fc2ブログ

御着城/兵庫県姫路市

御着城は、赤松一族・小寺氏の城でした。
訪問日は2022年8月5日です。

御着城【写真位置】大きな地図を表示
写真へジャンプ
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11

城跡は公園になっています。
そのため、ここを紹介される方は公園だけ載せます。
なので小さな城だと思っていましたが・・・
とんでもありません。
平城の宿命で市街化しています。
山陽道や城下町をとり込んだ惣構えの城でした。
本丸のすぐ脇に国道2号が通っているのはそのためです。
外形は何となくわかります。
今回は諸兄が紹介しない痕跡を見て回りました。
北半分は道ではないので歩きませんでしたが。
今回載せてる軌跡は南半分だけです。
右上端の水路は外堀の跡です。
単純計算で、北側にも同じだけあったと思って下さい。
御着城【1】
【1】駐車場があります 上に戻る

街中の公園なので、駐車場があります。
これは大変ありがたいです。
ちょっとだけ離れてますが近いです。
・・・ニホンゴがちょっと変です^^;
この地形はもしや土塁と堀の跡?
既に妄想全開です。
御着城【2】
【2】城跡公園 上に戻る

城跡公園が御着城の本丸でした。
城郭風の建物は、市役所の出張所です。
一般的にここだけ城跡として紹介されます。
なので小さな公園だけなのかと誤解されがちです。
私はそんな誤解を是非解きたい!
とまで意気込んでる訳でもないですが(´∀`)
御着城【3】
【3】石碑 上に戻る

こんな風にわかりやすいオブジェがあります。
まぁでも、何も見えないとこれだけなんですよね。
来て5分で次行っちゃう気持ちもわかります。
御着城【4】
でも、この図を見て下さい。
カラーの図が一般的なイメージ。
白黒の図が本来の姿です。
めちゃくちゃデカイです。
ということで、その痕跡と辿りました。
御着城【5】
【5】天川橋 上に戻る

城郭風建物の裏にこの石橋があります。
あったのはココではなく、移築されています。
名前の通り天川に架かっていました。
天川は御着城の外堀を兼ねていました。
ということは、城の入口にあった?
橋の下の窪みは堀跡です。
何だかココでも虐げられています( ノД`)
御着城【6】
【6】堀跡 上に戻る

とは言え、大抵の堀跡はこんな感じです。
お城の時から、堀に沿って建物はあったでしょう。
だから、堀を埋めてもその形は残ります。
それが一部の城キチのエジキとなります(*´ω`*)
御着城【7】
【7】天川 上に戻る

城跡の西から南に流れているのが天川です。
外堀にしただけあり、切岸が垂直ですね!
御着城【8】
【8】小寺大明神 上に戻る

城跡公園から道を挟んで反対側に小さな祠が。
城跡にある神社には、挨拶を欠かしません。
で、何神社かと思えば小寺大明神でした。
思っきり城主様絡みでしたヾ(*´∀`*)ノ
ココは築城当初の本丸跡だそうです。
御着城【9】
【9】天川の旧流 上に戻る

南側で道が少し北に反ってる所です。
ここが天川の旧流路=外堀跡です。
あの大きな川がここを?と思いますが・・・
左側が川だったように感じられる地形です。
御着城【10】
【10】堀跡の水路 上に戻る

堀跡は住宅街の中にも残っています。
もはやどっちが堀だった?ですが。
平城の堀跡はよくこんな感じになっています。
平地では水路が貴重だったのでしょうか。
御着城【11】
【11】堀跡の水路 上に戻る

外堀跡はそのまま北上。
奥の車が走ってる所が国道2号です。
ここは左側が切岸で、右側が堀跡でしょうか。
水路を地図上に描くと、城の形が浮き上がってきます^^


◆歴史◆

1519年、小寺政隆により築かれました。

小寺氏は赤松一族・宇野氏の庶流です。
室町時代初期に派生し、姫路城主を務めていました。
とは言っても、当時の姫路城は小さなお城でした。
赤松氏は嘉吉の乱で一時没落。
神璽奪回の際にも赤松氏に従いました。
赤松家が播磨守護に復帰後も家中は乱れ・・・
備前守護代・浦上村宗が赤松家中で台頭しました。
小寺政隆が御着城を築いたのはそんな時期でした。
赤松義村は2人の宿老、3人の側近による体制を構築。
この2人の宿老が小寺則職と浦上村宗でした。
小寺則職は小寺政隆の子で、姫路城主です。
御着城は小寺政隆の隠居城だったと考えられています。
この5人の中で浦上村宗は孤立。
露骨に浦上村宗の勢力を削ぎに出たのでした。
出仕停止となった浦上村宗は備前国で籠城。
赤松義村が討伐軍を出したのが1519年でした。

