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鶴丸城/宮城県栗原市

鶴丸城は半独立勢力だった富沢氏の城でした。
訪問日は2017年8月6日です。

鶴丸城【1】

鶴丸城跡は公園となっており、主郭脇まで車で行けます。
主郭脇の駐車場からは、規模の大きさを窺わせる城塁が見えます。

鶴丸城【2】

駐車場から坂道を上がった所が、いきなりですが主郭です。
公園として整備されており、真夏でも気軽に訪ねることが出来ます。
・・・最近は熱中症が騒がれていますので、水分補給はコマメにあせる

鶴丸城【3】
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上の写真に写っている案内図です。
メジャーな所では、こんなにいいモノがあります合格
図を見ただけでは想像がつきませんが、とても巨大な城でした。

※尚、諸兄は「岩ケ崎城」という名前で紹介されています。
私は現地での表記を優先するので「鶴丸城」と書いています。

鶴丸城【4】

大きな城の主郭なので、それなりにかなり広いです。
その真ん中に、城址碑があります。

鶴丸城【5】

かなり凝った、とても個性的な城址碑です。
台座の所には、城についての説明も彫られています合格

鶴丸城【6】

主郭の南西側には、これまた大きな曲輪があります。
案内図で「2」と書かれているのが、眼下に広がる曲輪です。

鶴丸城【7】

その付け根には、ちゃんと堀切がありますラブラブ
2郭から主郭へは、かなりの急斜面を登らなければ行けません。
なので、移動阻止の堀切というより、向こう側への通路だったと思われます。

鶴丸城【8】

案内図でいう所のA郭を堪能したので、先のB郭へ進みます。
歩くと結構時間がかかるので、車でココまでワープしました。

鶴丸城【9】
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ココにも公園の案内図があります。
この図では、真ん中上のちょっと右寄りの所に当たります。
上の案内図ではここから北に細長い曲輪が伸びていますが・・・
現地では道の外側に木が茂っており、全く見えませんでした(T_T)

鶴丸城【10】

反対側はB郭の城塁があり、畝状の竪堀がウネウネと迫りますラブラブ
この竪堀群は、1591年に起きた九戸政実の乱の際に追加されたものです。
宮城県北端になると、こういう人物の名前も出て来るようになります。

鶴丸城【11】

東側の長い土橋の先に出っ張った感じの所がC郭群です。
ここからは上下2段の曲輪が見えます。

鶴丸城【12】

上の段の曲輪には、通り過ぎて戻る感じで上がれます。
でも、この階段は往時のもののようには見えません。
道が無い場合は、梯子が架けられていたかもしれません。

鶴丸城【13】

上の段の曲輪です。
まぁ、、、ですw

鶴丸城【14】

そのまた先に、土橋っぽく道が伸びています。

鶴丸城【15】

ここから先がD郭群です。
もはや普通の公園です。

鶴丸城【16】

でも、結構細長いです。
奥まで進むと、途中で右脇の異変に気付きました。

鶴丸城【17】

下から上がって来る道です。
往時はここから城に入った、いわゆる大手門的な場所のようです。
今なら少し下りて外からも見るのですが。。。


◆歴史◆

1400年頃、富沢道祐により築かれたと考えられています。

それ以前は下野を本拠とする宇都宮氏広の領地でした。
宇都宮氏広は不遇な時期の宇都宮氏で、鎌倉公方に振り回されていました。
そんな鬱憤が爆発して謀反を起こし、領地が没収されました。
宇都宮旧領の栗原郡は三分割され、三迫一帯が葛西氏の領地となりました。
そこに入ったのが富沢道祐(右馬助)でした。
富沢道祐は出自不詳ですが、葛西蓮性の第十子と伝わります。
その後、奥州探題吉良氏に従って領地をドンドン増やして行きました。

