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姫松館/宮城県栗原市

姫松館は、ガッツリ系の土の城です。
訪問日は2017年5月6日です。

姫松館【1】

姫松館は真坂館のすぐ東にありました。
真坂館跡にある龍雲寺に入る道の反対側が、姫松館への道です。

姫松館【2】

道の反対側に見えた、姫松館の案内ですラブラブ

姫松館【3】

車でそのまま入口にある曲輪まで乗って行けます。

姫松館【4】

いきなり横堀になりそうな感じと

姫松館【5】

横堀とが視界に飛び込んで来ます。

姫松館【6】

まだココですw

姫松館【7】

上の四阿のある曲輪に案内図があります。

姫松館【8】

ザックリな感じですけどw

姫松館【9】

まぁでも、1分でいきなり二重堀切が現れますラブラブ

姫松館【10】

その先にある虎口さん

姫松館【11】

その脇にある横堀さん

姫松館【12】

ズームの広角側でも収まらなかったので、iPhone様でパノラマ撮りました^^

姫松館【13】

虎口さんを上がると、右奥に向かって長い曲輪があります。
下の地図で、真下に向かって伸びている赤い線がこの曲輪です。

姫松館【14】

細長い曲輪の右側(西側)にだけ土塁が連なっています。
西側からの攻撃に備えた構造のようです。

姫松館【15】

その先端部に、断崖の標柱があります。
城跡で断崖というと暗~い逸話ばかりですが・・・
ここのはそうでもありません。
後ほどゆっくりラブラブ

姫松館【16】

南側の細長い曲輪を先端から振り返るとこんな感じです。

姫松館【17】

細長い曲輪の付け根にある横堀です。
駐車場から1分で現れた虎口の左脇にいた子です。
次は、ここを右に曲がります。
虎口から見るとまっすぐ方向です。

姫松館【19】

東へ向かって、細長い構造になっています。
回れ右してすぐに虎口と堀切があります。

姫松館【20】

堀切だと思っていたのは、先ほどの横堀さんでしたあせる

姫松館【21】

東側は、堀切を土橋で渡るような感じの繰り返しになります。

姫松館【22】

ここからしばらくは、城跡の光景をお楽しみ下さいラブラブ

姫松館【23】

姫松館【24】

姫松館【25】

姫松館【26】

姫松館【27】

だいぶ東の方まで進みました。
まだまだ終わりそうにありません。
宮城県ではかなりオススメの城跡の一つです。


◆歴史◆

奥州藤原家臣・湯山雅楽充の城と伝わります。

史料によっては「井山雅楽之丞」とも表記されます。
1190年、奥州藤原家の旧臣・大河兼任が出羽で挙兵しました。
その勢いは凄まじく、出羽から津軽を経て平泉を占拠する程でした。
その軍勢が、姫松館で鎌倉からの討伐軍を迎え撃ちました。
ここで奥州残党軍は敗れ、逃れた大河兼任は木こりに討たれました。
尚、この落城の際に、千代姫が崖から傘をさして逃げ延びたと伝わります。
察するに、ここの名前はこの伝承に由来しそうな感じです。

ここの城主・湯山雅楽充は源頼朝軍に降伏し、以後は関東に移りました。
移った先は上総国で、大崎の足利氏に仕えました。
これが後の大崎氏で、斯波家兼に従って奥州に戻って来ました。
ただし、居城としたのは大崎市の湯山城で、ココではありません。

構造が平安時代っぽくないので、戦国時代まで使われたかもしれません。
そうなると、真坂館を本拠とした狩野氏の城だった可能性があります。
狩野氏は源頼朝に従い、1190年にこの辺り一帯の地頭となりました。
もともとが伊豆の武士なので、いつ移って来たのかが不明確です。
確かな所では、斯波家兼とともに狩野詮真が奥州に来ています。
狩野氏は、真坂館を本拠として一迫川流域各地に一族を配しました。
戦国時代には主家の大崎家から養子を迎える重臣でした。
真坂館はそんな家柄には似合わない小さな城でした。
もしかしたら、姫松館を詰城として整備した可能性があるかもしれません。


