fc2ブログ

清水山城/長崎県対馬市

清水山城は、金石城のすぐ近くにあった山城です。
訪問日は2019年9月15日です。

清水山城【1】

清水山城へは、金石城の櫓門から入って進んだ先から登れます。
こんな感じで案内があり、迷わず登城口まで行くことが出来ます。

清水山城【2】

結構急坂の住宅街を縫うように進み、ここから山に入って行きます。
ココの素晴らしい所は、下りる方にも案内がある事合格
行きはテンションが高く、どこを通ったかよく覚えていませんからねあせる

清水山城【3】

登城路が整備されているので、夏でも安全に登ることが出来ます。
説明板の所から4分程登ると、上の方に三の丸の石垣が見えて来ますラブラブ

清水山城【5】

三の丸です(・∀・)/
と言われても、平らなのは端っこだけ。
真ん中はこんもりしています。
物見台というよりも、本当にただの山です。
平らにする前だったのか、平らにしなかったのか。
ちょっと謎です。

清水山城【6】

三の丸から二の丸方向を見あげた所です。
両脇を石垣で挟まれた坂が続いています。

清水山城【7】

三の丸から二の丸を見上げていたら、左側に虎口が見えましたラブラブ
最初に上がって来た所よりも、しっかりと門の形をしています。
本当はココから入るのが正解だったのかもしれません。
もしそうだとすると、横矢に晒される距離がかなり長くなります。

清水山城【8】

せっかくなので、堪能しました恋の矢恋の矢恋の矢

清水山城【9】

三の丸から二の丸へ上がる途中、進路を横一文字に石垣が遮ります。
この石垣の先へは、横から回り込まなければ進むことが出来ません。

清水山城【10】

横一文字の石垣の先は、このように平らな面となっています。
しかし、ここには名前が付いていません。
どの曲輪よりも平らで曲輪らしいんですけどw

清水山城【11】

この平らな場所も、両端を石垣で挟まれています。
左側にはこのように通路があり、その脇に石垣があります。
この道は、有明山へ通じる道と繋がっています。

清水山城【12】

平らな所から二の丸は、一気に傾斜がキツクなります。
こんな斜面を直登のような感じで登って行きます。
・・・上にちょっとだけ見えてきていますラブラブ

清水山城【13】

きつい斜面の先に、枡形虎口の石垣が見えています。
ここを通るんだというのは想像がつくのですが・・・
そこへ至る道筋がすぐには思い浮かびません。
ココは石垣の下を右へ進み、折り返してようやく虎口に辿り着けます。
地形を活かした、守りの堅い虎口です。

清水山城【14】

虎口を上から見た所です。
直角に曲がっていますラブラブ

清水山城【15】

虎口から見た二の丸です。
三の丸よりは平らですが、それでもちょっと凸凹です。

清水山城【16】

平らには馴らされておらず、ここもやはり斜面です。
見あげると、奥に横一線の石垣が見えます。

清水山城【17】

その石垣です。
二の丸は、奥に石垣で出来た門の跡があります。
二の丸の端にあるので、二の丸が内側になるのが普通ですが・・・
二の丸が外側で、先へ進むのを防ぐ感じに見えます。

清水山城【18】

この門の上から見た二の丸です。
上から見ると、意外にまとまった平面に見えます。

清水山城【19】

二の丸からさらに上がると、石垣で出来た門が見えて来ます。
これは一の丸の最初の門です。
ついにキタ(≧▽≦)

清水山城【20】

一の丸の入口ですが、このように狭くなっています。

清水山城【22】

そのすぐ後ろに、やや食い違いになってもう1つ門があります。
かなり厳重な造りになっています。

清水山城【23】

石垣はこの厚さなので、櫓門ではないですねw

清水山城【24】

一の丸内部はこんな感じです。
三の丸、二の丸同様、真ん中がこんもりしています。
造りかけなのか、そういう構造なのか。
とても珍しいです。

清水山城【25】

外周は石垣で囲まれています。
端っこはずっと石の列になっていて、のぞき込むと見えます。
あまり身を乗り出すと危ないですが、つい見てしまいます。

清水山城【26】

時計回りに外周を歩いていると、この門に辿り着きました。
ここから出る道も、有明山に通じているのだそうです。

清水山城【27】

門跡を外側から見た所です。
平らな石を積んでいるのが特徴です。

清水山城【28】

外側に下りられるのがココだけで、本丸の石垣を堪能出来ます。
周りの木が伐られているのか、とても見やすいです合格
こちら側の高さは3メートル程ですが、反対側はかなり高く積まれています。