戦国時代の富沢氏は、葛西一族というよりも独立勢力でした。
富沢氏の領地は大崎氏の領地と接していました。
そのため、葛西氏と大崎氏の争いには必ず巻き込まれます。
大崎家の文書には「大崎家臣富沢日向守」と記されたものもあるそうで・・・
その時々の状況に応じて、分の良い方に味方したようです。

戦国時代末期の富沢氏は、葛西氏と敵対しました。
きっかけは1571年の大崎氏との戦で、葛西晴信が三迫を占領しました。
これは、謀反を繰り返す富沢氏を抑えようという意図のようです。
しかし、富沢直綱は1579年に「富沢兵乱」を起こしました。
緒戦は優勢だったものの、葛西晴信が出陣したことで敗れ降伏しました。
その後、1584年、1585年と続けざまに謀反を起こしては降伏しています。
そして1588年、大崎合戦では氏家吉継に味方して伊達政宗に従いました。
1590年には謀反で葛西晴信を奥州に釘付けにし、改易に追い込みました。
富沢武光は伊達政宗には仕えず、南部信直の家臣となりました。

1591年、豊臣秀次の陣所となりました。

奥州仕置きに反発した九戸政実が乱を起こしました。
その討伐に豊臣秀次や徳川家康、上杉景勝など全国から兵が集まりました。
この時に豊臣秀次が鶴丸城を陣所とし、改修が加えられました。
B郭群で見られる畝状竪堀群は、この時に造られました。

江戸時代は伊達家の岩ヶ崎要害となりました。

いつからなのかが?ですが、1591年に伊達領になったと思われます。
1613年、伊達宗綱が元服すると、岩ヶ崎要害3万石を与えられました。
しかし、伊達宗綱は3年後に16歳で没しました。
その後は異母弟・伊達宗信が城主となりましたが・・・
1627年、24歳の若さで世を去りました。
岩ヶ崎伊達家は、若い2人の2代で絶えました

石母田宗頼の城となりました。

石母田宗頼は越前朝倉氏の旧臣の子で、越前で小早川秀秋に仕えました。
小早川秀秋が筑前へ移った時に、伊達政宗の家臣となりました。
・・・出会いの経緯やらが?ですけどあせる
伊達家では家老に相当する奉行職に就き、岩ヶ崎要害の主となりました。
この時に山城部分から麓の陣屋に移っています。
以後、短い年数で城主が入れ替わりました。

1694年以降、明治維新まで中村氏の城でした。

この時に城主となった中村成義は、元々は新田姓を名乗っていました。
新田成義は伊達綱村の乳母の子で、伊達綱村に重く用いられました。
徳川家への遠慮もあり、1690年に新田成義に伊達家の本姓が与えられました。
1694年、中村成義に岩ヶ崎が与えられ、以後は中村氏の居城となりました。


所在地:宮城県栗原市栗駒岩ヶ崎裏山 GPSログダウンロードページ

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八幡館/宮城県栗原市

八幡館は屯岡八幡神社になっています。
訪問日は2017年5月6日です。

八幡館【1】

城跡の西側にある栗駒中学校です。
ここにはもともとたぶん八幡館の出城的な山がありました。
駐車できそうな所が無かったのでちょっと様子を窺がいましたが・・・
まだ朝の5時ですが、生徒さんが続々集結しつつありました。
意外と早起きなんですねあせる
ということで、少し先の道の反対側の幅の広い路肩に路駐しました。

八幡館【2】

八幡館跡への入口はココです。
取って付けた感がするのは、地続きだった山が無くなったからですネw
手すりの脇には「山岡八幡宮」とかかれたプレートがあります。
(「山」に見えましたが「屯」が正解でした)

八幡館【3】

階段は人一人がやっと通れる狭いものでしたが、その上の道は広いです。
しかも、頻繁に人が通っている感じがします。
中学校の目の前なので、運動部の子達が毎日ここを走ってるのかも。

