日の出の遅い年末なので、大差無いですが。
月隈城【2】
【2】堀跡にある公園 上に戻る

駐車場の延長線上は、遊具のある公園です。
駐車場で使い切るには広すぎる堀跡だったんですね。
月隈城【3】
【3】水堀 上に戻る

南側は水堀が残っています。
幅が広いし深さは・・・たぶん!
隙間なく積まれた石垣が侵入者を阻みます。
月隈城【4】
【4】石橋 上に戻る

水堀の中央に、城内へ通じる石橋があります。
見た感じは往時のものが残されているようです。
手前に出っ張ってるのは枡形にするためでしょうか。
水堀がかなり狭いので、敵はここに押し寄せますね。
月隈城【5】
【5】南西端付近 上に戻る

水堀の南西端付近には、石段があります。
この石段も往時のものでしょうか?
脇の石垣だけ積み方が少し違います。
手前側の石垣が城らしくない気がします。
月隈城【6】
【6】西側の堀跡 上に戻る

西側の堀は埋め立てられて道になっています。
とは行っても、左側より道の方が高いようです。
道は犬走で、左側が堀だった?のでしょうか。
月隈城【7】
【7】南西端の石垣 上に戻る

見た感じ、それなりに年代を経た石垣です。
所々斜めに積んだ所もありますが・・・
往時のものですよね?
近代的な斜めの積み方の場合、綺麗に揃えてます。
やっぱり往時からの本物のようです。
月隈城【8】
【8】月隈神社の鳥居 上に戻る

真ん中にある石橋を渡ると鳥居があります。
左側が学校で、右側が公園、その真ん中が参道です。
何だかここを境目に分割された感じがします。
月隈城【9】
【9】参道 上に戻る

神社の参道ですが、直線ではありません。
直線的ではありますが。
これは、古代の墓穴に配慮したのでしょうか。
この写真でもいくつか見えています。
月隈城【10】
【10】墓穴と帰安碑 上に戻る

月隈神社前の岩壁には、沢山の墓穴があります。
1818年、代官・塩谷正義が城跡に神社を建立。
その整備中に横穴から、古い人骨と土器が出ました。
塩谷正義はこれらを山の下に改葬。
横穴付近に石碑を建てて弔いました。
碑文は咸宜園塾主・広瀬淡窓によるものです。
月隈城【11】
【11】曲輪 上に戻る

墓穴の前の道を左へ進んだ所です。
平らなのは、神社のせいではなさそうです。
道はココでヘアピンカーブとなります。
月隈城【13】
【13】月隈神社 上に戻る

下の曲輪から登った所に月隈神社があります。
麓の幟は水色だったのですが・・・
社殿の周りは紅い幟で囲まれています。
紅鳥居の列はありませんが、お稲荷様を祀っています。
商売繁盛の神様なので、城主様とは関係なさそうです。
月隈城【12】
【12】主郭の石垣 上に戻る

神社があるのは二郭で、奥に立派な石垣があります。
この石垣の上が主郭です。
まるい川原石メインの石垣はとても珍しいです。
それでも角の算木積みが豊織系らしいです。
遠江のあのお城の石垣は、角もまるい石なので。
月隈城【14】
【14】大手虎口 上に戻る

石垣の手前からはただの坂道に見えました。
しかし、足を踏み入れるとバッチリな虎口でした。
思わずカメラを構えますヾ(*´∀`*)ノ
月隈城【15】
【15】大手虎口 上に戻る

そして虎口なので、振り返り様にもう1枚!
直角なのに枡形でないのが渋いデス^^
月隈城【16】
【16】主郭 上に戻る

虎口を上がった石垣の上です。
とても広いです♪
主郭は細長く、下からは幅がわからず。
それで意表を衝かれた感じです。
月隈城【17】
【17】伝天守台 上に戻る

そして、一番奥が周りより高くなっています。
ここが天守台と伝わる場所です。
1601年築城なので、普通は建てた時期です。
と言っても、築城者が代官だった説も。
代官の城に天守を建てるか?という疑問もあります。
月隈城【18】
【18】伝天守台の石垣 上に戻る

ここの石垣もまるい石です。
隙間に小さな石を詰めてるのがヾ(*´∀`*)ノです。
でも野面積みが珍しい時期のような。
麓の堀とは石・積み方ともに違います。
1616年に来た城主様が改修したのでしょうか。
その辺がどうも?です。
月隈城【19】
【19】主郭の端から見たところ 上に戻る

