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芥川山城/大阪府高槻市

芥川山城は三好山に築かれた城でした。

2017年4月に続日本100名城に選出されました。

訪問日は2018年12月23日です。



【2】芥川山城



芥川山城は私有地にあり、公園ではありません。

そのため、登城者専用の駐車場はありません。

よく紹介されているのは、南側の有料駐車場です。

そちらからも城跡に行けますが、ちょっと距離があります。

私は北側にある、摂津峡公園の上ノ口駐車場から登城しました。

駐車料金は南側と同じ1日1000円で、近くの漁業組合で支払います。



【3】芥川山城



駐車場から100メートル程西へ進むと、城跡への入口があります。

南側の案内よりも、案内らしい案内です。

こちらには説明板と縄張図まであります。

南側の塚脇バス停の説明板群に負けていません(`・ω・´)



【4】芥川山城



ただ、こちらからの登城はマイナーなせいか、道は細いです。

しばらくは芥川沿いのこんな所を通ります。

ロープが張られていないと、怖くて通れません。



【5】芥川山城



案内の所から400メートル程山道を進むと、正面に別の道が見えます。

これが南から上がってくる道です。

落ち葉が積もっておらず、歩いて来る人が多いのがわかります。

北側からの道は比高も距離も少ないですが、落ち葉が沢山ありますw



【6】芥川山城



ここから、獣避けフェンスに沿って山中に入る道があります。
黄色のテープにマジックで「↑三好山(芥川城跡)」と書かれています。

ただ、左側には「倒木多く通行不可」とも。

先にスタンプ押したしろあと館でも、城跡は入れないと言われました。

2018年9月の台風被害で倒木がひどく、復旧が終わっていないと。

そのため、せめて入口だけでも、というつもりで訪ねました。

その入口がココですが、立入禁止などのバリケードは無し。

とりあえず「行ける所まで」のつもりで進みました。



【7】芥川山城



入口からすぐの左側に、最初の平坦地があります。

ペッタンコで防御性ゼロですが、きっと何かあったに違いありません。

と、当たり障りのない事を書いてますあせる



【8】芥川山城



続いて曲輪群の案内が。

何もなければただの山林ですが、道の右側に何となく段差が見えます。



【9】芥川山城



ハッキリ見えたのはここで、皆さん一度ここに上がってるようです。



【10】芥川山城



ここから上の段を見てみると、中は平坦になっています。

手入れされているようで、小さな墓碑があります。



【11】芥川山城



さらに進むと、左側にかなり目立つ竪土塁が現れます。

この向こう側が竪堀-堀切になっています。

堀の外側に土塁があるのは珍しいと思います。



【12】芥川山城



竪土塁のすぐ先に、パッと見てわかる土橋があります。

こうやって見ている位置の右脇には、土塁で囲まれた曲輪があります。

まだまだ進める!と期待が膨らみます。



【13】芥川山城



土橋の向こう側はこんな風に切通しになっています。

おそらく虎口と思われます。

城の主要部の入口のようで、かなり凝った造りとなっていますラブラブ



【14】芥川山城



虎口から入ってすぐの所に、フェンスに沿って歩いた跡があります。

左側はちょっとこんもりした曲輪のようです。

事前に用意した図では、この裏側の先端に石垣が描かれていました。

これはもう、見に行くしかありません!



【15】芥川山城



弧を描いたフェンスに沿って進むと、行き止まりになっていました。

ここは入れないのかと少しガッカリし掛けましたが・・・

黄色い紐で簡単に結んであるだけなのが見えました。

ここは開けてもいい獣避けフェンスでしたラブラブ



【16】芥川山城



フェンスの先は、こんもり曲輪を帯曲輪が囲んでいました。

規模はとても小さいですが。



【17】芥川山城



ただ、奥へ進むとこんな感じで、倒木が折り重なっています。

こんなのを乗り越えること三度・・・w



【18】芥川山城



アニメで見る崖の先端のような所に辿り着きました。

先端から下を見ると細尾根状になっており、歩いた形跡があります。

上からは石垣は見えませんでしたが・・・



【19】芥川山城



下りてみたら、足元が石垣でした合格



【20】芥川山城



ここで初めて見た石垣に興奮しつつ、元の道に戻ります。

すると、すぐにコンクリート製の小さな碑が見えました。



【21】芥川山城



この碑には「史蹟城山城跡」の文字が。

裏には高槻市教育委員会とありました。



【22】芥川山城



小さな城址碑のすぐ脇から、下りる道が分岐していました。

その両脇に例の文字が書かれた黄色テープ。

そこには

「大手門石垣40m下る」

「石垣周辺まで降りれる」

「その下倒木多く通行不可」

と書かれていました。

もちろん見に行きました。



【23】芥川山城



道端に例の黄色テープで案内があります。

ここでキョロキョロしたらありました!