八幡館【4】

階段から3分で、道端に横堀がありました。
道に対して垂直方向なので、もしかしたら堀切かもしれません。
ここから城域に入る目印ですラブラブ

八幡館【5】

なのですが、目立った遺構も見当たらないまま、道が続きます。
先ほどの堀跡から進むこと4分で、今度はこれが現れます。

八幡館【6】

今度も道に対して垂直方向の堀で、奥の方が高くなっています。
残念ながら、こちらはちょっと草深くて、堀跡があまり見えません。

八幡館【7】

2つ目の堀跡を過ぎると、間もなく神社が見えてきます。
ここが主郭です。
神社の周りだけ、一段高くなっています。
曲輪を段で区切るだけの、古い構造のお城だったようです。

八幡館【8】

主郭にある神社です。
山の上に広大な平地が広がっています。
・・・どこの山城でも同じ事書いてそうですあせる

八幡館【9】

反対側から見た所です。
若干水平でないのは、日常的な生活空間ではなかったからでしょうか?

八幡館【10】

社殿の真正面には、下りる道があります。
メインの参道はこちらですねあせる
こちらも足繁く人が通っている形跡があります。

八幡館【11】

平坦な事以外には城跡らしさも感じられないまま、鳥居に到着。
ここから先は下り坂となります。

八幡館【12】

何か堀や土塁的なものは無いかとしばらく進んでみましたが・・・
見事なまでに、何も見当たりませんでした。

八幡館【図】
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訪城記を書くにあたり、色々ググってみました。
ここを紹介してる方は少なかったです。
そんな中、栗原市役所様による発掘調査の報告書が出てきました。
(タダでPDFをダウンロード出来ました)
詳しい歴史なんかが書かれているのかな?と期待したのですが・・・
歴史についてはほぼ全く触れられていませんでしたあせる
その代わり、縄張図が出てきました。
売り物ではなさそうだったので拝借します恋の矢
私が通って来たのは、左から入って真ん中に至り、そこから下へ。
そのルートで描かれているのは、竪堀が2本だけです。
・・・竪堀だったんですねwww


◆歴史◆

延暦年間(782~806年の間)。坂上田村麻呂が陣を構えました。

坂上田村麻呂が蝦夷討伐の際、付近に陣を構えました。
これがこの辺りの地名である「屯岡」の由来なのだそうです。
坂上田村麻呂が蝦夷を討伐したのは、793年と801年の2回のようです。
Wikipediaで坂上田村麻呂の項を読んだ限りでは、そんな感じです。
それ以外にも、戦ではないものの陸奥には何度か来ています。
屯岡八幡宮の社伝では、この時に八幡神社が創建されたそうです。

天喜年間(1053~58年の間)、源頼義・義家父子が戦勝祈願しました。

この期間内では、1056年に安部軍と戦闘を開始した時の事と思われます。
以下ザックリ経緯を書くと・・・

1051年、源頼義が陸奥守となり陸奥に下向
1056年、任期満了により帰京中の源頼義を安部貞任が襲撃
1057年、黄海の戦で源氏軍が6騎にまで討ち減らされる大敗北
1061年、任期満了により源頼義は帰京
1062年、後任の高階経重が職務放棄で解任され、源頼義が陸奥守に再任
1062年、源頼義が出羽の清原氏の援軍を得て安部貞任を滅ぼす
といった感じです。

この中で1062年に源氏軍が清原軍と合流したのが、実はココです。
源氏軍3千、清原軍1万が集まって軍団の編成を行いました。
なので「康平5年(1062年)」だったらしっくり来るんですけどねあせる

石川氏が城を築きました。

安部氏討伐後、八幡館を与えられた石川為重が伏牛城を築きました。
伏牛城は、南側の出城っぽい所を指すようです。
石川氏は福島の石川氏とは全く別の家で、河内源氏の石川氏です。
石川源氏は源義家の五男・源義時を祖とします。
ただ、ココに来た石川為重とのつながりがさっぱりわからず。
石川氏はその後、3代目の石川重道が奥州藤原氏に仕えました。
そして、6代目の石川景親から葛西氏に仕えたそうです。
1590年、17代・石川重久の時に奥州仕置きで領地を失いました。
石川重久はこの時に帰農したと伝わります。


