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姉帯城/岩手県一戸町

姉帯城は、とても整備されていながら堀が凄いです。
訪問日は2017年5月5日です。

姉帯城【1】

城跡まで舗装道が整備されており、車で訪ねることが出来ます。
これ、大事デス(`・ω・´)
入口にこれがあるので、この前に車を停めます。
結構広い突き当りなので、4、5台は停められます。

姉帯城【2】

車侵入禁止から徒歩2分程で城内に到着です。
早速ですが、入口にイイモノ見えてきましたラブラブ

姉帯城【3】
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文字多めで測量図付きの豪華な説明板です。合格

姉帯城【4】
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そこに載っている図です。
もう、等高線が細かすぎて超リアルラブラブ

姉帯城【5】

図を見ると、東から伸びた舌状台地の上面を城にしています。
まずは先端の西側を目指します。
主郭は広くきれいに整備されており、先端部には低い土塁があります。

姉帯城【6】

先端は段差があって低くなっているのはわかりますが・・・
ちょっと、逝けません(´;ω;`)

姉帯城【7】

まぁ、でも、ココの本命は付け根の東側です。
こちらには朱い鳥居の神社があります。
世間一般のカタギの方々はここが終点ですが・・・

姉帯城【8】

城キチはここからがスタートです(`・ω・´)
神社は土塁上にあり、すぐ裏にこんな立派な堀切があります。
この堀切が舌状台地をぶった切り、主郭を台地から切り離しています。
実はこの堀切、上がってくる道からも見えていました^^

姉帯城【9】

堀切の向こう側は、一般人は見向きもしない杉林です。
城キチだって杉林に特別キョーミはございませんが・・・
先程の図を思い出して下さい。
図の右の方に何かありましたよね?
それがあるのを信じて突き進みます。

姉帯城【10】

まっすぐ進むと、それ、ありました(*´▽`*)
東側の堀切です。
こちらもまっすぐ台地を分断しています。

姉帯城【11】

深さは2メートルちょっと。
形状からおそらく薬研堀と思われます。
底が丸まっているので、もう1メートルくらいはあったかもしれません。

姉帯城【12】

最初の図をよく思い出して下さい。
右側の堀、二重堀でしたよねラブラブ
堀の奥の土塁の向こう側も、また低くなっています。

姉帯城【13】

少し浅いですが、二列めの堀です。
道無き雑木林を抜けた先で見る堀は、城キチの心の栄養ドリンクですラブラブ


◆歴史◆

南部一族・姉帯氏の城でした。

築城時期は不明ですが、南部一族・姉帯氏の居城でした。
南部家からの派生時期は諸説ありますが・・・
通説となっているのは、九戸連康の子を初代とする説です。
九戸政実の大叔父(祖父の弟)なので、戦国時代でしょうか。

1591年、九戸政実の乱で落城しました。

南部家中の争いで、九戸政実が南部信直に謀反を起こしました。
両者の争いは1582年、南部晴政の死により表面化します。

・・・書き始めると長くなりそうなので、以下略('Д')

姉帯兼興は九戸側となり、姉帯城に籠城しました。
寄手・蒲生氏郷2万8千に対し、籠城側の兵力は200名余り。
それでも怯まず立ち向かい、ほぼ全滅の討死をしました。
落城の翌年、姉帯城は南部家により破却されました。


所在地:岩手県二戸郡一戸町姉帯字川久保

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浄法寺館/岩手県二戸市

浄法寺館は大きな曲輪と大きな堀で構成されています。
訪問日は2017年5月5日です。

浄法寺館【1】

浄法寺館は、安比川西岸の河岸段丘上にありました。
堀跡は舗装された車道になっており、アクセスには困りません。
私は福蔵寺から出発し、反時計回りにそれぞれの曲輪を見て来ました。
どっち回りなのかは決まっておらず、完全に「その時の気分」次第です。