1530年、小寺政隆が討死しました

赤松氏と浦上氏の争いは果てしなく続きました。
浦上氏の専横は、赤松氏の傀儡が必要でした。
そのため、傀儡当主が成長→排斥の繰り返しでした。
小寺政隆は、浦上村宗攻めのため庄山城に居ました。
しかし、逆襲に遭い討死しています。
子の小寺則職が家督を継ぎ、御着城主となりました。

小寺政隆は赤松家寄りでしたが、小寺則職は違いました。
だからと言って浦上村宗寄りでもありませんが。
尼子晴久が播磨に攻め込んだ際は尼子方でした。
一緒に攻めて赤松晴政を追い詰めています。
1540年に和解し、赤松晴政は播磨に復帰しています。

1579年、廃城となりました

1545年、小寺政職が家督を継ぎ城主となりました。
小寺政職は赤松家を離れ、独立勢力となります。
そんな小寺政職が頼りにしたのが小寺孝隆でした。
後の黒田官兵衛です。
姪を娶らせ小寺姓を与えるなど、厚遇しました。
小寺孝隆の策に従い、織田信長に従属。
1577年には英賀合戦で毛利水軍を破っています。
しかし、荒木村重や別所長治らが相次いで離反。
かれらに影響され、小寺政職も毛利方に鞍替えします。
そのため織田軍の羽柴秀吉に攻められ落城。
小寺政職は、毛利領の備後国鞆の浦へ逃がれました。
主が去った小寺孝隆は、羽柴秀吉の軍師となります。

江戸時代には御着本陣がありました

「本陣」は、江戸時代以降の宿場です。
大名や旗本、勅使など身分の高い人が利用しました。
敷地約2100坪、部屋数30室の内、畳敷きが26室。
建坪約130坪の平屋建と伝わります。
小寺政職の子孫である大庄屋・天川氏が運営。
明治時代の中頃まで続きました。
本陣があったことで、城の名残が残ったのかもしれません。


所在地:兵庫県姫路市御国野町御着 GPS軌跡ダウンロードページ
兵庫県の城跡/なぽの城跡巡りを表示

感状山城/兵庫県相生市

感状山城は、石垣の多い山城です。
訪問日は2022年8月5日です。

感状山城【写真位置】大きな地図を表示

写真へジャンプ
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13

感状山城【1】
【1】羅漢の里駐車場付近 上に戻る

感状山城へ行くには、羅漢の里が目印になります。
道々で「羅漢」と付く案内がちょこちょこあります。
今はナビに曳かれて一発で辿り着けますけどネ^^
ただ、駐車場はちょっとわかりにくいかも。
川を渡ってすぐの、フェンスの所です。
ストビューで一度見ておいた方が良いと思います。
登山道へは駐車場から南に川を渡ります。
そして、写真の右上に向かいます。
感状山城【2】
【2】登城口 説明板 上に戻る

しばらく川沿いに進むと、派手にあります。
西播磨の例の幟も沢山^^
真新しい説明板は、図も充実しています。
どこもかしこもこうだったらなぁ(+_+)
拙いブログで我慢して下さい^^;
感状山城【3】
【3】石垣 上に戻る

石垣がいっぱいある所という事でウキウキ
登山道にも早速ありました。
でも、城跡はまだ先だし・・・
積み方がちょっとビミョーなんですよね。
それでも、城キチは少しだけHPが回復します。
感状山城【4】
【4】虎口? 上に戻る

そして、HPが枯渇し掛けた頃にココに到着。
図もGPSも確認せず、勝手にヾ(*´∀`*)ノした所です。
後で確認すれば、城域はまだ先でした。
目のビョーキが侵攻したのかどうなのか・・・
虎口に見えてしまいます。
同じ症状の方、きっといますよね?
感状山城【5】
【5】石段 上に戻る

