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花輪館/秋田県鹿角市

花輪館は南部家が秋田家に備えた境目の城でした。
訪問日は2017年8月10日です。

花輪館【1】

当日は、どこがどうだかよくわからないまま歩き回りました。
そのままの紹介すると混乱するので、大手口から搦手口へ順に紹介します。
大手口は城域の南西端にあります。
こんな感じで「さぁ、山にはいるゾ」という雰囲気が漂います。
住宅街になってはいますが、虎口の雰囲気は残っています。

花輪館【2】

大手口から進むと、本館の切岸を見ながら進みます。
この道は南館との間にあり、ストビューで見ると両側が高くなっています。
構造を理解していたら、そんな写真を撮ったのですが・・・
大きな曲輪と曲輪の間を進むので、常に横から攻撃を受ける構造です。

花輪館【3】

さらに進むと、変則的な十字路に出ます。
その右(南側)へ入って行く道の角に、南館の標柱があります。
少しだけ南館方向へ進みましたが、変哲の無さにすぐ戻ってしまいました。

花輪館【4】

南館の反対側に切岸が続いており、そこへ上がる道があります。
この道は、花輪小学校の入口です。
私的には、こっちの方がよっぽど城跡への入口に見えました。
それで小学校側へ吸い寄せられ、十字路を見下ろした所です。
大手道はとても狭く、待ち伏せをして一気に討ち取る感じに見えます。

花輪館【7】

大手道をさらに進むと、こんどは御蔵の下の標柱があります。
本館側にあるので、この真上に蔵があった?のかもしれません。
標柱の真正面には、本館の反対側に上がっていく道があります。
こちらにも入ってみましたが、平凡さにそのままUターンしました。
土塁や堀などがハッキリしておらず、地形だけ残った感じがします。

花輪館【8】

さらに進むと、またしても切岸側へ入って行く道があります。
この先にあるのが、公園の駐車場です。
駐車場脇に、北館跡にある桜山公園に上がる道があります。

花輪館【9】

このすぐ上に、曲輪と曲輪の境目があります。
上から見下ろすこの感じ、たまりませんラブラブ

花輪館【10】

もちろん、堀底からも堪能します。
ここは北館とゆるぎの館の間にある堀切です。

花輪館【11】

ゆるぎの館は、北館の東側にある出城的な曲輪です。

花輪館【12】

北館はかなり広く、芝生の広場の一角に神社が2つあります。
青々と葉を茂らせているのは桜の木です。
春先に訪ねると、綺麗だけどお酒臭い宴会場になってるかもしれませんw

花輪館【図】
拡大表示

北館南側の切岸脇の道端に、公園の案内図があります。
公園の案内図なので、花輪館の北館とゆるぎの館部分しかありません。
無いよりはわかりやすいので、一応パクッテおきます(・<

花輪館【13】

北館の西側には、段々と降りていく道があります。
この道、どう見ても腰曲輪ですラブラブ

花輪館【14】

ゆるゆると回り込みながら下りた所が、特に標示のない駐車場です。
・・・駐車場なのかも?ですあせる

花輪館【15】

駐車場の前にあるこの坂道が、搦手の道です。
このまま上がって行くと、上に紹介した案内図があります。
落ち着いて見ると、ここも堀跡ですねラブラブ
左側が北館、右側が本館です。

花輪館【16】

この道を下った所に、搦手口の標柱があります。
散策を終えて車で次へ向かい始めた時に見つけ、慌てて撮った1枚です。


◆歴史◆

築城時期は不明です。

花輪館は鹿角を治めた中心地だったと考えられています。
その領主は、鎌倉時代に地頭となった安保氏に始まる花輪氏です。
安保氏は、武蔵国加美郡安保郷を本貫地とします。
現在でいう秩父の北端に当たり、上野国と境を接しています。
出羽に赴いた安保氏の次男が花輪次郎です。
花輪氏は南部家に従い、戦国時代まで花輪の領主でした。

1560年代に、南部家と安東家の間で揺れ動きました。

この年代の花輪家当主は花輪親行でした。
花輪親行は1565年、安東愛季に味方して南部方の長牛城攻めに加わります。
長牛城は陥落し、鹿角一帯が安東家の勢力圏に加わりました。
しかし、1568年に南部軍の反攻により、花輪親行は一時花輪を離れます。
1570年頃から、南部晴政と南部信直が家督を巡って争い始めました。
これは、跡継ぎが無かった南部晴政に男児が生まれたことによります。
家督を継ぐ気満々だった南部信直には、想定外の出来事だったようです。
この争いの中で、南部晴政は花輪親行を調略して花輪の地に戻しました。
花輪親行は、反・南部信直派の急先鋒となりました。