浄法寺館【2】

お寺の駐車場から北東へ進むと、お寺の脇の門があります。
こっちも道沿いなので、出入口作りますよね^^
古風な建物なので、ついつい城門を想像して撮ってしまいます。

浄法寺館【3】

道は切通状になっており、両脇に断崖が迫っています。
多少削ってはいるようですが、堀をそのまま利用した感じがします。

浄法寺館【4】

右カーブの右側に、八幡館に上がっていけそうな道見つけました(+◇+)
最初の曲輪だ~と、ちょっとドキドキしながら登りました。

浄法寺館【5】

道は途中で折り返し、確実に上の平坦面へと続いています。

浄法寺館【6】

坂道の上にある八幡館です。
広い平坦地です。
草が刈られており、どうやら畑のようです。

浄法寺館【7】

元の道に戻り先へ進むと、今度は反対側に上がる道が。
この上が、浄法寺館の中心にある大館です。
上がれそうな道はとことん上がって見ます。

浄法寺館【8】

大館に上がった所には、小さな神社があります。
早速挨拶に向かうと・・・

浄法寺館【9】

中から神様が御出ましになりました。
神様って、やっぱり猫型だったんですね(=・ω・=)ニャー

浄法寺館【10】

曲輪内部は、とても広く平らでした^^

浄法寺館【11】

東側は切り立った断崖になっていて、フェンスが巡らされています。
眼下には、浄法寺の街並みを見下ろすことが出来ます。
プチお殿様気分(`・∀・´)v

浄法寺館【12】

南東側を見たので、今度は浄法寺館の中心部へ。
なるべく近道したつもりでしたが、地図見るとかなり遠回りしてますあせる
ココは大館と新城館の間を通る堀跡の道です。
何だかこの感じ、鹿児島のシラス台地ザックリ堀と似ています。

浄法寺館【13】

堀底道の右カーブの左側に、上がっていく道が現れました。
先ほど見た大館の反対側に上がっていく道です。
もちろん、選択肢は「上がる?」or「上がる?」デス。

浄法寺館【14】

ハイ、広い畑でしたw

浄法寺館【15】

堀を挟んだ反対側が、新城館です。
あちらも綺麗に耕されているようです。

浄法寺館【16】

元の道に戻って進むと、今度は左側に谷が現れます。
縄張図的には、大館と西館の間にある大堀切ですラブラブ
奥まで続いていますが、当日の私はすぐそこまでしか進んでいません。
曲輪も入口から見ただけ。
3年前の私の脳内は?ですが、急いでいたのかお腹が痛かったのか・・・

浄法寺館【17】

元の道に戻り、もう少しだけ進むと説明板があります。
せっかくなので、堀のカーブを圧縮しながらカメラ

浄法寺館【18】

さらにもう1枚、少し離れた所にあります。

浄法寺館【19】
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こちらは年季が入っていますが、航空写真付きの中々凝ったものです。

浄法寺館【20】
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図もあったので拝借したのですが・・・
錆でかなり見づらかったので、IT力を駆使して少し見やすくしました。
(錆の色を白っぽい色に置換しました)
元と比べればかなり改善してますが、何となく雰囲気を感じて下さいあせる
方位は左が北です。

浄法寺館【21】

何だかすごく大きな城跡なのに物足りない・・・
ということで、目の保養に堀底道です。
図の現在地から右斜め上を向いて撮ってます。

浄法寺館【22】

アノ日の私は、説明板の後ろの道を上がらず進んでいます。
田んぼに下る道に出た所で、西館の外縁にある犬走っぽい所を歩きました。
ここから道無き道を進むと福蔵寺の境内に出て、一周終わりです。


◆歴史◆

浄法寺氏の居城でした。

浄法寺氏は、畠山重忠の三男・重慶を祖とする一族です。
畠山重忠の弟から始まる、とする説もあります。
そちらの説でも、畠山重慶が養子として跡を継いだとされます。
畠山重忠は1205年、北条時政により濡れ衣を着せられ註されました。
この時に難を逃れた三男・重慶が、出家して奥州に移りました。
(出家していて難を逃れ奥州で還俗した、という説もあります)