まだまだ図の城域の下ですが・・・
登山道は岩場にさしかかります。
これだけ岩があれば石垣出来ますよね!
しかも、丁度良い大きさのがゴロゴロ。
で、この石段は城の?それとも登山道の?
城キチ的には前者であって欲しいのですが。
感状山城【6】
【6】物見岩 上に戻る

半ロッククライミング気味に腿上げを繰り返し・・・
ようやくそれっぽい平坦地に辿り着きました。
木の立て札には「物見岩」と書かれています。
ようやく城内への侵入を果たしました!
といっても、これはどうみても石垣では・・・
自然地形を最大限活かした曲輪のようです。
感状山城【7】
【7】石垣 上に戻る

城内に入ると、至る所に石垣が。
だいぶ崩れてはいますが、明らかに石垣です^^
感状山城【8】
【8】倉庫跡 上に戻る

進路左前方にかなり広い平坦地が。
ここは倉庫の跡です。
かなり広いです。
こんなに広い山城なのに歴史不詳って・・・
こういう場合、大抵陣城だったりします。
感状山城【9】
【9】Ⅲ曲輪群の石垣 上に戻る

出曲輪の付け根にあるのがⅢ曲輪です。
段差の所には、しっかり石垣があります。
いつもはビシッとしたものばかりですが・・・
こうして歳月に埋もれたのも味わいがあります。
感状山城【10】
【10】Ⅰ曲輪 上に戻る

一番奥にあるのがI曲輪です。
山頂にあり、ここが主郭なのでしょう。
こうして見ても、石が並んでいます。
細かな段差にも、石を使ったのでしょう。
余りに石が多く、どけたのを並べたのと思う位に。
感状山城【11】
【11】石垣 上に戻る

しかし、それにしても崩れています。
積み方が雑だったという事はなさそうですが。
この感じは若桜鬼ヶ城や名護屋城と似ています。
つまり、破壊されたのでは?ということです。
破壊の理由は再利用されないこと。
羽柴軍が去り際にやったのかも。
感状山城【12】
【12】北Ⅱ曲輪の石垣 上に戻る

石垣が多いは多いですが、整ってるのは少ないです。
なのが、見つけたら余さず撮りました。
この石垣があるのは北Ⅱ曲輪です。
破壊が無ければ、そこらじゅうがこうだったのでは。
そう書きつつ、この石垣も端が欠けています。
感状山城【13】
【13】南Ⅱ曲輪の石垣 上に戻る

登城口の図で「石垣跡見所スポット」の所です。
それだけあって、そもそもが岩場っぽいです。
防御力を上げるため、最低限の手を加えた感じです。
破壊するにしても、元からだとあまり変わらないかも。
すっかり「破城があった」論者になってますが・・・
あくまで個人の感想デス(`・ω・´)!


◆歴史◆

築城時期や築城者は2つの説があります

1つめの説は鎌倉時代。
瓜生左衛門尉が築いたとする説です。
瓜生左衛門尉がどのような人物だったのかは?です。
実名がわかれば多少のツテが出来るのですが・・・
瓜生氏でググると、越前の瓜生氏がヒットします。
嵯峨流源氏で、承久の乱では宮方に属しました。
戦国時代には越前に瓜生孫左衛門尉という人物が居ました。
名前的にはこの氏族のような気がします。

地域の歴史で調べると、この辺りは矢野荘でした。
承久の乱以降は海老名氏が地頭となっています。
ただ、1295年(1297年?)に下地中分が行われています。
下地中分とは荘園を地頭と領家で分割することです。
これを行ったのが海老名氏と左右衛門尉行方です。
「左右衛門尉」も名前が近いですね!
領家方ですし。
領家は1309年、年貢未進と公田沽却の疑いで追放されます。
経済的に相当苦しかったようですね・・・
その領地は東寺に寄進されました。
瓜生氏が関わるとすればこの辺りまででしょうか。