所在地:宮城県栗原市一迫真坂字寺東(姫松城址公園)GPSログダウンロードページ

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真坂館/宮城県栗原市

真坂館は狩野氏の本拠とされ、主郭に政岡の墓があります。
訪問日は2017年5月6日です。

真坂館【1】

真坂館へは、龍雲寺から登ります。
このお寺は、江戸時代にココに来た白河氏の菩提寺です。
実はここも曲輪の1つなのだそうですあせる

真坂館【2】

城跡への案内は無いので、主郭にある政岡の墓を目指します。

真坂館【3】

その途中、道の脇に小さな平場が設けられています。
ここに、白河氏の前の城主・富塚氏のお墓があります。

真坂館【4】

およそ5分程階段を登ると、平らな場所に出ます。

真坂館【5】

主郭の手前にあるココ、絶対に虎口ですね恋の矢

真坂館【6】

主郭には、政岡の墓があります。
元々は別の場所にありましたが、昭和のはじめ頃にここに移されました。
「政岡」は江戸時代に流行った浄瑠璃の登場人物で、実名ではありません。
誰がモデルとなったのか、未だに確定していませんが・・・
長くなりそうなので、詳しくは後ほどあせる

真坂館【7】

主郭は政岡の墓のおかげで綺麗に整備されています。
しかし、平坦面は藪の中にも続いています。

真坂館【8】

奥まで進むと1メートル程の段差があり、平坦面が続いています。

真坂館【9】

その奥に、かなり大きな堀切がありますラブラブ
上から見た写真ではよくわかりませんが・・・

真坂館【10】

こんな感じです恋の矢恋の矢恋の矢

真坂館【11】

堀切の向こう側が二郭です。
ただ、ここは政岡のお墓以外は整備されていません。
まだまだ城域は広いのですが、これ以上の探索は出来ませんでした。


◆歴史◆

狩野氏の城でした。

築城時期は不明ですが、伊豆を本拠とした狩野氏の城でした。
1189年の奥州合戦の功により、狩野行光に一迫一帯が与えられました。
ただし、すぐにはこちらには移らなかったようで・・・
奥州に移って来たのは、南北朝時代の狩野詮真とされます。
以後、周辺勢力との縁組を重ね、一族を各地に配置しました。
戦国時代はじめ頃には大崎教兼の三男を養子に迎えています。
跡を継いだ狩野刑部少輔は、地名をとって一迫姓を名乗るようになります。
1588年にあった大崎合戦では、氏家吉継が伊達政宗に内通しました。
この時、一迫隆真も氏家吉継と行動をともにしました。
1590年、大崎義隆は奥州仕置により改易されて領地を失いました。
一迫隆真も領地を失い、後に伊達政宗に召し出されて500石を与えられました。
しかし、跡を継ぐ子が無く、一迫氏は断絶しました。

1591年、伊達家臣・富塚氏の城となりました。

初代城主は富塚宗綱です。
富塚宗綱は人取橋の戦などで活躍し、伊達家の宿老を務めました。
その孫・富塚重信は検地総奉行を務め、仙台藩郡村制度を基礎を築きました。
1660年にあった伊達騒動後、奉行職に就いています。
仙台藩でも特に重臣中の重臣でしたが・・・
1717年、富塚重標が領地を没収され、水沢に配流されました。
何が起きたのか知りたかったのですが、ググっても何も出てきませんでしたあせる

1718年以降は白河氏の城となりました。

白河氏は戦国時代に宗家を乗っ取った小峰義親の子孫です。
小峰義親は佐竹氏に従っていましたが、1589年に伊達政宗に鞍替えしました。
しかし、伊達政宗の指示で小田原に参陣せず、翌年に領地を失いました。
その後はしばらく流浪の身となり、各地を転々としましたが・・・
1601年に伊達政宗を頼り、仙台藩の客分となっていました。
小峰義親の孫・白河義実から正式に仙台藩の家臣に取り立てられました。
真坂館を与えられたのは白河義実の子・白河宗広です。
以後、明治時代に至るまで、仙台白河家の居城となりました。

