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藤島城/山形県鶴岡市

藤島城は奈良時代からあったお城で、出羽守の居城だったと考えられています。
訪問日は2016年8月6日です。

藤島城【1】

平城の宿命か、大部分は消滅して市街地となっています。
写真は城跡の南側で、左奥に見えるのは庄内農業高校です。
駐車場になっているココは、実は内堀の跡だったりします。

藤島城【2】

東側の土塁の南端部です。
ぶった切られており、断面図みたいになってますあせる

藤島城【3】

東側の内堀です。
ここは旧状が残っています合格

藤島城【4】

東側の真ん中は、真正面に鳥居がある参道となっています。
ここが大手門の跡だったようです。
左側に城址碑と案内図付の説明板があります。

藤島城【5】
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上の写真で左奥に見えた説明板に載っている図です。
東西の川を天然の堀とした平城で、本丸に八幡宮が描かれています。
これだけでは大して要害性があるように感じられませんが・・・
説明板ではいくつもの〇〇楯等の前衛基地を持つ堅牢な城と書かれています。
そうなの???と思い航空写真を見ると、周囲を田んぼで囲まれています。
「藤」という地名の由来が何となくわかる気がします。
説明板にある〇〇楯を探すと、沼沢地に南北に連なる感じになりました。

藤島城【6】

内堀を北東の端から見た所です。
この水堀も、途中で切られていますね・・・

藤島城【7】

大手門跡から入ると、真正面に神社が見えます。
ここだけ土塁が低くなっていますが、若干切通しになっています。
本来はもうちょっと上がって下がる感じだったようです。

藤島城【8】

土塁です。
古い時代のものなのか、年月による変化なのか、あまり急峻ではありません。
それでも高さは3メートル程あり、かつてはもっと大規模だった感じがします。

藤島城【9】

内側から見た土塁です。
外側からは緩~い感じに見えましたが、しっかり囲まれ感はありますラブラブ


◆歴史◆

和銅年間(708-715)に国府の府城として築かれたとされます。

出羽国は708年に設置された出羽郡に始まります。
この時に出羽柵が築かれ、蝦夷に対する最前線基地となりました。
712年には出羽国に昇格し、柵戸への入植はのべ1300戸に及びました。
国府は北西にある平形に置かれ、その府城が藤島城だったと考えられています。
当時は違う名前で呼ばれていたのでしょうけど。
朝廷はさらに北へと侵攻し、733年に出羽柵は秋田へと移ります。
それまでの間、出羽守や鎮守府将軍の居城だったのかもしれません。

1333年、葉室氏が出羽国司として赴任しました。

葉室光顕は公卿で、後醍醐天皇の寵臣でした。
1330年から半年ごとに昇進を繰り返しました。
超キレ者なんですねラブラブ
1332年に後醍醐天皇が挙兵した元弘の乱に伴い、出羽へ流されました。
翌1333年、後醍醐天皇が隠岐島を脱出して復位すると京へ戻りましたが・・・
出羽守兼秋田城務に任命され、再び出羽へ赴きました。
1335年、中先代の乱を機に武家方と宮方が衝突。
庄内でも乱があり、葉室光顕が武家方に襲われ落命しました。
その後、嫡男の葉室久世が出羽国司に任命され、藤島城に赴任。
しかし、1344年に越後守護・上杉憲顕に攻められ戦死します。
さらに弟の葉室久光が出羽国司として藤島城に赴任しますが・・・
1356年、北畠顕信、守永親王が藤島川の戦で北朝方に敗北。
守永親王でさえ以後消息不明となる戦であり、葉室久光も???ですあせる

戦国時代まで土佐林氏が居城としました。

土佐林氏は羽黒山の藤島学頭宮目寺衆徒から出たとされます。
羽黒山は古くから修験道が盛んで、南朝に味方していました。
北畠顕信の出羽の居城・立谷沢城は、羽黒山の麓にあったと考えられています。
その北畠顕信は1356年、北朝方との戦に敗れて以降は潜伏状態となります。
これらの事から、羽黒山の僧兵勢力はこの時に北朝方に降ったと思われます。
土佐林氏はその後、南から勢力を拡大した大宝寺氏と争います。
1477年には大宝寺氏に敗れ、羽黒山別当職を奪われてしまいます。
天文年間(1532-55)になると大宝寺晴時に降り、その筆頭家老となります。
1541年に大宝寺晴具が没すると、土佐林禅棟が大宝寺義増の家督相続に奔走。
その後も越後上杉家との取り次ぎ役を務めるなど活躍しました。
しかし、1568年の本庄繁長の乱を機に大宝寺義氏との関係が悪化。
上杉家臣や土佐林家臣が大宝寺義氏と小競り合いを繰り返すようになります。
上杉謙信の仲介で1570年に大宝寺義氏の居城・尾浦城を訪ねますが・・・
今度は土佐林家臣・竹井時友が乱を起こし、大宝寺義氏に滅ぼされました。

