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城輪柵/山形県酒田市

城輪柵は「きのわのき」と読み、出羽の国府だった所です。
訪問日は2016年8月6日です。

城輪柵【1】

山形県のラストは城輪柵です。
広い敷地にポツポツと建物が復元されています。
駐車場や説明板などは、北東の角にあります。

城輪柵【2】

駐車場からポロリでは済まないレベルで見えているのが東門です。
遠くから見ると、塀が短くて寂しい感じがします。

城輪柵【3】

東門から延びる東大路沿いに、神々しい地上絵があります。

城輪柵【4】改
拡大表示

せっかくなので、その部分だけ切り取って歪みを補正してみました♡
かつてどうだったかではなく、現状の案内図です。
発掘調査により、720メートル四方の規模だった事がわかっています。

城輪柵【5】

寄って撮った東門です。
普段はこんな感じで紹介されてると思います。
東大路がちょっと草っぽいですが・・・
建物があると「見に来て良かった」と思えます合格

城輪柵【6】

東門から入って見た内部の様子です。
やっぱりちょっと寂しい・・・あせる
遠くに見えるもう1つの門が南門です。

城輪柵【7】

せっかく2つあるので、並べて撮りました。
並べて撮れるのは、遮る物が無いからこそです。
・・・と、無理やりポジってみますあせる
東門、南門の脇にある塀を、それぞれ脳内で延長してみて下さい。
国司様になった気分が味わえるかもしれません。

城輪柵【10】
※脳内再生のイメージです

明日仕事なのに、夜更かししてこんな画像遊びする不良社会人ですあせる

城輪柵【8】

もう1つ復元されている南門です。
敢えて東門と同じように撮ってみました。
ソックリですね♪
こちらの南大路もやはりちょっと草っぽいですクローバー

城輪柵【9】

南門と東門の違いは、外観だけでなく内側にもあります。
足元には「目隠塀跡」と書かれた案内があります。
復元したら「跡」は要らない気もしますけどw
これは、今でも神社やお寺でもたまに見掛けます。
お城の馬出しも、これが起源なのかもしれませんねオッドアイ猫


◆歴史◆

平安時代前半の815年頃に築かれたと考えられています

出羽国国府は、朝廷が蝦夷を討伐し北進する際の日本海側の最前線でした。
奈良時代はじめに出羽柵が設置され、733年に秋田城に国府が移りました。
しかし、蝦夷の反乱が相次いだため804年に河辺府まで後退。
さらに815年頃に城輪柵に再移転したと考えられています。
はっきりわかったような風に書いていますが・・・
史料上の記録はそうですが、それぞれの所在地は確定ではありません。

国府がいつまで機能していたかは、現在のところ不明です。
1333年に赴任した国司・葉室光顕は、少し南の藤島城に入っています。
この頃までには城輪柵が使われなくなっていたものと思われます。


所在地:山形県酒田市城輪嘉平田

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新田目城/山形県酒田市

新田目城は出羽国留守職のお城でした。
訪問日は2016年8月6日です。

新田目城【1】

住宅街にある城跡ですが、北側の水堀が一部残っています。

新田目城【2】

その真ん中に鳥居があり、奥に祠が見えています。
これによく似た光景、最近どこかで見たような・・・w

新田目城【3】

城内は境内となっており、大物忌神社があります。
本楯大物忌神社というのが正式なようです。
大物忌神社は鳥海山に宿る神とされ、山頂に出羽国一宮があります。

新田目城【4】

境内の堀側です。
こうして見ると、結構広い幅で地面が少しだけ盛り上がっています。
かつては分厚い土塁があったと思われます。

新田目城【5】

ぐるっと回って、境内の一番奥側(南側)です。
こちら側にも土塁の名残が見て取れます。

新田目城【6】

その外側です。
すぐ近くまで住宅街が迫っていますが、城塁の外側が窪んでいます。
堀跡ですねラブラブ

新田目城【7】

そのまま時計回りに進むと、西側に広い芝生があります。
奥に土盛りが見えますが、公園造成で出来たもののように見えます。

新田目城【8】

この公園の入口は、北西のここです。
建物は酒田市北部農民センターで、入口に銅像があります。
甲冑姿ではなかったのでスルーしてしまいましたが、きっと偉い方ですあせる