主郭は細長く、虎口は手前寄りにあります。
端から端まで見ると、こんな感じになります。
下から形が分かりにくい、というのは防御的に大事なのかも。
月隈城【20】
【20】石垣からの眺め 上に戻る

最後に、虎口脇の石垣上からの眺めです。
日田の街並を一望することが出来ます。
殿様気分を味わうがいいです♪


◆歴史◆

1601年、小川光氏により築かれました

小川光氏は、小川祐忠の子です。
父と兄は、関ヶ原の戦で西軍に属しました。
小早川秀秋と同時期に東軍に寝返りましたが・・・
石田三成と親しかったらしく、改易されています。
次男の小川祐忠は、一柳直盛のとりなしで領地を得ました。
一柳直盛は、父の正室の弟に当たるそうです。
叔父と書かれていないのが?ですが。
日田は西軍に属した毛利高政が支配していました。
毛利高政は佐伯に移され、日田郡の蔵入地の代官となっています。
その日田に小川光氏も配属されました。
領主なのか代官なのかは、今でもわかっていません。
毛利氏は日隈城を拠点とし続けました。
そのため、小川光氏は古城を改修し月隈城としました。
築城には3年の歳月を要し、その間は別の城を拠点としました。
それが星隈城だったのか、岳林寺の裏山だったのか諸説あります。
小川光氏は城を丸山城と名付けました。
「月隈城」は通称です。

1616年、石川忠総が城主となります

1610年、小川光氏が没し無嗣断絶となりました。
普通ならそのまま別の家にとって代わられますが・・・
しばらくは一族の小川喜助と小川又右衛門が管理しました。
両名と小川光氏の続柄は不明ですが、父の従兄弟と伝わります。

その後、石川忠総が城主となりました。
石川忠総は大久保忠隣の次男です。
大久保忠隣は1614年に改易され、石川忠総は連座。
駿府での蟄居を命じられていました。
しかし、既に他家(石川家)を継いでいたことから赦免。
大坂の陣で功を立てたため、1万石加増されて入封しました。
城主となった石川忠総は、城を永山城と改名します。
城下町を花月川対岸の豆田町に改めたのも石川忠総です。

1639年、廃城となりました

1633年、石川忠総が下総佐倉へ移封となりました。
日田は中津藩の預かりとなります。
1639年、日田は天領となり、代官が派遣されました。
着任したのは小川藤左衛門と小川九左衛門の2名です。
彼らはそれそれ小川喜助と小川又右衛門の子です。
永山城は廃され、麓に日田陣屋が築かれました。
この時に日隈城も廃され、日田陣屋に統合されています。
1665年、日田騒動(農民一揆)により小川氏は家禄没収。
日田藩領は肥後藩預かりとなります。
1682年から4年間、松平直矩が藩主となった時期がありました。
しかし、再び天領となりそのまま明治時代を迎えています。


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坂本城/大分県日田市

坂本城も、日田八奉行の城でした。
訪問日は2022年12月30日です。

坂本城【写真位置】 大きな地図を表示

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坂本城は、別名・原城とも呼ばれます。
読みは「はるのじょう」「はるんじょう」など。
麦焼酎いいちこの蒸留所の南の山中にあります。
車は南東側入口前の空き地に停めました。
入口に説明板があり、真っすぐ城内に通じています。
城跡は部分的に外周に土塁が残っています。
坂本城【1】
【1】登城口 上に戻る

南東側の登城口です。
道に面した所にあります。
真新しい説明板が目印です。
坂本城【図】
【図】説明板の図 大きく表示

説明板に載っている図です。
とてもわかりやすいです。
しかし、訪問前にネットでは見つからず。
それぐらい新しいのかもしれませんが。
これを見ながらだったら、見落としは無かったかもです。
坂本城【2】
【2】奥へ続く道 上に戻る

登城口から城跡へ続く道です。
斜面に沿って細道が続きます。
右側の高い所が城跡です。
往時からこの道はあったのかどうか。
もしあれば、上から狙い撃ちされますね^^;
坂本城【3】
【3】主郭 上に戻る

あっという間ですが主郭です。
思っていたよりもかなり広いです。
山城なのでもっと草木があると思っていました。
これなら真夏でも散策出来そうです。
坂本城【4】
【4】土塁 上に戻る