1571年、丸岡義興が城主となります。

丸岡義興は大宝寺義氏の弟で、後に大宝寺家当主となります。
1579年には兄が屋形号を称するため、羽黒山別当職を譲られました。
兄の大宝寺義氏は砂越氏や来次氏を降して庄内地方を平定。
さらに東の最上氏、北の安東氏と渡り合う程に勢力を拡大しました。
しかし、本庄繁長の乱、本能寺の変などで後ろ盾を次々に失い・・・
最上氏や安東氏との戦で連戦連敗するようになります。
すると、渋々従っていた砂越氏や来次氏が離反。
彼らを討伐しようとした大宝寺義氏が、逆に家臣の謀反で自害しました。
そのため、1583年、大宝寺義興が家督を継ぎ、尾浦城主となりました。
藤島城は、家臣の小国彦次郎が城主となりました。

1587年、大宝寺義興が最上義光に討たれました。

家督を継いだ大宝寺義興は、上杉家とのつながりをより強固にします。
しかし、1586年に最上軍に尾浦城を包囲され、約1年後に落城。
大宝寺義興は討ち取られました。
翌1588年には本庄繁長が庄内地方に侵攻し、最上勢力を駆逐。
大宝寺義興の養子で本庄繁長の次男・大宝寺義勝が庄内に帰り咲きました。

1591年、藤島一揆の舞台となりました。

1590年から翌年にかけて、庄内地方で藤島一揆が起こりました。
これは太閤検地に反対するもので、当時の城主は上杉家臣の栗田刑部でした。
上杉景勝が九戸政実の乱鎮圧のため出陣している間に一揆勢が蜂起。
一時は尾浦城を包囲しました。
しかし、直江兼続が討伐に向かい、尾浦城を攻めた平賀善可が処刑されました。
藤島城に籠った金右馬丞は、直江兼続の猛攻に1年近く耐え続けました。
1591年6月、直江兼続から起請文が出されて和睦が成立し、藤島城は開城。
金右馬丞は佐渡へ移されました。
この一揆を巡り、本庄繁長と大宝寺義勝が扇動した疑惑が浮上。
本庄父子は領地を没収されて流罪となりました。
その後の庄内は上杉景勝領となり、直江兼続が統治を担当しました。
上杉景勝が会津へ移された1598年には、木戸玄斎が城主となりました。

1601年、最上家の城となりました。

上杉景勝が徳川家康と敵対し、関ヶ原の戦の後、領地を没収されました。
庄内は最上義光に与えられ、最上家臣・新関久正が藤島城主となりました。
新関久正は鶴岡城城主と兼任で、庄内地方の再開発に尽力。
藤島の用水整備の為に赤川に築いた堰は、因幡堰と呼ばれています。
これは新関久正の通称・因幡守に由来します。
1615年に発令された一国一城令により、藤島城は廃城となりました。


所在地:山形県鶴岡市藤島古楯跡(八幡神社、庄内農業高校)

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尾浦城/山形県鶴岡市

尾浦城は、大宝寺氏が戦国時代に本拠とした山城です。
訪問日は2016年8月6日です。

尾浦城【1】

尾浦城は大山公園となっています。
大きな神社が2つもある山でもあります。
東側の麓には、大きな参道の入口があります。

尾浦城【2】

その手前の平地には、こんな溝がありましたラブラブ
これ、堀跡でしょうか?
江戸時代は麓に政庁造ったみたいですし。

尾浦城【3】
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鳥居の脇には、公園の案内図があります。
城跡なので縄張図が欲しかったのですが・・・

尾浦城【4】
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公園の案内図がもう1枚ありました。
こっちの方がちょっとだけ立体的にイメージできるかもしれませんあせる
尾浦城は、東西に長い独立丘陵の上に曲輪を連ねていました。