斜面の土から石垣が顔を覗かせていますラブラブ



【24】芥川山城



石垣だけアップで撮るとわかりませんが、周りはこんな感じです。

木が幾重にも倒れ、石垣をあわや直撃という所まで迫っています。

道の柵は潰れ、周辺の獣避けフェンスも大破していました。

よくぞ直撃を免れたものですε=(´∀`*)



【25】芥川山城



大手門石垣からまた元の位置に戻り、先へ進みます。

進める所だけ見るつもりが、かなり奥まで進めていました。

石碑の所から道の先を見るとこんな感じです。

道を倒木が塞いでいますが、通れなくはありません。



【26】芥川山城



さらに進むと正面の台地に上がり、平坦面の上にもう一段あります。

そこへ上がる道も、こんな感じで倒木が塞いでいます。



【27】芥川山城



倒木を避けて上がると、さらにもう一段。



【28】芥川山城



一番高い所へ上がる道も倒木が塞いでいました。

しかし、ここの倒木は分断され、上の枝に「出入口」と書かれています。



【29】芥川山城



出入口から上がった所が主郭です。

祠を中心に説明板やイラストが設置されています。

先ほどの倒木が、画面右端から中央にかけて写っています。



【30】芥川山城
拡大表示



せっかくなので、力作をパクリます



【31】芥川山城



主郭は、西・南・東をこんな腰曲輪に囲まれています。



【32】芥川山城



主郭を奥まで進むと、左脇から下りる道があります。

図では、主郭の北側に堀切が描かれていました。

堀切様に逢へる!ということで、ルンルン気分で下ります。



【33】芥川山城



下りた所は小さな曲輪で、「形の土塁がありました。

土塁の裏はアレ!



【34】芥川山城



と思いましたが、ここにはありませんでした。

ここの曲輪の先に



【35】芥川山城



いらっしゃいましたラブラブ

深さは3メートル程です。



【36】芥川山城



この先にさらに曲輪があり



【37】芥川山城



その先端下にもいらっしゃいましたラブラブ



【38】芥川山城



主郭部に別れを告げ、さらに奥へと進んでみました。

図では、左下に大土塁が描かれています。

入口だけでも見られればと訪ねてみましたが、欲が出てきました。



【39】芥川山城



奥への道を進むと、間もなく例の黄色テープで「堀切」の案内が。

普通に気づきませんでしたが、道の脇を見たらこんな感じでした。

道は凹んでいませんでしたが、道端から竪堀になっています。



【40】芥川山城



このすぐ先にかなり広い平坦地があります。

ここが田ノ丸と呼ばれる曲輪です。

位置的には、大土塁の真上にあります。



【41】芥川山城



田ノ丸の左脇に、斜面を下る道があります。

その道の入口に「この先キケン 倒木処理中」と黄色テープ。

本当にダメな所には「立入禁止」がありました。

じゃぁラブラブということで進みました。



【42】芥川山城



割とすぐにこんな風になりましたけどクローバー

道を倒木が覆っているだけではなく、一部崩れている所もあります。

まぁ、いつも通りなので、気にせず道を辿って下りました。



【43】芥川山城



谷間に沿って道を下ると、右側にこんな光景が見えました。

どう厳しい目で見ても、人の手が加わっています。

直感的にコッチ♡と思い、こちら側へ入って行きました。

ココは土塁ではありませんが、奥へ道が続いていました。



【44】芥川山城



奥の道を進むと、三角形の平坦地の先端に出ました。

奥の斜面、ちょっと違和感ありませんか?