赤松則祐が築いたとする説もあります

赤松則祐は赤松円心の三男です。
武勇伝が多く、赤松氏繁栄の礎となった人物です。
足利尊氏が九州から東上する際に活躍しました。
建武政権方の新田義貞をココで足止めしています。
足方尊氏はその間に勢力を蓄え、1336年に京を奪還しました。
赤松則祐はこの功により、感状を与えられたとされます。
父の赤松円心が播磨国守護となったのもこの時です。
名の由来がこの感状です。
なので、それ以前からあれば別の名前ということに。
赤松則祐は、瓜生氏の古城に籠ったという可能性もありますネ。

1351年、赤松家臣・飽間光泰に地頭職が譲られます。
それから10年程東寺との争いが続きました。
東寺の代官・祐尊は、赤松家との直接交渉に尽力。
1374年に赤松家と東寺の協力関係を確立しました。
1520年、浦上村宗が赤松義村を殺害。
東寺への年貢進納もこの時期に途絶えます。
以後は浦上氏→宇喜多氏の支配地となります。

1577年、羽柴軍に攻められ落城した説があります

こちらも説ですが、羽柴軍に攻められたようです。
この頃は羽柴軍が毛利領へ侵攻を始めた頃です。
宇喜多直家は毛利家と結び、羽柴軍に抵抗しました。
両軍が争奪戦を繰り返したのが上月城です。
上月城は感状山城から北西約16㎞にありました。
上月城を巡る戦いの中での落城だったようで・・・
そうすると、緒戦で羽柴軍に攻め落とされたことになります。
感状山城には堀切や土塁が無く、古い構造です。
宇喜多直家が羽柴方に寝返ったのは、1579年6月の事です。
総石垣なので、羽柴軍が陣城として使ったのかもしれません。


所在地:兵庫県相生市矢野町 GPS軌跡ダウンロードページ
兵庫県の城跡/なぽの城跡巡りを表示

亀ヶ城/兵庫県豊岡市

亀ヶ城は、畝状竪堀が巨大です。
訪問日は2023年8月1日です。

亀ヶ城【写真位置】大きな地図を表示
写真へジャンプ
1 2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15 16

まだ昨年の分を書き終えていませんが・・・
その後の栃木のもサッパリですが・・・
今年の夏休みで一番印象に残った城跡を紹介します!
堀切大好きな私が、とても感動した所です。
亀ヶ城【1】
【1】駐車場所 上に戻る

登城口近くにある駐車場所です。
真ん中に自動販売機が3台並んでる所です。
これだけ広ければとは思っていましたが・・・
右端にちゃんと亀ヶ城の標柱がありました。
ということで、ここは停めても大丈夫そうです。
亀ヶ城【2】
【2】地蔵堂 上に戻る

ただ、案内はありません。
登城口へは、駐車場所の奥の路地を右へ。
180m程進むと、右手にこの地蔵堂があります。
ここが目印です。
亀ヶ城【3】
【3】登城口 上に戻る

地蔵堂の正面に、フェンスで挟まれた道があります。
ここが登城口です。
一番奥が扉になり開閉出来ます。
亀ヶ城【4】
【4】説明板 拡大表示 上に戻る

登城口脇に素晴らしい説明板があります。
しかし、なぜかフェンスの向こう側。
民家の敷地に侵入しなければ正面から見られません。
なぜこんな事になっちゃってるのか・・・
ということで、カメラだけ突っ込んで数枚撮影。
その中で一番うまく撮れたのがコレです。
あとはITのチカラでちょっといじって綺麗に^^
亀ヶ城【5】
【5】登城口の入口 上に戻る

フェンスの向こう側です。
真冬でもちょっと躊躇しそうな草むらです。
少なくとも真夏に進んで入りたくない感じです。
ホントですよ^^;
でも、奥を見ると草の層は薄そう。
亀ヶ城【6】
【6】登城路 上に戻る

「あぁ、結局入っちゃったのね」
という声が聞こえて来そうです。
入りましたとも。
草むらはほんのちょっとで、あとはこんな感じです。
スギがメインで、下草はほぼありません。
これなら真夏でもイケますよね!
入ってすぐの段々の平坦地は屋敷跡。
もうとっくに城内なのでした。
亀ヶ城【7】
【7】竪堀 上に戻る