尾浦城【5】

東側からの参道を登った所にあるのが三吉神社です。
案内図では、ここが「本丸」と書かれています。
この広い曲輪に、鯱の載った社殿があります。
こうやって見ると、天守の最上階に見えてきますラブラブ

尾浦城【6】

広い平地がある他は、城跡らしさが感じられませんでしたが・・・
端には壁状の土盛りがあります。
削り残しかもしれませんが、土塁かもしれません(`・ω・´)

尾浦城【7】

本丸跡から西へ向かうと、こんもりした橋があります。

尾浦城【8】

その下はこんな感じになっています。
案内図では、本丸と隠居所の間に「空堀」と書かれています。
かなり改変されていますが、埋められなくて良かったデス。

尾浦城【9】

空堀の西にあるこの広い所が、隠居所を書かれた曲輪です。
この城で隠居をしたのは、大宝寺義増しかいません。
本丸の隣にある大きな曲輪なので、城主が2人いた感じだったのかも。

尾浦城【10】

こちらにあるのが古峯神社です。
神社が2つあるのは、そういう事に由来するのかもしれません。

尾浦城【11】

古峯神社の西側に、一段高い所があります。
これ、どう見ても物見台ですねラブラブ

尾浦城【12】

上がった所には、忠魂碑があります。

尾浦城【13】

忠魂碑から西側を見ると、尾浦茶屋と長い曲輪が見えます。
案内図には書かれていませんが、真っすぐなこの感じは馬場っぽいです。

尾浦城【14】

馬場っぽいのは後世の造成かもしれませんが・・・
その奥に、一体の像が見えます。

尾浦城【15】

この像は加藤嘉八郎氏です。
どんな人物かと思ったら、酒蔵の人でした。
江戸時代の鶴岡は天領で、酒造りが盛んだったそうです。
そして加藤嘉八郎氏は、加藤忠広の流れを汲むとも書かれていました。
「子孫」と書かれていないのが・・・ですけどw

尾浦城【16】

像の背後には、尾浦城主武藤家遺蹟塔があります。
武藤家は大宝寺家のことです。
これがココの城址碑みたいな感じです。

尾浦城【17】

その先には、またしても一段高い所があります。
この高い所が躑躅丘です。

尾浦城【18】

ここにも石碑があります。
なぜ躑躅丘なのか、その由来まではわかりませんがあせる


◆歴史◆

天文年間(1532-55)に大宝寺晴時により築かれました。

鎌倉時代からお城があったとする説もありますが・・・
もしそうだったとしても、天文以前の事はわからずあせる
尾浦城が築かれたのは、大宝寺城が戦で焼失したためでした。
当時は砂越氏や反大宝寺派の国人達との争いが続いていました。
砂越氏維は、大宝寺氏が滅ぼした砂越家を継いだ大宝寺一族です。
しかし、次第に独立志向を強めて大宝寺晴時と争うようになりました。
1533年、砂越氏維との戦で大宝寺城が焼かれてしまいます。
大宝寺城は川の流れが変わって要害性が無くなり、洪水に悩まされていました。
そのため、守りの堅い山城が必要となり、尾浦城が築かれました。

1568年、上杉謙信に攻められました。

1543年に家督を継いだ大宝寺義増も、苦難の連続でした。
そんな状況を立て直そうと、揚北衆の本庄繁長を後ろ盾にすることに成功。
庄内地方は徐々にまとまりを取り戻しつつありました。
1563年には最上郡に進出し、佐々木貞綱を破りました。
さらに1565年には清水義高を討ち取り、一時は村山郡にも進出しました。
しかし、1568年に本庄繁長が上杉謙信に謀反を起こします。
大宝寺義増は当然の事ながら本庄繁長に味方したのですが・・・
本庄繁長は揚北衆筆頭だけあって、さすがの上杉謙信も攻めあぐねました。
すると、上杉謙信は庄内地方に侵攻し大宝寺義増を攻めました。
大宝寺義増は堪らず降伏し、嫡男の大宝寺義氏を人質に取られました。
本庄繁長は翌年、上杉謙信に降伏して乱は終結しました。
上杉謙信は大宝寺義増を隠居させ、大宝寺義氏に家督を継がせました。