白河義実の正室が『政岡』のモデルの一人と考えられています。

主郭にある政岡の墓は、白河義実の正室・高流院のものです。
政岡は江戸時代に流行った歌舞伎『伽羅先代萩』の登場人物です。
『伽羅先代萩』は伊達騒動を描いたもので、政岡は重要な役割を果たします。
伊達騒動は仙台藩主・伊達綱宗の強制隠居に端を発します。
伊達綱宗は金遣いが荒く、仙台藩の財政が一気に破綻しました。
奉行達は諫めましたが聞き入れられず、幕府より隠居を命じられました。
1660年に伊達家を継いだのは、まだ2歳の伊達綱宗の子・亀千代でした。
まだ幼子のため、祖父・伊達忠宗の弟・伊達宗勝が後見人となりました。
伊達宗勝は伊達政宗の十男です。
歌舞伎では、仙台藩乗っ取りを企てた伊達宗勝が幼主の命を狙いました。
その悪事を防いだのが、亀千代の乳母・政岡でした。
政岡は自分の子に亀千代の食べ物の毒見をさせていました。
・・・もう何があったかわかりますよねあせるあせるあせる
ただし、白河義実の実在の子は、無事家督を継いで77歳まで生きています。


所在地:宮城県栗原市一迫真坂字館(龍雲寺) GPSログダウンロードページ

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赤松館/宮城県栗原市

赤松館も狩野氏の城で、藪の中に遺構が残っています。
訪問日は2017年5月6日です。

赤松館【1】

赤松館へは、北の鉄塔からと南の神社から行けます。
私は往時の登城路を辿れればと、南の神社から登りました。
神社へは、川沿いの道を西へ進むと割とすぐにここに辿り着けます。

赤松館【2】

神社までは歩きやすい道があり、車を降りて2分で着きます。
ただ、ちゃんとした道はココまで。
境内を見渡しても、山の中に入っていく道が見当たりませんでした。

赤松館【3】

当時はちょっとした工事中で、青いネットの裏に道がありました。
道とは言っても、獣道以上、登山道未満な感じです。
ここはまだ道筋が見えますが・・・

赤松館【4】

10分程登ると、両脇から草木がちょっかいを出してきますクローバー
当日は時々雨粒が落ちてくる天気で、傘を差しながら歩きました。
・・・かなり歩きづらかったですあせる

赤松館【5】

そのうちに足元の踏み跡も見えなくなり・・・
とりあえず高い所へ~という方針で登りました。
すると、目の前に横一線の土の壁が!

赤松館【6】

そう思って土の壁を越えると、そこには舗装された道がありましたw

赤松館【7】

舗装された道を進むと、突き当りに鉄塔がありました。

赤松館【8】

さて、城跡は藪の中だし、どこから戻ろうか?と思いました。
道端にピンクの目印が付いているのを見つけました。
目印はあるものの、普通に歩けそうな道は無し。
そこだけ多少藪の密度が薄いような気はしますが・・・

赤松館【9】

入口の藪をくぐると、階段が見えました。
どうやら麓から鉄塔への道があるようです。

赤松館【10】

そのまま進むと、今度はちゃんとした土塁がありましたラブラブ

赤松館【11】

さらに、虎口のような堀のような土の造形も。

赤松館【12】

なんとなく高い所に上がると、台のような感じでした。
曲輪でしょうか?

