2020/03/01
花輪館/秋田県鹿角市
花輪館は南部家が秋田家に備えた境目の城でした。訪問日は2017年8月10日です。

当日は、どこがどうだかよくわからないまま歩き回りました。
そのままの紹介すると混乱するので、大手口から搦手口へ順に紹介します。
大手口は城域の南西端にあります。
こんな感じで「さぁ、山にはいるゾ」という雰囲気が漂います。
住宅街になってはいますが、虎口の雰囲気は残っています。

大手口から進むと、本館の切岸を見ながら進みます。
この道は南館との間にあり、ストビューで見ると両側が高くなっています。
構造を理解していたら、そんな写真を撮ったのですが・・・
大きな曲輪と曲輪の間を進むので、常に横から攻撃を受ける構造です。

さらに進むと、変則的な十字路に出ます。
その右(南側)へ入って行く道の角に、南館の標柱があります。
少しだけ南館方向へ進みましたが、変哲の無さにすぐ戻ってしまいました。

南館の反対側に切岸が続いており、そこへ上がる道があります。
この道は、花輪小学校の入口です。
私的には、こっちの方がよっぽど城跡への入口に見えました。
それで小学校側へ吸い寄せられ、十字路を見下ろした所です。
大手道はとても狭く、待ち伏せをして一気に討ち取る感じに見えます。

大手道をさらに進むと、こんどは御蔵の下の標柱があります。
本館側にあるので、この真上に蔵があった?のかもしれません。
標柱の真正面には、本館の反対側に上がっていく道があります。
こちらにも入ってみましたが、平凡さにそのままUターンしました。
土塁や堀などがハッキリしておらず、地形だけ残った感じがします。

さらに進むと、またしても切岸側へ入って行く道があります。
この先にあるのが、公園の駐車場です。
駐車場脇に、北館跡にある桜山公園に上がる道があります。

このすぐ上に、曲輪と曲輪の境目があります。
上から見下ろすこの感じ、たまりません


もちろん、堀底からも堪能します。
ここは北館とゆるぎの館の間にある堀切です。

ゆるぎの館は、北館の東側にある出城的な曲輪です。

北館はかなり広く、芝生の広場の一角に神社が2つあります。
青々と葉を茂らせているのは桜の木です。
春先に訪ねると、綺麗だけどお酒臭い宴会場になってるかもしれませんw

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北館南側の切岸脇の道端に、公園の案内図があります。
公園の案内図なので、花輪館の北館とゆるぎの館部分しかありません。
無いよりはわかりやすいので、一応パクッテおきます(・<

北館の西側には、段々と降りていく道があります。
この道、どう見ても腰曲輪です


ゆるゆると回り込みながら下りた所が、特に標示のない駐車場です。
・・・駐車場なのかも?です


駐車場の前にあるこの坂道が、搦手の道です。
このまま上がって行くと、上に紹介した案内図があります。
落ち着いて見ると、ここも堀跡ですね

左側が北館、右側が本館です。

この道を下った所に、搦手口の標柱があります。
散策を終えて車で次へ向かい始めた時に見つけ、慌てて撮った1枚です。
◆歴史◆
築城時期は不明です。
花輪館は鹿角を治めた中心地だったと考えられています。
その領主は、鎌倉時代に地頭となった安保氏に始まる花輪氏です。
安保氏は、武蔵国加美郡安保郷を本貫地とします。
現在でいう秩父の北端に当たり、上野国と境を接しています。
出羽に赴いた安保氏の次男が花輪次郎です。
花輪氏は南部家に従い、戦国時代まで花輪の領主でした。
1560年代に、南部家と安東家の間で揺れ動きました。
この年代の花輪家当主は花輪親行でした。
花輪親行は1565年、安東愛季に味方して南部方の長牛城攻めに加わります。
長牛城は陥落し、鹿角一帯が安東家の勢力圏に加わりました。
しかし、1568年に南部軍の反攻により、花輪親行は一時花輪を離れます。
1570年頃から、南部晴政と南部信直が家督を巡って争い始めました。
これは、跡継ぎが無かった南部晴政に男児が生まれたことによります。
家督を継ぐ気満々だった南部信直には、想定外の出来事だったようです。
この争いの中で、南部晴政は花輪親行を調略して花輪の地に戻しました。
花輪親行は、反・南部信直派の急先鋒となりました。
1582年、花輪家が空中分解します。
1582年、花輪親行を引き込んだ南部晴政が世を去りました。
その葬儀の直後に、家督を継いだばかりの南部晴継も12歳で急死しました。
家督を継いだ南部信直は、花輪家の領地を没収しました。
花輪親行は南部家中に居場所が無くなり、安東愛季のもとへ去りました。
その後しばらくの城主はわからず・・・
1590年、南部信直は大光寺正親に花輪館の守備を命じました。
お隣の安東家で第三次湊合戦があり、南部家は湊安東家に味方しました。
その湊安東家が敗れ、檜山安東家改め秋田家が勝利したためです。
花輪城は、奥州仕置き後の廃城ラッシュや一国一城令でも廃城にならず。
盛岡藩の5つの要害屋敷の1つとして、明治時代まで続きました。
所在地:秋田県鹿角市花輪中花輪 GPSログダウンロードページ
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