◆歴史◆

1591年に築かれました。

ココを訪ねる前、清水山城は金石城の詰めの城だと思っていました。
しかしそうではなく、豊臣秀吉の朝鮮出兵のために築かれたお城でした。
豊臣秀吉が没し朝鮮出兵が終わると、使命を終えて廃城となりました。
築城者は確定しておらず、築城者は毛利高政説と宗義智説があります。

某大聖典では、出典を示して毛利高政が築いたと紹介しています。
毛利高政は尾張出身の豊臣家臣で、元々は森姓でした。
羽柴秀吉が中国地方を攻めている時に、本能寺の変が起きました。
羽柴秀吉は毛利軍と和睦し、驚きの早さで畿内に戻りました。
この時、羽柴側の人質として毛利家に差し出されたのが森高政でした。
森高政は毛利輝元に気に入られ、後日、毛利姓を与えられました。
九州では、続日本100名城になったhttps://napoleone.web.fc2.com/Oita/Tsunomure/Tsunomure.html" style="color:#ff0000" target="_blank">角牟礼城と佐伯城を築いています。
あんまり知名度の無い武将ですが、築城の名手だったのかもしれません。

宗義智は宗氏20代目の当主です。
義父・宗義調の代に豊臣秀吉に服属し、対馬を安堵されました。
豊臣秀吉から李氏朝鮮を服属させるよう命じられますが難航。
そうこうする内に義父・宗義調が没し、李氏朝鮮との交渉が決裂しました。
宗義智は正室の父・小西行長の一番隊に属して朝鮮へ出陣。
地理に明るかった宗義智の活躍により、平壌まで攻め込んでいます。
関ヶ原の戦では西軍に属しましたが、徳川家康から不問に付されました。
そして李氏朝鮮との関係修復に尽力し、幕府からは朝鮮との交易を許されました。

毛利高政は対馬や壱岐への築城を命じられ、いくつか城を築いたそうです。
一方、清水山城の構造は金石城の詰城そのものです。
朝鮮との戦で使う城なら、朝鮮半島が見える方がいいと思うのですが・・・
一番高い一の丸からは、背後の有明山に遮られて北はあまり見えません。
近年は、宗義智が小西行長らの協力で築いたとする説が有力となっています。


所在地:長崎県対馬市厳原町西里

長崎県の城跡/なぽのホームページを表示

金石城/長崎県対馬市

金石城は対馬国守護・宗氏が一時期居城としたお城です。
訪問日は2019年9月15日です。

金石城【1】

金石城跡は、対馬市役所やふれあい処つしまの真正面にあります。
城域は不明確ですが、現在見られるハッキリした石垣の端がココです。
石垣の上には、対馬博物館(仮)が建設中です。
建物の工事は終わっているようで、来年開館予定らしいです。

金石城【図】
拡大表示

金石城の案内図が無かったので、石垣に貼ってある図を拝借しました。
こいつに描かれているものが色々古いので、勝手に書き加えています。
右上にこっそり書かれている清水山城は、次回紹介致しますラブラブ

金石城【2】

博物館が乗っている石垣を奥から見た所です。
訪問前に、ネットで金石城の案内図を漁りました。
その時に、金石城の復元計画なるものを発見しました。
博物館の建設はその中にありましたが・・・
このあちこちコンクリートで囲まれた石垣も復元する予定だそうです。
工期が平成50年までだったので、いつ実現するかは?ですけどw

金石城【3】

一番上の写真で既に見えていましたが、一番の見所がこの櫓門です。
門の真上にある櫓は、なかなか斬新か感じがします。
これが、金石城の天守の代用だったそうです。
周りがちょっと寂しいですが・・・
何度も火災で焼失しており、現在のものは1990年に復元されたものです。