1583年、大宝寺義氏が自害しました。

家督を継いだ大宝寺義氏は、上杉謙信を後ろ盾に対抗勢力を次々撃破。
田川郡・櫛引郡・遊佐郡を手中に収め、大宝寺氏の最盛期を築き上げました。
さらに北の由利郡への進出も企図しますが、ここから挫折が始まります。
1578年、上杉謙信が世を去り、御舘の乱が始まりました。
大宝寺義氏は伊達・蘆名氏との関係から、上杉景虎を支持しました。
一方、本庄繁長は上杉景勝を支持したため、大宝寺義氏は孤立しました。
そこで、織田信長に近づいて屋形号の称号を手に入れました。
「屋形号」は、実力のある大名だというお墨付きだったようです。
ただ、そのために羽黒山別当の座を弟に譲り、羽黒山信徒も敵に回しました。
しかも織田信長は1582年、本能寺の変で自害。
せっかく手に入れた屋形号も、形だけのものとなりました。
この頃、村山郡を争っていた最上義光が、家中を統一して勢力を拡大。
清水城を巡る戦いで、大宝寺軍は最上軍に大敗を喫しました。
さらに、大宝寺氏と同盟関係にあった由利衆と小野寺氏が争い始めました。
大宝寺軍は由利郡へ出陣しましたが、秋田氏の軍勢に大敗しました。
すると、それまで大人しかった砂越氏や来次氏が露骨に反抗し始めました。
大宝寺義氏は娘婿で家臣の前森蔵人に討伐を命じましたが・・・
出陣した前森蔵人は、そのまま尾浦城を包囲。
大宝寺義氏を自害に追い込みました。

1587年、最上軍に攻められ落城しました。

大宝寺義氏の自害後、家督は弟の大宝寺義興が継ぎました。
前森蔵人改め東禅寺義長ら重臣は最上派が多かったのですが・・・
大宝寺義興は上杉家の重臣・本庄繁長の次男を養子に迎えました。
そして1585年、最上領の清水城を攻めました。
大宝寺軍が最上領へ侵攻すると、庄内の最上派が一斉に挙兵。
大宝寺義興は、実は彼らの掃討を狙っていたのかもしれません。
最上義光は援軍を送りますが、伊達政宗の圧力で和議を結び撤退。
大宝寺義興は、最上派筆頭格の東禅寺義長の東禅寺城を包囲しました。
ここまでは狙い通りだったのかもしれませんが・・・
最上義光が東禅寺城を助けるため、大軍で駆け付けました。
頼みの綱の本庄繁長は、新発田重家の乱が終わらず動けませんでした。
尾浦城は最上軍の包囲に約1年耐えましたが、ついに落城。
大宝寺義興は自害しました。

1588年、大宝寺義勝が奪還しました。

庄内を制圧した最上義光は、家臣の中山朝正を尾浦城代としました。
東禅寺義長とともに庄内の統治を仕切りましたが・・・
最上家からの恩賞に不満を持つ者が少なからずいました。
そんな中、新発田重家の乱が終結し、本庄繁長が庄内に侵攻。
最上義光は大崎合戦に巻き込まれ、援軍を送ることが出来ませんでした。
東禅寺義長は、尾浦城下の十五里ヶ原で本庄軍を迎撃。
兵力差は歴然としており、上杉方に寝返る者が続出しました。
東禅寺義長が討死すると、弟の東禅寺勝正が捨て身の突撃を敢行。
本庄繁長に斬りかかり、壮絶な討死を遂げました。
戦後、大宝寺義興の養子だった大宝寺義勝が城主となりました。

1591年、大宝寺義勝が流罪になりました。

1590年、後北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は全国統一を達成。
関東から北も支配下に置き、領地の再編成となる奥州仕置きを行いました。
この時に領地を失ったり、検地の方法が変わり反発する農民が多く・・・
各地で一揆が起きました。
庄内でも藤島一揆が起こり、上杉家の直江兼続により鎮圧されました。
ただ、この一揆は本庄繁長・大宝寺義勝父子が扇動したと疑われ・・・
本庄繁長は大和、大宝寺義勝は川中島へ流罪となりました。
尾浦城主は?ですが、庄内は上杉家の領地となりました。
尚、本庄繁長父子はその後、朝鮮出兵での功により上杉家に帰参しています。
大宝寺義勝は廃嫡された兄に代わって家督を継ぎ、本庄充長となっています。