所在地:宮城県栗原市栗駒八幡字八幡(屯岡八幡神社)

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沢辺館/宮城県栗原市

沢辺館は葛西家臣・沢辺氏の城で、河岸段丘の上にありました。
訪問日は2017年8月6日です。

沢辺館【1】

沢辺館は公園となっており、城内の道沿いに駐車場があります。
この道はGoogle Mapには載っていませんが、車で通れます。

沢辺館【2】

車道を登ると、道端に鳥居があります。
鳥居の所から真っすぐな階段がありますが、まずはスルー。
駐車場の所はちょっと傾斜がありましたが、ここは真っ平です。

沢辺館【3】

さらに登ると、公園に入る道があります。
上から見ると、曲輪が段になっているのがよくわかります。

沢辺館【4】

右の道を進むと、公園に入ります。
一番高い所なので、ここが主郭と思われます。
写真右端に沢辺館の説明板があります。
ここには城の構造と歴史について書かれています。
南側の地続きの台地とは、元々は2本の堀で隔てられていたそうです。
しかし、小学校建設の際に埋められ、現在では見られないとのこと。
ということで、沢辺館は河岸段丘上の崖端城でした。

構造的には南側の領主が北からの侵攻に備えたように見えます。
ただ、実際にはここを奪われた沢辺氏は、一旦北に移っています。
そのため、川の交通を監視するのが目的だったのかもしれません。

沢辺館【5】

主郭をの奥には、忠魂碑と土塁の痕跡があります。

沢辺館【6】

先端部まで行くと、下の段に下りられるようになっています。

沢辺館【7】

ここから、2段の曲輪が見えます。

沢辺館【8】

段差はこんな感じで、人の背よりも少し低いくらいです。

沢辺館【9】

入口まで引き返し、車道を下ります。
道端には段になっている曲輪が見えます。

沢辺館【10】

最初にスルーした鳥居です。
ここにも上がってみました。

沢辺館【11】

主郭の次に広い曲輪で、奥には小さな石の祠があります。

沢辺館【12】

端には低い土塁の名残が見られました。

沢辺館【13】

駐車場の下からも、城塁に沿って入る所があります。
こうして見ると、だんだんと車道が不自然に見えてきました。
川岸から河岸段丘を上がるため、近世になってから造られたようです。

沢辺館【14】

ここは曲輪というより、城塁に沿った犬走りのようです。

沢辺館【15】

目の前に川が見えます。

沢辺館【16】

途中に、城塁を上がる道がありました。
やはり、車道は近世に通されたものですね。

沢辺館【17】

そのまま犬走りを進むと、下る道がありました。
往時は川岸から城内に通じる道がここにあったようです。

沢辺館【18】

端には虎口もありますラブラブ

沢辺館【19】

下から見ると、こんな感じです。
虎口の前がキツイ坂道の坂虎口ですねラブラブ
ここに搦手門があったのかもしれません。


◆歴史◆

葛西家臣・沢辺氏の城でした。

正治年間(1199-1201)に二階堂常信により築かれたと伝わります。
二階堂常信は沢辺姓を名乗り、4代にわたってココを居城としました。
一時期ここが大崎氏領となり、沢辺氏は退去しました。
大崎氏の祖・斯波家兼が奥州にやって来たのが1354年です。
この年代なら何とかギリギリ5代目ぐらいにはなりそうな感じですあせる
以後、沢辺氏は磐井郡の霞館のち、同郡内の蒲沢館に移りました。
磐井郡は岩手県最南端で、現在の一関市や平泉町の辺りです。