【45】芥川山城



裏に回るとこうなっていました。

ここが大土塁ですね(=^・^=)

ということで、立入禁止の所を避けつつ、ほぼ全部見て来れました。

大土塁からは何となくの踏み跡を辿って上に行こうとしましたが・・・

踏み跡はすぐに消え、倒木ランドとなりました。

来る時に下った谷間がすぐ脇に見えたので、そっちに渡って戻りました。



入口に戻る途中で、土橋脇の曲輪にチェーンソーの人が居ました。

ヘルメットには黄色テープにも書かれていた「GF」の文字。

城跡を管理されている方でした。

たった1人で倒木を処理して大変そうでしたが、話し掛けてみました。

まずは主郭までの道を確保する所から始められたそうです。

「遠くから見に来てくれはる方もいるから」
ということで。

竪土塁は見える所は無事ですが、下の方は倒木でやられているそうです。

お別れ際に「ありがとうございます」とお礼を言いました。



【46】芥川山城



さて、私は北側から登ったのですが、南側のバス停も気になっていました。

歩いて下って来ましたが、バス停のすぐ先にちょっとなら停められそう。

北側の駐車場から車で来ればよかったです。

・・・というのは、来てみなければわからない事ですあせる



【47】芥川山城



バス停にはこのように、説明板やペーパー類など色々あります。



【48】芥川山城

拡大表示



一番右側の説明板には、この実測図が載っています。

北側のは南が上でしたが、南側のココのは北が上です。

登城路は東側にあり、北と南への道があります。





続日本100名城スタンプ設置場所
【スタンプ】芥川山城【1】芥川山城
 高槻しろあと館 https://www.google.com/maps/d/view?mid=10KIJ_slsripNqsOC5f0vzC0h20w&ll=34.84468066031738%2C135.62304492883607&z=19" style="color:#009900" target="_blank">地図

 開館時間 10時~17時(入館は16時半まで)