1601年、最上家の城となりました。

1598年に城主となった下吉忠は、慶長出羽合戦で最上領へ攻め込みました。
しかし、関ヶ原で西軍が敗れ上杉軍が山形から撤退した事が伝わらず孤立。
最上軍に包囲された下吉忠は降伏し、最上家臣となりました。
そのまま庄内へ侵攻した最上軍の先鋒として活躍。
下吉忠は最上家臣として、あらためて尾浦城主となりました。
下吉忠は尾浦城を大山城と改名し、山城の麓に政庁を整備しました。

1614年、城主の暗殺後、間もなく廃城となりました。

下吉忠の没後は、下秀実が城主となりました。
下秀実は1614年、鶴岡で志村光惟と会談中に一栗高春に暗殺されました。
一栗高春は、逃亡中に新関久正により誅殺されました。
この事件により、清水義親の大坂方への内通疑惑・粛清へと発展しています。
尾浦城は、最上家親の弟・大山光隆が2万7千石の城主となりました。
しかしその翌年、一国一城令により廃城となりました。


所在地:山形県鶴岡市大山3丁目(大山公園)

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丸岡城/山形県鶴岡市

丸岡城は、加藤清正の子が改易後に過ごした所です。
訪問日は2016年8月6日です。

丸岡城【1】

東側の大手門跡です。
大手門の跡ですが、そうだった形跡が見出せません。
現在は公園となっており、園路でその位置が示されています。

丸岡城【2】図
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大手門跡の脇にある案内図です。
東側から見た図なので、右側が北となります。
こうして見ると、城の北東部分が辛うじて残された感じです。

丸岡城【3】

案内図の隣にある城址碑です。
なかなか渋~い感じでイイですねラブラブ

丸岡城【4】

すぐ目の前には、赤い鳥居が連なった御城稲荷があります。
鳥居の足元には「遺構御城稲荷」と彫られた石があります。
北東隅の土塁脇にあり、鬼門除けだったようです。

丸岡城【6】

北側には水堀があります。
見た感じはそんなに深くない、復元されたもののようです。

丸岡城【7】

城跡の北側には、天澤寺があります。
加藤家終焉の地として、多くの方が参拝されるそうです。

丸岡城【8】

このお寺の脇に、加藤清正のお墓があります。
元々は加藤忠広が密かに父親を弔っていたのだそうです。
発掘調査では、地下2メートルに埋められた鎧が見つかっています。
見つかった時は錆びてバラバラな状態だったそうですが・・・
名古屋の鎧職人さんが復元し、2016年7月にお寺に贈ったそうです。
私が訪ねる1週間程前の出来事でしたあせる
どんな鎧かはググってみて下さい。
関係ない鎧がたくさん出てきますが、青いのがソレです。

丸岡城【9】

北側の水堀を北西側から見た所です。
夜明け直後なので、光線状態は良くありませんあせる

丸岡城【10】

公園の西側です。
当時はこれが復元された土塁と堀跡だと思っていましたが・・・
あらためて案内図を見ると、そうでもなさそうな気がしてきました。

丸岡城【11】

こちらは水堀脇に復元された土塁です。
本物だったら、傾斜はこんなに緩くないですよね?

丸岡城【14】

公園内部はあまり起伏がありませんが、庭園の池っぽいのがあります。
すぐ近くに石碑があり、「お庭の泉水跡」と彫られています。
説明文によると、この泉水跡を地元では「百間堀」と呼ぶそうです。

丸岡城【12】

広い公園の真ん中には、建物の配置が表現されていました。
どうやらこれは、加藤忠広の館の配置を表しているようです。

丸岡城【13】

その片隅に「太夫石・巫女石」があります。
実はこれ、蟄居中の加藤忠広が密かに父の墓石代わりにした石だそうです。
巫女石は、この地で没した生母の墓石だそうです。
親の菩提を堂々と弔えなかったなんて、とても切ないですね。


◆歴史◆

押切備前守により築かれたと伝わります。

押切備前守は大宝寺氏の家臣です。
事績や本名がよくわかりません。
1512年に横山城を築いて移るので、それ以前からあった事になります。

大宝寺義興が城主だった時期があります。

大宝寺義興は大宝寺義増の次男です。
1554年生まれなので、押切備前守が横山城へ移ってから間が空いています。
丸岡城は庄内と村山郡を結ぶ六十間越街道を抑える要衝でした。
そのため、大宝寺氏が常にだれかを常駐させていたと思われます。
大宝寺義興は、兄が家督を継いだ2年後の1571年に藤島城主となりました。
この時は「丸岡義興」と名乗っていたので、丸岡城主だったと思われます。
1583年、兄が東禅寺義長の謀反により自害したため、当主となります。