◆歴史◆

出羽国留守職・首藤氏が築いたとされます。

1062年、源義家が首藤資清を出羽国留守職としました。
留守職は国司が遥任の場合、現地で国司の代行を務めます。
首藤資清は「首藤助清」とも表記され、子孫には山内一豊がいます。
源義家は前九年の役で、奥州の覇者・安部氏を滅ぼしました。
戦後、京へ帰還する際に出羽での事後処理を託したのが首藤資清です。
(当時の出羽守は源義家でした)
この時に城輪柵の近所に築かれた国府留守所が、新田目城の始まりです。
首藤氏はその後、源義家が介入した後三年の役にも登場します。
子孫は鎌倉時代に、新田目城の本留守殿と北目楯の新留守殿に分かれます。
本留守殿は須藤姓や留守姓を名乗り、大物忌神社領1万石の領主となります。

明応年間(1492-1501)に中興しています

「中興」は「衰退したり途絶えたものが復興する」という意味です。
なので、一度滅ぼされたか、滅びかけたという事だと思います。
その中興初代の留守遠江守は、大宝寺政氏に仕えています。
川北ではこの頃、大宝寺氏が東禅寺城を築いて砂越氏雄と争っていました。
留守氏は砂越氏に味方して、そのトバッチリを喰らったのかもしれません。
以後の留守遠江守は、4代目まで大宝寺氏に従っているようです。

1583年以降は、最上氏寄りとなります。

前森蔵人が謀反を起こし、大宝寺義氏が自害しました。
留守氏は尾浦城救援に出陣したものの、間に合わなかったそうです。
大宝寺義氏の自害後は、東禅寺義長に従ったようですが・・・
東禅寺義長が大宝寺義興と争った際は、大宝寺側に味方しました。
そのため東禅寺軍に攻められ、一門の今井兵庫が討ち取られました。
その後は再び東禅寺義長に従ったようです。

留守氏は最上家と上杉家に翻弄されました。

東禅寺義長は最上義光の援軍を得て、1587年に大宝寺義興を討ちました。
翌1588年、大宝寺義勝が実父・本庄繁長とともに逆襲。
本庄繁長率いる上杉軍が庄内へ侵攻しました。
5代目の留守遠江守は尾浦城に籠城したものの、東禅寺義長は討死。
留守遠江守は上杉家に降り、東禅寺城に入った甘糟景継に従います。
この頃には留守姓ではなく「今井殿」と呼ばれていました。

1600年、慶長出羽合戦では、志駄義秀が指揮する上杉軍として参戦。
六十里越街道から最上領へ攻め込み、白岩城攻略に貢献しました。
しかし、関ヶ原で西軍が敗れたため、上杉軍は最上領から撤退。
1601年、最上軍が庄内へ攻め込むと東禅寺城に籠りました。
しかし、東禅寺城主の志駄義秀が米沢へ撤退したため開城。
留守遠江守は帰農し、本楯村の肝煎や大組頭を代々務めました。
この頃に新田目城は廃城になったと思われます。


所在地:山形県酒田市本楯新田目(本楯大物忌神社)

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亀ヶ崎城/山形県酒田市

亀ヶ崎城は元・東禅寺城で、庄内藩の2つ目の城でした。
訪問日は2016年8月6日です。

亀ヶ崎城【1】

亀ヶ崎城跡は現在、酒田東高校の敷地となっています。
南側にある正門脇に、亀ヶ崎城の説明板があります合格

亀ヶ崎城【2】
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説明板には在りし日の図と現状と重ね合わせた図の2つが描かれています。
リンク先には両方載せていますが、ここでは後者だけ紹介します。
こうして見ると、大体の形は維持しているものの、遺構は期待出来なさそう。
唯一期待していた西側の土塁も、この図では造り物っぽく見えてしまいます。

亀ヶ崎城【3】

しかし、実際に見てみると、どうも本物っぽく見えてしまいます。
後世の復元した土塁は、不自然に整っているのが殆どだからです。
中途半端な切れ具合や、整っていないボコボコな感じはどう見ても本物恋の矢
ここは土塁の南東の角で、高校の来客駐車場から見ることが出来ます。

亀ヶ崎城【4】

高校の西隣には八幡宮があります。
縁起が気になりますが、今あるのは西側の堀跡です。

亀ヶ崎城【5】

神社と高校の間は、このように土塁が一直線に隔てています。

亀ヶ崎城【6】
移築搦手門(円通寺山門)https://www.google.com/maps/d/view?mid=1Lo_mf1wwQeO0lX23D64yZoA4Qn0&ll=38.94707,139.87465&z=19" style="color:#009900" target="_blank">地図