 休館日 月曜(祝日の場合開館)、祝日の翌平日、12月28日~1月3日

 入場料 無料




◆歴史◆



バス停の説明板からつまんで行きます



1516年までに細川高国が築きました。



細川高国は細川宗家である吉兆家の15代目の当主です。

養父が暗殺された後、同じ養子の細川澄元と一進一退の攻防が続きます。

芥川山城はこの頃に、摂津支配を強化するため築かれました。

城主には能勢頼則が任命されました。

能勢氏は摂津源氏の子孫で、摂津では有力な国人衆でした。

細川高国は将軍・足利義稙さえも出奔させ、幕府を牛耳りました。

しかし、讒言を信じて重臣の香西元盛を殺したことから歯車が狂います。

1526年、細川澄元の子・細川晴元や三好元長に攻められ京を奪われます。

その後、各地を転々とした後、1531年に捕まり自害に追い込まれました。

以後、摂津は細川晴元の支配地となります。



1553年、三好長慶が入城しました。



能勢氏は3代にわたり城主だったようですが、詳細はわからず。

1526年に細川高国が敗れた頃に去ったのか、細川晴元に従ったのか・・・

1547年、三好長慶が四国から兵を率いて細川晴元を攻めました。

細川晴元は戦に敗れ、一時京を離れました。

芥川城には三好一族の芥川孫十郎が入りました。

その名の通り、かつての本拠地だったからだそうです。

しかし、その芥川孫十郎が細川晴元に寝返りました。

そのため、三好長慶が東側の帯仕山に付城を築いて兵糧攻めにしました。

芥川孫十郎は三好長慶の妹婿だったため命は助られましたが・・・
三好氏の本貫地である四国に送られ、以後表舞台には登場しなくなります。

孫十郎討伐後、三好長慶が芥川山城を本拠とするようになりました。



1560年、三好義興が城主となります。



三好長慶は旧主・細川晴元や木沢長政らを倒し、天下人となりました。

その勢力は畿内10か国に及び、三好氏の全盛期を築き上げました。

この頃に三好長慶は家督を嫡男・三好義興に譲り、飯盛城へ移りました。

三好長慶は当時すでに相当精神を病んでいたそうです。

三好義興は将軍との関係も修復し、三好家は安泰と思われました。

父に負けず知勇に優れ、松永久秀を従えて各地を転戦しました。

しかし、ここから悪夢のような出来事が続きます。

1561年、和泉を支配していた叔父の十河一存が急死。

1562年、十河一存の死により起きた戦で、叔父・三好実休が戦死。

それでも六角軍や畠山軍と戦い、撃退してきました。

しかし、1563年に病に倒れ、23歳の若さで急死しました。

死因は黄疸だそうです。



1568年、和田惟政が城主となりしました。



三好義興の没後、十河一存の子・三好義継が三好家を継ぎました。

しかし、まだ年齢も若く、三好三人衆は露骨に傀儡としました。

三好三人衆は松永久秀と対立し戦っていましたが・・・
三好義継は三好三人衆を離れ、松永久秀に味方するようになりました。

この頃に織田信長が足利義昭を奉じて畿内に侵攻。

織田信長に味方することで、三好三人衆に勝利しました。

三好義継は和泉国北半国と若江城を安堵されました。

芥川山城には、足利義昭の家臣・和田惟政が入りました。



1569年、高山友照が城代となりました。



三好三人衆が足利義昭を襲う事件が起きました。

この時、和田惟政がいち早く駆けつけて足利義昭を守りました。

和田惟政はこの功により与えられた高槻城に移りました。

芥川山城には和田惟政の家臣・高山友照が入りました。

1573年、廃城となりました。



1571年、和田惟政が池田知正との戦で討死にしました。
和田家は嫡男の和田惟長が継ぎました。
しかし、高山友照・右近父子とは仲が悪かったようで・・・

和田惟長は1573年、高山父子暗殺を謀るものの失敗。

逆に高山父子により追放され、間もなく没しました。
下剋上を果たした高山父子は高槻城に移り、芥川山城は廃城となりました。





所在地:大阪府高槻市原(三好山) GPSログダウンロードページ



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飯盛城/大阪府大東市・四條畷市

飯盛城は三好長慶の居城だった山城です。
2017年4月に続日本100名城に選出されました。
訪問日は2018年12月23日です。

【1】飯盛城

山城なので、どこから登ろうかというのが悩みのタネです。
よく紹介されているのは、城跡の北西にある四條畷神社です。
私は南から細い道を通って、楠公寺から登城しました。
ここへの道はとても細く離合不可なので、あまりお勧めは出来ませんあせる

【2】飯盛城

道は楠公寺の境内を通り抜け、さらに続きます。
道が大きく左→右へ湾曲している所があります。
舗装道が鋭角に左へ曲がるココは、堀切の跡です。
道が造られたことで、ちょっとわかりづらくなっています。

【3】飯盛城

私はここで、車が通れない方の道へ進みました。
分岐から数十メートル先に、石垣がありますラブラブ
真ん中にバリケードがあり邪魔だぁ~なんて思いましたが・・・
中を覗き込むと、大きな石が1個抜けていました。
バランスが崩れ、周りも崩れそうなのかもしれません。

【4】飯盛城

ここの石垣は15メートル程、道に沿ってあります。

【5】飯盛城

たまに上を見上げると、こんな風に堀切が見えたりしますラブラブ

【6】飯盛城

さらに進むと、道が分岐しています。
手前が楠公寺、先が四條畷神社、そして、上が飯盛山山頂です。

【7】飯盛城

分岐から見て北側に、笹で覆われた平坦地があります。
ここは本丸三本松郭です。
訪ねた時には位置がよくわかっていませんでしたが・・・
この先にもまだ二ノ丸の曲輪がありますあせる

【8】飯盛城

私は「端っこっぽい」と感じたのか、Uターンして山頂へ向かいました。
先ほどの分岐を曲輪上から見たところです。
ここも堀切の跡っぽい感じがします。

【9】飯盛城

分岐から山頂へ向かう道は、ロープが張られています。
足元が岩で滑りやすいので、しっかりした靴を履いて行きましょう。

【10】飯盛城

登り切ると細長い平坦地でした。
ここは本丸倉屋敷郭です。
図を見ると、本丸〇〇郭というのが7つあります。

【11】飯盛城

細長い本丸倉屋敷郭の南端まで来ると、城塁に突き当たります。
石段は往時は無かったと思いますが、登ります。
屁理屈こねますが、やっぱり楽なのがいいですからw

【12】飯盛城

上の曲輪には、変わった形の展望台があります。
ここが本丸展望台郭です。
昔からこういう名前だったのか、だんだん?になりましたあせる

【13】飯盛城

これまで2段登って来ましたが、展望台郭の上に更に高みがあります。
チラっとですが、銅像が見えますラブラブ

【14】飯盛城

銅像が真逆光で、なんだか後光が差しているように見えます。
ここが本丸高櫓郭です。
雰囲気的には、ここが一番高そうな感じです。
銅像は現地では誰なのかわからず。
逆光なので、正面は綺麗に撮れませんでした。