1587年、大宝寺義興が最上軍に討たれました。

大宝寺義興は1585年、村山郡に侵攻し最上家の清水城を攻めました。
すると、庄内の反大宝寺勢力である東禅寺義長が挙兵。
大宝寺義興は矛先を東禅寺城に変え、城を包囲しました。
すると、最上義光が大軍で東禅寺城救援に出たため退却。
居城の尾浦城に籠城しましたが、1年ほどで落城し討たれました。
最上義光は庄内を東禅寺義長に任せ、尾浦城に中山朝正を配置しました。

1588年、大宝寺義勝が庄内を奪還しました。

前年に虎口を脱した養子の大宝寺義勝が、実父とともに反撃に転じました。
実父は上杉家重臣で揚北衆の中心人物である本庄繁長です。
最上義光が伊達政宗と争っている隙を突いて庄内へ侵攻。
十五里ヶ原の戦で東禅寺義長・勝正兄弟を討ち、庄内を奪還しました。

1590年、大宝寺義勝が領地を没収されました。

1590年に豊臣秀吉が奥州仕置きを行い、太閤検地を実施しました。
すると、反発する農民や領地を失った武士達が、各地で一揆を起こしました。
庄内地方でも「藤島一揆」と呼ばれる一揆が起こりました。
この一揆は上杉家の直江兼続により平定されましたが・・・
本庄繁長と大宝寺義勝が一揆を扇動したとされ、大和へ流罪となりました。
以後、庄内地方は上杉家の領地となります。

1615年、廃城となりました。

1600年、上杉景勝が徳川家康と対立し、領地を大幅に減らされました。
この時に庄内地方は最上義光の領地となりました。
1615年に一国一城令が発令され、丸岡城はこの時に廃城となっています。

1632年、加藤忠広の館が築かれました。

1622年の最上家改易後、酒井忠勝が庄内藩主となりました。
酒井忠勝は、徳川四天王の酒井忠次の孫です。
1632年、肥後藩の加藤忠広が改易され、庄内藩預かりの身となりました。
改易の理由はあれこれと説がありますが・・・
加藤忠広には、丸岡1万石が一代限りの堪忍領として与えられました。
改易後の蟄居で過ごすための館が、丸岡城の跡地に築かれました。
それから22年後の1654年、加藤忠広が没しました。
丸岡は幕府と庄内藩の領地となり、加藤家は終焉を迎えました。


所在地:山形県鶴岡市丸岡町の内

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鮭延城/山形県真室川町

鮭延城は別名・真室城とも呼ばれた境目の城でした。
訪問日は2016年8月6日です。

鮭延城【1】

鮭延城への入口は、踏切を渡ってすぐの所にあります。
道端には「鮭延城搦手門跡」と書かれた標柱が立っています。
ちょっと下過ぎないかと思いますが、この先に搦手の標示はありません。
ここが門のあった場所なのでしょうか?

鮭延城【2】

搦手門跡から登ると、6分で堀切が見えました恋の矢

鮭延城【3】

堀切の手前には、帯曲輪があります。
帯曲輪は主郭を囲んでいましたが、現在は北側の一部が失われています。

鮭延城【4】

堀切の底を進むと、開けた道が北に向かって続きます。
現状は藪の中に道が通されていますが、既に城内に入っていますクローバー

鮭延城【6】

東側から回り込む感じで進むと、大手門跡に辿り着きます。

鮭延城【5】

大手門の所で段差になっています。

鮭延城【8】

大手門跡から見た主郭です。
大手門の内側も藪になっていますが、見やすいよう草が刈られています。

鮭延城【9】図
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主郭入口にある案内図です。
藪が開けた入口だったのですが、図ではかなり先端部ですw