屋敷跡の平坦地群を過ぎるとありました。
うっすらですが、このサイズなら私にもわかります^^
亀ヶ城【8】
【8】東城主郭 上に戻る

そして間もなく東城の主郭に到着です。
登城口から19分でした。
かなり低い方ですね^^
山城あるあるで、ものすごく広いです。
亀ヶ城【9】
【9】堀切 上に戻る

そしてお目当ての堀切様へ!
鋭くて深いです^^
まっすぐ下りるのはどう見ても無理。
そんな時は、端へ向かうと割と楽に下りられます。
亀ヶ城【10】
【10】堀切 上に戻る

ということで、下りて見上げる堀切様です。
あまりの規模で、デジカメでは入り切らず。
ということで、iPhone様の×0.5で撮影です。
まぁそれなりにデカイという感想でした。
これでも十分私としては感動しました。
亀ヶ城【11】
【11】西城主郭 上に戻る

最初の堀切は普通に大きな堀切としてクリア。
その先にまた大きな曲輪があります。
東城、西城という位なので、別々だったのでしょうか。
同じ位の規模なので敢えて優劣付けなかったのかもですが。
亀ヶ城【12】
【12】堀切 上に戻る

そして、西城の奥にも堀切様がいらっしゃいます。
というか、これはもう普通に崖です。
さっきの3倍以上は深い超特大の堀切です。
しかも深過ぎて見えませんが、二重です。
ココ下りるのは無理かと一瞬思いましたが・・・
二度と来ないだろうと思い、下りようと決心。
亀ヶ城【13】
【13】畝状竪堀 上に戻る

いつも通り端に向かいますが、そのまま急斜面に。
それでも堀切の底は遥か下でした。
それならと、急斜面を緩々と斜め手前に下りました。
急斜面の下に下りたのは、東城の堀切の真下でした。
上の地図で左上に大きく膨らんでるのがこの下りです。
そこから先へ進んで、超巨大堀切の下へ。
そこにあったのは、堀切の下の超巨大畝状竪堀でした。
1本1本が背丈以上の深さがあります。
こんなにデカイ畝状竪堀は初めてです。
亀ヶ城【14】
【14】堀切 上に戻る

竪堀を苦戦して登り切ると、そこにおわしました。
西城の超巨大堀切様です。
深さは15メートルくらい。
こちらは底までV字の薬研堀です。
普通と違うのは、その両サイドです。
手前側は先程見た通りの畝状竪堀ですが・・・
亀ヶ城【15】
【15】反対側の畝状竪堀 上に戻る

反対側もほぼ同じ規模の畝状竪堀です^^
ただ、こちら側の方が本数は少なめです。
それでも1本1本はデカイですが。
亀ヶ城【16】
【16】奥の堀切 上に戻る

手前の竪堀を登り超巨大堀切様。
反対側に回り超巨大畝状竪堀。
奥へ進むと、再び堀切様が^^
西城主郭の所で二重と書きましたね。
こちらはそんなに大きくはありません。
よそで見れば、十分感動するサイズではありますが。
【動画】 上に戻る

2次元の静止画像ではたぶん伝わらない!
ということで動画を録りました。
今夏たった一度キリの出番でしたが。
メンド臭がりなので、動画撮影は敷居が無駄に高いです。
風が強かったのですが、対策バッチリ。
風切り音がするのは、それだけ風が強かったということで。


◆歴史◆

鎌倉時代の但馬守護・太田氏の城でした

初代・太田昌明は比叡山の僧兵でした。
源行家を捕らえた功により、但馬と摂津に領地を得ます。
当初は賞されるどころか、罰せられるような内容だったとか。
その事に抗議すると、源頼朝に気に入られたそうです。
本拠を但馬国太田荘にしたため、太田姓を名乗りました。
この時に築いたのは大将軍館とされます。
「大将軍」というのも太田昌明の逸話に由来します。
太田昌明は源頼朝に従い、奥州征伐に従軍しました。
まるで自分が総大将だったように自慢していたそうで・・・
いつしか「大将軍」と呼ばれるようになりました。

亀ヶ城が築かれたのは、承久の乱の後です。
太田昌明は幕府に味方し、宮方からの誘いを断りました。
宮方からの誘いの使者を5名斬ったと伝わります。
当然宮方に攻められますが、小屋谷砦で凌ぎました。
その内に幕府方が宮方を撃破。
戦後、功により太田昌明が但馬守護に任命されました。
大将軍館では手狭になり、堀の内に亀ヶ城を築きました。
以後、6代にわたり太田氏の居城となります。