金石城【5】

せっかくなので反対側も。
広々とした駐車場ですが、現在はロープが張られ駐車出来ません。
ここは整備計画では「桝形エリア」と呼ばれ、端っこに大階段があります。
どうなるんだろう?と思いましたが、広場になる印象ですあせる

金石城【6】

桝形門から入ると、広いグラウンドと体育館が見えます。
ここが、城主様の居館があった場所だそうです。
整備計画では、居館を復元するため体育館を撤去する予定だそうです。

金石城【7】

グラウンドと並んで庭園があり、こちらは綺麗に整備されています
生垣に囲まれ、中の様子は外からはあまり見えません。
管理棟に申し出れば入れるそうですが・・・
私は庭園にはあまり興味が沸かず、入口からこっそり見ましたあせる

金石城【8】

庭園の奥には、搦手門の跡があります。
手前の石垣は崩され、基部だけが残っています。
ただ、これだけでも桝形門であった事がよくわかりますラブラブ

金石城【9】

外側から見るとこんな感じです。
手前の橋は真ん中が高いので、もうちょっと引くと橋しか写りませんあせる
こうやって搦手門を見ると、大手門は?と思ってしまいます。
大手門は櫓門の所だったハズですが・・・
櫓門は堀からかなり入った所にあります。
外側がどうだったのか、超気になり出しました。
もしかしたら、堀を渡る橋→高麗門→桝形→櫓門だったのかも???
勝手に妄想ばかりが膨らみ始めますラブラブ

金石城【10】

搦手門の前から市役所の前まで、こんな感じの石垣と堀があります。
結構長かったな~と思い出し、測ってみたら330メートルありました。
ちょっと地味ですが、これはこれで凄い遺構だと思います合格


◆歴史◆

1528年、宗将盛により金石屋形が築かれました。

宗将盛は対馬守護・宗氏の15代当主です。
14代当主ではとこの宗盛長が没すると、子が幼いため家督を継ぎました。
これが色々きな臭く、クーデターだったという説もあります。
家督を継いでから一族による謀反が相次ぎ、居館を転々とします。
元々の居館だった中村館が焼かれ、池の館に移りましたが・・・
おおよそ2年で再び焼かれ、そこで築かれたのが金石屋形でした。

1539年、宗一族に包囲されました。

宗将盛は反発する一族の鎮圧に奔走し続けました。
しかし、劣勢を覆すことが出来ず、ついに金石屋形を包囲されました。
観念した宗将盛は家督返上を余儀なくされ、豊館で隠棲しました。
代わって家督を継いだのは、叔父にあたる宗晴康でした。
宗晴康は出家していましたが、一族に請われ還俗して家督を継ぎました。
当主となった宗晴康は、38家あった分家が宗姓を名乗ることを禁じました。
これにより宗家の権力を強化することに成功しました。

1591年、清水山城が築かれました。

豊臣秀吉は九州征伐後、朝鮮出兵を企図しました。
これに先立ち、宗義調に朝鮮王を従属させるよう命じました。
あの手この手で時間稼ぎを画策したもののうまく行かず・・・
そんな中、宗義調が1588年に世を去りました。
これにより交渉が不調に終わり、豊臣秀吉は朝鮮出兵を決定。
最前線の兵站基地として、金石城のすぐ上に清水山城を築きました。
築城者は宗義智または毛利高政とされます。
宗義智であれば、自主的に築いたことになりますが・・・
毛利高政の場合は、宗氏の監視も兼ねていたように感じます。
宗義智は朝鮮半島では第一陣に配置され、朝鮮軍と戦いました。
豊臣秀吉による朝鮮半島への出兵は二度に渡り・・・
その後は当然関係が悪化します。
交易で栄えていた宗氏にとっても、かなりのダメージとなりました。