鮭延城【10】

案内図の所から見た主郭です。
すぐ先に断崖への落下防止のためのフェンスが見えます。
草が刈られている範囲しか見えないためか、とても狭く見えます。

鮭延城【11】

城址碑ですラブラブラブラブラブラブ

鮭延城【12】

搦手門からの登城路は、城跡の真ん中に上がって来る道でした。
なので、今度は付け根側を見に薬師堂側へ。

鮭延城【13】

そっち方向へ進むと、間もなく堀切が現れます恋の矢

鮭延城【14】

引いて見るとこんな感じです。
向こう側にももう2本あり、三重堀となっています。
・・・が、1本目しか見ていませんあせるあせるあせる


◆歴史◆

永禄年間(1558-70)に佐々木貞綱により築かれました。

佐々木氏は近江源氏で、佐々木綱村の時に出羽へ移って来たそうです。
その時期は、応仁の乱の頃と考えられています。
・・・頑張ってググると出てきますw
気になり調べると近江の鯰江に居たそうで、六角氏に仕えていました。
鯰江氏は六角氏の一門で、子孫には毛利高政がいます。
毛利高政は九州で角牟礼城清水山城佐伯城を築いた武将です。
鯰江城探すのが大変だったのを思い出し、つい横道に逸れましたあせるあせるあせる
出羽に来た一族の事は触れられていませんが・・・

出羽に移った佐々木綱村は、雄勝郡を支配する小野寺氏の客将となりました。
小野寺氏から湯沢城の南にあった関口城を任され、関口姓を名乗ります。
天文年間(1532-55)に、小野寺景道は南の最上郡へ勢力を拡大。
この頃に関口氏の一族・佐々木貞綱を岩鼻館に配置しました。
岩鼻館があったのは南の最上川沿いで、だいたいこの辺り(https://www.google.com/maps/d/view?mid=1Lo_mf1wwQeO0lX23D64yZoA4Qn0&ll=38.737673996323515%2C140.1789623747684&z=19" style="color:#009900" target="_blank">地図)です。

しかし、1563年に庄内の大宝寺義増に攻められ落城。
和睦の条件で岩鼻館周辺を大宝寺義増に奪われ、少し北へ後退しました。
この時に新たに築いた山城が鮭延城で、鮭延姓を名乗るようになりました。
当時の大宝寺氏・小野寺氏と鮭延氏の関係がいまいち???ですが・・・
和睦後にあった事を整理すると、
・佐々木貞綱の子・秀綱が、大宝寺義増への人質となる
・小野寺景道が佐々木貞綱の妹を側室に迎えている
尚、小野寺景道はこの17年前、大宝寺義増に助けられています。
この2年後、大宝寺義増は最上家の清水城を攻めています。
これは一城キチの想像ですが・・・
・大宝寺義増が最上領を攻めるに当たり、佐々木貞綱に協力を要請
・佐々木貞綱が大宝寺義増の要請を何かの理由で断る
・大宝寺軍が攻め落とし、小野寺景道が仲裁
といった感じなのかもしれません。

1581年、最上義光に攻められました。

最上義光が家中を統一し、勢力拡大に乗り出した時期です。
当時16歳だった鮭延秀綱は、最上軍を相手によく守りました。
しかし、最上義光の懐刀・氏家守棟が鮭延家重臣の庭月広綱を調略。
不利を悟った鮭延秀綱は、最上義光に降伏したと考えられています。
以後の鮭延秀綱は、最上軍による小野寺領侵攻の先鋒として活躍します。
1600年の慶長出羽合戦では、長谷堂城で副将格として上杉軍と対陣。
直江兼続に「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめています。

1622年、戸沢政盛が城主となりました。

最上家が御家騒動で改易されたため、鮭延秀綱も城を失いました。
鮭延秀綱は佐倉藩主・土井利勝預かりの身となり、下総へ移りました。
最上領の内、最上郡と村山郡が戸沢政盛に与えられて鮭延城に入りました。

1625年、廃城となりました。

戸沢政盛が新たに新庄城を築いて移ったため、鮭延城は廃城となりました。
山城で不便だったのと、手狭な事が理由だったようです。


所在地:山形県最上郡真室川町大字内町

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新庄城/山形県新庄市

新庄城は最上家改易後に立藩した新庄藩の藩庁として築かれました。
訪問日は2016年8月6日です。

新庄城【1】

まずはメインの入口から。
東側にこの土橋があり、真正面に神社が見えます。
ここが本丸の入口となります。
新庄城は外側を囲んでいた二の丸が消滅し、本丸だけが残っています。

新庄城【2】

土橋を渡った先にある神社が戸澤神社です。
祀られているのは戸沢氏の祖・戸沢衡盛と新庄藩初代・戸沢政盛です。

新庄城【3】

神社へ入らず左へ曲がると、石垣が見えます。

新庄城【4】

反対側から見た表御門跡です。
土橋の真正面ではなく直角に曲がった所にあります。
これ、絶対に枡形門ですね!