最後は亀ヶ崎城の移築門です。
これは酒田市内にある円通寺の山門となっている搦手門です。
門の右脇に説明板があり、元々は茅葺屋根だったそうです。
亀ヶ崎城唯一の現存建築物なので、とても貴重ですねラブラブ
いつまでも大事に保存してほしいものです。


◆歴史◆

1478年、大宝寺氏により築かれたと考えられています。

大宝寺政氏が砂越氏雄を牽制するために築いたと考えられています。
1443年に斯波氏が砂越氏を滅ぼし、矢口将監に砂越家を継がせました。
大宝寺氏と斯波氏がどういう関係だったのかが???です・・・
その矢口将監が没して砂越氏雄が家督を継いだのが、1478年です。
この時期に大宝寺氏が、酒田湊の近くに城を築きました。
砂越氏益(=矢口将監)の生前中から、砂越氏雄を警戒していたようです。
大宝寺一族が城主だったと考えられていますが、それが誰なのかは?ですあせる

酒田湊は交易の玄関口なので、経済的にはとても重要な場所です。
以後、砂越氏雄と大宝寺氏の争いは続き・・・
1512年に砂越軍が大宝寺領へ侵攻し、大宝寺軍は大敗を喫しました。
しかしその翌年、再び大宝寺領へ侵攻した砂越軍は返り討ちに遭います。
砂越氏雄は後継ぎともども討死したため、再興砂越氏は2代で滅びました。
砂越家の名跡は大宝寺一族の者が継ぎ、砂越氏維となります。
大宝寺家当主・大宝寺澄氏との続柄が???ですけどあせる

鶴ヶ崎城【系図】

砂越氏維をググると「大宝寺政氏の弟か子?」と書かれていました。
Wikipediaなので信憑性は置いときますが・・・
弟だと、砂越氏を滅ぼした大宝寺澄氏の叔父。
子だと、大宝寺澄氏の弟という事になります。
砂越氏維の子が「次郎」というのも気になり・・・
大宝寺義増が家督を継ぐ時にひと悶着あったのも気になり・・・
誰も知らないので勝手に想像すると、砂越氏維=大宝寺九郎かも?
裏切らないだろう!と信頼して任せられるのは、仲の良い弟だと思います。

はじめは大宝寺家に忠実だったと思われる砂越氏維ですが・・・
1533年、大宝寺晴時と戦って大宝寺城を焼き払っています。
しかし、滅ぼされもせず、その後は大宝寺家に従っています。
我が子が本家を継いだら、それ位の手のひら返しはあり得るかもしれません。
・・・歴オタの妄想はキリが無いので、今宵はここまでに致します('Д')

1583年、東禅寺義長が謀反を起こします。

大宝寺義氏は、従わなくなった来次氏秀や砂越次郎討伐を決意。
娘婿の前森蔵人に両名の討伐を命じましたが、そのまま尾浦城を包囲。
不意を衝かれた大宝寺義氏は、抵抗することも出来ずに自害しました。
由利郡への出征に次ぐ出征で、家臣一同の支持を失った結果でした。
前森蔵人はこの頃から、東禅寺義長と改名しました。
東禅寺義長がいつ城主になったのかは?ですあせる

1588年、上杉家の城になりました。

1587年、東禅寺義長が再び謀反を起こし、大宝寺義興を討ちました。
これは最上義光の調略だったようで、庄内地方が最上家の版図に加わりました。
しかしその翌年、大宝寺家の養子・大宝寺義勝が逆襲。
実父・本庄繁長が上杉軍を率いて東禅寺義長・勝正兄弟を討ちました。
勝利後、本庄繁長が東禅寺城に入って戦後の差配をしました。
その後、上杉家臣の甘粕景継らが交代で城代を務めました。

1601年、最上家の城になりました。

徳川家康と敵対した上杉景勝は、最上義光と戦いました。
当時城代だった志駄義秀は、攻め寄せる最上軍を撃退。
そのまま最上領へ攻め込みましたが・・・
関ヶ原で西軍が破れ、山形へ攻め込んだ上杉本隊も撤退。
志駄義秀も東禅寺城へ退却しました。
その後、上杉軍を追って最上軍が攻め込んで来ました。
志駄義秀は抵抗らしい抵抗はせず米沢へ撤退。
1601年、上杉景勝は領地を没収され、庄内は最上義光領となりました。
最上義光は、長谷堂城で上杉軍の猛攻を防いだ志村光安に庄内を与えました。

