2019/06/30
鶴丸城/宮城県栗原市
鶴丸城は半独立勢力だった富沢氏の城でした。訪問日は2017年8月6日です。

鶴丸城跡は公園となっており、主郭脇まで車で行けます。
主郭脇の駐車場からは、規模の大きさを窺わせる城塁が見えます。

駐車場から坂道を上がった所が、いきなりですが主郭です。
公園として整備されており、真夏でも気軽に訪ねることが出来ます。
・・・最近は熱中症が騒がれていますので、水分補給はコマメに


拡大表示
上の写真に写っている案内図です。
メジャーな所では、こんなにいいモノがあります

図を見ただけでは想像がつきませんが、とても巨大な城でした。
※尚、諸兄は「岩ケ崎城」という名前で紹介されています。
私は現地での表記を優先するので「鶴丸城」と書いています。

大きな城の主郭なので、それなりにかなり広いです。
その真ん中に、城址碑があります。

かなり凝った、とても個性的な城址碑です。
台座の所には、城についての説明も彫られています


主郭の南西側には、これまた大きな曲輪があります。
案内図で「2」と書かれているのが、眼下に広がる曲輪です。

その付け根には、ちゃんと堀切があります

2郭から主郭へは、かなりの急斜面を登らなければ行けません。
なので、移動阻止の堀切というより、向こう側への通路だったと思われます。

案内図でいう所のA郭を堪能したので、先のB郭へ進みます。
歩くと結構時間がかかるので、車でココまでワープしました。

拡大表示
ココにも公園の案内図があります。
この図では、真ん中上のちょっと右寄りの所に当たります。
上の案内図ではここから北に細長い曲輪が伸びていますが・・・
現地では道の外側に木が茂っており、全く見えませんでした(T_T)

反対側はB郭の城塁があり、畝状の竪堀がウネウネと迫ります

この竪堀群は、1591年に起きた九戸政実の乱の際に追加されたものです。
宮城県北端になると、こういう人物の名前も出て来るようになります。

東側の長い土橋の先に出っ張った感じの所がC郭群です。
ここからは上下2段の曲輪が見えます。

上の段の曲輪には、通り過ぎて戻る感じで上がれます。
でも、この階段は往時のもののようには見えません。
道が無い場合は、梯子が架けられていたかもしれません。

上の段の曲輪です。
まぁ、、、ですw

そのまた先に、土橋っぽく道が伸びています。

ここから先がD郭群です。
もはや普通の公園です。

でも、結構細長いです。
奥まで進むと、途中で右脇の異変に気付きました。

下から上がって来る道です。
往時はここから城に入った、いわゆる大手門的な場所のようです。
今なら少し下りて外からも見るのですが。。。
◆歴史◆
1400年頃、富沢道祐により築かれたと考えられています。
それ以前は下野を本拠とする宇都宮氏広の領地でした。
宇都宮氏広は不遇な時期の宇都宮氏で、鎌倉公方に振り回されていました。
そんな鬱憤が爆発して謀反を起こし、領地が没収されました。
宇都宮旧領の栗原郡は三分割され、三迫一帯が葛西氏の領地となりました。
そこに入ったのが富沢道祐(右馬助)でした。
富沢道祐は出自不詳ですが、葛西蓮性の第十子と伝わります。
その後、奥州探題吉良氏に従って領地をドンドン増やして行きました。
戦国時代の富沢氏は、葛西一族というよりも独立勢力でした。
富沢氏の領地は大崎氏の領地と接していました。
そのため、葛西氏と大崎氏の争いには必ず巻き込まれます。
大崎家の文書には「大崎家臣富沢日向守」と記されたものもあるそうで・・・
その時々の状況に応じて、分の良い方に味方したようです。
戦国時代末期の富沢氏は、葛西氏と敵対しました。
きっかけは1571年の大崎氏との戦で、葛西晴信が三迫を占領しました。
これは、謀反を繰り返す富沢氏を抑えようという意図のようです。
しかし、富沢直綱は1579年に「富沢兵乱」を起こしました。
緒戦は優勢だったものの、葛西晴信が出陣したことで敗れ降伏しました。
その後、1584年、1585年と続けざまに謀反を起こしては降伏しています。
そして1588年、大崎合戦では氏家吉継に味方して伊達政宗に従いました。
1590年には謀反で葛西晴信を奥州に釘付けにし、改易に追い込みました。
富沢武光は伊達政宗には仕えず、南部信直の家臣となりました。
1591年、豊臣秀次の陣所となりました。
奥州仕置きに反発した九戸政実が乱を起こしました。
その討伐に豊臣秀次や徳川家康、上杉景勝など全国から兵が集まりました。
この時に豊臣秀次が鶴丸城を陣所とし、改修が加えられました。
B郭群で見られる畝状竪堀群は、この時に造られました。
江戸時代は伊達家の岩ヶ崎要害となりました。
いつからなのかが?ですが、1591年に伊達領になったと思われます。
1613年、伊達宗綱が元服すると、岩ヶ崎要害3万石を与えられました。
しかし、伊達宗綱は3年後に16歳で没しました。
その後は異母弟・伊達宗信が城主となりましたが・・・
1627年、24歳の若さで世を去りました。
岩ヶ崎伊達家は、若い2人の2代で絶えました
石母田宗頼の城となりました。
石母田宗頼は越前朝倉氏の旧臣の子で、越前で小早川秀秋に仕えました。
小早川秀秋が筑前へ移った時に、伊達政宗の家臣となりました。
・・・出会いの経緯やらが?ですけど

伊達家では家老に相当する奉行職に就き、岩ヶ崎要害の主となりました。
この時に山城部分から麓の陣屋に移っています。
以後、短い年数で城主が入れ替わりました。
1694年以降、明治維新まで中村氏の城でした。
この時に城主となった中村成義は、元々は新田姓を名乗っていました。
新田成義は伊達綱村の乳母の子で、伊達綱村に重く用いられました。
徳川家への遠慮もあり、1690年に新田成義に伊達家の本姓が与えられました。
1694年、中村成義に岩ヶ崎が与えられ、以後は中村氏の居城となりました。
所在地:宮城県栗原市栗駒岩ヶ崎裏山 GPSログダウンロードページ
宮城県の城跡/なぽのホームページを表示 |