1576年、沢辺氏が復帰しました。

1573年に葛西晴信と大崎義隆が戦い、葛西軍が大勝しました。
それにより、大崎家臣の斐ノ城主・田野崎玄蕃が退きました。
斐ノ城は沢辺館の東北東約4kmの所にあった山城です。
再び葛西領になると、沢辺重光が沢辺館の城主となりました。

1591年、小野寺道行が城主となりました。

奥州仕置きにより葛西氏は領地を没収されました。
その後、木村吉清が領主となった後、伊達政宗領となりました。
沢辺新左衛門は伊達政宗にニ迫黒瀬村3貫239文で召し抱えられました。
その弟・藤兵衛は帰農して沢辺村内に住み、沢姓に改めたそうです。
新しい領主に気を遣っての事かもしれません。

沢辺館には、葛西旧臣の小野寺道行が入りました。
小野寺氏は宝永15年まで4代にわたって沢辺館に居たそうですが・・・
「宝永」は8年で終わってますあせる
宝永5年だとすると1708年で約100年なので、計算が合いそうです。
その後、小野寺氏は石越村の砂子館へ移っています。


所在地:宮城県栗原市金成沢辺館下 GPSログダウンロードページ

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伊治城/宮城県栗原市

伊治城は、奈良時代の朝廷が東北地方を統治するための拠点でした。
訪問日は2017年8月6日です。

伊治城【1】

国道4号線脇に、伊治城についての説明板があります。
この辺りだけ民家が無く、史跡保存のため残されているようです。
説明板の背後にブルーシートがあり、発掘調査をしていました。

伊治城【2】

ただ、この辺りは真っ平なだけで、城跡らしさは感じられません。
埋められているのかもしれませんけど・・・

伊治城【3】

遺構は600メートル程北で見られます。
その目印が、この大きな標柱です。
伊治城外郭北辺ということで、城域の北端のようです。

伊治城【5】

道端に大きな土塁があります。

伊治城【6】

土塁に沿って歩くと、外側が少し凹んで見えます。
かなり規模の大きなお城だったことがうかがわれます。


◆歴史◆

767年、蝦夷統治の拠点として築かれました。

海道を押さえる桃生城に対し、山道を押さえるためと紹介されています。
「海道」「山道」って何だろう?と思いましたが・・・
単純に「海に近い」「海から遠い」という感覚のようです。
当時の状況は、桃生城が774年に蝦夷に奪われています。
その7年前ということで、当時から朝廷への反乱が絶えなかったようです。

伊治城は在地の土豪・道嶋三山により、三旬も経ず完成したそうです。
「三旬」も普段使わない言葉ですが、上旬・中旬・下旬の三つです。
ということで、ひと月も掛からずに築き上げられたという事です。
それだけ事態が切迫していたという事でしょうか。

780年、伊治呰麻呂が反乱を起こしました。

伊治呰麻呂は「これはりの(これはるの)あざまろ」と読みます。
ココを拠点にした、朝廷寄りの蝦夷の長です。
朝廷から778年に外従五位下の官位を授けられ、上治郡大領となっています。
大領は郡の長というイメージだと思います。
当時の東北地方は、朝廷寄りの蝦夷に反抗的な蝦夷討伐をさせていました。
伊治呰麻呂は朝廷寄りで、陸奥按察使の紀広純に従っていました。
しかし、780年に伊治城内で牡鹿郡大領の道嶋大楯と紀広純を殺害。
伊治城を焼き払って兵を率い、多賀城に殺到し焼き払っています。

牡鹿郡大領の道嶋大楯は、蝦夷ではなく坂東から下向していたそうです。
一族には中央貴族で近衛中将まで昇進した者もいたそうで・・・
その事を鼻に掛け、蝦夷の伊治呰麻呂を馬鹿にしていたそうです。
紀広純には我慢して従っていたそうですが、プッツン切れたようです。
以後は蝦夷が一つになって団結し、朝廷に抵抗するようになります。