南部家に従うようになります。

説明板では14代めの浄法寺重恒が南部家に従ったとあります。
年代は南北朝時代で、南部守行の時代です。
浄法寺氏は二戸郡を支配し、松岡、太田、駒ヶ嶺氏などの諸家を輩出。
南部家中では三戸・九戸・八戸氏に次ぐ大身だったそうです。

1601年、浄法寺氏が領地をはく奪されました。

浄法寺重安は九戸政実の乱で、南部方の先鋒を務め活躍。
乱の鎮圧後、5000石に加増されました。
まさに大名の一歩手前という重臣でしたが・・・
1600年、伊達政宗に扇動された和賀忠親が、旧領回復のため挙兵しました。
上杉軍と戦っていた南部軍はそのため一時撤退し、その鎮圧に当たりました。
南部軍の勢いに押された和賀勢は二子城を捨てて、岩崎城に籠城。
そのまま雪の季節を迎えて、双方一時矛を収めました。
南部利直は三戸に撤退し、浄法寺重安の嫡男・重好が警備のため残りました。
しかし、南部軍の主力が撤退後、浄法寺重好は密かに居城に帰りました。
そして、岩崎城攻め再開前にコッソリ持ち場に戻ったのですが・・・
乱鎮圧後に発覚し、知行家禄屋敷没収の上、蟄居の身となりました。
身柄は一族の松岡家に預けられ、浄法寺家は絶家とされました。

浄法寺家の領地がどうなったんだろうと気になりましたが・・・
どうやら南部家の直轄地となり福岡通代官所の管轄となったようです。
福岡通代官所は、浄法寺を含む二戸郡72か村を管轄していました。
おそらく領地没収とともに、浄法寺城は廃城になったものと思われます。
初代の代官は、南部利直の長庶子・南部家直(3)でした。


所在地:岩手県二戸市浄法寺町八幡館 GPSログダウンロードページ

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田頭城/岩手県八幡平市

田頭城は、遊具の並ぶ公園になっています。

訪問日は2017年5月5日です。



田頭城【1】



駐車場からの登り口です。

ストビューだともっと引いたアングルで、全体が見えます。

何だか裏口っぽいな~なんて思っていたら、やっぱりそうでした。

東側の郵便局脇が大手口っぽい感じがしますあせる

そちらには、かなり広い駐車場があります。

たぶん私は、歩く距離が短いからこっちに来たんだと思います。



田頭城【2】



城跡は公園となっていて、遊具がたくさん並んでいます。

見た目が綺麗なので、割と新しめな感じがします。



田頭城【3】



裏から登っているという自覚はたぶんなく、さすが山城♪と登ります。



田頭城【4】



1つ上の曲輪からは、主郭までショートカットする階段があります。

絶対に往時の通路ではあり得ませんが・・・

当時の私には、唯一と思っていた通路なのでココから上がりました。



田頭城【5】



ということで、アッサリ主郭に到着です。

綺麗に整備されていて、とても散策しやすい公園です。

訪ねた時にはほぼ散っていましたが、桜の木が沢山植えられています。



田頭城【6】

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上の写真で奥に見える緑色の説明板に載っている図です。

等高線付きだと詳しく見えますが、ザックリ描かれています。

わかっている人にはわかるんでしょうが・・・

なんとなく、草履の真ん中に土踏まず的な堀切があるように見えます。



田頭城【7】



城跡で説明板を見つけたら、必ず裏も見るようにしましょう!

