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宇部館/岩手県久慈市

岩手県のラストは宇部館です。
訪問日は2017年5月5日です。

宇部館【1】

宇部館には駐車場がありませんが、近所にイイ所あります合格

宇部館【2】

有名な人の生誕地で、大きな銀杏の木が有名!なんだそうです。
私はあんまり興味はありませんが、利用させて頂きました。

宇部館【3】

駐車場から橋を渡ってすぐ反対側の奥が宇部館跡です。
そう書きつつ、手前の住宅街は江戸時代の代官所跡だったりします。

宇部館【4】

登城口にある石碑の文字は、久慈市長による揮毫でした。
南部藩の代官所は、九戸郡22ヶ村を管轄した野田通代官所です。
その隣にある白い板は、宇部館についての説明板です。

宇部館【5】

字がいっぱい書かれています。
私のブログよりもきっと中身が濃ゆいと思います(´艸`;)

宇部館【6】

入口の坂道を上がったら、一気に細長い平坦面に出ました。
この平坦な曲輪が一番奥まで続くので1つの曲輪かと思いましたが・・・
発掘調査の報告書を拝見したら、4つか5つに分かれていました。
間に堀か土塁があった筈ですが、今ではわからなくなっています。

宇部館【7】

虎口っぽい所から振り返ってみました。
眺めはとても良さそうです。
宇部氏はこちら側を見張る必要がありましたので。

宇部館【8】

一番奥にあるのが八幡神社です。
そのため、八幡館とも呼ばれるそうです。

宇部館【9】

八幡神社の背後は、バックリ土がむき出しになっていました。
何か工事してるのかと思えばそうでもなし。
城跡の背後だけこうなっていました。

宇部館【10】

工事なら崩しそうな土塁と虎口が、よくわかる形で残されています。
実はこれ、道路工事の前段階の発掘調査の跡でした。
2020年度の末に、三陸沿岸道路がココに開通する予定です。
「2020年撮影」の航空写真ではまだ残っていますが・・・
新型コロナの影響で遅れているとはいえ、そう長くはないと思います。

宇部館【11】

主郭裏にある大きな堀切は二重堀です。
2つの堀切を隔てる土塁があり、その真ん中が低くなっています。
堀の深さや構造から、これは15世紀終盤に掘られたものらしいです。

宇部館【12】

堀切の城側は、高く鋭くなっています。
堀切の反対側が発掘されているのは、そっち側に遺跡があるからです。
北ノ越遺跡と呼ばれ、平安時代の建物跡も見つかっています。
発掘調査は2014年に行われ、写真ではもっと深く掘られていました。
どうせ道が出来るからと、風雨に晒されているのかもしれません。


◆歴史◆

宇部氏の城として築かれました。

宇部氏は出自不詳ですが、平清盛嫡男の御落胤の子孫だとしています。
その根拠が江戸時代に書かれた家系図で、通字が「盛」の字です。
真偽の程は┐(´∀`)┌???なので、ツッコミようがありません。
その家系図通りとして、宇部氏の歴史は鎌倉時代初期まで遡ります。
「盛」の通字は5代続き、室町時代になった所で途切れます。

野田氏と争ったと考えられます。

野田は宇部の南に位置し、野田氏が本拠としました。
野田氏は蜷川新右衛門親正を祖とすると自称しています。
蜷川新右衛門って、一休さんに登場する武士ですねw
実際は一戸氏の支族と考えられており、代々野田を支配していました。
宇部氏は1400年代に野田氏と対立し、一時野田姓を名乗りました。
「野田」は野田荘の盟主と表す名であり、隆盛を誇ったものと思われます。

永正年間(1504-21)に野田氏の居城となりました。

南部義親が野田清政を破り、野田氏が従属するようになりました。
この時に野田清政は宇部姓に復姓し、宇部館を退去しました。
代わって南部義親が居城とするようになります。
尚、それまでの南部氏の居城は野田古館と呼ばれるようになります。

1592年、廃城となります。

1591年の九戸政実の乱で、野田氏は南部信直に味方しました。
そのため、北隣の九戸方・久慈氏と対立しています。
乱の鎮圧後、野田家臣の宇部氏が、久慈氏残党を討ち取っています。
翌年、豊臣秀吉の命令により、南部家中の城が多数破却されました。
その中に宇部館も含まれており、「野田城」として廃城にされています。
江戸時代、宇部館の麓に盛岡藩の野田通代官所が置かれました。