上がって来たまま進むと、外周に沿って窪んでいます。
横堀というには浅く、帯曲輪でもなし。
地理院の地図では、この溝が道として描かれています。
このまま真っすぐ南西尾根に続きますが・・・
私はそこが虎口と気付きませんでした(汗)
坂本城【5】
【5】北西側の虎口 上に戻る

外周に沿って進むと、北西側に変化が見られます。
このザックリ外側に掘られた所が虎口です。
城跡への出入口は数箇所ありますが・・・
説明板の図で虎口と書かれているのは2か所だけです。
ここがその内の1つです。
もう1つはさっき見落とした南西です。
坂本城【6】
【6】北西側の虎口 上に戻る

とは言え、当日はここが虎口とは思わず。
とりあえず大きな変化があったので撮りまくりました。
図を見た後なので虎口として見ますが・・・
外に続く道がよくわかりません。
「山城あるある」なのかもしれませんが。
坂本城【7】
【7】土塁 上に戻る

北側にはハッキリとした土塁があります。
南東から見て来て、ようやく現れました。
坂本城【8】
【8】北東側の虎口 上に戻る

更に進むと、城外に出る道がありました。
虎口かと思ったのですが、あまりに真っすぐです。
ここが一番広い出入口ですが、図には何も書かれていません。
やっちまった系の後付け虎口のようです。
坂本城【9】
【9】堀 上に戻る

まぁでも、好奇心の塊はとりあえず進みます。
下りた先は、大きな堀になっていました。
坂本城【10】
【10】堀 上に戻る

反対側は、よりハッキリと堀切らしくなっています。
いつもなら「どれどれ」と見に行くのですが・・・
割とすぐの所で倒竹が絡まっています。
これが目に付いたので行きませんでした。
ちょっと右脇に避ければ奥まで行けそうですが。
現場の興奮状態では、そこまで見えていませんでした。
坂本城【11】
【11】東側の土塁 上に戻る

後付け虎口から戻り、外周巡りも大詰め。
土塁は大堀切に沿って付けられています。
東側の尾根付け根側に備えた造りのようです。


◆歴史◆

日田八奉行・坂本氏の城でした

日田八奉行ということで、城主様は大蔵一族です。
大蔵氏は、平安時代から日田一帯を治めた大領主です。
源平合戦を乗り越え戦国時代まで続きました。
しかし、1432年に家督争いにより本家は滅亡。
大友家から養子を迎えて復興しますが、1548年に再び滅びます。
そこで大友義鑑は、日田郡を統治するため6名を郡老を任命。
坂本伯耆守鑑次もその中の1人でした。
後に2名を加え、日田八奉行と呼ばれるようになります。
大蔵一族とされますが、坂本氏の出自はわかっていません。

日田八奉行の筆頭と考えられています

1549年、大友義鑑が日田八奉行の高瀬氏を討伐。
命令を受けたのは坂本伯耆守で、一族の坂本因幡守が討ち取りました。
坂本城が坂本因幡守の城みたく書く方もいますが・・・
坂本因幡守の城は、別にあります。
高瀬氏は坂本因幡守の城に呼ばれ、その間に高瀬城を攻められたのでした。
日田八奉行は、同じ大蔵一族の筈ですが・・・
財津氏を追放・復帰させたり、互いを討伐させたりしています。
大友氏は、日田衆が結束し力を持つのを恐れたのかもしれません。

坂本備中守が活躍します

1578年、耳川の戦で大友軍が島津軍に大敗。
すると、筑後の秋月氏が大友氏に叛旗を翻しました。
大友義鎮は最前線となった日田衆に秋月氏を攻めさせます。
この時に坂本備中守(道烈)と財津龍閑が活躍します。
1579年の『大友家文書録』では綱文に登場。
『大友興廃記』では侍大将と書かれています。
1589年に実施された指出検地では最初に登場。
知行田畠は176町9反と最多で、坂本姓の人物が他に20名程登場します。
坂本備中守は、朝鮮出兵にも出陣。
『豊後国諸侍着到』では日田郡衆の最初に登場します。

大友家改易後は佐伯に移りました

その朝鮮の役で、大友義統が敵前逃亡したとして改易。
日田郡は豊臣秀吉の蔵入地となりました。
大友家の日田奉行は、それぞれの道を歩みます。
坂本氏は、日田の代官となった毛利高政に仕えます。
毛利高政は1596年には佐伯の代官も兼任。
1601年には佐伯に移り、佐伯藩を立藩します。
時期はわかりませんが、坂本氏は佐伯藩の家老となります。
佐伯は国木田独歩が有名ですが、下宿していたのが坂本邸でした。
坂本家の屋敷は現在、国木田独歩館となっています。