1582年、花輪家が空中分解します。

1582年、花輪親行を引き込んだ南部晴政が世を去りました。
その葬儀の直後に、家督を継いだばかりの南部晴継も12歳で急死しました。
家督を継いだ南部信直は、花輪家の領地を没収しました。
花輪親行は南部家中に居場所が無くなり、安東愛季のもとへ去りました。
その後しばらくの城主はわからず・・・
1590年、南部信直は大光寺正親に花輪館の守備を命じました。
お隣の安東家で第三次湊合戦があり、南部家は湊安東家に味方しました。
その湊安東家が敗れ、檜山安東家改め秋田家が勝利したためです。

花輪城は、奥州仕置き後の廃城ラッシュや一国一城令でも廃城にならず。
盛岡藩の5つの要害屋敷の1つとして、明治時代まで続きました。


所在地:秋田県鹿角市花輪中花輪 GPSログダウンロードページ

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大館城/秋田県大館市

大館城は大館市役所の辺りにあった平城です。
訪問日は2017年月10日です。

大館城【1】

城跡には二の丸跡に市役所、本丸跡に桂城公園があります。
お役所が城跡というのは、意外とよくあるあるです。
なので、もうちょっと雰囲気が欲しいところですw

大館城【4】

市役所の裏へ回り込むと、細長い池があります。
これが本丸の水堀跡です。
平城なのでほぼ消滅していますが、この堀と土塁だけが残っています。

大館城【5】

水堀の脇を通り過ぎた所に、屋根付きの銅板が飾ってあります。

大館城【6】
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縄張図を立体的にした銅板です。
こういうの、イイですねラブラブラブラブラブラブ
この銅板があるのが、真ん中の橋の所です。
市役所は左下にある二の丸の右半分ですが、城跡らしさは全く無し。
上からの堀が道になっており、そのまままっすぐ二の丸を貫いています。
ただ、この写真と地図を並べて見ると、外周の形は何となくわかります。

大館城【7】

ということで、ここが小中城門跡です。
今でも公園の入口として、門の役割を果たしています。

大館城【8】

水堀の公園側には、高さ3メートル程の土塁が残っています。
こんなのに外周を囲まれていると、ハートがキュンキュンしますラブラブ

大館城【2】

とはいえ、本丸跡にある公園は、城跡と言われてもわからないレベルです。
そんな中に、1枚のボードがあります。
陽に焼けてかな~り薄くなってしまっていますが・・・

大館城【3】
拡大表示

写真をいじり倒して、何とか見られるレベルまで濃く出来ました^^
こうして見ても、遺構としてハッキリわかるのは市役所裏の堀と土塁だけです。

大館城【9】

公園左側の国道7号線も堀跡です。
何となく感覚で撮っていましたが、改めて図と見比べるとそうですねラブラブ

大館城【10】

あとは、北東端の穴門跡も撮って来ました。
門の跡と言われてもピンと来ないレベルですが・・・
右側の土盛りは、たぶん土塁ですね^^


◆歴史◆

浅利勝頼により築かれました。

浅利勝頼は1562年に家督を継ぎ、1582年に暗殺されました。
そのため、その間に大館城が築かれたことになります。
浅利家は代々、西の檜山安東家、東の南部家に挟まれ争っていました。

1582年、檜山安東家の城になりました。

安東愛季との戦で、和睦すると騙された浅利勝頼が暗殺されました。
浅利軍はこの事で指揮系統を失い、大館は安東家の領地となりました。
この時、浅利勝頼の子・頼平は、津軽為信のもとへ落ち延びています。
大館城は五十目秀兼、和田内膳らが城代となりました。

1588年、南部家の城になりました。

安東愛季の没後、五十目秀兼が南部家に寝返りました。
五十目秀兼は和田内膳を討ち、南部家重臣・北信愛が城代となりました。

1590年、秋田家が奪還しました。

秋田姓に改名した秋田実季が、津軽為信の支援を得て大館を奪還しました。
この時に津軽為信の斡旋により、浅利頼平が秋田家臣となりました。
浅利頼平は、先祖代々の領地である大館に入りました。