所在地:岩手県久慈市宇部町字十三塚 GPSログダウンロードページ

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久慈城/岩手県久慈市

久慈城は、藪化一歩手前だったのが印象的だったお城です。
訪問日は2017年5月5日です。

久慈城【1】

久慈城跡には迷わず辿り着きました。
駐車場真正面の道端に、とてもきれいな案内図があります合格

久慈城【2】
拡大表示

案内図の中の、城跡部分だけにクローズアップしてみました。
こうして見ると、独立丘陵っぽい舌状台地を堀切で切り離しています。

久慈城【21】

訪問時に印刷して持ち歩いていた図です。
私のメモ、同じ言葉がヤケに目立ちますあせる

久慈城【3】

案内図からすぐの所に、馬場跡の標柱があります。
馬場なので「細長い平坦地が伸びてるんだろな」というイメージです。

久慈城【4】

これが、その馬場跡ですクローバー

久慈城【5】

馬場脇には、城内へ上がる階段があります。
この感じは、廃城後に出来た道ですね。

久慈城【6】

階段を上がってすぐの所に天王社があります。

久慈城【7】

神社の右側には、そこそこ広い平坦地が広がっています。
図を持っていなければこちらへ進みたくなりますが・・・

久慈城【8】

神社の左側に、後付け感たっぷりなコンクリートブロックの列が。
往時の通路ではなさそうですが、クローバーが密なのでこちらへ進みました。

久慈城【9】

山道を登ると、轍のある道に出ました。
右に進むべきか、左に進むべきか。
その場には案内が無いので、図が無ければ迷っていました。
ここでは右へ進むのが正解です。
(左へ進むと最初の車道に出ます)

久慈城【10】

道を右へ進んだ先に、大きな平坦地がありました。
そこには、崩れた茅葺屋根の四阿があります。
ここが、案内図に赤い印のある三郭です。

久慈城【11】

すぐ隣には二郭の城塁があり、5メートル程の高低差があります。
どこから登ろう?という感じですが、この写真の所から登っています。

久慈城【12】

登った所が二郭で、ここにも建造物がありました。
誰か出て来たらどうしよう?なんて、ちょっとだけ怯えていました。
でも、大丈夫!
私が訪ねた時には誰も居ませんでした(*´▽`*)

久慈城【13】

二郭と主郭も段差があります。
こちらは2メートル程です。
ここも笹に囲まれているので、どこからでも同じ~
ということで、ここから直登ですw

久慈城【14】

主郭です。
ここには建造物はありませんでした。

久慈城【15】

さんざん笹藪を掻き分けたのですが、久慈城はまだまだ終わりません。
だって、案内図では奥にイイモン描かれていました。
主郭からそっち方向へ進んでみたらありましたラブラブ
私は標柱無くてもわかります^^

久慈城【16】

反対側から見ると、段差が歴然としています。
こっちらから近づいて欲しくないオーラが全開です。

久慈城【17】

堀切の向こう側にも、細長い曲輪があります。
なんとなくですが、こちらの方が笹が若干薄い気がします。

久慈城【18】

曲輪の先端には、天王社と同じくらいの規模の神社がありました。
雪国なので、山中の神社はこれくらいがメンテナンスしやすそうです。

久慈城【19】

神社の近くから、下りていく道があります。
ここも堀切っぽい雰囲気があります。

久慈城【20】

参道は下の舗装道に続いています。
見上げると、やっぱり真っすぐでした。
鳥居を見て、はじめて稲荷神社だと知りましたw


◆歴史◆

久慈氏の居城でした。

別名は新町館、八日館とも呼ばれ、南部一族の久慈氏の居城でした。
築城年は不詳ですが、11代目の久慈信実が築いたと考えられています。
久慈信実は南部家当主・南部時政の次男で、久慈家の養子となりました。
南部時政は1410年生まれ1473年没なので、その間だと思います。
津軽地方を席捲した津軽為信は、この久慈家出身とする説が濃厚です。
久慈信実の玄孫に当たり、大浦家の養子となっています。
大浦為信は南部晴政と対立した石川高信を攻め、勢力を拡大しています。
戦国時代には九戸政実の弟が久慈家を継ぎ、久慈政則となりました。

1592年、廃城となりました。

1591年の九戸政実の乱では、久慈政則は兄に味方しました。
そのため乱鎮圧後に捕らえられ、兄とともに処刑されています。
養父の弟・久慈治光は病と称し出陣せず、南部家に仕えました。
孫の代からは、領地の摂待姓を名乗るようになります。
久慈城は南部信直の直轄となります。