1333年、廃城となります

足利高氏が建武新政に叛き挙兵しました。
6代目の太田守延も、但馬の兵を率いて参戦しました。
しかし、六波羅攻撃の際に落馬した所を討たれます。
大将を失った但馬の軍勢は統率がとれなくなり敗走。
どうやら後継者が居なかったようです。
太田一族はその後も太田荘に暮らしたと伝わります。

羽柴軍に攻められた伝承があります

1580年、羽柴秀吉が但馬・因幡に進軍しました。
山名氏が毛利氏と同盟関係にあったためです。
しかし、宇喜多氏や南条氏が織田方に寝返ります。
そのため、毛利軍の救援を受けられず。
但馬は1か月程で羽柴軍が平定しました。
この時に亀ヶ城も攻められたという伝承があります。
亀ヶ城は、羽柴軍の攻撃を受けても陥落しませんでした。
この時に霊亀に守られているという伝承が伝えられました。
それを聞いた羽柴秀吉は、首に当たる箇所を攻めさせます。
すると、間もなく亀ヶ城は落城したというのです。
『盾の勇者の成り上がり』では首が再生したのですが・・・
戦国時代の霊亀は、そこまで不死身ではなかったようです。


所在地:兵庫県豊岡市但東町西野々 GPS軌跡ダウンロードページ
兵庫県の城跡/なぽの城跡巡りを表示

鴇ヶ堂城/兵庫県赤穂市

鴇ヶ堂城は、展望台のある山城です。
訪問日は2022年8月5日です。

鴇ヶ堂城【写真位置】大きな地図を表示
写真へジャンプ
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13

鴇ヶ堂城は、山上に展望台のある城跡です。
尾根先端にあり、物見の砦っぽい感じです。
城跡近くの験行寺まで車で登れます。
すぐ下のお寺で下りたくなりますが・・・
「まだ逝ける!」で痛い目見てるので、私は慎重です。
歩いて見た感じですが、5の辺りまでは車で行けそうです。
大した距離ではないので験行寺から歩くのが無難ですが。
案内はあるのですが、必ずしもわかりやすくはありません。
道があるような、無いような・・・
5で行き止まりになり、ちょっと?でした。
何となくアレ?となり、他を当たって辿り着いた感じです。
難なく辿り着いても面白くありませんからね!
鴇ヶ堂城【1】
【1】験行寺 上に戻る

広い駐車場があります。
雰囲気的にすぐ下のお寺までと思ってました。
ここまでは安心して車で来ることが出来ます。
もうちょっと乗れそうですが・・・
地面が少し柔らかいかもしれません。
ココに停めておくのが無難です。
02_20230726210259821.jpg
【2】城跡への道 上に戻る

城跡へは、験行寺から更に奥へ進みます。
鴇ヶ堂城【3】
【3】案内 上に戻る

道端には案内があります。
展望台あるんだからと、この時は思ってました。
鴇ヶ堂城【4】
【4】広い場所 上に戻る

そのまま道なりに進みました。
すると結構広い平坦地があります。
虎口は無いものの、ここが城跡?
でも標示も展望台も無いし、、、
さらにここから先は行き止まり
一瞬「アレアレ?」っとなりました。
鴇ヶ堂城【5】
【5】別の道が 上に戻る

押してダメなら退いてみる
そう思い回れ右すると、来た道とは別の道が。
来る時は広場に気を取られ見落としていました。
広場が見えたら、左側に気を付けましょう。
鴇ヶ堂城【6】
【6】左奥へ続く尾根 上に戻る

他に選択肢は無いのですが、こっちで合ってそう。
地形も少し人工的な感じに見えてきました。
鴇ヶ堂城【7】
【7】堀切 上に戻る

もう少し進むと、両サイドがえぐれ少し低い所が。
お、コンニチハ!
堀切さんですね(*´▽`*)
鴇ヶ堂城【8】
【8】遊歩道 上に戻る

ハナからこういう道なら迷いようも無いのですが。
かと言って、あまりやり過ぎると遺構が・・・
悩ましいものですね。
鴇ヶ堂城【9】
【9】堀切 上に戻る

遊歩道は尾根の側面にあります。
尾根の高い所は、こんな感じです。
ポツリポツリと堀切が^^div>
これを潰さない為?
ということにしておきます( ̄ー ̄)
鴇ヶ堂城【10】
【10】堀切 上に戻る