【15】飯盛城

銅像の手前には、ちっちゃな城址碑があります。
これと銅像と合わせて一本で、ここが主郭なんだと思いました。
確かに周りより高いし、眺めも素晴らしいです。

【16】飯盛城

何とか銅像綺麗に撮りたいなぁなんて思い・・・
横からなら光の具合が丁度良かったです。
お顔が見えませんけどあせる
後から案内図を見たら、銅像は楠木正行でした。

【17】飯盛城
拡大表示

城址碑の後ろには、案内マップに説明文が載ってるヤツがあります。
とってもいい図なので、イタダキますラブラブ

【18】飯盛城

銅像のある郭の南端は、結構急な感じになっています。
この感じ、堀切様ですラブラブ
下の道から見えたのはココでした。

【19】飯盛城

反対側から見るとこんな感じ。
銅像のある郭の方が高くなっています。

【20】飯盛城

ここからさらに南側に、放送施設への道があります。
周りを見ると大きく凹んで見えます。
左側の下が初めに歩いた道で、竪堀状に凹んでいました。
わかりづらくなっていますが、大堀切様ですねラブラブ

【21】飯盛城

舗装道を登り切ると、アンテナのある建物が現れます。
ここも平坦地になっており、案内図では本丸千畳敷郭と書かれています。
飯盛城では一番広い郭で、周りよりも高い所にあります。
たぶん、ここが一番メインの場所だったんじゃないかと思います。

【22】飯盛城

放送施設の南側に、もう一段広い曲輪があります。
さっきまでの山上の細長い郭よりも沢山建物が建てられそうです。

【23】飯盛城

この二段めの郭の南端に、はっきりわかる虎口があります。
この虎口の脇には、ここではあまり見られない土塁があります。
堀切脇には土塁が無かったので、構造的にはちょっと古い感じです。

【24】飯盛城

虎口は二段構えになっているように見えます。

【25】飯盛城

下から見上げるとこんな感じです。
両脇に大きな石が落ちているので、門があったかもしれません。
・・・もう勝手に色々想像しながら歩き回りましたあせる

続日本100名城スタンプ設置場所
【7】飯盛城スタンプ【7】大東市立歴史民俗博物館
 大東市立歴史民俗博物館 https://www.google.com/maps/d/view?mid=10KIJ_slsripNqsOC5f0vzC0h20w&ll=34.71668668118557%2C135.6423091933832&z=19" style="color:#009900" target="_blank">地図
 開館時間 9時半~19時半
 休館日 第1・3火曜(祝日の場合翌日)、12月29日~1月3日
 入館料 無料
※四条畷市立歴史民俗資料館にも設置されています

◆歴史◆

なるべくザックリ書きましたが、長くなりましたあせる

南北朝時代に戦場となりました。

この頃はまだ城ではなく、戦の時の陣だったようです。
1348年に四條畷の戦が近くでありました。
この時に南朝方の軍勢がここに陣を構えていたようです。
ただ、南朝方の本陣は、約8km南の往生院にありました。
なので、楠木正行が戦死したのはここではなかったようです。

木沢長政により本格的な城が構築されました。

木沢長政は、河内と山城の守護だった畠山義堯の家臣でした。
畠山家中で争いが始まると、半ば独立したような活動をしました。
細川晴元と細川高国の争いに介入し、細川晴元の勝利に貢献。
木沢長政は細川晴元の力で、畠山義堯の河内守護職を奪おうとしました。
これに怒った畠山義堯が飯盛城を攻めたのが1531年の事です。
なので、築城はそれよりも少し前になります。

木沢長政は細川晴元に近づくことで勢力を増しました。
主君の畠山義堯を自害に追い込んで、畠山総州家を掌握。
同時に、細川家の有力者・三好元長も自害に追い込みました。
畠山尾州家の重臣・遊佐長教と組んで、畠山稙長を追放。
両名で畠山家を乗っ取り、畿内で有数の勢力となりました。