赤松館【13】

さらに奥へ進むと、バッチリ大きな台地の裂け目がありました。
深さは3、4メートル程あり、誰が何と言おうと堀です恋の矢

赤松館【14】

一時はどうなるかと思いましたが、収穫アリでした(*´▽`*)

赤松館【15】

堀のそばに、こんな土のテンコ盛りがありました。
櫓台かもしれませんが、見晴らしは・・・
色々と凸凹は見れましたが、構造はよくわかりませんでしたあせる

赤松館【16】

で、ドコに居るのかわからなくなり、テキトーに下りました。
横から登った時の道に出てひと安心ですあせる


◆歴史◆

はじめ佐藤継信、のち狩野弥三郎の城と伝わります。

佐藤継信は奥州藤原氏の家臣で、源義経四天王の一人です。
確かにこの辺りは佐藤氏の支配地域だったかもしれませんが・・・
佐藤継信は、現在の福島市一帯を本拠とした佐藤基治の子です。
ここら辺りの佐藤氏は、淵牛館を本拠としていたと思われます。
系統は近いのですが、数代前に分かれた家系です。
親戚なので可能性が無いとは言いませんが、ちょっと考えにくいです。

狩野弥三郎については何もわからずあせる
狩野氏は奥州藤原氏滅亡後、この辺りを与えられた伊豆の御家人です。
室町時代はじめ頃に斯波家兼に従って下向し、真坂館を本拠としました。
大規模な堀や土塁があることから、戦国時代まで使われたと思われます。


所在地:宮城県栗原市一迫嶋躰字門前 GPSログダウンロードページ

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川口館/宮城県栗原市

川口館は八雲神社の裏にありました。
訪問日は2017年5月6日です。

川口館【1】

八雲神社の入口です。
回れ右すると、道沿いに家が立ち並んでいます。
目の前の用水路が、城キチ的には脳内でもっと広く深く・・・w

川口館【2】

神社までは、こんな感じで山道が続いています。

川口館【3】

八雲神社です。
綺麗にお手入れされています。
地元の方がよくお参りされているようです。
まとまった平場なので、曲輪の1つだったのかもしれません。

川口館【4】

さて、神社までは道がありましたが、そこから先はただの山です。
はて、城跡はどこだろう?と周りを見たら、すぐ脇がこんなでした。
上の方が平らになっているのでココっぽいですが・・・

川口館【5】

上の平らな面まで高さは5メートル程なので、斜面を登りました。
こんな感じで木々の間隔が適度に空いており、登りやすかったです。

川口館【6】

上の平らな面です。
思っていたよりもかなり広かったです。

川口館【7】

やや細長い形なので、奥へと進んでみました。
すると、1メートル程の段差がありました。

川口館【8】

その奥に、大きな堀切ハッケン(*´▽`*)

川口館【9】

深さは5メートル程の、かなり大きな堀切でした。
ここで曲輪の細長い地形がブッた斬られています。
堀切の長さは20メートル程あります。

川口館【10】

堀底に下りて右へ進むと、こんな感じになっていました。
堀切の底が通路のようで、その端が虎口っぽい感じになっています。
神社から登る道が無かったのは、裏側だったからのようです。
おそらく、集落から回り込んでココに至る道があったものと思われます。


◆歴史◆

狩野修理の城でした。

わかっているのはこれだけです。
「かのうしゅうり」のルビごとコピペされたサイト様がちらほら。
しゅうり・・・超気になりますwww
※歴オタなら「しゅり」と読みます
狩野修理が大崎義隆に仕えていた、なんてサイト様が1つだけありました。
その通りであれば、1590年に奥州仕置きを受けたことになります。

狩野氏は、真坂館を本拠とした一族です。
1189年の奥州合戦で功を立て、一迫川流域を与えられました。
室町時代に入り、狩野詮真が斯波家兼とともに下向したようです。
以後、周辺勢力との縁組を重ね、一大勢力となりました。

狩野氏には大崎教兼(1430~70年代に活動)の子が養子に入りました。
以後、真坂館の狩野氏は地名をとって一迫姓を名乗るようになります。
1588年の大崎合戦で伊達政宗に味方した一迫隆真が知られています。