1600年、宗義智は関ヶ原の戦では西軍でした。

宗義智は西軍として伏見城や大津城の攻撃に参加。
本戦も家臣を代理で出陣させ、誰がどう言おうと西軍でした。
しかし、徳川家康は宗義智の領地を安堵し、不問に付しました。
これは、朝鮮との関係修復を望んだためとされます。
宗義智は1609年、朝鮮との和平を結ぶ事に成功。
徳川家康は功を賞し、幕府とは独立して交易する特権を与えています。

1665年、整備・拡張され「金石城」と呼ばれるようになりました。

宗義真は宗義智の孫で、1657年に家督を継ぎ対馬藩主となりました。
すると大浦光友を登用し、大幅な藩政改革を断行。
借財整理や朝鮮貿易の拡大、検地の実施などで財政は潤いました。
藩の格式は10万石格にまで上昇し、宗氏の最盛期を築き上げました。
この頃に隣接する国分寺を移転させ、城域を拡大。
大手櫓門を築くなどして「金石城」と呼ばれるようになりました。

1678年、藩庁が桟原城に移りました。

宗義真は金石城の拡張と並行して、新たに桟原城を築きました。
すぐ近所なので、両城を合わせて「厳原城」と呼ぶそうです。
桟原城が完成すると、対馬藩の藩庁はそちらへ移りました。
その後も金石城は使われていたようで・・・
1813年に大手門櫓が火災で焼失しましたが、1817年に再建されています。


所在地:長崎県対馬市厳原町今屋敷

長崎県の城跡/なぽのホームページを表示

金田城/長崎県対馬市

金田城は、対馬にある古代城跡です。
読みは「かねだじょう」「かねたのき」「かなたのき」などです。
訪問日は昨日(2019年9月15日)です。

金田城【スタンプ】スタンプ設置場所
美津島地区公民館 https://www.google.com/maps/d/view?mid=19day0-VlodUaSky9z-5shkbBStc&ll=34.26802,129.31644&z=19" style="color:#009900" target="_blank">地図
開館時間:8時45分~17時半
休館日:12月29日~1月3日
観光情報館ふれあい処つしま https://www.google.com/maps/d/view?mid=19day0-VlodUaSky9z-5shkbBStc&ll=34.20259,129.28895&z=19" style="color:#009900" target="_blank">地図
開館時間:8時45分~17時半
休館日:12月29日~1月3日

金田城【1】

まずはスタンプゲット(σ・∀・)σ
空港から金田城へは、国道から県道24号へ右折します。
そのすぐ手前に美津島地区公民館があります。
道の手前側に別の建物があり、直接この建物は見えません。
目印は右に見えるガソリンスタンドで、その反対側に入ります。
スタンプはカウンターの方に声を掛けると出してくれます。

金田城【2】

登城口までは車で行けますが・・・
ナビに金田城が出てこず、周りにも目印になる物は何も無し。
スタンプ集めでは珍しく、ナビ無しで登城口を目指しました。
ただ、元々有名な所だったので、県道24号に案内が出ています。
道の右側に注意していれば、迷わずここまで辿り着けます。
問題は有名になってしまった事で・・・
登城口が車で溢れかえっていました。
私はバックでちょっと戻り、路肩の広い所に停めて城跡へ向かいました。

金田城【3】

登城路はこんな感じで整備されています。
実はこの道、旧日本軍が城山に砲台を築くために通したものです。
旧日本軍が設置した砲台と関連施設は、今でも遺構が残っています。

金田城【5】

旧日本軍の道を登ると、途中で大きな石塁が現れます。
この石塁は城山から真っすぐ海に向かって伸びています。
急に現れたのでビックリしましたラブラブ

金田城【4】

ここから三ノ城戸へ向かう道が分岐します。
私は手っ取り早く見て回りたかったので、こっちへ進みました。
ただ、ここでどっちへ進むかは、どう見たいかによります。
私の失敗談も踏まえてですが・・・
①一ノ城戸までならここで脇道へ
②全部見て回るなら旧日本軍の道へ
なぜかと言うと、城山からこっちに戻る道の案内が無いからです。
私は城山の先端まで行き、降りる道が無くて戻り時間をロスしました。
時計回りに回れば、そんな事を気にせず突き進めます。