1593年、浅利頼平が秋田家と争い始めました。

浅利頼平は秋田家からの独立を志向し、年貢を納めませんでした。
そのため、秋田実季は惣無事令を無視して争い始めました。
この戦は1596年まで続き、浅利頼平は被害を訴えるため大坂に赴きました。
しかし、その最中に急死したため、大館は秋田家領となりました。
浅利頼平の急死には毒殺説もあり、秋田家は釈明に追われました。

1602年、佐竹家の城になりました。

佐竹家の秋田移封のため、秋田家が常陸へ移りました。
大館で浅利旧臣が乱を起こしたものの、小場義成らにより鎮圧されました。
1610年、佐竹西家の小場義成が城主として入城しました。
一国一城令では横手城とともに例外となり、明治時代まで存続しました。
佐竹西家が城代を務め、3代目からは佐竹姓に復しています。

1868年、戊辰戦争の時に落城しました。

久保田藩は奥羽越列藩同盟に参加しましたが、後に新政府側となりました。
そのため、奥羽越列藩同盟側の庄内藩や盛岡藩に攻め込まれました。
大館は盛岡藩に攻められ、8月22日に城代・佐竹義遵が城に火を放ち撤退。
一時的に盛岡藩に占領され、この時に大館の街も焼かれました。
後に新政府軍が大館を奪還しますが、大館城は廃城となりました。


所在地:秋田県大館市中城(本丸:桂城公園、二の丸:大館市役所)

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茶臼館/秋田県能代市

茶臼館は檜山城の西側にあった山城です。
訪問日は2018年4月14日です。

茶臼舘【1】

【1】茶臼館への登城口は、道端にあるこの白い標柱が目印です。
標柱には「葦名・・・」と書かれています。

茶臼舘【2】

【2】標柱の所から見た茶臼館方向です。
奥の登り口の所に葦名家の遺臣墓地についての説明板があります。
葦名家といえば会津ですが、なぜココに?
説明板の内容をザックリ書きます。
葦名家は佐竹家から養子に入った葦名義広が継ぎました。
しかし、1589年に伊達政宗に敗れ、葦名義広は会津を失いました。
その後は実家の佐竹家に居り、国替えにも従って角館城を与えられます。
葦名義広は1631年に没し、後を継いだ子らが相次いで没し断絶しました。
そのため葦名家臣は分散し、一部は檜山の多賀谷家に仕えました。
そんな彼らの墓地が、ここにあるという内容です。

茶臼舘【3】

【3】葦名遺臣墓地の説明板から、山中へと入る道があります。
茶臼館へは、この坂道を登って行くと辿り着けます。

茶臼舘【地形図】
拡大表示

自分で歩いておきながら、時間が経つとかな~り忘れてしまいます。
GPSの軌跡を見ながら「なんでこんなジグザグ?」なんて思いました。
それで地理院地図に重ねてみたら、ちゃんと地形に沿って歩いてましたw
せっかくなので、それぞれの写真がどこなのか、番号を書き入れました。

茶臼舘【4】

【4】坂道を登り切ると、横堀が現れますラブラブ
地形図では、北へ伸びる東側の尾根の付け根に当たります。
どうやらこの尾根を分断するためのようです。
最初に現れた堀だったせいか、長い時間ココでウロウロしていました。

茶臼舘【5】

【5】写真を撮りまくったものの、どこがどうやら???ですあせる
まぁ、とにかく付け根は堀と土塁がウハウハだったようですラブラブ

茶臼舘【6】

【6】東側の曲輪は、半時計回りに進みました。
先端部付近では、東側の道がよく見渡せる所がありました。

茶臼舘【7】

【7】付け根側へ戻ると、途中から右側に谷間が現れます。
ああ、向こう側にも曲輪あるな~という感じで、谷間が狭まります。

茶臼舘【8】

【8】谷間の縁に沿って進むと、向こう側の尾根を分断する堀が現れます。
こちらの堀の方が、先ほどの倍以上の深さがあります。

茶臼舘【9】

【9】こちらの堀は、深さも長さもかなりあります。
南側もそこそこ平坦で、もしかしたら曲輪なのかもしれません。
事前に仕入れた情報では、東西2つの尾根が曲輪という事でした。
この大きな堀の北側が主郭らしく、堀の規模を見て納得しました。
もっと時間があれば、南側も確かめてみたかったです。
というのも、国土地理院の地図では、南側からここに道が描かれています。
もしかしたら、この道が大手道だったかもしれません。