翌年、豊臣秀吉の命令により、南部領内の多くの城が破却されました。
その中に久慈城も含まれており、その代官を久慈治興が務めています。
ググった中では、久慈政則や久慈治光との関係が?でしたあせる
摂待氏が「治」を通字としており、そっち系統の人物かもしれません。


所在地:岩手県久慈市大川目町字新町 GPSログダウンロードページ

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江刺家館/岩手県九戸村

江刺家館は、大規模な馬蹄形の二重堀が残っています。
訪問日は2017年5月5日です。

江刺家館【1】

ここが堀の入口です。
公道に面しているのはココだけです。
車はこの先にある少しだけ路肩の広い所に停めました。
入口は「知る人ぞ知る」的な感じがします。
私も諸兄に倣ってここから入りましたが・・・
某大聖典では、南東から入る道と枡形虎口が描かれています。
事前に見ておくべきでしたあせるあせるあせる
ストビューでは、住宅街から入る細い道が写っています。

江刺家館【2】

入口はわかりづらかったのですが、一歩踏み込むとこうなっていますラブラブ

江刺家館【3】

足元には白い花がたくさん咲いていました。
普段あまり見かけない花だったので撮影。
3年以上経った今日、アプリで調べたらミヤマエンレイソウでした。
延齢草と書くので体に良さげですが、素人服用は厳禁。
胃腸薬に利用されますが、量を誤ると毒になります( ゚Д゚)

江刺家館【4】

堀底から見上げた城塁です。
道無き山城ばかり巡っていると、すぐに登れそうな高さです。
でも、それではお城の構造がわからないので堀底を進みました。

江刺家館【5】

少し進むと、左側の土の壁が開いています。
二重堀なので、真ん中を土塁で区切っています。
その土塁が数か所、こんな感じで開けられています。
往時からなのか、廃城後なのかは?です。
ここからは内側の堀を進みました。

江刺家館【6】

外側の堀底からは土塁は壁でしたが、内側からは低い土塁でした。
こんな感じでお城の外周を囲んでいます。

江刺家館【7】

だいぶ進むと、堀の右側が明るくなりました。
ここでは堀が少し破壊され、外側の農道とつながっていました。

江刺家館【8】

農道に出る所で堀はカーブし、西側を南北に走っています。
こちら側も城塁は高く、守りは厳重になっています。

江刺家館【9】

さらに先でカーブし、今度は南側を西から東へ。
こちら側は堀の外とあまり高低差はなく、グラウンドが間近に見えました。
このグラウンドは隣接する小学校のものです。

江刺家館【10】

堀はまだまだ東へと続きますが、この辺りから下草が濃くなります。
藪が苦手な?私は辺りを見回し・・・

江刺家館【11】

道ハッケソヾ(*∀*)ノ
そう重いコンダラ、行動に移すのは早いです。

江刺家館【12】

上の曲輪内部は、全面畑となっています。
航空写真で見た通りです。

江刺家館【13】

外周には1メートル程の土塁が残っていました。
畑の中には入れないので、土塁上を少しだけ散策。

江刺家館【14】

堀の北西の角を上から見下ろした所です。
上から見てもかなり深い堀でした。


◆歴史◆

九戸氏一族・江刺家氏の城と考えられています。

築城時期や城主は不明です。
九戸一族に江刺家(えさしか)氏がおり、その居城と考えられています。
小軽米氏からの派生説もありますが、小軽米氏も九戸氏の一族です。
1591年の九戸政実の乱では、江刺家一照斎が九戸城に籠城しています。
1600年に南部信直が出羽へ出陣した際は、江刺家瀬兵衛が登場します。

城跡の南東にある長徳寺は、九戸家の菩提寺・長興寺の末寺です。
長徳寺の情報がネットでは出てきませんが、長興寺は1504年開基です。
長興寺は九戸政実の父・信仲が開基したとされますが・・・
1589年まで存命しており、その85年前というのはちょっと不自然ですあせる
年数的にはその3、4代前の開基と見るのが自然かもしれません。

長興寺は九戸氏の居城・大名館の近くにありました。
その末寺があるので、身分の高い九戸家臣の城だったと思われます。


所在地:岩手県九戸郡九戸村江刺家字江刺家 GPSログダウンロードページ

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四戸城/岩手県二戸市

四戸城は、南部氏が九戸氏に備えて築いた城とされます。
訪問日は2017年5月5日です。

四戸城【1】

四戸城は上館・中館・下館から構成され、金田一城とも呼ばれます。
地名が金田一で、上館の城主が四戸氏でした。
城キチ以外が見ても城跡と認識されているのが上館のようです。