1603年、亀ヶ崎城に改名されました。

酒田の海岸に大きな亀が現れた吉報に、最上家中が沸きました。
最上義光は最上家の繁栄を願い、東禅寺城を亀ヶ崎城と改名。
併せて大宝寺城を鶴ヶ岡城に改めています。

1622年、酒井家の城となり明治時代まで続きます。

最上家が御家騒動で改易となり、酒井忠勝が庄内藩主となりました。
以後、明治時代に至るまで、酒井家庄内藩の城として存続しました。
戊辰戦争では庄内藩は、領内へ新政府軍の侵入を許しませんでしたが・・・
戦後、亀ヶ崎城は廃城となり破却されました。


所在地:山形県酒田市亀ケ崎1丁目(酒田東高校)

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砂越城/山形県酒田市

砂越城は、庄内北部の雄・砂越氏の居城でした。
訪問日は2016年8月6日です。

砂越城【1】

住宅街の真ん中に、木々が茂る公園があります。
ここが砂越城本丸公園です。
北側は土塁がなくなり、道と城内は高低差がありません。

砂越城【2】

公園を囲む道は堀跡で、東側の墓地に囲まれたお寺が二の丸跡です。

砂越城【3】

道からちょっとだけ公園に入るとこんな感じです。
道と公園内部の間が少しだけ盛り上がっています。
崩された土塁の基部のようです。
かなり分厚いですラブラブ

砂越城【4】

本丸内部はグラウンドになっています。

砂越城【5】

南側には土塁の一部が残っています。
史跡の感じではなく遊具もあるので、お子様が駆け回りそうです。
・・・小さかりし頃の私は、起伏のある地形が大好きでしたw

砂越城【6】

本丸内には、諏訪神社があります。
公園内の木々は、この神社の鎮守の杜だったんですね。
住宅街の真ん中で本丸だけ残ったのは、この神社のおかげだったようです。

砂越城【7】

本丸の南西には、木で組まれた物見櫓があります。
これは、茨城県の逆井城にあるものを参考に建てられたそうです。

砂越城【8】

物見櫓の近くから城外に出る階段があり、その先に木の橋があります。

砂越城【9】

これは「桔橋(はねばし)」と書かれており、戦国時代の橋を模したものです。
他に場所が無かったのか、虎口でもない所に架けられていますあせる

砂越城【10】

模擬橋の近くで水路が切れ、ここに「砂越城絵図」があります。

砂越城【11】
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せっかくなので、イタダキます(*´▽`*)
本丸の周りをいくつもの曲輪で囲まれています。
ただ、航空写真を見ると、本丸と二の丸以外は完全に市街地化しています。
東端の土塁は、もしかしたら日枝神社の所に残っているかもしれません。
さっき気づいたので、当日は見に行ってませんあせるあせるあせる

砂越城【12】

模擬橋のある西側は、堀跡と土塁がセットで残っています。


◆歴史◆

平安時代末期に石黒氏により築かれたと伝わります。

『石黒家記』では石黒某が出羽に移り、砂越に館を築いたとされています。
その時期が1154年と書かれたサイト様がいくつかありますが・・・
石黒某は播磨国の豪族・赤松氏の三男だとしています。
ただ、赤松氏が赤松姓を名乗り始めたのは鎌倉時代初期です。
なので、もしそうだとしても、「赤松氏と同族」ですよね?
赤松の地の既に赤松氏が居たとしたら、あの赤松氏とは別の赤松氏という事に。
石黒氏は後から来た砂越氏に領地を譲り、東隣の松山へ移っています。

鎌倉時代に砂越氏が出羽の郡司として赴任しました。

1189年の奥州合戦で、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼしました。
出羽国には郡司として、砂越氏が赴任しています。
この時に来た砂越氏の下の名前が出て来ませんが・・・
当初はもうちょっと北の、八幡町一條に政所を構えたそうです。
位置的には出羽国司の居た城輪柵のすぐ東で、当時は庄内の中心地でした。
時期はわかりませんがその後、石黒氏の居た砂越城に移っています。