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蕪山城/大分県日田市

蕪山城は、日田八奉行・石松氏の城でした。
訪問日は2022年12月30日です。

蕪山城【位置】 大きな地図を表示

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蕪山城は、蕪谷川沿いの丘陵上にありました。
日田八奉行・石松氏の城のため、石松城とも呼ばれます。
城域は南北に長く、南麓から尾根に沿って登城します。
主郭は土塁と横堀に囲まれています。
北側はゴルフ場開発に伴って消滅しています。
蕪山城【1】
【1】登城口にある案内 上に戻る

南麓の登城口にある案内です。
ここから城内へ道が通じています。
蕪山城【2】
【2】駐車出来ます 上に戻る

登城口の前は路肩が広く、車を停められます^^
蕪山城【3】
【3】道沿いの土盛り 上に戻る

登城口からは道沿いに土が盛られています。
はじめは右側で、暫く登ると左側になります。
だいぶ登ると、土盛りが段になります。
曲輪のようになっていて、城跡に着いたのかと錯覚します。
知らなければ、勘違いしたまま帰ったかもしれません。
蕪山城【4】
【4】掘られた道 上に戻る

しかし、奥へ進むと山中に通じる道が。
わざわざ掘られた道が続きます。
この道を見て城キチセンサーが反応。
奥に何があるのか確かめねばと進みます。
蕪山城【5】
【5】主郭の虎口 説明板を表示  上に戻る

すると、奥に白い板が見えました。
期待させておいて「山火事注意」だとガッカリですが・・・
ココの城についての説明板でした。
しかも、縄張図付きの超豪華なヤツです♪
事前のリサーチではこの説明板は見つからず。
説明板の日付は令和3年1月でした。
まだ新しいデスヾ(*´∀`*)ノ
蕪山城【6】
【6】横堀 上に戻る

説明板は主郭の虎口にあります。
その目の前には、土橋付の横堀が横たわっています。
まずは右側♪
蕪山城【7】
【7】横堀 上に戻る

そして左側も♪
尾根を横一文字にぶった斬っています。
本当はもっとずっと深かったのかもしれませんが。
蕪山城【8】
【8】土塁 上に戻る

主郭はこんな感じの土塁で囲まれています。
往時はこの上に柵か塀があったのかもですが。
蕪山城【9】
【9】主郭を囲む横堀 上に戻る

主郭は西側の造りが凝っています。
土塁は高く、堀は深くなっています。
蕪山城【10】
【10】虎口 上に戻る

造りが凝っていのは、虎口があるからのようです。
パッと見る細い堀切のように見えますが・・・
西側の虎口を上から見るとこんな感じです。
深い横堀から、真っすぐ主郭に入ってきます。
蕪山城【11】
【11】虎口 上に戻る

内側から見るとこんな感じです。
南側の虎口は、真正面から直角です。
でも、ここのは斜めに真っすぐです。
もしかしたら隠し虎口だったのかも。
寄手を正面の虎口に釘付けにして、ここから奇襲!
・・・なんて、妄想が止まりません^^;iv>
蕪山城【12】
【12】土塁 上に戻る

土塁は続くよ、どこまでも♪
ここは歩きやすいので、足取りも軽いです♪
蕪山城【13】
【13】北東端の土塁 上に戻る

時計回りに外周を辿り北東端へ。
ここには虎口と堀切がある筈ですから♪
上から見ると、土塁が美しいカーブを描いています^^
蕪山城【14】
【14】北東側の堀切 上に戻る

北東端にある堀切です。
堀切、だと思います。
南側の横堀より浅いですが・・・
虎口もちょっと不明瞭だったかもしれません。
蕪山城【15】
【15】曲輪2 上に戻る

帰りに見た主郭南側の平坦地です。
説明板の図で「曲輪2」と書かれている場所です。
実は取り敢えず撮りだったのですが・・・
城跡でも遺構だったり遺構じゃなかったり。
まだまだ私もヒヨッコだという事デスネ!