茶臼舘【10】

【10】堀底を歩いていると、右側(主郭側)に虎口がありました。
大きな堀に、ココ1か所だけ小さな入口が開いている状態です。
往時は堀に沿って厳重に柵か塀があったかもしれません。

茶臼舘【11】

【11】虎口の内側から見た所です。
右奥で堀が分岐していて、南側へ浅い堀が続いています。
その浅い堀が、そのまま南への道になっているのかもしれません。

茶臼舘【12】

【12】主郭内部の様子です。
ここではあまり曲輪内の様子を紹介していませんでした。
こんな平らな所もあるんですよ!という写真です。
結構広いですラブラブ

茶臼舘【13】

【13】主郭の右端に沿って進んで行くと、竪堀に遭遇します。

茶臼舘【14】

【14】この竪堀は、そのまま主郭の平坦地を分断する堀となります。

茶臼舘【15】

【15】堀に沿って進むと尾根の反対側まで続き、竪堀となって落ちます。

茶臼舘【16】

【16】そのまま左側の端に沿って進むと、角に出っ張りがあります。

茶臼舘【17】

【17】北側の端を東へ進むと、回り込みながら下る道があります。

茶臼舘【18】

【18】回り込んで下りた所に、堀切がありますラブラブ

茶臼舘【19】

【19】堀切のすぐ先は、そこそこの下り坂です。
登って来ても休ませずに、上から攻撃する造りのようです。

茶臼舘【20】

【20】下り坂の先には、まとまった平坦地があります。
雑木林になっていますが、綺麗に削平されているのがわかります。

茶臼舘【21】

【21】平らな曲輪の北側からさらに下ると、その先にも堀切があります。

茶臼舘【22】

【22】堀切の先にも、下る道が続いています。
ただし、普段人が歩く感じではなく、かなり蔓草で覆われています。
春先の芽吹く前の時期だったからこそ、何とか歩けた感じです。

茶臼舘【23】

【23】下の車道から、下りてきた道を見た所です。
どこから登ろうかとココを通っても、気付かないと思います。


◆歴史◆

不明ですあせる

檜山城は、1456年に安東政季が葛西秀清を滅ぼして築かれた山城です。
以後、5代にわたり下国安東家が本拠地としました。
その檜山城とは道1本隔てた所に、茶臼館はありました。
著名な安東家の本拠地のすぐ隣にあり、規模もかなり大きいのですが・・・
世間で考えられている説などを紹介します。

津軽氏に滅ぼされた北畠氏が暮らしていた説

1578年、津軽為信により北畠氏の居城・浪岡城が攻め落とされました。
これにより領地を失った北畠(浪岡)顕村が、安東氏を頼ったとされます。
北畠顕村は戦死したとも考えられており、ココに来たのかすら?です。
本人の消息は不明ですが、子孫は秋田家に仕えています。
その始まりがこの時だった可能性は否定出来ません。

第三次湊合戦で檜山城攻めの付城だった、かもしれません

これはどこにも書かれていない、私独自の推測です。
史料に現れない城跡は、一時的に使われた陣跡かもしれません。
「かもしれません」としか書きようがないですあせるあせるあせる
檜山城が戦の舞台になったのは、1589年の第三次湊合戦だけです。
この時は湊安東家が戸沢氏、小野寺氏、南部氏とともに包囲しました。
その期間は8か月にも及び、包囲側の兵力は籠城側の10倍に達しました。
檜山城に近く、本陣を置くにはとても適した場所のように思えます。

大高相模守の居館だった説

大高氏は安部一族で、その子孫である安東氏・秋田氏の重臣です。
三度に及ぶ争いで、安東実季は湊安東家を出羽から追い出しました。
安東実季は秋田介を名乗るために、湊安東家の本拠・土崎城へ移りました。
その後の檜山を治めたのが大高康季でした。
大高康季は1598年に檜山に入り、その居館が茶臼館では?という説です。
秋田家は1602年に常陸へ移されたため、使われたとしても短期間です。