新庄城【5】

表御門の内側は、広大な駐車場となっています。
その外側は、かなり高い土塁で囲まれていますラブラブ

新庄城【6】

表御門の北側から水堀を見た所です。
反時計回りに城内を散策しました。

新庄城【7】

本丸の北側にあるこの建物は藤嵐閣です。
「二条城にあった流扇閣を模した」とはどこにでも書かれている事。
よし、じゃぁその元の写真も載せるぞ!と意気込みましたが・・・
「流扇閣」が見つからずあせる
ただ、二条城から横浜の三渓園に移された三笠閣→聞秋閣が超ソックリ。
画像検索して藤嵐閣と並べると、正面も裏もウリふたつです。

新庄城【8】

近くには、櫓台っぽい土塁の高まりがあり、裏御門跡の標柱もあります。

新庄城【9】

北西側の堀は埋められ、公園となっています。
ここは「大納戸櫓跡」ですが、櫓がどこにあったのかわかりませんあせる

新庄城【11】

埋められた堀跡です。
石垣も無く、本格的に潰しに掛かったようです。
それでもこうなったのは、水堀の執念でしょうか?w

新庄城【12】

西の角から、水堀が復活します。
北西側も幅はこれくらいあります。
これを埋めちまおう!というエネルギー、凄まじいですね。

新庄城【13】

南西にも土橋があり、その付け根に「二の丸跡」の標柱があります。
水堀の外側はどこも二の丸でしたが、空き地なのがココだけなんですね。

新庄城【14】

土橋を渡った先に門の跡があります。
ココから入った所が、最初に着いた駐車場です。

新庄城【15】

外側に戻り、南の角から見た水堀と土塁です。
この角が「武具櫓跡」で、土塁上に二層の櫓があったそうです。


◆歴史◆

1625年、戸沢政盛により築かれました。

戸沢政盛は鬼九郎と呼ばれた猛将・戸沢盛安の子です。
生い立ちがかなり凄いのですが・・・気になりますか?w
ザックリですが、書いておきます^^
戸沢政盛は戸沢盛安と町娘の間に生まれた子でした。
そのため嫡男としては扱われず、町民の子として育ちました。
しかし、1590年に父が25歳、その2年後に叔父が17歳で没します。
跡継ぎが無く困った戸沢家臣団は、町民の子として育った戸沢政盛を拉致。
その際に、町民の養父を斬って強奪しています。
叔父の未亡人を養母として、大坂で豊臣秀吉と対面。
家督相続と領地の安堵が認められました。
戸沢氏は西の安東氏、南の小野寺氏と争う角館4万5千石の大名でした。
関ヶ原の戦では東軍に属し、戦後は常陸国松岡藩4万石へ移されました。
少し減らされたのは、安東氏を警戒して消極的だったからだそうです。
戸沢政盛は徳川家譜代の鳥居忠政の妹を正室に迎えました。
その時期は1608年頃で、松岡藩主だった時期です。
当時の鳥居忠政は磐城平藩主で、南北でお隣同士だったようです。
・・・ザックリが長くなりましたあせる

1622年、最上家が改易され、鳥居忠政が山形藩主となりました。
旧最上領は鳥居家の縁戚で分けられ、戸沢政盛が新庄藩主となりました。
当初は鮭延城に入りましたが、山城で不便なため新庄城が築かれました。
以後、戊辰戦争に至るまで新庄藩主・戸沢氏の居城となります。

1868年、焼失し廃城となりました。

新庄藩は戊辰戦争で、当初は新政府に味方していました。
しかし、庄内藩との戦いに敗れてからは奥羽越列藩同盟方となりました。
新政府軍が庄内藩に攻め込むと、主寝坂峠で防いでいましたが・・・
秋田の久保田藩が新政府側につくことが判明したため、途中で戦線離脱。
これに怒った庄内藩により新庄城が攻められて焼失し、廃城となりました。
新政府軍が奪還するまでの70日間、新庄は庄内藩に占領されました。


所在地:山形県新庄市堀端町(最上公園・戸澤神社)

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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