こんなことが、割とボチボチあったりします。

こっちの方が年季入ってますが、捨てるに捨てられずな感じがします。



田頭城【15】

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こちらにも図ががあります。

かなりザックリに見えますが、先ほどのものよりわかりやすいです。

公園として整備されているのは二の丸と本丸のようです。

図の通りだとすると、実はかなり広大なお城だったようです。



田頭城【8】



本丸は、真ん中がポッコリと高くなっています。



田頭城【9】



キョロキョロしていたら、端に橋が見えました。

橋があるということは、渡れというコトです(`・ω・´)



田頭城【10】



橋の下には、クッキリと堀がありましたラブラブ

上の図でゾウリムシが切腹してるのがココです。



田頭城【12】



深さは人の背の高さ程ですが、明確に本丸を二分しています。

公園として整備する時に、よくぞ残してくれました!と拍手喝采です。

ブルドーザー操ってたら、何となく埋めたくなっちゃう浅さですからね。



田頭城【13】



一段低い方の本丸です。

四阿がありますが、土塁も見えます。

全般的に城跡らしさが残された感じに見えます。



田頭城【14】



上から見た所です。

帯状に本丸を囲んでいるのが見えます。

高低差がかなりある上、傾斜もキツイです。

この高さなら、上に居る守備側が圧倒的に有利ですね♪





◆歴史◆



田頭氏の城でした。



田頭氏は岩手郡代を務めた工藤氏(厨川氏)の一族です。

葛巻信祐が次男に田頭の地を与えたのが始まりです。

母親が雫石詮員の娘なので、1540年代以降ですね。

(雫石氏は1540年頃に斯波家から派生した一族です)
よく南部家臣と紹介されますが、元は高水寺斯波家臣だったのでしょう。



1591年、落城しました。



九戸政実が謀反を起こした際、田頭直祐は南部家側でした。

そういえば、厨川氏も南部家方でした。

当時の南部家は三戸を本拠としており、九戸家の方が近かったです。

そのため九戸方の平館城主・一戸政包に攻められ落城しました。

田頭直祐は搦手から脱出しましたが・・・

追手に追いつかれ自害しています。

田頭城はこの時に廃城になったようです。





所在地:岩手県八幡平市田頭字館山 GPSログダウンロードページ



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安倍館/岩手県盛岡市

安部館は近年付けられた名前で、戦国時代は厨川城でした。
訪問日は2017年8月7日です。

安部館【1】

安部館は、盛岡市の国道4号線沿いにあります。

安部館【2】

国道に沿って、堀の跡が残っています。
名残はあるものの、道沿いでは完全に埋められています。

安部館【3】

道端に安部館遺跡についての説明板があります。

安部館【4】

説明板に載っている図です。
地図が広い範囲で描かれているのは、訳アリっぽい感じがします。
説明板ではカッコして(厨川柵跡・厨川城跡)と書かれています。
以前は安部館が厨川柵だったと考えられていましたが・・・
現在ではその支城・嫗戸柵(うばとのさく)だったという説が有力です。
厨川柵は現在でも位置が定まらず、もう少し南西だったと考えられています。
図の中では、右斜め下の天昌寺の辺りがその中心です。
破線内には嫗戸柵と大館町遺跡が含まれ、全体が厨川柵という考え方です。
そういう事が頭にあって見ればこの図の通りなのですが・・・
そうでなければ、安部館=厨川柵と捉えられかねない表現方法です。
一緒に書かれている厨川城は、ココに実在した戦国時代のお城です。

安部館【5】

国道沿いにある案内から入る道です。
城内はこんな感じで、普通に住宅街となっています。

安部館【6】

一番奥には厨川八幡宮があり、その前の空き地に車を停められます。

安部館【7】

連なる曲輪を隔てる堀が残っています。
本丸の北側の堀が最も規模が大きく、見応えがありますラブラブ

安部館【8】

部分的に水が張っており、水堀だったことがわかります。

安部館【9】

ただ、国道に近づくにつれ次第に浅くなっています。
本当は全部埋めようとして、途中でやめたのでしょうか?