1443年、落城して砂越氏が滅ぼされました。

経緯がサッパリわかりませんが、砂越氏が斯波氏により滅ぼされました。
斯波氏(=最上氏)はこの時期、村山郡に勢力を拡大し一族を配置しています。
この流れでさらに庄内へ進出したのかもしれません。
砂越氏の名跡を斯波一族の矢口将監が名跡を継ぎ、砂越氏益となっています。

1513年、砂越氏雄が討死して滅びました。

砂越氏雄は矢口将監の子で、砂越氏を継ぎました。
大宝寺氏とは1470年代から争い、競うように上洛して官位を授かりました。
1512年、大宝寺領へ侵攻して激戦の末勝利します。
しかし、1513年に大宝寺領へ侵攻すると返り討ちに遭い討死。
跡継ぎもともに討死したため、名跡が途絶えました。
砂越家は大宝寺氏維が名跡を継ぎ、砂越氏維となります。

1532年、砂越氏維が大宝寺城を焼きました。

大法寺一族から名跡を継いだものの、次第に独立傾向を示すようになりました。
1532年に大宝寺晴時と戦い、大宝寺城を焼いています。
大宝寺晴時は大宝寺城を捨て、新たに山城である尾浦城を築いています。
その後、経緯がサッパリあせるあせるあせるですが、砂越氏維は大宝寺氏と和睦しています。

1588年、砂越次郎が庄内を去りました。

1582年、砂越次郎が来次氏秀とともに大宝寺義氏に反旗を翻しました。
大宝寺義氏が遠征を繰り返すものの、成果が出なかったためです。
そのため、大宝寺義氏は娘婿の前森蔵人に討伐を命じますが・・・
討伐に向かった筈の前森蔵人が大宝寺義氏の尾浦城を包囲。
大宝寺義氏は自害しました。
家督は弟の大宝寺義興が継ぎ、東禅寺義長(=前森蔵人)と争いました。
大宝寺義興は上杉家の本庄繁長の次男を養子に迎え、上杉家を後ろ盾とします。
一方の東禅寺義長は、密かに最上義光と通じていました。

1585年、大宝寺義興が最上領の清水城へ出陣すると、東禅寺義長が挙兵。
大宝寺義興は東禅寺城を包囲しますが、最上軍が庄内へ侵攻。
数に勝る最上軍は、大宝寺義興の居城・尾浦城を包囲しました。
包囲戦が始まってから約1年経ったところで尾浦城が落城。
大宝寺義興は自害し、庄内は最上義光の支配下となります。

1588年、上杉家の城となりました。

1588年、大宝寺義興の養子・大宝寺義勝が、領地回復のため侵攻。
実父・本庄繁長とともに上杉軍を率いて東禅寺義長を攻めました。
大宝寺義長は尾浦城外の十五里ヶ原で迎え撃つも大敗。
東禅寺義長・勝正兄弟は討ち取られ、大宝寺義勝が領地を取り戻しました。
この敗戦で、砂越次郎は秋田の安東愛季を頼って落ち延びました。
砂越城は上杉家臣・荒川玄蕃が城代となりました。
どんな人物だったのかは?です。

1590年、豊臣秀吉による奥州仕置き後、太閤検地が実施されました。
これにより、年貢が一気に重くなるため、各地で一揆が起きました。
庄内地方では藤島一揆が起き、直江兼続により鎮圧されています。
この一揆を本庄繁長・大宝寺義勝父子が扇動したとして、領地を没収。
庄内地方は、完全に上杉景勝の領地となりました。

1601年、最上家の城となりました。

関ヶ原の戦の際、上杉景勝は最上義光を攻め山形へ侵攻しました。
しかし、長谷堂城を攻め落とせない内に関ヶ原で西軍が大敗。
そのため、上杉軍は撤退しました。
逃げる上杉軍を最上軍が追いかけ、各地で追撃戦を展開。
最上軍は庄内平野にも攻め込んで来ました。
この時に砂越城も攻められ、城は焼失。
戦後、庄内は最上義光の領地となりました。
砂越城には最上家臣・荒井右衛門が城代となりました。
その後、一国一城令により1615年に廃城となり、翌年破却されました。

1694年、本丸跡に諏訪神社が建てられました。
これは、かつての城主様達の霊を慰めるためだったそうです。
1743年には、二の丸跡に長応寺が再建されました。
長応寺は砂越氏の菩提寺だったため衰退し、1601年に焼失していました。
現在は両社寺を中心に遺構が残されています。