伊治呰麻呂のその後は消息不明となります。
朝廷は現地の蝦夷ではなく、直属の討伐軍を送るようになります。
そして次第に蝦夷を北に追い、次々に城柵を築きました。
陸奥国がやたらと広いのは、そのためなのだそうです。


所在地:宮城県栗原市築館城生野大堀、城生野唐崎

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宮野城/宮城県栗原市

宮野城は葛西一族・宮野氏代々の城と伝わります。
訪問日は2017年8月6日です。

宮野城【1】

宮野城は一迫川が広い平野に流れ出る所にあります。
江戸時代には宮野代官所が置かれ、中奥地方統治の拠点でした。
宮野城跡への西側の入口に、その代官所の跡があります。

宮野城【2】

代官所跡には小学校があったそうで、そっちの名残はプンプンしますw

宮野城【3】

代官所跡の目の前から山中に入る道があります。
その入口には「臥牛公園入口」の標柱が立っています。
この狭~い道を車で登ります。

宮野城【4】

道がどんどん怪しさを増すと、やがて車止めのチェーンが現れます。
ここまでは車で登ってくることが出来ます。
周りの景色に溶け込んでいるので、突っ込まないよう気を付けましょう。

宮野城【5】

車止めの前はこんな感じで広くなっており、安心して駐車出来ます。

宮野城【6】

車止めからは徒歩での登城となります。
元は車道のようで、とても歩きやすいです。
車止めから歩くこと1分程で、大きな平面が見えてきました。

宮野城【7】

その入口に石碑があります。
右側の石碑には宮野神社、宮野重信公之●と彫られています。
写真を拡大して頑張りましたが、最後の一文字が読めませんでした。
そういうの現地で読もうよなんて、正論過ぎて反論出来ませんあせる

宮野城【8】

この石碑の脇に、城址標柱がありますラブラブ

宮野城【9】

入口があるこの大きな平坦面が、いきなりですが主郭です。
小さなお城だと思っていましたが、なかなか広いです。
さすがは葛西一門のお城です。

宮野城【10】

真ん中まで来ると、奥に土盛りに乗った石碑が見えます。

宮野城【11】

これが一番奥の土盛りに乗っかっている石碑達です。
真ん中のは忠魂碑で、手前と奥は何かです。
(*^▽^*)なんて駆け寄って撮るクセによく見ていませんあせる

宮野城【12】

石碑の所が一番奥に見えましたが、その左脇から奥へと道があります。
この石碑が乗っかっている土盛り、実は土塁です。

宮野城【13】

土塁の向こう側には堀切があり、通路がカギ形に曲がっています。
堀切も兼ねた虎口のようですラブラブ

宮野城【14】

堀切の向こう側にも広い曲輪があります。
ここが二郭です。
並び順からすると、本当はこっちから入るのが正解ですね。

宮野城【15】

城跡は公園として整備されているので、とても見やすいです。
ただし、一歩外側はこんな感じで深い藪に埋もれています。


◆歴史◆

宮野氏の城でした。

平安時代末に、藤原秀衡により築かれたと伝わります。
近くに奥州藤原家臣の残党が立て籠った姫野館があります。
平野部の北端なので、南からの軍勢を迎え撃つのに良さげではあります。
真偽の程は、ご想像にお任せとなりますあせる

もっともらしい築城時期は、鎌倉時代となります。
1190年の奥州合戦後、葛西清重に奥州の広い地域が与えられました。
葛西清重の子・重信にこの地を与えられ、宮野氏の祖となりました。
その時期は1250年頃とされます。
以後、1590年の奥州仕置きまで、宮野氏が居城としました。

1591年、葛西氏の旧領は、伊達政宗に与えられました。
宮野氏は伊達政宗に仕え、江戸時代は仙台藩士として続いたそうです。
宮野城の西麓には代官所が置かれ、中奥地方統治の拠点となりました。


所在地:宮城県栗原市築館下宮野館

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

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