安部館【10】

本丸の堀は、南側も残っています。
国道側から見るとこんな感じです。
北側の堀に比べると浅いですが、規模が大きかった事はわかります。

安部館【11】

こちらは本丸の隣の中館で、一番奥に貞任宗任神社があります。

安部館【12】

ここで一番目立つのは安部館公民館ですがw

安部館【13】

公民館の裏、中館の南側にも堀跡が残っています。
これはこれで、市街地にあるものとしては立派な規模です。

安部館【14】

安部館は、国道の反対側にも続いていた。。。?
という情報もあったので、そっちも見てきました。
見てきたのは、国道から1本西側にある道沿いです。
こちらも普通の住宅街で、遺構はあまり期待出来なさそうな感じ。
最後の希望を捨てきれず、奥の木が茂っている所に行きました。

安部館【15】

その木が茂っている所です。
道端が高くなっており、もしかしたら堀跡?な感じはします。
真偽の程は???ですが・・・


◆歴史◆

安部家の嫗戸柵がありました。

嫗戸柵(うばとのさく)は、厨川柵の支城的な役割を果たしていました。
厨川柵は安部貞任の拠点で、1062年の前九年の役で陥落しています。
その後使われたのかどうかが?です。

工藤行光が厨川周辺の地頭となりました。

工藤氏は伊豆出身で、1189年西岩手郡三十三郷の地頭となりました。
伊豆の工藤氏ということで、日向で栄えた伊東氏と同族です。
下向した工藤行光は、領地から厨川小次郎と名乗りました。
当初は別の場所に館を築いていたとされます。
のちに厨川城を築き居城としましたが、その時期は?ですあせる

1590年頃から南部家臣となりました。

厨川氏は、1590年頃から南部家に仕えたとされます。
この時期という事は、元々は高水寺斯波家に仕えていたのかもしれません。
岩手郡周辺では1540年頃、斯波家と南部家が争い斯波家が勝ちました。
斯波家は雫石と猪去に次男と三男を配置し、南部家に備えました。
雫石が南西で、猪去がかなり北なので、勢力圏にスッポリ入ってます。
しかし、1588年に斯波家が南部家に敗れて領地を失いました。
南部軍が高水寺城を攻めた際、多くの斯波家臣が南部家に寝返りました。
地理的にも時期的にもこの時なのかな?と思います。

1615年、廃城となりました。

盛岡城が完成したこの年、一国一城令が発令されました。
盛岡城のすぐ近くにあった厨川城も、この時に廃城となりました。
城主の厨川氏は頑強に抵抗し、籠城していますが敗れています。
一時浪人になりましたがその後帰参し、盛岡藩士として続いています。


所在地:岩手県盛岡市安倍館町(厨川八幡宮)

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八幡館/岩手県滝沢市

八幡館は、みちのくプロレスのすぐそばにある城跡です。
訪問日は2017年5月5日です。

八幡館【1】

八幡館は山頂にありましたが、そこまでの道が整備されています。
クルマを停める場所には苦労しますが・・・
私は近くの脇道の路肩の広い場所を見つけて停めました。
登城路の入口は、表の道沿いにある赤い橋が目印です。

八幡館【2】

早速ですが、ここに八幡館の説明板があります。

八幡館【3】
拡大表示

説明板に載っている等高線付きの図です。
お城としての構造はシンプルで、山頂の主郭を帯曲輪が囲みます。
そして、南側に横堀があります。
道が描かれていませんが、右の現在地から山頂まであります。
反対側にも登山道があり、帰りはそちらから下っています。

八幡館【4】

この車道は50メートル程で行き止まりとなっています。
ここに車を停めて良かったのかもあせる
そこは何とも言えません。

八幡館【5】

車道は行き止まりですが、歩ける道は奥へと続きます。

八幡館【6】

奥へ進むと、八幡館山登山道の案内が現れます。
登山道の道端には、何合目かを表す案内があります。
干支が乗っていますが、一から十と頂上の11個しか見つけられず。
どの干支が欠けているのか、気になりますw