1つあったら○あると思え!
だったら、城キチとしては嬉しいのですが。
まぁでも、1つだけで終わることはあまり無いですね^^div>
ということで、いくつか見られます。
鴇ヶ堂城【11】
【11】石積み 上に戻る

中には、切岸に石積みが見られる所も。
こういう変化があるから、1つ1つじっくり見てしまいます。
鴇ヶ堂城【12】
【12】堀切 上に戻る

まだありますヾ(*´∀`*)ノ
鴇ヶ堂城【13】
【13】展望台 上に戻る

そうこうしている間に視界が拓けてきました。
木立の合間から、物見櫓が見えて来ました!
・・・展望台が見えて来ました!
こういうモニュメントは好きですが、私は登りません。
威張る程のコトでもありませんケド^^;iv>


◆歴史◆

赤松一族・太田弾正の城とされます

赤松則景が太田弾正と名乗ったのが始まりとされます。
とは言え、あまり詳しい話は伝わっていません。
『赤穂郡志』の記述が一般に伝わる内容です。

そこで記されているのは
・小田弾正が居住していた
・老齢になり子の治内に譲った
・龍野刑部(小河丹後秀春?)がこの城を攻めた
・三宅与左衛門が背後から寄せ手を奇襲
・小川丹後は自害、享年24
といった感じです。
これは1571年の出来事とのこと。
この年代だと織田軍の侵出絡みかと思いましたが・・・
単に、日頃から仲が悪かっただけのようです。


所在地:兵庫県赤穂市有年横尾 GPS軌跡ダウンロードページ
兵庫県の城跡/なぽの城跡巡りを表示

上月城/兵庫県佐用町

上月城は、尼子家再興の夢が潰えたお城です。
訪問日は2022年8月5日です。

上月城【写真位置】大きな地図を表示
写真へジャンプ
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12

上月城は、尼子家の再興が潰えた所です。
詳しくは、下の方に書いた歴史を参照下さい。
・・・大して詳しくもないですが。
有名な山城のようで、登城口前に資料館があります。
駐車場が広々としていて24時間開放されています。
なので、私のように夜明けに攻めることも可能です。
登城路も整備されており、10分程で本丸に着きます。
規模は、想像していたよりも大きくないです。
むしろ中の小ぐらいに感じられました。
小バエは本丸までは気になりませんでした。
二ノ丸へ向かう途中から急に増えます。
二ノ丸からの下山道は荒れており、夏場は避けた方が良いです。
上月城【1】
【1】上月歴史資料館 上に戻る

登城口前にある資料館です。
私が着いた時にはまだ開いてませんでした。
人見知りが激しいので入りませんが。
開館日は土日祝日ですが、年末年始は除きます。
開館時間は10時から16時の間。
入館料は大人200円、高校生150円、小中学生100円です。
上月城【2】
【2】登城口 上に戻る

登城口前には説明板と案内図が並びます。
とっても有難いです^^
上月城【3】
【3】堀切 上に戻る

山道は整備され、快適そのものです。
だいぶ登ると、足元に白い板が。
そこには「堀切」と書かれています。
かなり浅いというか凹みが無いような。
この板が無ければ腰曲輪かと思う所でした。
上月城【4】
【4】虎口? 上に戻る

そして間もなく城内に着きそうです。
右に回り込む道から曲輪内に入るのでしょう。
ということは虎口?と思いますが・・・
ちょっと守りが薄いような?
道も上から狙い撃ちするような感じではありません。
後世に登りやすいよう整えられた道だったのかも。
上月城【5】
【5】本丸 上に戻る

登城路を登り辿り着いたのが本丸です。
いきなりなので、やはり後世の道かと。
山上を丸く平坦にしただけの曲輪です。
元々は土塁などあったかもですが。
毛利軍に攻められそのまま廃城。
なので、豊織式になる前の形のままかも。
上月城【6】
有名な城跡なので、この手のモノは充実しています。
ご堪能下さい♪
上月城【7】
【7】腰曲輪 上に戻る