所在地:秋田県能代市檜山越王下 GPSログダウンロードページ

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多賀谷氏館/秋田県能代市

多賀谷氏館は檜山城廃城後に築かれた、城主・多賀谷氏の館です。
訪問日は2018年4月14日です。

多賀谷氏館【1】

居館跡への入口が、道端にあります。
とても目立つので、迷うことは無いと思われます。

多賀谷氏館【2】

入口はとても綺麗でしたが、奥へ進むとこんな感じです。
これはちょっとヤバクネ?と思いましたが・・・クローバー

多賀谷氏館【3】

笹薮の中の曲がり角を曲がったら、開けてきました。
この奥が館跡です。

多賀谷氏館【4】

段差の所に「表門跡」と書かれていました。
この段差は堀跡でしょうか。
周りはよく見ていませんでしたあせる

多賀谷氏館【5】

内部は、まぁ、平らですw

多賀谷氏館【6】

ここは「囲裏門跡」です。
何と読むんだろうとググってみましたが、ココしか出ず。
結局、読み方もどんなものかもわかりませんでしたあせる

多賀谷氏館【7】

他に、井戸の跡などもあります。


◆歴史◆

1620年に築かれました。

一国一城令により、檜山城が廃城となりました。
そのため、当時城主だった多賀谷宣家が檜山城の麓に館を築きました。
多賀谷宣家は久保田藩主・佐竹義宣の弟です。
義父の多賀谷重経は、元々は結城家臣でした。
小田原征伐後に徳川家康の子が結城家を継いだ事に反発。
結城家寄りだった嫡男・多賀谷三経を追放し、佐竹家に移りました。
この時に佐竹家当主・佐竹義重の四男・宣家を養子に迎えています。
しかし、朝鮮出兵に非協力的であったため改易され、流浪の身となります。
この時、養子の多賀谷宣家は実家の佐竹家に戻っています。
佐竹家が秋田に移ってからは重臣となり、いくつもの城の城主となります。
その中に檜山城もありました。
その後、亀田藩主が佐竹宗家を継いだ時に、その岩城家を継ぎました。
代わりに多賀谷家は、佐竹一門・戸村義門の次男・隆経が継ぎました。
多賀谷家は久保田藩の家老も排出し、明治まで檜山を拠点としました。


所在地:秋田県能代市檜山霧山 GPSログダウンロードページ

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檜山城/秋田県能代市

檜山城は安東家宗家の本拠地でした。
訪問日は2018年4月14日です。

檜山城【1】

檜山城は有名なお城なので、ちゃんと案内があります合格

檜山城【2】

舗装道を進むと、大きな駐車場があります。
ただ、このまま進んでも車を停められます。

檜山城【25】

駐車場から進む道は、既に城域内に入っています。
道の左側には細長い曲輪が連なり、その境目に大きな堀切がありますラブラブ

檜山城【3】

駐車場からさらに上がった所にも車を停められます。
それが三の丸です。
ただ、入口が2つの切株の間を通るのでちょっと狭いです。
こすらないよう注意して下さい。

檜山城【4】

そのまま奥へ進むと、説明板と櫓台があります。

檜山城【5】

櫓台の上に石碑があり、城址碑かと思って先端部まで来ました。
この石碑は城址碑ではありませんでしたが、眺めはとても良いです。

檜山城【6】

三の丸の駐車場から出てすぐに二の丸があります。
かなり広い平坦地で、桜の木が沢山植えられています。

檜山城【7】

二の丸から、コンクリート階段が高い所に向かって伸びています。

檜山城【8】

その先は土橋になっており、大きな曲輪につながっています。

檜山城【9】

もう本丸ですw

檜山城【10】

ただ、ここの見所は本丸の先にあります。
二の丸と本丸の境目からは、広い平坦地と土塁が見えます。

檜山城【11】

歩いた跡を辿ると、本丸脇の細い所を通ります。
道の右側には土塁があり、その上に曲輪があります。
曲輪と曲輪で道を挟んだ虎口のような感じになっています。

檜山城【12】

その先は、本丸の切岸に沿って細い道が奥へと続きます。

檜山城【13】

崖っぷちっぽい所を過ぎると、今度は広い土橋っぽい所があります。
ここからも、奥に曲輪とその土塁が見えます。

檜山城【14】

道は土塁の端を回り込むように、土塁と挟まれた狭い所を通ります。
城キチ用語では「虎口」と呼ばれる構造ですw

檜山城【15】

虎口も大好きなので、虎口からの風景も載せました。
虎口から先はいったん低くなり、その先に細い道が続いています。

檜山城【17】

そのいったん低くなっている所が空堀ですラブラブ
城内も入ってすぐ本丸でしたが、本当はこっちから入るっぽい感じです。

檜山城【18】

空堀の向こう側にも曲輪があり、凸凹になっています。
この凸凹は、侵入して来た敵の動きを鈍らせるためでしょうか?