八幡館【7】

ゆるゆると登り、8分で頂上に到着しました。
山頂は帯曲輪に囲まれており、脇から見るとポッコリしています。

八幡館【9】

山頂はバイクで轢かれたように、木が伐採されています。
おかげで眺めはとても良いです。
縄張図では段々の曲輪がある東側の眺めです。

八幡館【10】

城跡ということで、遺構探しを始めます。
山頂の主郭はこんな感じです。

八幡館【11】

主郭から見た帯曲輪です。
土塁があったかどうかは?です。

八幡館【12】

パッと見た限りは、変化に乏しい城跡です。
事前に横堀があるとリサーチ済みの南側斜面を探索しました。
斜面も、よーっく見ると帯曲輪が3段あるように見えます。

八幡館【13】

斜面を下ったらありましたラブラブ
それまでの帯曲輪は小さい波打っただけの感じでした。
帯曲輪は一応、堀の窪みと外周の土塁っぽさが残っています。

八幡館【14】

下りは登って来たのとは反対側の西側です。
こちらにも、はっきりとした道があります。

八幡館【15】

西側の山道を下りきった所です。
入口の脇には、鉄塔の保守用の道である事を示す標識があります。
入口にチェーンが架けられ、真ん中には文字の書かれた白いモノが。
そこには「入口につき駐車禁止」と書かれています。

八幡館【16】

西側の登山口への入口がココです。
道端の黄色いプレートには「雫石線28」と書かれています。


◆歴史◆

11世紀に築かれたと考えられています。

発掘調査の結果、山頂部から11世紀の椀や皿の破片が多数出土。
そのため、平安時代には何らかの施設があったと考えられます。
説明板や諸兄は安部氏との関係を推測されています。
安部氏が滅びたのが1062年の前九年の役なので、年代的にはピッタリ。
安部貞任の終焉の地・厨川柵は、東の平野部ですからね。
物見を置くのに適した場所だと思います。
あえて異説を挟むなら、後三年の役(1083-87)でしょうか。
主戦場は秋田南部ですが、清原清衡の拠点・江刺の北でもあります。
秋田方面から敵が来ないか見張るのにいいかもしれません。
秋田新幹線が近くを通ってますからね。

戦国時代は大釜氏の城だったと考えられています。

大釜氏は多田系和賀氏の庶流で、高水寺斯波家に仕えていました。
その居城・大釜城は平城で、割と近くにあるそうです。
・・・行ってないので伝聞ですあせる
和賀氏の領地は斯波氏・稗貫氏を飛び越した先なので、経緯が???です。
ありそうなのが1435年の和賀大乱か、1537年の和賀・南部家の戦です。
和賀大乱では、周囲の勢力を巻き込んだ争いとなりました。
この頃から多田系和賀氏が弱り、刈田系和賀氏が強くなります。
多くの領地を没収された多田氏系から、他家に仕官したのかも???
1537年は、大釜氏が仕えた雫石斯波氏が派生する直前です。
この年、和賀氏が友好関係にあった柏山氏とともに南部氏を攻めました。
大きな戦にはならず和睦したようです。
その後、1540年に南部氏が雫石を戸沢氏から奪います。
しかしその直後に、今度は高水寺斯波氏がさらに雫石を奪いました。
ここに自分の子を配置し、雫石御所となりました。
大釜氏は南部氏に仕えたものの、根付く前に攻められ降ったのかも???
その後の動向として、1573年に大釜氏は雫石氏に攻められています。
そして1586年、斯波家が南部家に攻められた際に寝返っています。
その後の大釜氏は、南部家臣となり盛岡藩士として続きます。
1598年には大釜館に居た記録がありますが、その後二戸郡へ移っています。

南部家が盛岡城に居城を移した頃、大釜には武田氏が居ました。
武田氏はあの武田氏で、一族が南部家を頼り落ち延びていました。
大釜氏がよそへ移った後、武田氏が大釜氏の館に住んだそうです。
一国一城令の頃なので、山城の八幡館は使わなかったと思われます。


所在地:岩手県滝沢市大釜 GPSログダウンロードページ

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

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