◆歴史◆

大蔵一族・石松氏の城でした

石松氏は、大蔵氏の一族です。
色々ググってみましたが、それ以外あまり出ず。
詳しいことはよくわからず^^;
ネットで出て来たのは
・石松氏は日田永徳流
・石松姓の起源の1つ
・日田郡老、のち日田八奉行
といった事だけです。

日田永徳は、大蔵姓日田氏が滅びる前の当主です。
日田永徳の子が没し、孫と次男が争って滅びました。
石松氏の祖先は、彼らの兄弟だったのかもしれません。


所在地:大分県日田市西有田 GPS軌跡ダウンロードページ
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大蔵古城/大分県日田市

大蔵古城は、日田氏の城でした。
訪問日は2022年12月30日です。

大蔵古城【写真位置】 大きな地図を表示

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別名は日田城、高城、鷹城など。
長く日田を支配した大蔵氏(日田氏)の城でした。
慈眼山公園の一部ですが、城跡の大部分は山林となっています。
高城から東側に曲輪が連なり、大手は東側だったと思われます。
現状は南西の石段から細尾根を通り、城跡へアクセスします。
大蔵古城【1】
【1】川沿いにある駐車場 上に戻る

西側の花月川沿いに車を停められます。
この川は2012年の九州北部豪雨で氾濫しました。
その対策として河川改修が行われました。
ここもその時に整備されました。
城跡から近いので、安心して停められます。
大蔵古城【2】
【2】永興寺の石段 上に戻る

登城口となる石段です。
斜面を一直線に登ります。
こんな感じなので、往時は無かったでしょう。
とは言え、山城へアクセス出来るのは有難いことです。
大蔵古城【3】
【3】鐘撞堂 上に戻る

石段の上に永興寺があります。
城域内であれば、物見といった感じの場所です。
ここから日田市内を一望出来ます。
大蔵古城【4】
【4】上がる場所 上に戻る

お寺の背後の尾根とは段差があります。
写真では見えませんが、右奥のここに階段があります。
もしかしたら、往時からの隠し通路かもしれません^^
大蔵古城【5】
【5】郡代塩谷の碑 上に戻る

階段を上がってからは細尾根となります。
割と平坦で、普段見て回る山城サイズ位はあります。
予備知識無しで「ここが主郭だよ」と言われたら信じたかもデス。
「郡代塩谷」は、江戸時代後期の日田代官・塩谷正義です。
天領・日田の代官として善政を敷き、こうして石碑が建てられています。
昨年夏休みに訪ねた久美浜(丹後国)の代官も務めた人物でした!
大蔵古城【6】
【6】平坦面 上に戻る

石碑の背後には、ちょっとした平坦面があります。
ここが城の何だったのかがわかりません。
上から見ると平らに見えますが、削平は甘いです。
もしかしたら、お寺の跡なのかもしれません。
大蔵古城【7】
【7】堀切 上に戻る

北側は土塁状に高くなっていて、こんな窪みもあります。
細尾根なので、ここを断ち切っていてもおかしくありません。
すぐ脇にさっきのがあるので、簡単に通れてしまいますが。
大蔵古城【8】
【8】物見台的な場所 上に戻る

左脇の土塁状の中に、ひと際高い場所があります。
西側に飛び出す感じになっており、物見台かもしれません。
今は木々に覆われ、周囲は全く見えませんが。
大蔵古城【9】
【9】段になった平坦地 上に戻る

少し高い場所なので振り返ると、こんな感じです。
さっきの削平が甘い平坦地が段々に連なっています。
城の施設でないなら、完全にお寺の跡ということになります。
それにしてはかなりの規模ですが。
大蔵古城【10】
【10】高城の切岸 上に戻る

再び細尾根を進むと、目の前に高台が現れます。
この高台の上が、大蔵古城の主郭(高城)です。
城キチ的には登れない高さではありませんが・・・
大蔵古城【11】
【11】高城(主郭2)に上がる所 上に戻る

もう少し進むと、普通に上がれる場所があります。
とは言え、これも往時のものではなさそう。
でも、往時のものかもしれません。
虎口的な感じではないので迷います。
上の端に柵ぐらいあったでしょうし・・・
横から防ぎやすい上がり口だったのかも^^;
大蔵古城【12】
【12】高城(主郭2) 上に戻る

ここが主郭2と位置付けられる高城です。
上がった所から、細長く3段になっています。
大蔵古城【13】
【13】高城(主郭2)から見た古城(主郭1) 上に戻る

高城の右下には、かなり広大な平坦地が見えます。
これが古城(主郭1)と呼ばれる曲輪です。
高城とは高低差があり、直接下りられません。
写真ではそんな風には見えませんが^^;
大蔵古城【14】
【14】高城(主郭2) 上に戻る