四戸城【2】

入口が駐車場っぽかったので車を停め、歩いて城内へ。
ここが虎口っぽいですが、そうじゃないかもしれません。

四戸城【3】

内部は広大な平坦地で、左側が墓地になっています。
そこにも広い駐車場があります。
あちこち歩き回るので、私はさっきの場所の方が都合がイイ!
・・・と、負け惜しみを言ってみたりします。

四戸城【4】

駐車場脇に、大きな石と四戸城跡のプレートがあります。
四戸城についての標示は、これだけです。
大きな石はベコ石と呼ばれていますが、由緒などは不明です。

四戸城【5】

四戸城の構造は、河岸段丘を堀で分断した崖端城的な感じです。
堀は北から西側にかけてあります。

四戸城【6】

そっち方向の道を進むとありましたラブラブ
かなり大きな堀です。

四戸城【7】

道は堀の手前で左へ折れ、堀側に一部土塁が残っています。

四戸城【8】

深さは3メートル程で、歩けそうなので北側へ進んでみました。

四戸城【9】

城跡の北西に高校があり、どうやら堀跡が抜け道になっているようです。

四戸城【10】

堀は大きく右へ曲がり、道に出ました。
ここで右へ曲がると、元の上館内部に戻れます。

四戸城【11】

元の場所に戻り、今度は堀を南側へ進みました。
堀底はご覧のとおりのため、道を通って堀沿いに進みました。

四戸城【12】

堀の入口は草木で塞がっていたものの、上から見るとこんな感じです。
入口だけ気合を入れて突破すれば、そのまま進めたかもしれません。

四戸城【13】

しかし、すぐに堀底へ下りられる所がありました^^
堀の南側は幅が広く、深さもかなりあります。

四戸城【14】

堀は南側の斜面で終わりますが、そのまま下まで道が続いていました。

四戸城【15】

南側は断崖になっており、すっと城内へは戻れず。
そのまま城の外周に沿って道を進みました。

四戸城【16】

そのうち住宅が増えて、道が城跡から遠ざかりました。
あぁ城が遠くなると思ったら、まっすぐ城内へ延びる道発見(*´▽`*)
その先にあるのが長寿寺です。

四戸城【17】

お寺は城跡の東側の腰曲輪っぽい所にあります。

四戸城【18】

境内から見る城外は、一軒家を見下ろす高さです。

四戸城【19】

境内から、元のベコ石の所に戻ることが出来ました^^

四戸城【20】

続いて中館と下館も見てきました。
上館と中館の間を通る道です。
これ、やっぱり堀跡ですよね?
多数決でそういうことに(`・ω・´)

四戸城【21】

中館の高い所は公園となっています。
他に上がれる所が無かったので、ここが虎口跡だと思います。

四戸城【22】

内部は遊具もある普通の公園ですが、端には一部土塁が残っています。
これが見られただけでも、上がってみて良かったです^^

四戸城【23】

中館から下館へと向かう道です。
公園は中館の一部分で、北へ向かって細長く伸びています。

四戸城【24】

最後に訪ねた下館です。
堀に囲まれた南西側に、往時からのものっぽい入口がラブラブ

四戸城【25】

グネッと曲がって上がると、内部は墓地となっていました。
とりあえず、3つの曲輪ともに自由に出入り出来ました。

四戸城【26】

西側は大して高低差がありませんでしたが、反対側はこうです。
まっすぐな階段なので、これは近世付けられた道のようです。

四戸城【27】

下館の北端部分です。
ちゃんと堀で区切られていたようです。
脇の白い板は、城跡によくある急傾斜地崩壊危険個所の図です。
なんだ縄張図じゃないんだとスルーしましたが・・・
何もなかったので、これを撮っておけば良かったと今は思いますあせる


◆歴史◆

築城年代は不明です。

四戸城は上館・中館・下館の3つの曲輪で構成されています。
それぞれに城主が居て、一番規模の大きい上館の城主が四戸氏でした。
中館は切田氏、下館は金田一氏が城主で、いずれも四戸氏の一族です。
連郭式のお城で曲輪ごとに城主、というのも不自然な感じがします。
軍事的拠点として、常設の陣のような位置づけだったのかもしれません。

四戸氏は南部氏の祖・南部光行の四男・宗朝を祖とします。
その名の通り四戸の地を与えられたのですが・・・
現在、四戸という地名はありません。
未確定ですが、三戸と五戸の間の浅水が四戸だったと考えられています。