所在地:宮城県栗原市一迫川口中町字町裏 GPSログダウンロードページ

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淵牛館/宮城県栗原市

淵牛館は、安部貞任が朝廷軍と戦った城跡です。
訪問日は2017年5月6日です。

淵牛館【1】

淵牛館跡の駐車場です。
こんなに人が来るのか?というぐらいにとても広いです。
きっと何か定期的に大きなイベントがあるに違いありません(`・ω・´)
無いかもしれませんが・・・

淵牛館【2】
拡大表示

遊歩道の入口にある説明板です。
図だけパクろうと思いましたが、あまりにザックリで断念しましたあせる
でも、この図のおかげで見事な遺構を見ることが出来ました合格

淵牛館【3】

駐車場からは、きれいに整備された道が続きます。

淵牛館【4】

城跡なんだし、きっとそれっぽいものがあるはず!
そう期待しながら進むと、1か所だけ「堀切?」という所がありました。

淵牛館【5】

そうこうする内に、一番高い所に到着あせる
あれ?もしかしてこの先?と、道を下ってみました。
下った先は、ただの下り道でした。

淵牛館【6】

チッ、期待外れカヨなんて帰ろうとした時、もう1本の道がありました。
一気に下るもう1本の道は、元来た道から遠ざかる感じでした。
しかし、ここで入口で見た案内図を思い出しました。
案内図では、道が輪になって元の所の戻れる感じで描かれていました。
どうせなら!と、先程よりもより山道らしい方へ進んでみました。

淵牛館【7】

すると、下る道の左下に、横堀っぽいのが見えてきましたラブラブ

淵牛館【8】

もう少し進むと下りやすい所がありました。
堀底大好き人間な私は、しばし堀沿いに歩いて堪能しました恋の矢

淵牛館【9】

道沿いの堀が外側なら、と、道の反対側も攻めてみました。
構造はよくわかりませんでしたが、それっぽい土の造形はありました。

淵牛館【10】

もうどこだか忘れちゃいましたが、半円型の横堀もありました爆  笑


◆歴史◆

安部頼良により築かれたとされます。

安部頼良は平安時代の人物で、奥州を広く支配していました。
淵牛館はその子・安部貞任の居城で、当時は華山城と呼ばれていました。
(某大聖典では「花山館」として紹介されています)
安部貞任というと、どうしても村田雄浩さんの顔が思い浮かびますw
安部氏は朝廷に逆らう事が多く、そのため討伐されました。
1051年、朝廷は藤原登任を総大将として安部氏を攻めました。
安部軍は鬼切部の戦でココを拠点とし、藤原軍を撃退しています。

1062年、落城しました。

安部氏討伐に失敗した藤原登任は解任され、源頼義が奥州に下向しました。
安部頼良は源頼義を歓待し、名が同じ読みであるため安部頼時と改めました。
しかし、源頼義は色々と難癖をつけ、最終的には安部氏を討伐しました。
その中の局地戦として、ココでも戦がありました。
安部貞任はココに籠城し、源頼義軍と戦いました。
しかし、勝敗が決すると、安部貞任は裏手から逃れて衣川へ退きました。

佐藤氏の城となりました。

奥州安部氏滅亡後は、源頼義の家臣・佐藤公清の城となりました。
佐藤公清は藤原秀郷の子孫で、曾孫には西行法師がいます。
佐藤氏は奥州藤原氏に仕え、甥の子孫・佐藤基治が信夫郡で活躍しました。
奥州藤原氏が滅ぼされた後、佐藤信隆が葛西氏に仕えるようになりました。
佐藤信隆は淵牛の地を安堵され、以後も代々淵牛館を居城としました。
佐藤氏は葛西氏の後、大崎氏、伊達家重臣の遠藤氏に仕えています。
廃城時期は「伊達政宗の頃」とだけ紹介されています。
おそらく、1615年の一国一城令ではないかと思われます。


所在地:宮城県栗原市花山字本沢渕牛 GPSログダウンロードページ

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

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