金田城【6】

三ノ城戸方向の脇道へ入ると、すぐに掘立建物跡が現れます。
見張り小屋だったかもしれないと、説明文には書かれています。

金田城【7】

石塁に沿って坂を下って左カーブを曲がると、この案内があります。
「約60m」って、わかってらっしゃるw
それならちょっと寄り道しよう!という気にさせてくれます。

金田城【8】

先ほど歩いて来た道の下に回り込んで来ます。
下から見るとこうだったのか・・・

金田城【9】

先ほど見た斜面を下る石塁は、下から見るとこうです。
彦根城などにある登り石垣が朝鮮式の影響だと言われますが・・・
あちらでは、斜面に石を積む石垣が使われ続けていたんですね。

金田城【10】

石塁の所からは山道になり、どんどん下って行きます。
そんなに下ると、また登り直すのが・・・という心の声はガン無視ですあせる
そうやって下って行く内に、下に大きな石垣が見えて来ます。

金田城【11】

ここが三ノ城戸です。
大きな石垣で、谷間の一番低い所を塞ぐようになっています。
見ようによっては水門のようにも見えますが・・・
下から上がって来れそうな所を塞ぐ目的があったようにも見えます。

金田城【12】

二ノ城戸側から見た三ノ城戸です。
ここだけ石垣が集中しているのがわかります。

金田城【13】

三ノ城戸からは、再び上り道となります。
上りの坂道を登り切った所に四阿がありました。
・・・と思っていたら、掘立建物跡でした。

金田城【14】

目の前にはもう1つ、説明文の書かれたオブジェが。
その先に目を遣ると、両脇に土塁を従えた門の跡がありました。
ここがビングシ門跡です。

金田城【15】

両脇の土塁はハッキリしていて、とても迫力があります。

金田城【16】

ビングシ門跡から再び道は下り坂。
その内に道は沢の中を通るようになります。
この沢のすぐ先に、石垣で出来た門が姿を現します。
ここが二ノ城戸です。

金田城【17】

ここは金田城の中でも一番綺麗に見栄えがする所です。
復元なのかもしれませんが・・・(復元でした)

金田城【18】

二ノ城戸から一ノ城戸へは、ニノ城戸の手前側で左へ進みます。
ほんのり緩い上り坂となっており、道沿いに石塁が見られます。

金田城【19】

そのまま進むと、例の説明板と案内が見えます。
案内には「海岸降口」と書かれていますが、ここが一ノ城戸です。

金田城【20】

海岸へ降りる道に入ると、眼前にこの石垣が姿を現します。
上からは見えない、立派な石垣ですラブラブ
古代城の石垣には珍しく、出っ張りがあります。
上と下で石や積み方が異なるので、修復されたと考えられています。

金田城【21】

絵になる遺構は一ノ城戸までです。
時間も掛かるので、大部分の方はここでUターンされます。
実際、私を追い抜いて先に着いた方は、ここで戻って行きました。
ここからは、山を巡る地味な遺構を追っかけながらの山道です。
一ノ城戸から先の道は、しばらくはご覧の通り荒れています。
丁度海岸から上がって来た二人組も「あっちは危ない」と話していました。
山城の中でこれだけ人と遭遇するのも珍しいのですが・・・
続日本100名城効果でしょうか。

金田城【22】

一ノ城戸から先の道が荒れているのは、おおよそ300メートル程です。
荒れている所は雨で流され、普通の山道に還りつつある感じです。
その先はそれまでと同じレベルの道に戻ります。
その道中、石塁が道端に沿ってある箇所が多いです。

金田城【23】

一ノ城戸からはずっと上り坂です。
そして、最初のピークが北東の角にあたる部分です。
ここからは海がとてもよく見えます。

金田城【24】

北側は城山山頂に向かって、ずっと上り坂が続きます。
道は断崖に沿って進みますが、その端に常に石塁が沿っています。

金田城【25】

・・・と思っていましたが、崖っぷちの足元の石の列です。
鬼ノ城と似てるなぁなんて思いながら、見られる所で見たらこうでした。
北側はずっとこんな感じです。
目立たないですが、とても壮大な遺構です。