高城の最上段です。
南北に細長い平坦地です。
南西には低い土塁があり、その外側は断崖となっています。
北端には、一段低く小さな平場があります。
何かを隠すような感じの場所に感じられました。
大蔵古城【15】
【15】古城(主郭1) 上に戻る

高城から見えてしまった古城。
見えてしまったからには寄らずには気が済みません。
直接下りるのはキツそうなので、回り込みました。
高城に上がった辺りは下が犬走りっぽい感じになっています。
そこを上がったり下がったりを繰り返して辿り着きました。
行ってみると、上から見た以上にとても広い場所でした。
大蔵古城【16】
【16】虎口っぽい所 上に戻る

とても広いので、外周をトレース。
藪や倒木で端を歩けない場所も多々ありました。
それでもなるべく端を歩くと、下に道っぽいものが。
東端のココは、上から見ると虎口に見えます。
今思えば下りて見て来れば良かったのですが・・・
黒なぽさんは、こんな時だけ面倒臭がりです。
大蔵古城【17】
【17】虎口っぽい所 上に戻る

南東の下りて来た方は、自然の為すが儘です。
木々が思い思いに茂り、行く手と視界を遮ります。
そんな中、地形に人工的なものを感じる場所が。
ここも虎口だったのかもしれません。
大蔵古城【18】
【18】南東側斜面 上に戻る

高城から古城へは、こんな感じの所を進みました。
写真は整った場所のように見えますが・・・
実際は木々に埋もれ、突然行き止まりに。
そんなこんなで上がったり下がったりの繰り返し。
行きに目印付けなかったので、帰りに迷いました^^;
何となく方向はわかるものの、戻るツテがサッパリわからず。
プチ遭難♪なんて、ちょっとワクワクしちゃいました。

◆歴史◆

大蔵氏(日田氏)の城でした

日田氏は、851年に日田郡司職となった大蔵永弘を祖とします。
とはいえ謎多き人物で、出自は諸説あります。
さらに計算上では200年以上生きたことになり・・・
伝承の人物扱いとなっています。
史料上で実在が確かなのは大蔵永季以降です。
相撲の名手で「相撲節会」では10回出場し無敗でした。
大蔵永季を祀る日田神社は、相撲の神として祀られています。
大蔵系日田氏による日田郡司職は、室町時代まで続きます。

1444年、大蔵系日田氏が滅びます
大蔵古城【関係図】
日田永秀の死後、家督争いが起きました。
その経緯が諸説ありよくわかりません。
【諸説①】
日田永秀死去
→日田永包が家督を継ぐ
→追放されていた日田永好が日田永包を暗殺
→日田永好が逃亡先の美濃で殺害される
【諸説②】
日田永秀死去
→幼主・七郎丸の家督相続に反対した日田永好が成敗される
→日田永好の家臣が七郎丸を暗殺
といった感じで、どっちがどっちを殺したのか?です
とは言え、両名とも世を去り日田氏が断絶。
日田氏の娘を娶っていた大友親満が日田家を継承します。
ここから、日田氏は大友氏系となります。
しかし、大友家からは独立した存在でした。

1548年、大友系日田氏が滅びます

日田永世は後継ぎが生まれず、大友親常を養子に迎えました。
大友親常は大友親繁の子で、日田永世の甥にあたります。
日田親常は子の親有に家督を継がせます。
大友宗家で大友政親・義右父子が争いました。
両者の争いには、宿敵・大内氏も介入しました。
両者死亡により、大友政親の弟・親治が当主となります。
大友親治は、家中の不穏分子を粛清しました。
日田親有はこの時、暗殺されたとも討死したとも伝わります。
断絶した日田家は、大友親明の子・親賢が継ぎました。
こんな感じで、日田氏は完全に大友氏の一族となっています。
次の代の日田親将は、悪政のため日田郡士らと対立します。
そのため1548年、大友義鑑は日田親将を解任し自害させました。

以後、財津氏、坂本氏ら大蔵系日田氏の一族の6名が郡老に任命。
後に2名追加され、日田八奉行により日田郡は統治されます。
日田親将の子・日田親永は、成人後に大友義統に仕え朝鮮で戦死。
日田親永の子は財津氏に育てられ、ともに肥後細川家に仕えました。


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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

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