本丸からは、尾根沿いに段々の腰曲輪が見えます。
上月城【8】
【8】二の丸 上に戻る

続いて二の丸です。
本丸から西側の緩い尾根上にあります。
幅の広い細長い曲輪です。
こちらも土塁が見当たりません。
この辺りから小バエが気になり始めます。
上月城【9】
【9】上の堀切 上に戻る

二ノ丸を過ぎ、尾根を下り始めます。
すると、尾根を横切る堀切があります。
上月城【10】
【10】上の堀切 上に戻る

こちらは反対側とは違い、ちゃんと凹んでいます。
下から見ると、かなりそれっぽく見えます♪
上月城【11】
【11】下の堀切 上に戻る

少し下った所にももう一条あります。
写真だけだと上のと区別がつかず。
GPSの軌跡から、この写真だとわかりました。
記憶だけだと「あれ?どれ?」になる所でした。
アブナイアブナイ
文明の利器に感謝です。
上月城【12】
【12】下山道 上に戻る

二ノ丸にある案内に従い、道を下りました。
私は登城路が複数ある場合、可能な限り攻めるので。
下る道はまだ良かったのですが・・・
下ってからの川沿いの道は草ぼーぼーでした。
城の構造的にはこっちが大手っぽいのですが。
真夏に草を掻き分けるのはかなりリスクが。
こちらのルートは、真夏には避けた方が良いでしょう。


◆歴史◆

1336年、上月景盛により築かれました

上月景盛は赤松氏の祖・赤松家範の兄です。
赤松氏は鎌倉幕府打倒に貢献し、播磨国守護となります。
しかし、建武新政の恩賞に不満爆発。
足利尊氏に従い、宮方と戦います。
足利尊氏は一時敗れ、九州に逃れました。
九州で再起した足利尊氏は、軍勢を率い東上。
その際、赤松氏は白旗城で新田軍を釘付けにしました。
足利尊氏は湊川の戦で新田軍に勝利。
上月城が築かれたのは、その直後と考えられます。
1441年、赤松満祐が将軍・足利義教を殺害。
上月景則もこの「嘉吉の乱」に加わりました。
そのため幕府に討伐され、上月氏嫡流は滅びます。

作用系赤松氏の城となります

1557年、赤松政元が上月城に入ります。
嘉吉の乱からココまでの間がわかりませんでした。
赤松政元は作用系赤松氏と呼ばれます。
赤松家当主・赤松義村の子とされますが不明です。
赤松政元は「西播磨殿」と呼ばれていました。
支配地域は作用荘を中心とする16万石です。
1575年頃、宇喜多直家により上月城は落城。
宇喜多直家直々に説得し、赤松政元は宇喜多家に従います。

1578年、争奪戦の末、廃城となりました

宇喜多直家は毛利家に従っており、羽柴軍に攻められました。
当時の城主・赤松政範は自害。
家臣・城兵は降伏したものの、皆殺しにされました。

直後に宇喜多軍が上月城を奪還。
宇喜多家臣・上月景貞が城主となります。
上月景貞は、築城者である上月景盛の庶流の子孫と思われます。
しかし、羽柴軍が攻め寄せ、内応者により再び落城。
上月景貞は自害しました。

羽柴秀吉は、尼子勝久を城主とし毛利軍に備えさせます。
尼子氏は1566年、毛利元就に滅ぼされた大名家です。
羽柴軍に属することで、再興を目指していました。
しかし、直後に毛利軍の大軍に包囲されます。
羽柴軍は毛利方に寝返った別所氏の三木城を包囲中。
そのため援軍の無いまま落城します。
降伏した尼子勝久は自害。
山中鹿介は移送中の備中国高梁で誅殺されました。
上月城は、その後まもなく廃城となりました。


所在地:兵庫県佐用郡佐用町寄延 GPS軌跡ダウンロードページ
兵庫県の城跡/なぽの城跡巡りを表示

プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

北海道・東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方・沖縄

プライバシーポリシー
本サイトについて
お問い合わせフォーム



検索フォーム

QRコード

QR