四戸城主が城を出て秋田へ

1573年、九戸政実が三戸南部家に謀反を起こしました。
...と諸々のお兄様達は書かれています。
この時に四戸宗春も九戸家に同調していると、弟が南部家に通報。
そのため、四戸宗春は城を脱し、秋田へ逃れて同地で没したとされます。
四戸家は九戸家とは婚姻関係にあり、正室は九戸政実の叔母でした。
また、妹は九戸政実に嫁いでいます。
そのまま九戸政実と行動を共にしても良かったのでは?なんて思います。

よく似た話が、子の四戸宗長にもあります。
時期は九戸政実の乱の1591年で、こっちの方がリアルな気がします。
1573年の九戸政実は、南部晴政とラブラブでしたので。
この仲の良さが、後の南部信直との家督争いへの導火線となっています。

1592年、廃城となりました。

九戸政実の乱では、四戸城は南部方の拠点でした。
乱終結後は、南部家臣・武田彦三郎が城主となり金田一姓に改姓。
武田氏も元は四戸氏の一族でした。
元々別流の金田一氏が下館の城主としていましたが、関係は?ですあせる
城の名前も金田一城に変えましたが、翌年廃城となりました。


所在地:岩手県二戸市金田一字館 GPSログダウンロードページ

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一戸城/岩手県一戸町

一戸城は、国道沿いにあった連郭式のお城でした。
訪問日は2017年5月5日です。

一戸城【1】

城跡は公園になっており、駐車場が整備されています。
その入口がココです。
ウチの近所も通っている国道4号沿いです。
一応案内は出ていますが、文字より風景覚えた方が早いですw

一戸城【2】

その文字です。
気持ちのイイ直線なので、よく気を付けないと見落とします。

一戸城【3】

駐車場は腰曲輪っぽく、公園には一段上がります。
入り方が緩く、ここは元々は通路じゃなかったかもしれません。
それでも一応、贔屓目に見れば上からは攻撃しやすい感じです('Д')

一戸城【4】

公園内の様子です。
ハイ、平らですw
言われなければ城跡とは気付かないレベルです。

一戸城【5】

駐車場から公園じゃない側を見た所です。
2番目の写真の奥への道は、そのまま堀跡を通っています。
向こう側の方が高く、主郭だったと思われます。

一戸城【7】

道を下った所で堀が分岐しています。
道ではなく堀が分岐しています。
城キチとしては、そこは譲りません(`・ω・´)

一戸城【8】

そして、おそらくココが一番の見所ですラブラブ

一戸城【9】

周囲の曲輪は、こんな感じで何となく名残があるだけです。
ちょっと高くなっただけで、実は近世に盛られたのかもしれませんが・・・

一戸城【10】

それでも、主郭周辺では所々こうやって高くなった地形が見られます。


◆歴史◆

一戸氏の居城でした。

一戸氏は、南部氏の祖・南部光行の長庶子・一戸行朝を祖とします。
兄弟は三戸南部氏、八戸南部氏、九戸氏らの祖となっています。
「一」という数字に、何となくですが親の愛を感じますラブラブ
一戸行朝は野田城を居城とし、子の一戸義実が一戸城を築きました。
その時期は鎌倉時代の建長年間(1249-56)と考えられています。
多くの分家を擁した大家でしたが、事跡は不詳ですあせる

1581年、城主・一戸政連が殺害されました。

南部晴政の後継ぎを巡る争いで、一戸政連は南部信直を推していました。
そのため、対抗する九戸実親の兄・九戸政実と対立。
九戸政実は一戸政連の実弟・平舘政包に、一戸政連殺害を命じました。
平舘政包は一戸政連とその子・一戸出羽を殺害し、一戸宗家は滅びました。
(分家がたくさんあって一戸氏は続いています)
これに対し、南部信直派の北信愛が直ちに反撃。
一戸城に籠る平舘政包を滅ぼし、次男・北秀愛を城主としました。

1592年、廃城となりました。

1591年、九戸政実の乱では、九戸軍に攻められました。
九戸軍の挙兵をいち早く南部信直に知らせ、自らは一戸城に籠城。
城を守り切り、乱は豊臣軍により鎮圧されました。
この功により、北秀愛は花巻城8千石の城主となり移りました。
一戸城には南部家臣・石井信助が城代となりますが、翌年廃城となりました。


所在地:岩手県二戸郡一戸町一戸字北館 GPSログダウンロードページ

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

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