金田城【26】

ピークに達しては登り、ピークに達しては登り・・・
北側ではそんな道が続きます。
一部では、とても綺麗に整備されています。
一ノ城戸付近もじきにこんな感じになるのかもしれません。

金田城【27】

北側の3回目ぐらいのピークから先は、道が平らになります。
とても歩きやすいのですが、ここから先には旧日本軍の砲台跡が続きます。
整然と積まれた石は、それまでのものとは明らかに時代感が違います。

金田城【29】

いくつか続く旧日本軍の施設のある所に、金田城の城址碑があります。
城址碑は、県道24号からの入口とhttps://www.google.com/maps/d/view?mid=19day0-VlodUaSky9z-5shkbBStc&ll=34.3014,129.27458&z=19" style="color:#009900" target="_blank">ここしかありません。

金田城【30】

登城口に戻る道は、この辺りから南側に下りています。
私はまだ先から下ると思っていたので、そのまま進んでしまいました。
せっかくなので紹介します。
北側の道は、石塁の内側を通ります。
この石塁をくり抜く感じで時々石で出来た建物が現れます。

金田城【31】

途中、このように広い平坦地が3回現れます。
古代城だった時にあったかは?ですが・・・
2つ目の平坦地では、赤レンガが散乱していました。

金田城【32】

いつになったら下りる道が現れるんだと、延々と西へ向かいました。
3つ目の平坦地は行き止まりで、斜め上に上がるしか選択肢が無し。
この先に下る道があると信じて更に進みましたが・・・
施設の先端にこの横堀があり、この先で行き止まり。
図を改めて見直し、石塁を表す線は歩けないんだと悟りました。
超遅すぎですけどあせるあせるあせる
下の地図で西から南西に伸びる線が、軍事施設の続く稜線です。
登城口へ下りる道は、城址碑付近の綺麗な道です。

金田城【33】

下る道は大きく蛇行し、途中2回、このように石塁を横切ります。
山の斜面でも手を抜かず、一直線に伸びる石塁。
大和朝廷の権力は、とてつもなく強大だったんですね。

金田城【34】

旧日本軍の道が三ノ城戸へ分岐する直前に、南門の案内があります。
「約30m」では、スルーという選択肢はありません(`・ω・´)

金田城【35】

ただここは工事中のようで、門の真ん中のいい所がコンクリートに。
最終的にどうなるのかは???ですが・・・


◆歴史◆

『日本書記』の667年の条に登場します。

663年、倭国は朝鮮半島の百済復興のため、唐・新羅連合軍と戦いました。
しかし、白村江の戦で大敗し、逆に攻められるリスクが高まりました。
そのため天智天皇は、対馬・壱岐・筑紫に防人と烽を設置。
翌年には大宰府防御のため、大野城と水城の築造に着手しました。
金田城が築かれたのはその後で、高安城、屋嶋城とともに築かれました。
防人はその後も配置され、8世紀初頭に廃城になったと考えられています。

江戸時代末頃に修築されました。

江戸時代末になると、日本近海での外国船の目撃情報が相次ぎました。
対馬海峡も例外ではなく、対馬藩は外国船に対する警戒が必要となりました。
そのため、要所要所に遠見番所を設置。
1798年に作成された『海辺御備覚』に、城山の備えが登場します。

1901年、明治政府が城山に砲台を設置しました。

当時はロシアとの関係が悪化し、一触即発の状況だったそうです。
そのため、最前線になりそうな対馬に、様々な防衛施設が造られました。
この時に城山にも砲台が設置されました。
日露戦争(1905年)では、対馬近海で海上戦が行われました。
無敵を誇ったロシアのバルチック艦隊を、日本の海軍が破っています。
この時に築かれた砲台や兵舎、弾薬庫などが、現在も城山に残っています。


所在地:長崎県対馬市美津島町黒瀬

長崎県の城跡/なぽのホームページを表示

プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

北海道・東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方・沖縄

プライバシーポリシー
本サイトについて
お問い合わせフォーム



検索フォーム

QRコード

QR