所在地:山形県酒田市砂越楯之内(砂越城跡本丸公園)

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狩川城/山形県庄内町

狩川城は、領民から「水馬鹿」と呼ばれた北館利長の居城でした。
訪問日は2016年8月6日です。

狩川城【1】

城跡は現在「楯山公園」となっています。
桜の名所でもあり、広い駐車場が整備されています。
駐車場から公園に入る所に、このご案内があります。

狩川城【2】
拡大表示

公園の案内図です。
もはや拡大表示も要らないくらいにシンプルです。
それだけやられちゃったという事ですが・・・あせる
城跡の半分以上がゴルフ場となっています。

狩川城【3】

ただ、案内図を見て城キチなら超気になる所があるハズです。
それが、公園の入口下を道が通っている事。
台地先端部を横切るのは、堀切様に相違ない!

狩川城【4】

上に戻ると、入口からすぐの所に銅像と説明板があります。
この銅像の人物こそ、ここの城主様・北館利長です。

狩川城【5】

黄門さまっぽい感じがしないでもないです・・・w

狩川城【6】

そこから先は、もうこんな感じです。
城跡らしさが感じられない、一面フラットな芝生ですクローバー

狩川城【7】

ただ、端っこを歩いていると、虎口っぽい所もあります。
かなり痕跡的な感じではありますが。

狩川城【8】

先端にはちょっとずつ下がる小さな段があります。
これが2郭、3郭らしいです。


◆歴史◆

1332年、斎藤俊氏により築かれたと伝わります。

斎藤俊氏は、出羽国司・小野良真の子孫を称していたそうです。
小野良真は小野篁の子で、小野小町の父親です。
とはいえ、小野良真も小野小町も実在が疑われている人物ではありますあせる
斎藤氏自体、いくらググっても出てきませんが・・・
時期的には南北朝の争乱直前で、藤島城に葉室光顕が赴任する頃です。
庄内には直後に、高師直の家臣・安保忠実がやって来ます。
ということで、南朝方だったかもしれません。
・・・全部想像ですあせる
斎藤氏については本当にほぼ何も出てきませんでしたが・・・
1つだけ、1600年に最上義光に滅ぼされたという記述が見つかりました。
郷土史家の方が書かれているので、たぶん信憑性は高いと思われます。
歴史の表舞台に出ないという事は、うまく戦を避けて生き残った証ですね。

1601年、北館利長が城主となりました。

狩川城では、ほぼこの人物のことしか語られません。
北館利長は最上家臣ですが、それ以前の出自が???です。
こちらもいくらググっても、出自に関する事はほぼ何も出てきません。
地名では現在の岩手県一関市に「北館」が出てきます。

最上家臣の北館利長は、3千石で狩川城主となりました。
当地に赴任した北館利長は、米が採れない事に疑問を感じたそうです。
これは、最上川の水位が平地よりもかなり低かったことが原因でした。
日々領内を歩き回り、どうすれば川の水を利用出来るか調べ続け・・・
これが10年続いたため、領民からは「水馬鹿」と呼ばれていたそうです。
そうして出た結論が、南の山の向こう側から山沿いに水路を造る事でした。
1611年に着工を願い出た時、難工事が予想されかなり反対されたそうです。
しかし、藤島城主・新関久正の後押しにより、最上義光からGoサインが。
7400人を動員して、4か月で第一期の工事を完了。
こうして出来たのが「北楯大堰」でした。
この水路が出来た事で庄内平野は米どころに変貌し・・・
石高は3万石と、工事前の10倍に膨れ上がったそうです。
最上義光は、各地で北館利長の功績を称え自慢したと伝わります。

1615年、一国一城令により廃城となりました。

北楯大堰が出来てすぐですが、お城の方は廃城となりました。
1622年には主家・最上家が改易されてしまいましたが・・・
北館氏には累は及ばず、そのまま庄内に残りました。
北館利長は隠居し、子の正久が庄内藩主・酒井忠勝に仕えました。
この時に北楯正久に改名しています。
北館利長は「最上家への忠義」ということで、北館姓のままだったそうです。
のちに領民は北館利長を「水神様」と崇め、北舘神社を創建しています。


所在地:山形県東田川郡庄内町狩川楯山(楯山公園)

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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