2019/09/19
清水山城/長崎県対馬市
清水山城は、金石城のすぐ近くにあった山城です。訪問日は2019年9月15日です。

清水山城へは、金石城の櫓門から入って進んだ先から登れます。
こんな感じで案内があり、迷わず登城口まで行くことが出来ます。

結構急坂の住宅街を縫うように進み、ここから山に入って行きます。
ココの素晴らしい所は、下りる方にも案内がある事

行きはテンションが高く、どこを通ったかよく覚えていませんからね


登城路が整備されているので、夏でも安全に登ることが出来ます。
説明板の所から4分程登ると、上の方に三の丸の石垣が見えて来ます


三の丸です(・∀・)/
と言われても、平らなのは端っこだけ。
真ん中はこんもりしています。
物見台というよりも、本当にただの山です。
平らにする前だったのか、平らにしなかったのか。
ちょっと謎です。

三の丸から二の丸方向を見あげた所です。
両脇を石垣で挟まれた坂が続いています。

三の丸から二の丸を見上げていたら、左側に虎口が見えました

最初に上がって来た所よりも、しっかりと門の形をしています。
本当はココから入るのが正解だったのかもしれません。
もしそうだとすると、横矢に晒される距離がかなり長くなります。

せっかくなので、堪能しました




三の丸から二の丸へ上がる途中、進路を横一文字に石垣が遮ります。
この石垣の先へは、横から回り込まなければ進むことが出来ません。

横一文字の石垣の先は、このように平らな面となっています。
しかし、ここには名前が付いていません。
どの曲輪よりも平らで曲輪らしいんですけどw

この平らな場所も、両端を石垣で挟まれています。
左側にはこのように通路があり、その脇に石垣があります。
この道は、有明山へ通じる道と繋がっています。

平らな所から二の丸は、一気に傾斜がキツクなります。
こんな斜面を直登のような感じで登って行きます。
・・・上にちょっとだけ見えてきています


きつい斜面の先に、枡形虎口の石垣が見えています。
ここを通るんだというのは想像がつくのですが・・・
そこへ至る道筋がすぐには思い浮かびません。
ココは石垣の下を右へ進み、折り返してようやく虎口に辿り着けます。
地形を活かした、守りの堅い虎口です。

虎口を上から見た所です。
直角に曲がっています


虎口から見た二の丸です。
三の丸よりは平らですが、それでもちょっと凸凹です。

平らには馴らされておらず、ここもやはり斜面です。
見あげると、奥に横一線の石垣が見えます。

その石垣です。
二の丸は、奥に石垣で出来た門の跡があります。
二の丸の端にあるので、二の丸が内側になるのが普通ですが・・・
二の丸が外側で、先へ進むのを防ぐ感じに見えます。

この門の上から見た二の丸です。
上から見ると、意外にまとまった平面に見えます。

二の丸からさらに上がると、石垣で出来た門が見えて来ます。
これは一の丸の最初の門です。
ついにキタ(≧▽≦)

一の丸の入口ですが、このように狭くなっています。

そのすぐ後ろに、やや食い違いになってもう1つ門があります。
かなり厳重な造りになっています。

石垣はこの厚さなので、櫓門ではないですねw

一の丸内部はこんな感じです。
三の丸、二の丸同様、真ん中がこんもりしています。
造りかけなのか、そういう構造なのか。
とても珍しいです。

外周は石垣で囲まれています。
端っこはずっと石の列になっていて、のぞき込むと見えます。
あまり身を乗り出すと危ないですが、つい見てしまいます。

時計回りに外周を歩いていると、この門に辿り着きました。
ここから出る道も、有明山に通じているのだそうです。

門跡を外側から見た所です。
平らな石を積んでいるのが特徴です。

外側に下りられるのがココだけで、本丸の石垣を堪能出来ます。
周りの木が伐られているのか、とても見やすいです

こちら側の高さは3メートル程ですが、反対側はかなり高く積まれています。
◆歴史◆
1591年に築かれました。
ココを訪ねる前、清水山城は金石城の詰めの城だと思っていました。
しかしそうではなく、豊臣秀吉の朝鮮出兵のために築かれたお城でした。
豊臣秀吉が没し朝鮮出兵が終わると、使命を終えて廃城となりました。
築城者は確定しておらず、築城者は毛利高政説と宗義智説があります。
某大聖典では、出典を示して毛利高政が築いたと紹介しています。
毛利高政は尾張出身の豊臣家臣で、元々は森姓でした。
羽柴秀吉が中国地方を攻めている時に、本能寺の変が起きました。
羽柴秀吉は毛利軍と和睦し、驚きの早さで畿内に戻りました。
この時、羽柴側の人質として毛利家に差し出されたのが森高政でした。
森高政は毛利輝元に気に入られ、後日、毛利姓を与えられました。
九州では、続日本100名城になったhttps://napoleone.web.fc2.com/Oita/Tsunomure/Tsunomure.html" style="color:#ff0000" target="_blank">角牟礼城と佐伯城を築いています。
あんまり知名度の無い武将ですが、築城の名手だったのかもしれません。
宗義智は宗氏20代目の当主です。
義父・宗義調の代に豊臣秀吉に服属し、対馬を安堵されました。
豊臣秀吉から李氏朝鮮を服属させるよう命じられますが難航。
そうこうする内に義父・宗義調が没し、李氏朝鮮との交渉が決裂しました。
宗義智は正室の父・小西行長の一番隊に属して朝鮮へ出陣。
地理に明るかった宗義智の活躍により、平壌まで攻め込んでいます。
関ヶ原の戦では西軍に属しましたが、徳川家康から不問に付されました。
そして李氏朝鮮との関係修復に尽力し、幕府からは朝鮮との交易を許されました。
毛利高政は対馬や壱岐への築城を命じられ、いくつか城を築いたそうです。
一方、清水山城の構造は金石城の詰城そのものです。
朝鮮との戦で使う城なら、朝鮮半島が見える方がいいと思うのですが・・・
一番高い一の丸からは、背後の有明山に遮られて北はあまり見えません。
近年は、宗義智が小西行長らの協力で築いたとする説が有力となっています。
所在地:長崎県対馬市厳原町西里
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