檜山城【19】

その先に、ちょっと小高い所があります。

檜山城【20】

これは将軍塚と呼ばれる古墳です。
城内では曲輪として利用されていたそうです。

檜山城【21】

城域はさらに奥へと続きます。
さすが、北出羽の雄・安東氏の本拠だけあって、とても広いです。
将軍塚の奥に広がるこの平坦地が居館の跡とされています。

檜山城【22】

平坦地の奥に、最後の高まりがあります。
櫓台のように見えます。

檜山城【23】

これは館神堂と呼ばれる、土塁で囲まれた空間があります。
安東愛季が築いた脇本城にも、同じような空間があります。
名前からすると、お城によくあるお社があったようです。
お社っぽい感じですが、道はここを回り込む感じになっています。
道はこの先にも続いており、防衛拠点でもあったようです。


◆歴史◆

檜山安東家の本拠地でした。

安藤家は、元々は津軽の十三湊を本拠としていました。
安「藤」家から安「東」家へと表記が変わった時期は明確ではありません。
南北朝時代に安藤盛季が弟・鹿季に秋田郡を与え分家となりました。
以後、安藤盛季の宗家が下国家、安藤鹿季の分家が上国家となります。

安東家相関図

宗家2代目の安藤康季は、1432年に南部家との争いに敗れました。
一度は和睦したものの、1442年に再び敗れて蝦夷地へ移りました。
その後、津軽奪還を図るも失敗し、南部軍に敗れて宗家は断絶。
南部家は、分家出身の安藤師季(=政季)に下国家を継がせました。
しかし、安藤政季は傀儡とはならず、1454年に南部家と争い敗れました。
安藤政季は蝦夷地の娘婿・蠣崎季繁の元に移りました。
その後、上国家は下国家の安東政季を小鹿島(男鹿半島)に招きました。
安東政季は檜山郡の葛西秀清を滅ぼし、新たな城を築き始めます。
これが檜山城で、以後はココを本拠として津軽奪還の戦を続けました。
この軍役の負担が重くのしかかり、上国家との関係が悪化しました。

檜山安東家と湊安東家が争うようになります。

檜山安東家の安東政季・忠季父子は、津軽への出兵を繰り返しました。
この軍役の負担に不満を持った湊安東家は、反発するようになります。

1544年、第一次湊騒動

安東友季が、叔父の脇本城主・安東修季とともに挙兵しました。
詳細は不詳ですが、この戦に敗れた安東友季は没したとされます。
出家していた安東定季が還俗し、安東堯季と改名して復帰しています。

1570年、第二次湊騒動

安東堯季が没すると、安東愛季が弟・安東茂季に湊安東家を継がせました。
安東愛季は弟を傀儡とすることで、檜山・湊の両家を統一しました。
この時、秋田市南部の豊島地方の交易を制限しました。
反発した豊島玄蕃が謀反を起こし、2年に及ぶ戦の末鎮圧しました。
安東愛季はその余勢を駆って、由利郡にまで勢力圏を拡大しました。
領主としての自信を失った安東茂季は、湊城を退いて豊島館へ移りました。

1589年、第三次湊騒動

1587年、安東愛季が戸沢盛安との戦の最中の陣中で没しました。
強烈なカリスマの死は、均衡を保っていた両家のバランスを崩しました。
湊安東家の安東通季が、勢力回復を図るため謀反を起こしました。
安東通季は戸沢氏や小野寺氏、南部氏を味方に付けました。
圧倒的兵力に押され、安東実季は檜山城に撤退し約5か月にわたり籠城。
包囲する湊安東方の兵力は籠城側の10倍以上あり、圧倒的優勢でした。
しかし、安東実季は大浦為信や由利衆を味方に付け包囲軍を撃退しました。
敗れた安東通季は陸奥へ逃れ、南部家臣となりました。
勝利した安東実季は湊城に移り、名を秋田実季に改名しました。
これは惣無事令に反したため、かなりの領地を没収されました。
しかし、太閤蔵入地となった領地の支配は秋田実季に任されています。

1602年、佐竹家の城になりました。

関ヶ原の戦で様子見で終わった佐竹家が、大減封され秋田に移されました。
そのため、秋田実季らの領主達が入れ替わりで常陸へ移されています。
檜山城は佐竹家臣・小場義成、後に多賀谷宣家が城主となります。
一国一城令により1620年に廃城となりました。
多賀谷氏は檜山城の麓に館を構え、明治に至るまで檜山の地を治めました。


所在地:秋田県能代市檜山霧山 GPSログダウンロードページ

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

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