しかし、1542年になると木沢長政の転落が始まります。
三好元長の遺児・三好長慶が成長し、細川家中で台頭。
ともに畠山家を牛耳っていた遊佐長教は、旧主と和解。
畠山稙長が復帰して、畠山尾州家が木沢長政を突き放しました。
さらに畠山総州家中でも、木沢長政離れが加速。
河内高屋城で木沢長政派の家臣が粛清される事件が起きました。
木沢長政は将軍の擁立にも失敗しており、幕府から追討を受けました。
そして3月17日、細川・三好・畠山連合軍と戦って討死しました。

畠山高政家臣・安見宗房が城主となりました。

安見宗房は元々は木沢長政に従っていました。
しかし、木沢長政が討死する直前に寝返り、畠山高政に仕えました。
木沢長政亡き後、1552年までは遊佐長教が畠山家を牛耳りました。
しかし、萱振賢継が遊佐長教を暗殺。
その萱振賢継を安見宗房が飯盛城で謀殺し、畠山家を掌握しました。
足利義輝と三好長慶が対立した際は三好長慶に味方しましたが・・・
安見宗房は主君・畠山高政と次第に対立するようになりました。
1559年、畠山高政が紀伊に追放されますが、三好長慶の協力を得て逆襲。
安見宗房は一度は三好軍の松永久秀を撃退しましたが・・・
三好長慶と松永久秀が合流し、8月4日に飯盛城が落城しました。

1560年、三好長慶の居城となりました。

三好長慶の力で安見宗房に勝利した畠山高政でしたが・・・
守護代・湯川直光を罷免して、安見宗房を復帰させました。
これには三好長慶が激怒し、畠山高政と安見宗房を攻めました。
三好長慶は河内を弟・三好実休に与え、飯盛城に居城を移しました。
この時に家督と本拠・芥川山城を嫡男・三好義興に譲っています。
これは、対立した将軍・足利義輝との関係修復のためだそうです。

1564年、三好長慶が飯盛城で没しました。

畿内10か国を支配し、全盛期を築いた三好長慶でしたが・・・
間もなく三好家の転落が始まります。
1561年、和泉を支配していた弟の十河一存が急死しました。
この機に乗じて畠山高政が六角義賢とともに畿内へ侵攻。
この戦いで、河内を支配していた弟・三好実休が討死しました。
重鎮2人を相次いで失った三好家中では、相対的に松永久秀が台頭。
三好長慶自身も精神を病んでおり、若い三好義興を軽んじ始めます。
その三好義興が1563年8月に23歳の若さで急死。
1564年5月、松永久秀の讒言を元に弟・安宅冬康を飯盛城で殺しました。
騙されていたことに気づいた三好長慶はさらに病が重くなり・・・
この年の7月に世を去りました。

三好義継が城主になりました。

三好家は三好長慶の弟・十河一存の子が養子となり継ぎました。
1565年5月1日、将軍・足利義輝から一字与えられ、三好義重と改名。
・・・したのですが5月19日に御所を襲撃し、将軍・足利義輝を殺しました。
この直後、三好義継と改名しています。
三好義継は三好三人衆に担がれ、松永久秀と戦いました。
しかし、次第に若い三好義継は露骨に軽く扱われるようになり・・・
戦っていた松永久秀と組んで、三好三人衆と戦うようになりました。
1568年、足利義昭に応じて畿内に進出した織田信長に協力。
三好三人衆を畿内から追放することに成功しました。
1571年から松永久秀とともに織田信長と対立し、信長包囲網に加担。
武田信玄が没すると、織田信長が優勢となります。
1573年、織田信長が足利義昭を追放し、室町幕府が滅亡。
足利義昭を匿った三好義興は、織田信長の怒りを買い攻められました。
最期は若江城で、三好義継は自害して果てました。

畠山秋高の城になりました。

畠山秋高は畠山高政の弟で、足利義秋(のち義昭)の将軍擁立を支援。
その功により、河内国の南半国を安堵されました。
1571年、足利義昭が織田信長と対立すると、織田信長に味方しました。
しかし、畠山家中は足利義昭派が大半で、遊佐信教が実権を掌握。
1573年、遊佐信教に攻められて、畠山秋高は自害しました。

遊佐信教はその後、三好康長とともに織田信長に抵抗しました。
1575年、高屋城の戦で織田軍に敗れてからは消息不明となります。
織田信長は畿内を制圧すると、城をことごとく廃城としました。
このころまでに、飯盛城も廃城になったものと思われます。


所在地:大阪府大東市大字北条~四條畷市大字南野
GPSログダウンロードページ

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

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